top of page
検索
  • 管理人chaya

狡猾


陥罪後の人間の中に野の獣の思いが入ってしまった。陥罪以前の人間の中には、野の獣の思いがなかったのです。野の獣の思いがなかったから、へびに騙されたのです。

もし、野の獣の思いがアダムやエバの中にあったら、へびが誘惑してきても、それはおまえの意見だと言えたのです。おまえの意見に従う必要はないとはっきり言えたのです。

アダムは何も言わずに善悪の木の実を食べたのです。そこで、善悪の木の実を食べるとはどういうことか。ここに非常に深い意味があるのです。

自分の命を自覚しない者は、善悪の木の実、即ち禁断の木の実を食べられないのです。従って、火の池には行けないのです。

自分の命を自覚しない者は、火の池へは行けないのです、禁断の木の実を食べられないし、火の池にも行けないのです。神の国へも行けないし、火の池にも行けないのです。神のお付き合いもできないし、悪魔のお付き合いもできないのです。

創世記三章一節の野の獣の狡猾さを味わって、初めて五種類の命(海の魚、空の鳥、家畜、地のすべての獣、地に這うすべてのもの)を、治めることができるのです。

人間は必然的に陥罪しなければならない運命を持っていたのです。

自分の命はないのです。野の獣の命の狡猾さ、へびの狡猾さを十分弁えるために必要なことは、自分は生きていないのに、自分の命があると考えなければならないのです。これが狡猾です。

野の獣は狡猾です。自分の力で生きているのではないにも係わらず、自分の力で生きているような顔をして、餌を食べるのです。これが狡猾です。

神は野の獣に餌を与えている。ところが、彼らは自分で餌を見つけたと考える。それで自分で生きていると考えるのです。こういう考え方が狡猾です。

生きる力もないものが、自分の力で生きていると考えるのは、傲慢であり、曲解でもあるのです。また、錯覚でもあるのです。自分の命がないのに、あるように考え生きている。これを狡猾というのです。

自分が生きているという人間の意識全体は、全部狡猾です。ユダヤ人は狡猾の代名詞です。狡猾の先端を行くのがユダヤ人です。

私たちはこの狡猾を滅ぼすために、ユダヤ人と接触するのです。そのためにはまず、自分自身の狡猾が消えてしまわなければ、ユダヤ人の狡猾を消すことはできないのです。狡猾どうしが喧嘩してもだめです。ユダヤ人を説得する必要はありませんし、説得しても意味がないのです。

自分が生きているという意識を完全に放棄することです。これができなければ救われません。自分が生きているから、自分が理解しなければならない。自分が信じなければならない。自分が救われなければならないと考えることは狡猾です。

自分が理解しなければならない。自分が信じなければならない。自分が先生になりたいと考える。これが狡猾です。

聖書が分からなければならないと言っているのではない。自分の根性を捨てなければいけないと言っているのです。分からなければいけないというのは難しいでしょう。しかし、捨てることなら誰でもできるはずです。それをしないから私は叱るのです。

この感覚を理解してもらいたいのです。私は何も新しいことを教えられたのではないのです。人間の中にある根性を捨てただけです。捨てただけであって、分かったのではないのです。

人間の中にある狡猾な根性を捨てただけです。自分の狡猾さを自分で捨てるのです。自分で生きているという意識を極度に警戒するのです。自分が分からなければならないとか、自分がどうかならなければならないと考えることが狡猾です。

そういうことを考えること自体が狡猾です。これは悪魔のレベルです。自分はいないのです。強いて言えば、五種類の命が一つに固まっている者を、人間というのです。

ですから、人間というものが特別にあるのではない。五種類の生き物を管理する形で、五種類の生き物と、もう一つの思いがワンセットになっている。これがあるだけです。これが人間です。人間は五種類の命の頂点にいるだけのことです。ですから、人間存在という事実が特別にあるのではないのです。

イエスが荒野において、獣と一緒にいたのは当たり前です。獣も虫けらも魚も鳥も、イエスと一緒にいたのです。そこで、命には自ら意識を持っていない命と、自ら意識を持っている命があるのです。同じ生き物でも、海の魚と空の鳥は自ら意識を持っていないのです。家畜も自ら意識を持っていない。持とうとしないのです。

野の獣と虫けらは意識を持っているのです。野の獣はユダヤ人の雛形です。虫けらは異邦人の雛形です。

命は思いになって現われる。これが第一創造のあり方です。ところが、第一創造でない命がもう一つあるのです。これが植物です。植物の命は自ら意識しないのです。植物は命はありますが、動物との違いはどこにあるのかと言いますと、動物は自ら意識するのです。自分の意志で勝手に動くのです。植物は命を意識しないのです。

植物は自分で動かない。自分で意識してはいけないのです。一切を神に任せているのです。枯れようが花が咲こうが、折れたら折れたまま、一切を神に任せるのです。自分自身で毀誉褒貶を一切考えないのです。

動物は利害得失を考えるのです。これが禁断の木の実です。そこで、人間は禁断の木の実を食べにくるものを叩かねばならないのに、自分が先頭に立ってそれを食べているのです。

これはレベルの高い話ではありません。創世記の原点で、当たり前のことなのです。

第六の思いは五種類の命を思いに振り替えて、それを自分の思いとして理解するだけでなくて、これを取捨選択してコントロールすることができる思いです。そうすると、五種類の命が全部救われるのです。私たちの中にある五種類の命がコントロールされると、それが皆救われるのです。そして、私のハートが世々限りなく王となるのです。

今私たちは本当の世代に生きているのではないのです。肉体的に生きている人間の世代というのは、試みられている世代であって、本当の世代ではないのです。

イエスは次のように言っています。

「また天国はある人が旅に出る時、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。

五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、他に五タラントを儲けた。二タラントの者も同様にして、他に二タラント儲けた。しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。

時が経って、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算を始めた。すると、五タラントを渡された者が進み出て、他の五タラントを差し出して言った。『ご主人様、あなたは私に五タラントをお預けになりましたが、ご覧のとおり、他に五タラントを儲けました』。

主人は彼に言った、『良き忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたは私に二タラントをお預けになりましたが、ご覧のとおり、他に二タラント儲けました』。主人は彼に言った、『良き忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、私はあなたがまかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで、恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください。ここにあなたのお金がございます』。

すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたは私がまかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、私の金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、私が帰ってきたら、利子と一緒に私の金を返してもらえたであろうに。

さあ、そのタラントをこの者から取り上げて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう。

この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』」(マタイによる福音書25・14~30)。

ここに非常に大きい意味があるのです。これを読んだら分かりそうなものですが、五タラントを預けられた者は、すぐに行って商売をしたと言っているのです。すぐに行って商売をしたというのは、現世に生きていることを意味するのであって、現世に生きていることにおいて、商売をしなければならないのです。現世から離れて商売をしたらだめです。現世に生きているというペースが、そのまま五タラントを掴まえる秘訣になっているのです。

今の皆様の家庭のあり方はどんな状態であるのか。そこで、五タラントを掴まえるのです。私の職場が悪いとか、私は病気であるからできないと言ってはいけないのです。病気なら病気で、五タラントを儲けるのです。訳の分からない主人がいるということが、五タラントを儲ける場所です。そこで、掴まえるのです。

皆様の職場、家庭、健康状態、皆様の親子関係の中に、五タラントがあるのです。そこで、五タラントを儲けるのです。

まず、へびの狡猾さを良く見分けて、野の獣の命、へびの命を自ら捨てるのです。自ら捨てようと思えば、御霊が助けてくれるのです。

神の御心に従って、自分の思いを用いようとすれば、五つの命ではないもう一つの神の命が、助けてくれるのです。御霊の働きが助けてくれるのであって、そこで五タラントが見つかるのです。

この世から逃げてはいけないのです。この世で五タラントを儲けなければいけないのです。命は天にあるのではない。目の前にあるのです。私たちが今生きている場に、五タラントがあるのです。

この世で儲けるのです。これは宗教ではできないのです。死んでから天国へ行くのではないのです。今、ここで、天国を見つけるのです。今、ここで、永遠の命を掴まえるのです。

そのためには、五種類の命だけではだめです。第六の命がなければ、五種類の命を治められないのです。

五種類の命はこの世における生物の命であって、生物の命は自分の命を意識できる命です。本来、第一の創世において、自分の命を自分で意識できるようなものを、神が造ったのはおかしいのです。

自分の命を自分で意識できるというのは、悪魔の命です。神の命以外の命です。そんな者を神が造ったのです。これが、第一創造が不完全であって、本当の創造ではないことを証明しているのです。

もし三日目までの創造で、後が終わりになっていれば、植物の創造だけですから、第一創造は完全です。ところが、四日目に太陽を造り、月を造り、五日目に、鳥や魚を造り、六日目に動物を造った。四日目、五日目、六日目という創造は、やがて潰れる創造です。

三日目までの創造は、潰れないのです。新天新地には木はあります。月に花を咲かせる木はあるのですが、動物はいないのです。

私がお話ししていることは、生きている状態で十分に信じられることです。これがタラントです。タラントはこの世に通用する通貨のことです。人間が現世で生きている間の状態で、神の永遠の生命は確実に掴まえられるのです。

人間が自分の家庭で重荷に感じるようなこと、あるいは、自分の職場で重荷に感じることがあったら、これが狡猾を乗り越えるチャンスになっているのです。

狡猾というのは、自分が生きていると思うことです。命は自分のものだと考えることが、決定的な狡猾の原点になるのです。

動物は自分で生まれてこないのに、また、自分で餌を造っているのでもないのに、自分の命に対して、戦々恐々としています。そういう野の獣の狡猾さというのは、神が造ったのではないのです。神がそういう命があることを、許しているのです。許したのではないが許しているような状態になっているのです。

獣を造ったのは神ですが、獣にそういう意識を与えたのは悪魔です。

悪魔は物を造ることはできませんが、意識を与えることはできるのです。狡猾な意識を与えたのは悪魔です。

神は野の獣に意識を与えることをへびに許したのです。野の獣の中のへびは、最も狡猾であったとあります。これは野の獣の狡猾のあり方の原形を示したのです。原形を示すものがあった。しかも、この場合のへびはスネークではなくて、サーペントでした。輝くものであったのです。

輝くものであるへびが、野の獣に狡猾のあり方を示した。そこで、野の獣が狡猾になっていったのです。人間が陥罪したのと同じようなことが、野の獣にもなされたのです。

野の獣の狡猾さというのは、神が狡猾にしたのではないのです。神が狡猾という意識を造ったのではない。闇が造ったのです。

現在の創世というのは、光と闇との二つの力が織り合わさってできているのです。昼と夜がワンセットになってできているのです。

ですから、現世の光の部分は神が造り、闇の部分は闇が造ったのです。何もかも全部、神が造ったのではありません。

心理的な意味で神に呪われるべき命は、神に呪われるべき人格が造ったのです。そういうものの存在を許しているのが、現在の世代の原理です。現在の世代は闇の存在を認めているのです。

だから、今の地球、今の世界は仮の世界であって、これは神の国ではないのです。神の国もありますが、地獄もあるのです。光もあるが闇もあるのであって、私たちは光と闇が混在している世界をまともな国、神の国だと思ってはいけないのです。

この世界の中から、光の部分と悪の部分とを選り分けて、受け止めることが必要です。これができる者だけが救われるのです。

光と闇を選り分けることができない者、肉と霊とを選り分けることができない者は、死んでしまうしかないのです。

皆様は自分の生活で、肉と霊とを選別する能力を持つようにしなければいけないのです。肉と霊とを選り分ける力を与えられた者だけが、霊の思いの中へ進んでいくことができるようになる。そういう者だけが救われるのです。できない者は救われないのです。

できる力が自分にあるのかないのか。あるかないかではありません。そうなりたいと思うか思わないかで決まるのです。光と闇とを選り分ける人格になりたいと思うなら、誰でもなれるのです。

自分という根性を持っている人は、一切だめです。自分が救われたいとか、自分が分かりたいということを問題にせず、ただ黙って神の導きに従えばいいのです。そういう素直さがある人だけが救われるのです。イエスに従える者だけが救われるのです。自分が救われようと絶対に思ってはいけないのです。

自分という気持ちそのものが、野の獣の狡猾さです。自分がというのがいけないのです。自分という意識から一切離れることです。ばかみたいに素直になるのです。

人間の心臓が動いていること、目が見えることが霊です。人間の思いはすべて闇から来ているのです。心臓が動いている。目が見えるという生理的事実は、光から来ているのです。思いはすべて闇からです。現象的な思い、現実的な思いは皆肉です。

ところが、心臓が動いていること、目が見えること、歩いていることは光から来ているのです。この故由を心得て、光と闇とを分けていくのです。自分で自分の魂を清めていくのです。これができる者は、五つの思いになって、自分の中にある五つの生き物を治めることができるのです。命を治めることができるのです。

闇が無ければ光は分かりません。だから、肉とか闇とかを無視してはいけないのです。かといって、認めてはいけないのです。無視しないで、これを利用するのです。

肉や闇に自分が押さえ込まれてしまっていれば、これはだめになります。皆様にとって大切なことは、自分の家庭生活で、また、夫婦生活で、へびの狡猾さに負けないことです。

狡猾というのは、自分の命がありもしないのに、自分が生きていると考えることです。自分の面子とか、自分の自尊心とか、自分の経験とか、自分の意見とか、自分の立場とかを認めようと考える。これがいけないのです。

野の獣をぼろくそに言っているのではない。皆様の中にいる獣のことを言っているのです。人間は無意識に獣に同調しているのです。

人間は月を見ている時には、自分の純粋性を見ているのです。どんな泥棒でも月を見ている時には、泥棒のことを考えないのです。

目が月を見ているというのは、人間が月を見ているのではないのです。なぜなら、目は人間に植えられたものであって、人間自身の主観的な機能とは違うのです。これは純粋に魂の本性を指しているのです。

月を見るという能力は、そのまま未生以前の能力です。臨済禅で一番難しい公案は、「生まれる前の父を見る」ということです。

「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞かば、生まれる先の父ぞ恋しき」という禅の歌があります。山田無文さんはこれが分からなかったので、ぼけたのです。

観自在というのは、初めからあったのを見ているのであって、この世に生まれるよりもっと前、地球ができる前、この宇宙にビッグバーンが始まる前を見ているのです。これを見ること、即ち、観自在菩薩になることが、人間の絶対的な責任です。

生まれる先の父ぞ恋しきです。目が見えるということが、生まれる前の機能性を意味しているのです。生まれる前に霊魂の本質が植えられた。霊魂の本質は神の言(ことば)です。言が植えられたのです。

言が肉になる前に、まず言があったのです。これが肉になったのです。これが人間です。言が人間の本質です。目の働きが言です。ロゴスです。

ロゴスの働きで月を見ているのです。月の輝きというものがロゴスです。人間の中にロゴスがなかったら、月の輝きを名月として認識することができないのです。

そこで、月を見ている時には、本人が意識するしないに係わらず、本人の魂の本質であるロゴスが、その人の肉の思いを圧倒して働いているのです。

月を見ている時の心境は、生まれる前の心境になっているのです。だから、「名月や ああ名月や 名月や」となるのです。

月を見ている時に、神が天地を造ったという創世力の中に吸い込まれているのです。月はロゴスによって現われている。見ている人間の心がロゴスによって働いている。内なるロゴスと外なるロゴスが面会しているのです。

「映るとは月は思わず 写すとは水は思わぬ 広沢の池」となるのです。月は映るとは考えていない。ただ輝いているだけです。無心の月です。写すと水も思っていない。

「映るとは月は思わず、写すとは水は思わぬ」。これが禅の極意です。これは純粋経験としての禅の極意であって、その世界が今自分の中にあるのです。生まれる前の世界が、自分の中にあるのです。

生まれる前の世界が自分の中になかったら、生まれる前の月が分かるはずがないのです。

月は四日目にできています。人間は六日目にできています。六日目の人間が、四日目の月をどうして見るのか。生まれる前の意識があるから見えるのです。

月を見ている人間の心境は、そのまま純粋経験の純粋心境です。

純粋経験をしている時、人間は現世にいないのです。現世に生まれていないのです。この感覚がプラトニックに通じるのです。これがプラトニックラブの原形です。肉の感覚を出てしまっているのです。

神が人間の霊魂に見せようとしているのは、愛ばかりです。見ることでも、飲むことでも、食べることでも、感じることでも、皆、愛ばかりです。神は朝から晩まで、愛ばかり見せているのです。

雨が降ったら降ったように、天気であればあるように、人間に愛を示している。人間は神の愛の内にいるのです。神の愛の内にいるということは、世の初めの前に、神の側にいた時の栄光を見ているのです。

世の初めの前に、人は神の側にいた。その時の栄光によって私を救って下さいとイエスは言っているのです。

御霊によって、天地森羅万象を見れば、生まれる前の世界であることが分かるのです。これが皆様の原形です。これが花が咲いている世界です。この世界の中へ入ったらいいのです。入らなければいけないのです。

花が咲いている世界は、月が輝いている世界と同じです。花が咲いているのを目で見ているのですから、これに入るのです。この世界はとこしえの世界であって、死なない世界です。

私たちは花を見る意識、月を見る意識を持っているのです。その意識が自分の命の原形であって、この命の原形を自分の立場、立ち所にすれば死なないのです。

そうすると、現世に生きている人間の常識的な家族はないのです。月を見ている純粋経験の感覚で、自分の家族を見て下さい。そして、女性、男性を見るのです。そうすると、生まれる前の原形が分かってくるのです。

皆様はそれをするためにこの世に生まれてきたのです。生まれる前の世界を経験するためです。これがとこしえの命の一番分かりやすい入口です。聖書はこれを教えているのです。

野の獣が狡猾だ、へびが最も狡猾だと言っているのは、狡猾ではないものを知るためです。狡猾ではないものはどこにあるのか。月の光にあるのです。月の光だけではなくて、注意してお茶を飲めば、そこに生まれる前の世界があるのです。女性の顔をじっと見ると、そこに生まれる前の女性がいるのです。そうすると、セックスが変わってくるのです。本当のセックスが分かるのです。本当のプラトニックラブとはどういうものかが分かってくるのです。

狡猾の感覚で生きるものを肉の思いと言います。肉の思いは死です。霊の思いは命です。平安です。

生まれる前の世界は月だけではない。山も川も、木も花もすべてそうです。これが分かってくると、生まれる前の神の命、神の愛、神の深さが見えてくるのです。

「汝、わが前に歩みて全かれ」と言われたアブラハムと同じように、神の前に歩むことができるのです。これが信仰です。

これは当たり前のことです。この当たり前の所に神の国があるのです。これが分かると、皆様の意識の中から狡猾さが消えているのです。これを経験して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:4回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

人間は何のために現世に生まれてきたのかと言いますと、言(ことば)を聞くためです。前世で人間は根本的に失敗した。生まれる前の単一人格において、私たちは死んでしまった。その結果、自我意識によって占領されてしまったのです。 自我意識というのは、あってはならない意識です。人間は自我意識によって生きているのではない。自我の能力によって生きているのでもない。自分が自分の命を造り出しているのではない。食物でも、

人間は神を知っている

人間は自分が生きていると考えています。自分が生きているという考えの中に、自分で生きているという意味が含まれています。自分で生きているという根底がなければ、自分が生きているという発想が出てこない。これが悪いのです。 自分で生きているということと、自分が生きているということとは、相似性、近似性という非常に似た考え方になるのです。自分が生きていると思っている人間でも、自分の力で生きていると思っていないと

bottom of page