人間は自分が生きていると考えています。自分が生きているという考えの中に、自分で生きているという意味が含まれています。自分で生きているという根底がなければ、自分が生きているという発想が出てこない。これが悪いのです。
自分で生きているということと、自分が生きているということとは、相似性、近似性という非常に似た考え方になるのです。自分が生きていると思っている人間でも、自分の力で生きていると思っていないというでしょう。地獄へ行くのは恐ろしいと思っている人は、そういうでしょう。
これは誤魔化しです。神から離れた独立の命を持っているとは思っていない。そこまではつけあがってはいないと口ではいうでしょう。
しかし、自分が生きているという発想は、自分で生きているということを根底にしなければ出てこない考え方です。自分の力で自分が生きていると思うからこそ、自分が生きていると言えるのです。自分の力で自分が生きているということが、自分が生きているという発想です。
自分自身が自分を認めなければ、自分という人格は具体的には現われないはずです。自分で自分の人格を無意識に認めるということは、自分の力で自分が生きているという気持ちが根底になっているのです。この意識を根底から打ち砕くためには、次の箇所を勉強する必要があるのです。
「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼には明らかであり、神がそれを明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。従って、彼らには弁解の余地がない。
なぜなら、彼らは神を知っていながら、神として崇めず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」(ローへ人への手紙1・19~21)。
二十一節の言い方は、少しひどすぎる言い方ですが、これがパウロの良いところです。ユダヤ人としての良い所です。
パウロはダマスコ途上で、イエスがキリストであることを、強制的に確認させられたのです(使徒行伝9・1~19)。
パウロハは幸いな人です。イエスがキリストであることを強制的に確認させられたからです。自分の意識よりもイエスが復活したという事実の方がはるかに偉大であることを、太陽よりもさらに輝く光によってはっきり教えられたのです。これは幸いな人です。
この人がいう事に間違いはありません。自分の意志、自分の人格よりも、神の人格の方が確かであることを、宇宙的に確証された実体として発言しているからです。
宇宙は神のものであるということを、はっきり神が証明したのです。イエスを復活させたことによって、これをパウロが意識することによって、「私は第三の天に引き上げられた」と堂々と言ったのです。ここまで行かなければ信仰にはなりません。
彼は異邦人の使徒として、神に選ばれたのです。「わが名を持ち行く選びの器である」と神に言われた人物ですが、私たちも、「わが名を持ち行く選びの器」であると言えなければだめです。
皆様の存在は神の名によって保障されるべきです。神の名を軽んじるような信仰なら、どうでもいいのです。自分の人格を自分で認めることがいけないのです。どんな理由があってもいけないのです。
神は絶対です。この世の勢い、ユダヤ人のあらゆる意志によって、イエスは十字架につけられた。ユダヤ人が殺したイエスを、神は見事に復活させたのです。ユダヤ人のあらゆる意志よりも、神の意志が絶対であることを示したのです。
ユダヤ人は全世界を代表する人種です。全世界が代表する人種がやったことを、神が見事に否定したのです。これが、イエス・キリストの復活です。
皆様が現在置かれている境遇の中で、聖書を学ぶように導かれたということは、神の処置です。皆様は前世において、予め神の手の内にあったのです。前世で神の手の内にあったのですから、現世ももちろん神の手の内にあるのです。また、来世も神の手の内にあるのです。これが確認できればいいのです。
そうすると、自分という存在は、過去的にも、現世的にも、来世的にも、全く存在していないのです。では何が存在しているのか。神の子が存在しているのです。御子たちという言葉をパウロが使っていますが、これを言っているのです。
パウロはローマ人への手紙の第一章の中で、「すべての被造物によって、神が神であること、また、神のとこしえの力が分かっているはずだ」と言っているのです。だから、人間は言い逃れることができないと言っているのです。
神は義なるお方です。人間が受け止められないような無理なことを、決して神が言うはずがないのです。神は神自身が義なるお方ですから、人間の力量において神を信じることができないとすれば、それを実行しなさいと神が言うはずがないのです。そんなことを言えば、神が神でなくなるのです。
神が信じなさいという以上、人間にそうするだけの十二分の力があること、また、そうしなければならない理由があること、そうすることによって、その人は大変幸福になることを本人が知っているはずです。
神を十分に知るだけの実力があること、能力があること、そうしなければならないことを本人が知っていること、そうすることによって、すばらしい祝福が与えられることを人間は知っているのです。知っているから、私を信じよと神は高飛車にいうのです。この三つのことを本当に確認したら、自分が生きているという妄念をもつ必要がないのです。
なぜ自分が生きていると思う必要があるのか。なぜ夫であり、妻であると思うのか。現世の夫婦は人間が決めた現世の契約です。そんなものを神が認めるはずがないのです。
神は言っています。「二人の者会いて一体となれ」(創世記2・24)。これが神の弁明です。二人の者は会いて一体となるべきもので、いわゆる現世の夫婦とは違うのです。
これは前世的な問題であり、前世的原理が現世に働き、来世に延長されるのです。これが二人の者会いて一体となるということです。人間の夫婦はこのような宇宙的な原理に従っていない。だから、イエスは妻を憎めと言っているのです。
会いて一体となる場合、どうしたらいいのか。女は骨の骨という特性を持っているのです。男は深く眠らされたままで、眠気まなこで女を見ているのです。
女は肉の肉としての罪性を持っているが、骨の骨としての霊性も持っているのです。男の方は深く眠らさせて、あばら骨を抜かれて、それを肉で埋められた。そういう人格です。
現世の夫婦というのは、例え、現世で誰が何と言っても、それは現世での掟です。現世の掟は絶対ではありません。前世は人間の霊魂の古里であって、ここで決められたことは永遠の運命を持っていることを、よく確認する必要があるのです。現世では男は肉体的には強いでしょう。ただそれだけのことです。肉体的に強いというだけのことです。
パウロは、「人間は被造物において神を知っているはずだ」と言っています。「神について知りうる事がらは、人間には明らかである」と言っているのです。
なぜパウロはこういう言い方をしたのでしょうか。パウロはダマスコ途上で奇跡を見せられて、キリストの復活を強制的に確認させられた。
ガマリエルの門下における自分の修行が全く間違っていたと強制的に確認させられた人なら、神について知り得る事がらは、人間には明らかであると言えるでしょう。これはパウロのような人物に限られているのであって、とても一般民衆に当てはまることではないと思われるかもしれません。
これはパウロだけの独断ではありません。神について知り得る事がらは、人間には明らかである。だから、言い逃れする理由はないはずだということを、堂々と言っているのです。
これはパウロ自身の独断ではないし、ユダヤ人の専断でもない。私たち異邦人にも十分に言えることです。自分で生きているということが確証できない者は、自分が生きているという資格がないのです。空気を造り、水を造り、太陽を自分で造って、天地万物に命を与えるような力が自分にあるかどうか。米を実らせ、牛を太らせ、豚や羊に子を産ませることが人間ができるだろうか。
これができるなら、自分が生きていると言えるのです。命は自分のものだと言えるのです。それができないのなら、自分が生きていると思うことが根本的に矛盾しているのです。
もう少し神の前で謙遜な態度が取れないのでしょうか。自分が聖書を信じなければならないとなぜ思うのでしょうか。自分が聖書を信じなくても、人が現実に生きていることが、そのまま聖書です。これは当たり前のことです。
イエスは万人に共通する原理を言ったのです。聖書は自分のことが書いてある。信じるも信じないもない。人が生きていることがそのまま聖書であるとイエスは言ったのです。
アブラハムの信仰もそうです。アブラハムが思ったように、なぜ皆様も思えないのでしょうか?
人間は自分で自分を偽っているのです。自分の自尊心、自分の感情、自分の常識で自分を裏切っているのです。なぜそういう愚かなことをしているのかと言いたいのです。人間が生きているのは、そのまま前世の延長です。それを二十節で言っているのです。
神の見えない性質、即ち神の永遠の力と神性とは、天地創造ことかた被造物において知られていて明らかです。だから、人間には弁解の余地がないのです。
これはどういう事から言いますと、人間の生活の中に天地創造の原理、万物創造の原理が明々白々に印刻されているのです。このことを、パウロが論証しているのです。
これに対して、明瞭に反論できるなら裁かれないでしょう。その人は地獄へ行かなくてもいいのです。パウロの論証はパウロの独断であって、私には一切通用しませんと堂々と言える人は、地獄へ行かなくてもいいでしょう。
困ったことに、現代文明の意識を持たされている人は、パウロのいうことは全然受け止められないのです。根本的にパウロと対称的な立場に立っているからです。
そういう人は初めから聖書の神の救い、キリストの復活に係わりのない霊魂なのですから、そういう人が聖書を学ぶことが無意味なのです。
ローマ人への手紙の第一章で展開しているパウロの独特の真理が、どういう意味で神について知りうることがらは、人間には明らかであると言っているのか。人間は神の前に言い逃れをすることができないというのはどういう意味なのか。
神の見えない性質は被造物によって人間は分かっているはずです。神を見ることができない性質は、皆様には分かっているはずだと、パウロが断定しているのです。
パウロの言葉が信じられないのは、その人が肉の思いを持っているからです。もし分かっていれば、今のような生活をしているはずがないのです。
人間は何のために生きているのか。人間が生ける神の子であるとはどういうものであるのか。これを神に問い続けなければいけないのです。
聖書をただ読み流していてはいけない。聖書をただ読み流しているというのは、神を無視しているのです。聖書を鵜呑みにするのは、神をばかにしているのです。
地獄へ行くのがなぜ怖いのか。なぜ嫌なのか。地獄へ行くのが嫌だと思うこと自体が、その人が救われる可能性を示しているのです。地獄へ放り込まれるべきではないことを霊魂が知っているから、地獄へ行くのが嫌なのです。
地獄へ行くのが嫌だと本人が言っているのではない。本人の魂が言っているのです。地獄へ行くのが怖いと思うか思わないかということだけでも、大変なメッセージになるのです。
分からないのはしかたがない。私は分かりませんと神に述べたらいいのです。そうしたら、聖霊が喜んで教えてくれるのです。それをしないで聖書の言葉を鵜呑みにしているのは、神を軽んじていることになるのです。これがいけないのです。
今はキリストの復活が成就している時であって、キリストは第三の天において、あらゆるすべての名よりも高い名を与えられているのです。そして、神の右に座しているのです。
神の右とは宇宙の最右翼のことです。宇宙で一番高い位です。そこにキリストが座しているのです。キリストが神の右に座していながら、人間が死んでいくというばかなことが、どうしてあるのかと言いたいのです。
神の見えない力とは何か。皆様はこれを良く知っているのです。神の永遠の力、神性、神が神であることを人間は知っているのです。神性とは神の神たることですが、これを人間は知っているのです。
実はこれがなければ人間は生活できないのです。人間が現実に生きている内容、実体がそのまま福音になっているのです。人間が人間として生きている内容、実質がそのまま新約聖書になっているのです。神の見えない性質を見ていなければ、信仰を持っていないのです。
神に従って神を見ていれば、パウロが言ったことはそのまま自分自身の実感として受け止められるはずです。皆様が生きているということは、神に生かされていることです。神の御霊に生かされているのですから、神の御霊によって自分自身を見れば、パウロの言葉は当たり前のことです。
生かされているということは霊です。生かすものは霊であるとイエスがいうように、人間を生かすものは霊です。神の霊が人間を生かしている。だから、神の霊に従って自分の命を見ていけば、神の見えない性質は明々白々に分かるのです。それが自分の命の中にあるからです。
自分が生きているという命の実体が、そのまま神の神たること、即ち神性をそのまま現わしているのです。生きているという事実が神性です。「神の見えない性質は、おまえが生きている状態で明らかではないか」とパウロが言っているのです。
皆様は生きていながら、生きているという状態を見ようとしていない。なぜ見ようとしていないのかと言いたいのです。私たちは人間が生きているという不思議な事を経験しているのです。人間がこの世に生きていることは、全く不思議千万のことです。こういう不思議千万のことを現実に経験していながら、これを不思議と思わずによく生きていると言いたいのです。
男は自分の妻がいると、厚かましいことを平気で思っている。深く眠らされて、ハートを抜かれて肉で塞がれた男が、骨の骨である女を掴まえて、これは自分の妻だと言っている。
そんな権利は一体何処にあるのかと言いたいのです。これは悪魔の権利です。この世の権利、この世の権威を認めなければ、夫という人格は成り立たないのです。これを男は考える必要があるのです。夫という人格はこの世が保障している人格です。この世で夫として威張っているのですが、来世では通用しないのです。
皆様はこの世を信じてはいけないのです。この世の規律、この世の常識、この世のしきたり、この世の道徳を信じてはいけないのです。現世で通用するものは、神の国では一切通用しないのです。現世の道徳、規定は現世のものであって、永遠のものではありません。
「父を憎め、母を憎め」というのが、イエスの法則です。現世において、自分の命を憎まなければ、必ず地獄へ行くことになるのです。なぜなら、現世で人間が生きていることを、神が憎んでいるからです。現世の人間は肉の思い、即ち悪魔の思いで生きているから、それを神が憎んでいるのです。
神は人の魂を妬むほどに愛していますが、人間はその愛に対して答えようとしない。これが憎まれている原理になるのです。
人間が生きている事の中に、もし神がいなければ、インマヌエルの神がいなければ、絶対に地獄へ行きません。ところが、人間が生きているという事実の中に、神が共にいますから、生きている事の中に神を認めない者は、火の池に放り込まれることになるのです。
生きているという事がらは、目に見えない事がらです。目に見えない事は、そのまま目に見えない神の性質を現わしているのです。五官、生理機能、心理機能は神の見えない性質です。神の見えない性質、例えば、永遠の力を人間は知っているのです。
例えば、物理運動はあるけれど物体はないと理論物理学では教えています。人間はこの説明ができないのです。物理運動があることは分かりますが、物理運動が物体になるというのはどういう訳なのか。
瞬間的に物体になるということはある程度分かりますが、これがずっと続いているのです。例えば、家があります。この家は去年もありましたし、今年もあります。来年もあるでしょう。これはどういう訳なのか。髪の毛が伸びる。爪が伸びる。これを毎日経験しているのです。
物理が同じようにあるのはどういうことなのか。デカルトは「物質と精神は違う。精神は毎日変化しているが、物質は変化しない。永続的に存在している。だから、物質と精神は存在の本質が違う。これが哲学の第一原理である」と言っていますが、これが間違っているのです。間違っているというより、考え方が幼稚です。
物質がなぜ永続的に存在するのか。物理運動はあるが物質はないというのが、理論物理学の考え方です。この考えと、物質が永続することと、どういう関係になるのでしょうか。
物質が永続的に存在するように見えるのはなぜか。これが神の見えない性質、永遠の力を示しているのです。
永遠の力を聖書はエバーラスティングパワー(everlasting power)という言葉を使っています。エバーラスティングとは、永続的という場合に使っているのです。エターナル(eternal)とは違います。エターナルは、瞬間のことです。瞬間が継続的に存在することがエバーラスティングです。
パウロがいう神は、永続する神をいうのです。神が神であることが永続するのです。神が神であることが、そのまま神の永遠のパワーです。
神の御名は、エターナルという永遠と、エバーラスティングという永遠と両方あるのです。これを人間は知っているのです。
一方において、物理運動を人間は知っているのです。花が咲いたり、散ったりすることを知っている。新陳代謝の働きを良く知っているのです。
もう一方において、松の木は同じ格好で五年も十年もあることを知っているのです。人間はエターナルの永遠と、エバーラスティングの永遠の両方を、無意識のうちに知っているのです。無意識に知っていることを意識すれば、現存する神、インマヌエルの神、共にいます神がはっきり分かるのです。
無意識に確認していることを、意識的に確認すれば、霊なる神をはっきりインマヌエルの神として捉えることができるのです。これをパウロが言っている。なぜそうしないのかと言っているのです。
前世の経験のことを意識の表と言います。現世の経験を意識の内と言います。人間は意識の表を忘れているのです。厳然たる事実でありながら、忘れてしまっているのです。
未生が人間の精神の本源です。これを聖書は「霊の思い」と言っています。霊の思いを意表と訳しています。悪いことをしたことはない。警察のご厄介になったことはないと意内で思っている。この人は意表を知らないのです。人間は前世で、絶対に持ってはいけない自我意識を持ってしまった。死んでしまった。そこで、現世に追放されたのです。ですから、現世にいる人間は全員、犯罪者です。神が絶対にしてはいけないと言われたことをしてしまったからです。
意表は生まれる前の意識の根底です。これは永遠に通用する意識です。しかし、現世に生きている人間は、意表のことを全然問題にしていない。だから、女性を自分の妻だと思っている。こんな人は大ばかです。
妻は自分の先生です。女性の肉体があるということが、男にとってすばらしい宝石です。清いものです。これが意表です。このように女性が見えてくると、初めて女が骨の骨であることが分かってくるのです。
男は何となくこれを知っている。表内で知っているのです。だから、自分が惚れ込んでいる女性のことを、マドンナというのです。なぜかと言いますと、女性が骨の骨であることを先天的に知っているからです。先天的に知ってはいるけれど、現世的には知らない。神はここを突いているのです。
ローマ人への手紙の第一章二十節は、ここを突いているのです。神の見えない性質を知っていると言われると、そんなことは知らないという。「知らないと言って、おまえは現在理性を持っているではないか。おまえの理性は何処から仕入れてきたのか」と神がいうのです。人間が理性で生きていることは、厳然たる事実です。消すことのできない事実です。それなら理性を何処から仕入れてきたのかと言われると分からないのです。
前世からの伝承でなくて、理性をどうして持っているのか。神から与えられたものでなければ、人間はどうして理性を持っているのか。神から与えられた理性で生きているから、神のとこしえの力、目に見えない力が、人間には直感的に分かっているはずです。
百も合点、二百も承知と言える程、分かっているはずです。ところが、「おまえは神が分からないとどうして言えるのか」と言われると、意表を付かれるのです。分かっていながら分かっていないのです。
女に対する考え、神に対する考え、命に対する考え、地獄に対する考えは、皆意表の中にあるのです。新約聖書全巻は、人間の意表の中に隠れているのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)