イエスは言っています。「よくよくあなたがたに言っておく。誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネによる福音書3・5)。
これを永井訳でみますと、水からと霊とからによって生まれなければと言っていますが、水と霊とによってと言っても同じ事ですが、水と霊とによってと言ってしまいますと、何となく一つのことのような気がするのです。
ところが、水から生まれること、霊から生まれることとは、本来的には二つのことになるのです。六節には、「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」という言葉があります。
肉から生まれた者は肉だという六節の言い方を転用して考えますと、水から生まれる者は水だということになるのです。この自覚がなかったら、その人はまだ水から生まれていないことになるのです。神が望みたもうような正しい内容で、水のバプテスマを受けてはいないことになるのです。
五節の水から生まれるというのは、One be born of waterとなっています。六節の方はborn of the fleshとなっています。肉から生まれたとなるのです。
水から生まれる者は水だと書いていませんが、六節にある肉から生まれた者は肉だという言葉を転用すれば、水から生まれた者は水だという意味が含まれていると考えられるのです。
このことはヨハネの第一の手紙でも、「イエス・キリストは水によるだけでなく、水と血とによって来られたのである」と言い直しています。
イエスは肉体的にこの世に来たのかと言いますと、来たことは来たのですが、彼が水のバプテスマを受けたことによって、水になってしまったのです。肉体的に人間並に生まれたのですが、イエスは信仰によって神の御心どおりの洗礼を受けたので、水に還元してしまったのです。
肉から生まれた者は肉であるように、水から生まれた彼は、水になってしまった。その時に聖霊が鳩のように下りたのです(マタイによる福音書3・16)。そこで神は、「私のお気に入りの息子だ。大満悦だ」と喜んだのです。
神は何が好きかと言いますと、イエスの肉体が水に帰ったことです。水のバプテスマを受けて、水から上がった時に、彼は水になっていた。水と同化していた。それに対して神が、「これこそ私の愛する子どもである。私のお気に入りだ」ということを、天から証されたのです。
聖霊が鳩のように下った。水に帰ったイエスご自身の信仰がそのまま聖霊ご自身の姿で現われているのです。鳩のように下ったということは、神とイエスが完全に一つになられたというしるしです。御霊が鳩のような形で現われたのです。
私たちも洗礼を受けていますから、水から生まれたと信じたらいいのです。今からでも遅くないのですから、水から生まれたのですから、水となったと信じたらいいのです。
「イエスを神の子と信じる者は、自分が水と血であるという証を持つでしょう。神の子を持つ者は、この証を持っているはずだ」とヨハネ言っていますから、皆様もイエスを神の子と信じるなら、皆様はこの証を持つべきです。持っているはずです。
これは新約聖書を担ぎ出して言うまでもありません。自然科学でも、こんなことくらいは分かるはずです。物質が水であることは、自然科学でも説明できるくらいに低い問題です。
人間が水であることは、ごく自然のことです。今やこれは科学の常識でさえもあるのです。科学者はそういう常識を持っていますが、信じてはいないだけのことです。
自分が水だと思ったら、ばからしくて大学に勤めていられませんから、大学教授は一切信じないでしょう。信じたら月給をもらえなくなるかもしれないのです。大学は人間には月給を払いますが、水には月給を払わないのです。
理論的には理解できますが、実感的には理解できないということは、明らかに人間の常識が分裂しているからです。これが原罪の特徴です。
原罪は常にダブルマインドであって、二つの事がらを使い分けするのです。そういう便利なことをするのです。
肉的(人間の常識、知識)に生きている人間は、いつでもそれを無意識にしているのです。肉的に生きているということは、二律背反の世界に生きているのでありまして、二律背反の世界では一つの事がらについて、二つの正しい理論が展開されているのです。
世間でいう面従腹背というのはそれなのです。京都では「へいへいの糞食え」というのです。表面上はへいへいと言っていますが、後を向いて糞食えと言っているのです。顔で笑って心で泣いている。これを人間はいつもしているのです。
罪の世に生きていると、二律背反の原理が分からなければ、円満に商売ができないのです。いつでも二重人格になっていなければ、人と調和していけないという状態になっているのです。これが罪の世に生きている印です。
そういうインチキが通用するのです。一つの事がらについて、二つの正しい理論が成立するのです。二つの正しい理論ということは、神が二つあるということです。二つの絶対があるということです。二つの神があるから、二つの正しい理論が、一つの事がらについて展開しているのです。
私たちの根性はそれに馴れていますので、聖書を学んでいても、いつか知らない間に二律背反を学んでいるのです。分かったつもりで分からないというのは、二律背反的な学び方をしているからです。
物質はすべて水から出たもので、水によって成り立っています。従って、人間の肉体だけが例外という訳にはいかないのです。ましてや、人間の肉体は最も顕著な例だと言えるでしょう。
そういう訳でありまして、自分の存在は水だ、水と血を兼ねて生きているということを、私たちの生活意識にしているとすれば、平常の生活の形や心構えが全く違ったものになるでしょう。
人間の肉体構造は固体的、実体的に存在する訳はないのです。人間の肉体は構造されたものです。構造されているのです。神の言の働きによって、物理的、生理的、栄養学的、科学的に、いろいろな形に組み立てられているのが人間の肉体です。
肉体は構造されているものであって、独自にユニークな肉体を持って存在しているのではありません。例えば、空気がなかったら、水がなかったら、人間の肉体はたちまち萎んでしまうものです。簡単なことです。
そうすると、人間の肉体があるのではない。天地自然の生理現象、または物理現象があるのであって、自然現象にすぎないのです。虹が現われているようなものです。雪が降って積もっているようなものです。花が開いているようなものです。
ペテロは言っています。「人は皆、草のごとく、その栄華は皆、草の花に似ている。草は枯れ、花は散る」(ペテロの第一の手紙1・24)。人間の肉体存在は草の花のようなものです。どんなに盛んに咲き誇っても、やがて老いて死んでいくのです。これが自然現象です。固定的、実体的な肉体があると考えるのは、よほどおかしいのです。
ヨハネは次のように言っています。「天から下ってきた者、すなわち、人の子の他には誰も天に上った者はいない」(ヨハネによる福音書3・13)。この日本語訳は非常に不完全です。英文には、天にまで上ったものはないと一番先に書いています。「天にまで上った者はない。それは天から下ってきた彼だけだ。それは人の子である。彼は天にいる」と書いています。
イエスは天にいるのです。彼が天から下ったように見えるということが、実は天なのです。イエスが天から下ったように見えるが、言が肉になっただけです。言が肉になったというようにヨハネは考えた。そのことが実は天なのです。
皆様が人間としてこの世に生まれたというその事がらを、イエスにおいて見て下さい。イエスが天から下ってなお天にいたように、皆様が水と霊のバプテスマを受けるとどうなるかと言いますと、皆様も天から下ったが、今こうして生きていることが天にいることになるのです。
イエスがニコデモと話をしています。ニコデモと話をしていることが天です。
「お前は新しく生まれなければならない」。お前というのは地のことです。「お前は新に生まれなければいけない」と言っている。イエスは天にいるのです。話をしているイエスは天にいるのです。
天と地は目の前に二つあるのです。一体、人性とはどういうものか。人という性は何かと言いますと、人「である」ことです。性とは「である」と読んだらいいのです。人「である」ことが人性です。
人「である」とはどういうことなのか。これは天から下った者、天を知っている者、そうして、今天にいる者を指すのです。天に上った者、天から下った者、そして、今なお天にいる者が人です。
人間は天から下った者ですし、また、天に上った者です。そして、天にいるのです。天から下ったということが、また、天に上ったことになるのです。
イエスが天から下ったことが、天にいることです。大体、人間存在というものはこういうものです。これが人性です。このことを霊から生まれた者は霊であると言っているのです。肉なる者は実は初めからいないのです。いると思っているのは、悪魔だけです。
悪魔は自分の見解を絶対だと考えています。そのくせ、神がいることを認めているのです。認めていながら、自分の見解は絶対であると考えているのです。
これがおかしいのです。神を認めないのなら分かりますが、神を認めていながら、神の他に自分という絶対がありうると考えている。これが二律背反が発生する原因です。
一つの絶対を認めていながら、もう一つの絶対を認めているのです。皆様はいかがでしょうか。悪魔の真似をしないで頂きたい。一つの絶対を認めたら、それが絶対です。絶対は一つの言葉に対してのみ用いられるものです。
絶対という言葉を使いながら、もう一つの絶対を自分の腹の中に持っているとすれば、それはもはや絶対ではないのです。自分を欺いているのです。自分で自分を裏切っているのです。一つの絶対を認めながら、なお自分自身を絶対であると思おうとすることが、いかに不合理であり、不純であるか。これをよく考えなければ、神を信じるとはどういうことなのかが分からないのです。
ニコデモはイエスと話していたのですが、ニコデモが持っていた人間的な性格は、肉の人間の人間的な性格であって、これは人格ではないのです。本来的に存在する人格ではないのです。
そこで、「新に生まれよ」とイエスに言われても、「また、母の胎内に入って生まれ直すのですか」と愚かなことを言っているのです。そういうことを言っているニコデモという人物の心理状態、または存在価値は、人格としての存在価値ではなくて、性格としての存在価値です。
ニコデモは本当の意味での人格を感じていなかったのです。人間の俗念、常識、人間の思いを自分の思いだと考えていた。擬装された人格、悪魔によって焼き直された人格を、ニコデモは自身の人格であるかのように考え違いをしていたのです。
イエスは神からの人格、神からの人性をそのまま直感していたのです。神の信仰に基づく人性によってイエスは発言しているのです。
天から下った人の子というのは、本当の人性を指しているのです。人が人であることを指しているのです。
イエスは天から下った人の子としてものを言っているのです。ところが、ニコデモはそうではない。この世に生きている性格でものを言っているのです。人格で言っていないのです。
悪魔の人格性は彼が勝手に捏ね上げて創造した、いわゆる偽りの創造によって生まれた人間性です。人間はこの人格性を自らの人格としているのです。これは人格というべきものではなくて、性格というべきものです。
人格は永遠に不滅のものです。神のパーソナリティーは永遠に不滅のものです。人間の魂は神のパーソナリティーから派出したものであって、神の人格から分かれて、この世に下った者です。天から下ったものです。
人間もイエスと同じような意味で、天から下ったけれどもなお天にいるのです。そういう自覚において考えるのです。つまり、水から生まれた者は水であるということを自覚するのです。肉の人間から離脱して、肉の思いではない人間、霊の思いとしての自分を確認するのです。
水である自分というのは、霊である自分です。霊的に自分自身の肉体存在を見れば、水であることが簡単に分かるはずです。霊的な角度から霊の思いで肉体的存在を見ますと、自分が水であることはそんなに難しいことではありません。
自分が水であるという事実に基づいて、事実を実感して生きればいいのです。自分は水であると思って生きても、商売はできます。ご飯も食べられるのです。水だから食べられなくなると思う必要はありません。
人間の肉体だけでなく、物質という物質はすべて水です。万物は水から出て、水によって成り立っていると言われているように、物質というものがあるのではない。すべて水素原子の活動があるだけです。
神の霊が水の表を覆っていた。神の御霊によって覆われていた水の表が、現在、物理現象、物体現象として現われているだけです。
これは宇宙の天体現象、物理現象の最も単純な原理です。これを信じることがなぜ恥ずかしいのでしょうか。これを信じることがなぜ不合理なのでしょうか。信じない方がよほど不合理です。
目に見える地球という物理現象は、宇宙のエッセンスが集まっている所です。地球は生き物であるという意味は、水のエッセンスを地球に濃縮してできているということです。
水の集まりの状態によって磁場ができたり、電場ができたりしているのです。電離層とかバレアレン帯は、水の集まりによってできたのです。これが全能の神のやり方であって、水の集まり現象が物理状態となって現われているのです。水がどのように集まっているかというだけのことです。
神が大空の上の水と下の水とを分けられた。これが地球創造の第一歩です。光と闇が分けられた。これが地球創造の第一過程です。これが今、森羅万象として私たちに現われている。これは神の色々な知恵を知るために、私たちの魂を教育するために現われているのです。
今私たちが現実にいる所は天です。間違いなく天です。こういうことが言えるのは、すべての肉に神の霊が注がれているからです。従って、神の霊からすべてを見ることができるのです。
霊の角度から肉を見ることができるということは、現在私たちが天にいることになるのです。天にいるから天的な見方ができるのです。
こういうことを聞いて理解できるということは、天にいるからです。天にいなければ、私の話が分かるはずがないのです。
皆様は地にいる自分、人間の自分を自分とするという執念深いど根性に捉われすぎているのであって、もっと明解に、率直に、単純に、自分自身の心理作用をよく考えてみて下さい。
皆様は現在、イエスと同じように天から下って、天を知っていますし、また、現在天にいるのです。新約時代というのは、そういうことを自覚できる人間ばかりがいる時代であるはずです。
イエス紀元において、こういうことが理解できて当たり前です。理解できない者は、あえて自分の心理状態に基づいて、神に逆らっているのです。
水によりて万物が造られていることの原理については、誰でも理解できるのです。理解できることに基づいて、なぜ生活しようとしないのか。なぜ二足の草鞋を履こうとするのか。性格である自分をなぜ信じるのか。性格と人格となぜ二足の草鞋を履こうとするのかと言いたいのです。
皆様の心理構造は人格です。神からの人格です。神からの人格によって生きていながら、悪魔の人格によって生活しようと考えるのです。
生きている原理と生活している原理が、二重になっているのです。なぜこれを一重にしようとしないのでしょうか。
幼児はこういうことをしていません。人格と性格と二足の草鞋を履こうとしません。大人は草鞋を履いて、その上に長靴を履こうとするのです。いくらブーツが流行っていると言っても、短靴の上にブーツを履くというのは格好が悪いのです。
なぜこういうことをするのでしょうか。どうぞ生活原理を単純にして下さい。
女性が本当に幸いになろうとしたら、愛すべき男性を愛するしかないのです。女性の性とは女であることです。人であることが人性ですから、女であるその魂が幸いになろうと思えば、愛するべき男性を愛するしかないのです。愛するというのは、すべてを与えることです。すべてを与えることなしに愛することはできません。従って、女性がウーマンリブを徹底的に主張するとすれば、女性は絶対に本当の幸福を味わうことができないのです。
男性にすべてを与えてしまうと、男性のすべてを自分がもらえるのです。まず与えるのです。女は男のために造られたのであって、女の体は男のために造られた体です。男に提供するために造られている肉体を、女は持っているのです。それを男に提供すれば、男は自分自身を女に提供せざるを得ないのです。
これは簡単なことです。女性は男性によらなければ、女性になりえないのです。女性としての自分を完成することができないのです。これが人性の秘密です。
人性は神から出たものであって、神性のために造られたものです。人の子というのは神のために造られたのであって、父なる神から出たものです。父なる神のために造られたのです。父なる神によって自らを完成すべきものです。
女性が自分を完成すべきことと、人性が自分を完成するということとは同じことです。女性は愛する男性の人生観、価値観、世界観を十分に理解して、その男性の価値観や世界観に同調するのです。同調のしかたが完全であればあるほど、その男性に愛されるのです。
半分だけ同調すれば、半分だけ愛してもらえるのです。八分どおり同調すれば、八分どおり愛してもらえるのです。百%同調すれば百%愛してもらえるのです。こういう心理状態を惚れるというのです。惚れることなしに、男性に惚れてもらえません。女は男のために造られたのであって、このように考えることが適性平等です。その人の性に適する平等です。
これがその人のあり方に適する平等観でありまして、女はまず男に惚れることです。そうして、男に惚れてもらうことです。惚れるという意識で二つのものが一つになれば、愛する人の思想が自分の理想になるはずです。愛する人の存在が自分自身の根源になるはずです。
人間もそうすればいいのです。人間は神のために造られたのですから、神の理想を自分自身の理想にすればいいのです。神の命を自分の命にすればいいのです。神の信仰を自分の信仰にすればいいのです。
神の判断どおりに自分を判断すればいいのです。そうすれば、無限の平和と無限の喜びが毎日涌き出るのです。イエスはこれを経験していました。私は天から下ってきた。そして、今天にいると言っているのです。
人間は自分が願う願わないに係わらず、好むと好まないとに係わらず、新しく生まれなければならないのです。私たちはそのために地上に遣わされたのです。新に生まれることを経験するために、地上に遣わされたのです。
古い自分は死んでしまうに決まっているのです。死んでしまうことを承知していながら、なお自分の性格に馴染んでいなければならないと、なぜ思うのでしょうか。
自分で自分の個性に馴染みたくないでしょう。馴染んでいるつもりもないでしょう。しかし、神を信じてはいない。イエスと同じ考えに立つのでなかったらいけない。イエスを主として信じるのでなかったらだめです。
イエスを主として信じるなら、その人の考え方はイエスと同じような考えになるはずです。ところが、やはり自分の個性、自分の立場を考えようとしている。これはある女性がある男性を愛しながら、なお自分自身の立場にしがみついているのと同じです。
それは男性を愛しているのでも何でもない。自分の都合によって愛しているような格好をしているだけです。神はそういう偽善的な愛を求めているのではありません。愛しているような素振りを見せても、それが誠の愛ではないことが、ばれるに決まっているのです。
皆様は神の愚かさに同調すべきです。人間の賢さを捨てて、神の愚かさに同調すべきです。人間の賢さは悪魔の賢さです。悪魔の賢さを捨てて、神の愚かさに同調するのです。
神の愚かさとは何か。皆様の心臓が動いている状態が神の愚かさです。地球が自転公転していることが、神の悠々閑々たる愚かさを示しているのです。それに皆様が同調すれば、無限の信仰が与えられるのです。無限の可能力が与えられるのです。
無限の可能力がなければ、イスラエルに伝道はできません。「この山に移りて海に入れ」と言えば(マルコによる福音書11・23)、その言葉のようになるというのがイエスの考え方です。この考え方に同調するのでなかったら、山は動きません。
イスラエルの不信仰は巨大な山です。この山を動かそうと思えば、神の大能と一つになるしか方法はありません。もし私たちがイエスの信仰に同調できなければ、イスラエルに伝道はできないでしょう。もちろん私たち自身の救いもなくなるのです。
これは私たちが望むと望まないという問題ではありません。好むと好まざるに係わりがない。私たちがしなければならない責任であると考えて頂きたいのです。
神は十字架によって、肉体的に存在する人間を否認しました。はっきり肉体存在の人間を否定したのです。私たちは神の御心に従って、水のバプテスマを受けました。そうして今や、自分の肉体が水に同化していることを信じています。このとおり実行すればいいのです。
ちょっと実行しにくい気持ちがあっても、ちょっと実行しにくい感情があっても、そんな気持ちや感情にいちいち義理立てする必要はありません。黙って実行したらいいのです。神に従ったらいいのです。信じることは従うことです。黙って従ったら、必ず御霊の助けを与えられるに決まっているのです。
この地球に聖霊が降臨しておられるのです。こんな混濁しているめちゃくちゃな地球に、聖霊が降臨しておられるとすれば、皆様がちょっと真面目に神の方に目を注ごうという誠意があれば、神の御霊はただちに皆様を助けて下さるに決まっているのです。
皆様は自分でしなければならないと考える必要はありません。ユダヤ人に伝道しなければならないと考える必要はありません。ただ自分を神に渡せばいいのです。そうしたら、御霊が伝道の原動力になって下さるのです。
ただ自分を神に渡せばいいのです。「父よ、わが霊を汝にゆだねる」でいいのです(ルカによる福音書23・46)。そうしたら、皆様は死ななくなるのです。死ぬことも、苦しむことも、悲しむこともなくなるのです。
なぜ死ぬことや、苦しむことの方に自分自身を置いておくのでしょうか。ちょっと分かりにくいとか、気にかかるとか、つまらない自分の気持ち、感情に、なぜこだわるのでしょうか。
皆様は神に選ばれて、天の召しを受けた聖なる魂です。なぜ自分の生活や自分の魂を自分が弁護したり、自分が責任を持たなければいけないと考えるのでしょうか。
現在、導かれている事情、境遇に、無条件で自分を渡すことです。自分の商売も、自分の経済も、自分の健康も、神に渡すのです。自分を神の前に出してしまえばいいのです。そうすると、自分の立場がなくなるのではない。自分の立場が完成されるのです。自分の願いが完成されるのです。
問題は皆様が悪魔から植えられている性格にこだわっていることです。自分の立場があるような気がするのです。利害得失があるような気がするのです。そんなものはないのです。性格にこだわっていることがいけないのです。
悪魔が造ったありもしない影法師のような性格にこだわっていることがいけない。自分の気持ちにこだわっているのです。その気持ちを捨てればいいのです。捨てるというよりも、神に委ねればいいのです。お金を銀行に預けるように、神という銀行に性格を預けたらいいのです。そうしたら、固有名詞という人間が変化して、人の子としての人格が与えられるのです。
さらに、宇宙構造の秘密についてお話ししておきます。これはイエスなら天のことと言うでしょう。今までお話ししたことは、現世に生きている人間の状態について述べたのですが、これからは人性とは何かをお話ししたいと思います。これは天のことです。
宇宙には三つの人格性があります。第一に、神性です。神が神であることが第一の人格性です。
神が神であることが、自ずから三位一体として分かれるのです。父と御子、御霊として分かれるのです。これは神性の特徴です。異邦人の神には三位一体の神は全くいません。宇宙本来の人格のもっとも完全な現われとして、三位一体の神がいるのです。これが父、御子、御霊です。
これにかたどって、その形のように造られた人格性があります。第二の人格性、人性です。これが男と女に分けられているのです。神が父、御子、御霊と分けられているように、人格が男と女に分けられているのです。
第三の人格性が天使です。天使長というランクは、天使というランクとは違った、もう一つ上級のランクです。これは人性と非常によく似ているのです。
将来、人性が天使長のランクを兼ねると思われるのです。この人はキリストと共に神の相続人になるのです。人性が天使長の人格を持たされて、その能力を付与される。これがキリストと共に神の相続人になるのです。神の相続人となった人格が、天使を治めるのです。
天使とは一体何か。これが森羅万象です。森羅万象の基礎原理は人格です。物ではありません。物が物である原理は何か。物は人格性を持っている。これが物として現われるのです。
石には石という人格性があります。花には花としての人格性があるのです。そのような人格性がおのずからある姿になって、この世に現われているのです。
天使の場合は、人格性が天使性となって現われているのです。天使性というのは千々万々の物性です。これを治めるために人性があるのです。また、人性の根拠として神性があるのです。
神と人と物が宇宙構造の全体的な展望です。これに人格が貫いているのです。すべてのものの上にいます父なる神というのは、すべてのものの上にいます神です。すべてのものを貫いて、すべてのものの内にいますというのは、万物を貫いて人格が働いているということです。
三次元の時代において最も大きいテーマは何であるかと言いますと、人性が持つべきテーマです。これが一番大きい問題でありまして、人性というのは上は神に連なっていますし、下は天使に連なっているのです。
霊的な魂の本性で考えますと、人性は神に属するものです。肉体的に存在するという形態から考えますと、物に連なる物です。霊的に神に連なっている面と、物に連なっている面と、二つの面があるのです。
そこで、霊と物との仲立ちとなって、全体を治めなければならない責任を人性は与えられているのです。
イエスが神と人との仲立ちになったように、キリストとその教会が神と人との仲立ちになって、万物を統括するという責任と使命を与えられているのです。
この三次元の時代においては、人性の秘密を悟って、自らを神の御心に従って完成するということが、最高、最大のテーマになるのです。
皆様は今や、この最大のテーマの立役者として神に立てられようとしているのですが、このような神の計画を知ってもなお、自分自身の性格から逃れることができないとすれば、その人はもはや地獄へ行くしかないことになるのです。
ただ自分の性格を捨てるだけでいいのです。「父よ、わが霊を汝にゆだねる」と言うだけのことです。自分の理屈を言う必要はない。自分の性格を自分で持っている必要はないのです。自分の個性を自分で握り込んでいる必要はないのです。
皆様は神と万物との仲立ちになって、キリストと共に神の相続人になるのです。もしそうしたいのなら、そのように生きたらいいのです。
自分で自分の思惑を気兼ねする必要はありません。自分の思惑は皆悪魔の思惑です。そんなものに右顧左眄する必要がないのです。
本当に自分を神に委ねる決心さえすれば、直ぐに御霊の助けがあります。自分の性格を神に委ねることは簡単にできないと言わないで、まず神に委ねてみて下さい。そうすると、できることが分かるでしょう。御霊が助けて下さるからです。
そのために、助け主なる御霊が降臨しておられるのです。助け主なる御霊がいますから、その方に助けて頂いたらいいのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)