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  • 管理人chaya

はじめに


人間は何のために現世に生まれてきたのかと言いますと、言(ことば)を聞くためです。前世で人間は根本的に失敗した。生まれる前の単一人格において、私たちは死んでしまった。その結果、自我意識によって占領されてしまったのです。

自我意識というのは、あってはならない意識です。人間は自我意識によって生きているのではない。自我の能力によって生きているのでもない。自分が自分の命を造り出しているのではない。食物でも、自然現象でも、すべて神の処置によって与えられている。人間はそれによって生かされているのです。

客観的に生かされているという状態で生きていながら、自分が生きていると勝手に思い込んでいる。これは甚だしい不合理な意識です。このように不合理な意識が、どうして人間の中に入り込んだのかということです。

自我意識は死を意味するのです。自分の命を得ている者、自分自身の命を見出している者は、それを失うのです。自我意識によって生きている者は、必ず死んでしまうと言っています。自我意識で生きることは、もっとも不合理な、不条理な生き方です。

かなり前に亡くなられましたが、かつて京都大学の西谷教授がドイツに行き、ハイデッガーに「自我は大変困ったものだ。自我が人間にあるために、人間は自我に負けてしまうことになる。自我意識はどうして発生したのか」と意見を聞いたのです。

ハイデッガーは「自我は困ったものだ。大変悪いものです。しかし、自我がどうして人間の中に入り込んだのか説明できない」と言ったのです。

ハイデッガーは西欧社会の中の哲学界の大御所でした。自我は説明できないけれど、自我意識が人間全体を完全に支配している。学があってもなくても、人間は自我意識に完全に掴まえられている。人間はそれに振り回されていると言ったのです。自我がどうして人間の中に入り込んだのか分からないと、ハイデッガーは言ったのです。聖書には述べられているのです。

自分が生きているという意識が、その人を殺してしまうのです。自分が生きていると思うから、自分が死んでいくのです。そこで、自分が生きていると思う意識を捨ててしまえば、自分の死がなくなるのです。

自分が生きていると思うから、自分が死ぬのです。これは、「自分の命を得ているものはこれを失う」というイエスの言葉と、全く同じ意味になるのです。自分が生きていると思う人は、その命を必ず失います。生きているのは、自分の命ではありません。自分の命ではないことが理解できた人は、死なないのです。

イエスはそういう生き方をしていたのです。イエスは「私は父の内にいる」と言いました。父の中にいる、神の中に生きている命が、自分の中にあるだけです。神の命が自分に働いているだけです。イエスはこう考えたのです。従って、イエスは自分の命があると考えていなかったのです。そこで、皆様も自分が生きているというばかばかしい考えを捨てさえすれば、死ななくなるのです。はっきり死ななくなるのです。

私はかつて、自分が生きていると思っていたのですが、現在は自分が生きていると思っていません。どうして思いを変えることができたのかと言いますと、精神構造の転換をしたからです。精神構造の転換ということがなかなかできないのです。

人間の命は自分のものではありません。ところが、人間は自分が生きているという、とんでもない考え違いを押しつけられているのです。押しつけられている意識を解脱してしまえば、自我意識と自分は関係がないことが分かるのです。

生きているという事がらが、自分という形で現われているのです。自分が生きているのではありません。これが、イエス・キリストの信仰です。こういう考え方ができる人に向かって、イエスは「私のために、自分の命を見失っている者はその命を得ることができる」と言っているのです。

皆様も自分が生きているという間違った考えをやめて頂きたいのです。生きているという事実は皆様の事実ではなくて、イエスの事実です。イエスを信じるというのは、イエス的事実が、私的状態で現われているということを、神の御霊によってはっきり理解することです。これを御霊を崇めるというのです。

私が生きている事実が、イエスが生きていた事実と同じことなのです。従って、私が生きていないということが分かりますと、イエスの復活の命が、そのまま私の命になってしまうのです。これをとこしえの命というのです。

これはそんなに難しいことではありません。自分が生きているという間違った考えを捨てるのです。自我意識は皆様が生まれる前に持たされてしまったのです。アダムという単一人格によって、生まれる前に持たされてしまったので、個人の人格として生まれなければならないことになりました。

個々の人間としてこの世に生まれた人は、必ず死にます。死なねばならないのが個々の人間です。死んだらどうなるのか。自我意識によって生きていた人は、七十年、八十年の間、神に反抗し続けていたのです。神とは皆様の命の本質です。だから、皆様の魂が苦しんでばかりいたのです。特に、女性は辛辣な状態で苦しんでいたのです。この状態が煎じ詰められて、火の池になって現われるのです。これが霊魂の裁きです。非常に合理的なことです。

だから、自分が生きているという不合理な考えを捨てるのです。これを捨てることから入って頂きたいのです。現世に生きていることを認めてしまうことが間違っているのです。まず、自分が生きているという観念を、精算してしまうことが第一です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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