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  • 管理人chaya

復活


人間とは何か。現代文明で考えている人間は、悪魔の思想が人間に現われているだけです。イエスと悪魔を峻烈に対立させるような感覚がいるのです。

女の末とへびの末との間に、恨みがおかれているのです(創世記3・15)。女の末とへびの末とをはっきり対立させなければいけないのです。

人間はキャラクター(character )の世界しか知りません。宗教は全部キャラクターの世界です。これがへびの末です。現代文明はへびの末をアッピールしているのです。これがユダヤ文明です。

人格とは何かと言いますと、イエスとは何かということに集約してしまうのです。人間とは何かということを説明すると、人格とは何かに集約されるのです。

現代人が考えている人権主義的な考えは、キャラクターです。人格とは違います。個々の人間の命はキャラクターであって、パーソナリティーは宇宙の命です。

個々の人格を認めるという思想は、聖書にはありません。固有名詞の感覚はキャラクターであって、パーソナリティーとは違うのです。

極端に言えば、思想が統一されていなかったらいけないのです。極端な思想統制がなかったらいけないのです。未だかつて、日本でも世界でも言われたことがない方向のことを言わなければならないのです。

とこしえの命、永遠の命を具体的に、現実的に取り上げるのです。これは宗教とは全然違います。イエスを現世にひっぱり出すのです。だから、個人的な自由はありません。

現代人は固有名詞で生きている人間に自由があると考えていますが、これがへびの思想です。人間は人間としての自由はないのです。人の子の自由があるだけです。人の子の自由とは肉と関係がない自由です。人間の自由は全部、肉の思いです。

文明は人間を認めているのですが、新約聖書は人間を全く認めていません。イエスだけしか認めていないのです。だから、イエスを信じるか信じないかのどちらかです。そうすると、セックスの問題も分かってくるのです。神はアブラハムやエノクにセックスを認めていたのです。数人の子供ができているのです。これはどういうセックスか。これについても分かってくるのです。

人の子には個々の人格はありません。統一された人格しかありません。「汝ら聞け」と言っているのです。これは人格は一つしかないということです。神は「これは私の愛する子である。汝らこれに聞け」と言っているのです。これは神の極端な言い方であって、これを理解するためには、創人の原理を十分に考えなければならないのです。

創人の原理というのは何かと言いますと、神はイエスを造っただけです。この他に人間を造っていないということです。

人の人格をどのように見たらいいのか。ユダヤ人の精神状態は、三千年も前から停止したままです。私たちは毎月、毎月、もっとはっきり言えば、毎日新しく開かれて、前進しなければならないのです。これはイスラエルの動きの何千年にも相当することでしょう。自分が全く消えて、御霊にすべてを任せればできることです。こういうペースでないと本当の神は分からないのです。

これは宗教の考えではありませんし、人間の考えでもありません。だから、人間を相手にしてはいけないのです。人の子だけしか相手にしてはいけないのです。

ちりに帰らせられる前の人格がそのまま現われている状態を、人の子というのです。マインド(精神)の本体がちりに帰らせられて、ちりができたのです。ちりは意識しないで働いています。この働きが重大です。

モーセは、「人をちりに帰らせて、人の子よ帰れ」と言っています(詩篇90・3)。モーセ本人は大したことはありませんけれど、やはり預言者だけのことはありまして、書き残したことは非常に正確です。モーセが語った内容は間違っていませんが、モーセの信仰には間違いがあったと言わなければならないのです。

私たちは神が本当に言いたいことを初めて言わせられるグループだという感覚で、新しい出発をしなければならないのです。

神は命です。宇宙には神があるだけです。それが森羅万象という格好で感じられるのですが、神の全知全能があるだけなのです。これが罪の下に売られた人間には分からないのです(ローマ人への手紙7・14)。ところが、罪の下に売られたという条件がないと神が分からないのです。

これは文明というジャンルの中に住んでいる霊魂には分からないでしょう。文明思想を無視する以外に方法がないのです。罪の下に売られなければ分からないが、売られた者には分からないのです。ここが難しいのです。

死にたくないと本当に言える人は、命を掴まえることを考えるでしょう。死にたくないととことん言える人でなければ、命を掴まえるチャンスはないのです。

罪の下に売られたということは、死の下に売られたのです。死が本当に嫌な人は命を求めるでしょう。皆様は本当に死んだと思っていない。生きていると思っているのです。生きていると思っているから、命を真剣に求めようとしていない。これが今の人間の最大の欠点です。

自分の中から宝を抜き出して、自分自身が抜け殻になってしまうのです。トンボや蝉が成虫になる状態です。幼虫が蛹(さなぎ)になって、一度死んでしまうのです。そうして、新しい命が蛹から出ていくのです。これを経験しないといけないのです。幼虫のままでは成虫にはならないのです。蛹の状態になりたくない人はだめです。

周波数とは何か。地球は周波数に満ちているのです。周波数が高くなるという原理がどこから来るのか。低い周波数を高めるとどうなるのか。物質の状態が変わってくるのです。

周波数を高めると、固形体が液体になる。そして、液体が気体になる。ここまでは現代の最先端の科学で説明することができるのです。ところが、気体をさらに高めると光になる。光をもっと高めると霊になるのです。これをさらに高めると命になるのです。

物質が存在することの原点が周波数です。この原点を高めていくと固体になる。さらに高めると液体になり、そして、気体になる。さらに、気体が光になり、光が霊になる。霊が命になるのです。言(ことば)が命になるのです。こういうペースで私たちの信仰が引き上げられていくのです。最低の状態から、最高の状態に引き上げるのが周波数です。

神の御名はありてあるものです。エホバを知る必要があるのです。そうすると、生まれてくる前も、生まれた後もなくなるのです。従って、死んだ後もないのです。生まれる前も、現世も、死んだ後も同じになるのです。

生まれてくる前が今あるのです。死んでからのことが今あるのです。皆同じものです。地獄へ行くことは何処にもないのです。こういう事を弁えて、生きることをイエスの御名と言うのです。

私が生きているのではない。生まれる前のルーツが生きているのです。これが救いです。これ以外に救いはないのです。

これがイエスが使いこなしていた唯一最高の処世法です。これが復活の命です。イエスが復活したのは当たり前です。イエスは生まれる前の命で生きていた。だから、十字架につけられても、三日目に甦ると言ったのです。

この世に生きている者は、必ず死にます。この世に生きていない者は死なないのです。死にようがないのです。

イエスは十字架につけられて、現世を去って、人屋(ひとや)に行きました。人屋に行ったけれど、イエスは死んで人屋に行く状態ではなかった。生まれる前の状態で人屋に行ったので、人屋に置いておけなかったのです。

生まれる前の状態で人屋へ行ったのです。人屋に置けなかったから、追い返されたのです。あなたの霊魂は人屋にいるべきではないと言われて、人屋から出てきたのです。

イエスは間違えて人屋に行った。こんなお方は地獄へ来るべきではないと言われて、戻されたのです。皆様もこうなったらいいのです。自分が消えてイエスになったらこうなれるのです。

皆様は現世に生きている時は、思い煩うことは一切ありません。永遠の生命を得るためには、何をしてもいいのです。永遠の生命のためにプラスになると思ったら、何をしてもいいのです。

遠慮することは全く必要ありません。何に遠慮しているのでしょうか。もっと大胆に、自由奔放に、どんどんしたいことをして、間違いなく永遠の生命、死なない命を掴まえて頂きたいのです。神はこういう自由を与えているのです。

どんな手段を使ってもいいから、永遠の生命を掴まえたら勝ちです。どんなに品行方正に生きていても、掴まえなかったら負けです。このことをよく考えて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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