新約聖書の山上の垂訓(マタイによる福音書五章から七章)に、九福と言われるものがあります。ここに幸いであるということを、次のように九つ言っています。
「心の貧しい人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである。
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである。
彼らは地を受け継ぐであろう。
義に飢え乾いている人たちは、さいわいである。
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである。
彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである。
彼らは神を見るであろう。
平和を造り出す人たちは、さいわいである。
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害された人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。
私たちのために人々があなたがたを罵り、また、迫害し、あなたがたに対し偽って様々な悪口を言う時には、あなたがたはさいわいである。
喜び、喜べ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイによる福音書5・3~12)。
幸いであるという条件を一つひとつ見ていきますと、現世的に言えば幸いではないことばかりです。現世的にいうと、自己滅却、または、自己否定、自己規制に属することばかりを述べているのです。
自分を無視することが幸いということの基本前提になっているのです。そうすると、幸いということの本当の基準は何なのかということです。
皆様がもし幸いな人間になりたいなら、この中のどれでもいいですから、一番あうものを一つ自分の特長として持って下さい。どれでも好きなものを選んだらいいのです。
最後の箇所は私たちに共通の状態になるでしょう。現在の社会的な常識を基準にしたら、私たちを罵るとか、様々な悪口を言うことはあるでしょう。
日本は幸か不幸か、無宗教、無霊魂の国です。日本人は霊魂のことを全然考えません。これは最も劣悪な国です。そういう国ですから、私たちを罵るとか、迫害すると言っても、大したことはありません。ただ口先だけで、悪口を言う程度のものです。
ところが、日本以外の国で、私たちの思想を明らかにいうと、さんざん罵られ、迫害されるでしょう。
そこで、幸いということの原理ですが、幸いとは何か。幸いとは「さ」と「いわい」からできています。つまり、祝うことです。
「さ」とは何かと言いますと、日本のことを言霊(ことだま)のさきわり国と言います。さきわりとさいわいとは関係があるのです。さきわりとはさきいわうということです。
言霊のさきわいとは、言についてのあり方が盛んであって、それによってお互いを祝い合うということです。さきわいとは咲き合うという意味もあるのです。お互いに話の花が咲くのです。これは咲きわいです。話し合うことによって、だんだん祝い合うことになるのです。
さきわうとは咲き競うという意味もあるのです。お互いに咲きあって、だんだん満開になるのです。
さいわいの「さ」とは、先にという意味もあるのです。今日の幸福を意味するのではなく、先の幸福を意味するのです。来るべき未来を祝うという意味が一つあります。
また、現実的に考えまして、例えば、十人の人が話し合っているとしますと、自分の気持ちを先に立てようとしないで、人の気持ちを立てようとする。これが先を祝っているのです。
また、甲と乙が話し合っている時に、甲が乙を祝うような態度で話をするのです。甲にとって乙は先です。相手方が先様です。相手方を祝うのです。相手を褒めるのです。そうすると、それがその人の幸いになるのです。
これをもっと大きく言いますと、さいわいの「さ」とは人間の相手の神です。魂の相手方は神です。甲と乙が対話をしている場合、甲から見て乙は実は神です。神が乙という形になって現われているのです。
自分を虚しくして、先を祝うという心理状態になると、これが愛になるのです。
九つの条件を見て下さい。皆先を祝っているのです。自分を否定しているのです。自分を無視するのです。自己批判であり自己滅却です。そういう状態が幸いです。神を祝っているからです。
そこで、「悲しむ者は幸いである。慰められるからである」とあります。お返しが来るのです。お返しが来ることを幸いだと言っているのです。
神を祝い、人を祝い、他人を祝うから、そのお返しが帰ってくるのです。先を祝えばお返しがやってくる。お祝いを先に配るからです。
普通の結婚式なら、結婚をする方がお祝いをもらいます。そして、お返しをしますが、神と人との関係は先に祝うのです。そうすると、お返しがくるのです。
「悲しむことは幸いである」とあります。自分の肉性を悲しむことです。自分の肉性は何とも困ったものです。この肉性をもって大いなる福音を担っていかなければならないことは辛いことです。
肉性を乗り越えなければいけないのです。肉性をクリアーしなければ、福音の本義を全うすることはできません。肉性を立てれば福音が立たなくなるのです。この矛盾があるのです。
自分のことをまず悲しみますが、同時に、現在生きている人たちのことが本当に悲しいのです。やがて滅ぼされるに決まっているからです。それなのに、平気な顔をして生きている。第三の天に生命の根源があることを全然知らないのです。
現在、現象世界に人間が生かされていることは、第三の天の命がそのままこの地上に反映しているのです。キリストが神の右で祈っていることが、そのまま現世に反映している。そこで、人間がのんびり生活できるのです。
もしキリストが第三の天において祈っていなければ、人間の生活があるはずがない。こんなに人間を優遇するはずがないのです。
人間の代表であるイエスは、神を祀ることに成功したのです。神を祀ることに成功したので、神がイエスを祀ったのです。もろもろの名に勝る名を与えるというやり方で、彼を祀ったのです。これが今の人間が神の顧みを受けている原因です。
神がイエスを祀っているから、豊富な食物が食べられるのです。神はすべての人をイエスと見なしているからです。
イエスは「我すでに世に勝てり、汝ら恐れるな」と言っています。イエスは人類と自分とを一つに考えて勝ったのです。イエスが勝ったことが、我々の勝利として神に映っているのです。だから、人間はこんなに呑気に暮らしていけるのです。
人間はこのことを知らずに、自分には生きる権利があると考えている。これはイエスに対する甚だしい冒涜です。人間は自分で勝ったのではない。イエスが勝ったのです。彼がキリストとされたからこそ、私たちに現在のような生活があるのです。
生活を楽しみ、レジャーを楽しみ、恋を楽しむことができるというのは、破天荒の恵みです。しかし、栄光をキリストに帰していない。自分が幸いになる資格があると思っている。自分が恋愛をする資格があると思っている。結婚する資格があると思っている。これはとんでもない間違いです。
皆様は神の子としての暮らしと、人の子としての暮らしを神に許されている。神は黙って許している。この神の処置を人間は無視しているのです。
今人間がこうして生きていられるのは、第三の天のキリストの祈りの反映です。そうでなければ、肉の思いで一杯の人間が、生きていられるはずがないのです。キリストをキリストとしない者、神を神としない者を、なぜ養わなければならないのでしょうか。
かつて、イエスが一人勝ちを得たからです。そして、モーセの十戒の原則が貫かれているのです。一人勝ちを得たら、子孫千代にまで恵みを施すと神が言ったからです。この言葉が生きているのです。
神はこの言葉を裏切りません。二枚舌は使いません。
イエスは新しい人類の始祖でした。終わりのアダムであり、初めの人だったのです。先祖一人が神の前に義を全うした。そのために、子孫千代、全人類が全部義とされているのです。
一人が義を全うしたために、全人類が義人と見なされて、神の前に生きる資格がある者とされたのです。そして、豊かな衣食住を提供されているのです。これを神の恵みと言わずに何と言ったらいいのでしょうか。
本当は最近のように天候不順の状態ですと、大飢饉になって騒いでいる時です。本来なら、日本全体が苦しまなければならないのに、世界全体が助け合うという相互扶助の経済機構があるために、経済危機をお互いに乗り越えられるようになっているのです。
これは一体祝福というべきなのか、災いというべきなのか。こういう文明を神が許しているという点では祝福です。そのために、いよいよ神を疎かにしているという点では誠に災いです。
飢饉があり餓死者が出る方が、人間は真剣に生きて、考えるようになるでしょう。神を賢み恐れることができるでしょう。
今は各国の相互援助によって、そういうことが起きないようになっている。末の時代になればなるほど、自我を主張して、人間の権利を乱用しているのです。
人間の文明の発達は、人間の権利の乱用です。神を崇めて文明を発達させるのならいいのですが、神を崇めないで文明を発達させると、この反動が恐ろしい状態になって現われてきます。
これが大艱難時代です。未曾有の大災害が、人類を容赦なく襲うでしょう。その時、ユダヤ人が初めて間違っていたことに気がつくのです。
イエスはザ・キング・オブ・キングスです。王の王であったが、政治家でもあったのです。宗教家ではなかったのです。ザ・キング・オブ・キングスは政治家であることを意味するのです。
やがてイエス・キリストは歴史の中心に下りてくるでしょう。そうして、世界全体を治めるのです。その時、人々は災害や病気、争いが全くない、千年間の絶対平和を体験するでしょう。そうして、心から本当の幸せを味わうことができるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)