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  • 管理人chaya

肉の思いが死


ヨハネの黙示録の第一章十七節と十八節の記事によって、現在の新約時代において、キリストがどういう宇宙的な位置に立てられているかということを見なければいけないのです。キリストが立てられて位置が、正しい意味での人の子が立てられている位置です。ですから、新約時代の人の子、魂としての自覚を持つ人間は、十七節と十八節とに関係があるのです。

人の子には完全無欠な勝利が約束されているのです。約束されているという言葉は、私たち生きている人間から見れば約束されているということになりますが、イエス・キリストから見れば、これはすでに事実になって神から与えられている実体です。

これがキリストが第三の天において、自ら証明されたという意味であって、主なるイエスというのは、魂であることを自覚した人間のすべての主であって、主は一つ、信仰は一つとあるように、人間の主体性というのは、イエスの他にはないのです。

従って自分自身の主体性を放棄した人は、必然的にイエスの主体性をそのまま自分の主体性として受け取ることを許されるのです。人間個々の主体性は、初めからないのです。

人間個々の主体性は、個我、自我という意識の主体性であって、これは悪魔が創造した偽りの人格です。これは人格とは言えない人格でありまして、性格というべきものです。

性格という言葉は、個々の人間の場合で言いますと、その人の持ち前とか、長所または短所とかいう意味に使われていますので、人格とは言ってません。しかし性格と言ってしまいますと、俗語と受け取られてしまいやすいので、その人の人柄と言うしかないでしょう。自分の現世における人格、いわゆる宿業を背負って現世に生まれてきたその人格は、いないのです。宿業を背負って現世に生まれてきて、現世で生きていたという人格は全くの偽りであって、虚妄です。そういうものはいないのです。

だからイエスのように私は人の子と言える人、リビング・ソールと言える人は、当然イエスの御名(名前)をそのまま自分の人格の名として受けとめることができるのです。受けとめることができるというよりもそうするのが当たり前です。これが新約における神から見た正しい人間の見方です。

固有名詞における自我意識を持った人間は悪魔の子である人間であって、そういう人はこの新約時代には原則として存在していないのです。偽りとしては存在しているのです。しかし神的原則としては、もはや存在していないのです。そんなものを自分だと考える必要はないのです。それを今まで長年の間、自分だと思って生きていたのです。それがいないのだということを考えますと、ほっとするのです。非常な重圧から開放されるのです。本当にほっとします。自分がいない方がよほど心が軽くなるのです。そうして素直な感覚になれるのです。

ところが、一度自分がいるという考えに立ちますと、その思いが自分にのしかかってくる。宇宙の罪業がそのまま私たちにのしかかってくるのです。亡霊の怨念が、どしんとのしかかってくるのです。

そういうものから逃れて身軽になるためには、リビング・ソールであることをはっきり承知することです。もはや自分はただの人間ではないのです。従って人の子としてイエスを十分に信じられる状態におかれていることが、リビング・ソールです。だからイエスを信じるのが当たり前で、信じないほうが間違っているのです。そうしてイエスを受け取ると、世々限りなく生きるという生き方に変わってしまうのです。イエスが私は限りなく生きていると言っていました生命の本質、命の本性がそのまま自分のものになるのです。

これは新約時代における父なる神とキリストとの処置です。神とキリストとの二人の人格によって、完全に保証されている人間存在の真諦です。

旧約時代にはどうであったかと言いますと、「神について知りうる事がらは彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされた」のです(ローマ人への手紙1・19)。ここを見ればいいのです。

神がそれを人間に現わしたのですから、神について知りたいと思えば、自分自身をよく見たらいいのです。これが旧約時代における人間の本性です。そうしますと、どちらにしても人間はいないのです。旧約時代の人間は、神を知るためのプロセスとしてこの世に遣わされてきたというだけのことです。

しかも自分自身のあり方を見れば、神について知りうる事がらが、非常に明細に、実感的にまた実体的に私たち自身の営みの中に、鋳込まれていることがよく分かるのです。だから私たち自身のあり方を冷静に精密に評価しますと、そこには父なる神の御名が、ありありと見られるのです。これが旧約時代の人間です。

新約時代の人間はキリストの宣言によって、明白に宣揚されている。神によって定められた宇宙の王者です。世々限りなく生きる宇宙の王者としての風格を与えられている。これが新約時代の人間です。

本来人間の持ち前は、ローマ人への手紙の一章十九節にはっきり書かれていますし、新約時代における人間評価の実体は、ヨハネの黙示録の一章のキリストの宣言になるのです。人間とはこういうことになるのです。

自我意識というばかげた妄念を捨てさえすればいいのです。捨てさえすればと言っても簡単にはいきません。口で言うように簡単にできるなら、誰も苦労しないのです。人類は皆救われるのです。聖書を自分の命として受けとめる難しさはありますが、これは本質的にただ自分自身の自我意識を否認するというだけのことです。固有名詞の自分というのは嘘だ、偽りだということを自分に言い聞かせ続けるのです。それだけです。これさえすれば、そんな難しくないのです。自分の実体はイエスの御名です。イエスの御名が自分が生きているという実体です。

固有名詞という感覚は嘘です。偽りです。これがいかに頑強で、肉体の自分に強い勢力を持っているとしても、偽りには違いないのです。非常に頑強ですが、しかし偽りです。だから頑強であっても偽りだと言い続ければ、ついに偽りの人格は皮をはぐように、だんだん取れていくのです。毎日言い続ければいいのです。「おまえは嘘だ、おまえは嘘だ」と、自分自身の自我に言い続ければいいのです。

そうすると、今までの執拗な頑強な自我意識も、ついに敗北せざるをえないことになるのです。とにかく、自分自身の妄念を、嘘だ嘘だと言い続けると、非常に楽になるのです。腹が立ったら、その感情を嘘だと思ったらいいのです。妬み根性が起きれば、それが嘘だと自分に言えばいいのです。そうすると、そういう根性が消えるのです。消えて得するのは自分です。暗くなる必要は少しもないのです。暗くなったら、その自分は嘘だと自分に言えばいいのです。

いつでも楽観すればいいのです。結局楽観した者が得するのです。新約の原理から見ますと、楽観した人が得をするのです。ヨハネもペテロもパウロも楽観したから得をしたのです。悲観するのは、自我意識にとらわれているからです。自我意識にとらわれない人は楽観できるのです。簡単です。難しく考えないで、できると思って頂きたいのです。

自分がいると思ったら、すべてのことを悲観的に、警戒的に、責任を自分で負わなければならないように考えなければならないのです。自分がいないとなると、責任を負う当人が不在ですから、楽です。

神が信じられる状態でいる人はいいです。この人は救われるのです。ところが神を信じることができないでいる人、信じたいと思っていながら信じられない人がいます。初めから信じようとしない人、信じるも信じないも、キリストがあることさえも分からない人もいるのです。世界中のほとんどの人がこういう状態でしょう。

そういう人間は神とどういう関係になるのかということです。例えば現在世界中の人間はほとんど信仰を持っていない。悪魔の欲望ばかりを行っている。そういう人間の生き様と、神の経綸とが、どのようにかみあっているのかということです。従って死と黄泉とを現世においてどのように理解しなければならないのかということです。

死と黄泉という語法について少しお話ししておきますが、死というのは生に対する言葉でありまして、パウロはローマ人への手紙の七章で、死の則と言っています。肉の則、罪の則が自ら死の則になって人間に働いているのです。

これは罪の本質、または肉の本質そのものが死になるということです。罪の価は死であるとパウロが言っているように、肉の価、罪の価が、死になって現われるのです。これは本質的なものです。

神の立場から見ますと、これは客観的な事実であって、罪にいる者は死にいるのです。自分は罪にいるけれども、死んではいないといくら考えてもだめです。罪にいること、肉にいることが、自ら死にいることを意味するのです。

肉の思いを持って生きていながら、私は死んではいない。生きているといくら言ってみた所で、悪魔の思いに捉われて、死に追いつめられている状態にある者、神から見てこれは死んでいるとみなされる者は、死んでいるのであって、信じるか信じないかの問題ではありません。私は死んでいるとは思わないといくら力んでみても、その思想はそれ自体が、偽りなのです。偽りの思いを持って、自分がそう信じているというだけの事です。

ある人が、私はキリストを信じて救われたと言ってました。あなたが自分で勝手にそう思っていても、聖書に従って正当な信仰を持っていないとすれば、あなたの思いが神に通じるとは限りませんと言ったのです。その人は神に通じているかどうかは知りませんが、私は救われたと信じていますと頑張っているのです。あなたが信じていると言われるのはご自由ですが、そういう言い方は神に通じないのです。私が救われたと信じているのですから、それでいいのではないですかとその人は言い張るのです。

新しく生まれたと信じますと言っても、それは経験ではないのです。信仰経験というのは、客体的なもの、客観的なものであって、私がそう思うと言うだけのものではないのです。経験というのは客観性を持っていなければ経験とは言えないのです。

イエスは新しく生まれなければ神の国を見ることができないと言っていますが、もし新しく生まれていれば、神の国が見えるはずです。神の国が見えていなければ、新たに生まれているのではないのです。聖書が言う所を自分が経験していれば、霊的経験として人に話ができるのです。新しく生まれたと信じていますが、神の国を見ていませんというのは、キリスト教信仰の独断的な悪さとしか言いようがないのです。

イエスは山上の垂訓で神の国と神の義を求めよと言っています。皆様はまず神の国と神の義を求めて頂きたいのです。神は皆様方をとても信頼しておられるのです。皆様方が神を信じるよりも、神が皆様を信頼しておられる方が、ずっと大きいのです。

なぜなら皆様は世の初めの前に、キリストの内に選ばれていたお方だからです。キリストの内に選ばれていた皆様を、キリストと同じように扱っておられるのです。皆様はキリストの一門です。ですからあなたがたは私の愛にいなさいというキリストの御心において生きて頂きたいのです。

私たちが今肉体的に生きているという不完全さを問題にする前に、神の完全さを大いに崇めて頂きたい。神の完全さにおいて、私たちの不完全さがいかにあるべきかということを考えて頂きたい。あなたがたは互いに相愛せよというこの言葉を絶対に破ってはいけないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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