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すべての人を照らす誠の光が世に来た


聖書に、「すべての人を照らす誠の光があって、世に来た」とあります(ヨハネによる福音書1・9)。これはイエスが肉体をとって、この地上に遣わされたことを指すのですが、イエスが肉体をとって地上に遣わされたということが、本質的に宗教ではないのです。

もし宗教であるなら、そのように具体的な実例で語られないで、教義的なもの、お筆先とか、ユニークな話で始まるのです。

世界中の宗教は何かの形で、誰かが神がかり的な霊感を受けたとか、神がかり的な独創的な教義を述べたり、奇跡をおこして人間が癒されたということが起源になっているのです。

イエスの場合でも、病人を癒やしたり、死人を甦らせたり、生まれつきの盲人の目を開いたりしています。日本の宗派神道に似たような奇跡とか、神秘主義的に感じられるようなものがなかったとは言えません。

人間的な感覚で見ますと、新約聖書でも他の宗教と同じような摩訶不思議なものがあるように考えられるのです。マホメットもイエスも、大して変わらないのではないかというように見られないこともないのです。旧約聖書を十分にマスターしていない人には、そのように思えるのです。

旧約聖書の根幹、例えば、モーセという人物、歴代の預言者、これらの人々に先立つアブラハムの信仰を詳しく見ていきますと、イエスが現われたことは預言に従って現われたのであって、忽然と現われたのではないのです。

マホメットが忽然と現われて、神の僕であるという啓示を受けたのとは、全然違うのです。もちろん、日本の宗派神道のような神がかりの啓示とも違います。

イエスの場合、奇跡も行いましたし、神がかり的なこともありますが、旧約聖書の預言の内容を精密に検討していきますと、イエスは現われるべくして現われたのです。

神の計画に従って現われた。イエスの言葉を借りて言いますと、「父が私を遣わした」ということになるのです。

万物の本源である神の言が、肉体をとって、もろもろの人を照らす誠の光として現われたのです。

イエスが来たのは、ヨハネが言っていますように、もろもろの人を照らす誠の光があって世に来たという意味です。

もろもろの人を照らすというのは、もろもろの人間存在を照らすための誠の人間存在がやってきたという意味です。すべての人間存在を照らすというのは、人間存在の内容的実質を象徴するとか、それを実体的に証明するという意味です。

人間存在の客体的なあり方を、具体的に照射する、証明するのです。内容を分解して説明することを、すべての人を照らすと言っているのです。

すべての人間存在の内容をそのまま具体的に演繹して証明する。そういう特殊な人間存在が地上に現われたのです。

すべての人は原罪の虜になっている。錯覚の縄に縛り上げられて。身動きができない状態になっているのです。

原罪は徹底的な錯覚です。仏教的にいうと無明煩悩です。無明煩悩に縛り上げられて、変質させられるのが人間です。

これが主観的存在、主体的存在の人間です。これは全く人間と言えるものではない。罪人です。罪人は意識が全く現象感覚で縛られている。本人自身では自分の実体が分からないのです。

自分自身の存在が本質的にどういうものであるのか、説明ができない。無明煩悩に閉じ込められているのが人間です。

原罪の縄目に縛られて、錯覚の内に閉じ込められている人間は、自分自身で悟ることができないのです。自分自身で本当のことを悟ることができないのです。

もし人間が本当のことを悟ることができるなら、神はイエスを遣わす必要がなかったのです。もし本当のことが悟れて、自ら真理を究明する能力があれば、それはもはや原罪の虜と言えないのです。原罪というのは、人間の魂が霊的に死んでしまっている状態です。

善悪を知る木から取って食べたら必ず死ぬと言った神の言葉が、文字通り成就したのです。そこで、アダムとエバは現象に対して目が開かれた。現象が実体と考えるようになったのです。

現象が実体であると考えることになったことが原罪の本質ですから、このような状態になった場合には、悟ることができないのです。本当の悟りは不可能です。

釈尊の悟りがどれだけ真理性を持っているかについても、根本的な意味での疑問が提出されなければならないのです。

確かに、人空、法空ということは事実です。聖書的に考えても、現象は実体ではありません。現象は実体ではないということが分かっただけで、絶対真理が究明されたと早合点しているのが仏教思想の軽率な判断なのです。

私は釈尊の悟りを批判しているのではありません。人間の本質が罪人であるということを厳密に受け取るとすれば、人間の感覚が既に麻痺しているのです。人間の思考状態が原罪によって死なしめられているのです。

従って、死なしめられている感覚に基づいて悟りを開いたとしても、それは罪人の悟りであって、本当の意味での人間の悟りであるとは言い難いことになるのです。

仏教のすばらしい解脱の世界、異邦人が考える偉大な悟りの世界は、神的な意味での真実であるとは言えないのです。

真理の御霊によって、もろもろの真理が私たちに解き明かされるという意味での保証は、仏教にはありません。絶対真理であると断定できる客観的な保証は仏典のどこにもないのです。

釈尊の悟りが、東洋人がイエスを知る前提条件としてのすばらしいセンスを持ったものであることはよく分かります。だからと言って、釈尊の悟りに絶対真理と言えるような正確さ、偉大さがそのまま存在しているかというと、答えを躊躇せざるを得ないのです。

無明煩悩である人間が悟りを開いたとしても、それは無明煩悩の悟りです。無明煩悩の悟りが絶対正確な本当の悟りであると言えるかどうか。これに対して重大な疑問符をつけなければならないことになるのです。

その証拠に、仏教全体から考えて、死が破られたという事実はありません。人間の最大の敵は死です。人間の唯一の敵、本当の敵は死ぬことです。

死を破ることなしに、本当の救いはありえません。救いを考えたとしても、なお人間が死んでいくというそのことだけで、それは一つの教えでしかないということになってしまうのです。

悟りでも信心でも、結局人間が人間を考えるための教えです。無明人間が無明人間を教えるための一つの論理方式であると考えなければならないことになるのです。

釈尊の悟りは偉大ですが、真理の御霊が真理を悟らしめて下さるような意味での偉大さを持っている訳ではないのです。

イエスは肉体を持って、普通の人間と同じ五官を持って、この世にやってきた。そうして、父なる神の一人子であるということを、自分自身が証明したのです。

イエスが父なる神の一人子であるということ、本当に一人子であるとはどういうことか。なぜイエスだけが一人子でありうるのか。この判断がなかなか難しいのです。

ユダヤ人と異邦人を含めて全世界の人間は、一人残らず原罪人間です。一人残らず肉性人間です。無明煩悩に満ちた人間です。

こういう人間が本当にイエスを信じることは不可能です。絶対に不可能です。これは自分が自分でないことを信じることになりますから、絶対に不可能です。

イエスを信じることによって、人間の本性を悟るとすれば、罪人である自分ではない自分が浮かび上がってくるはずです。原罪によって魂が死んでいる状態ではない、別の人間が自分であることが分かってくるはずです。自分が自分であることを認めている状態では、イエスを認めることができるはずがないのです。

ある人が言いました。「私はイエス・キリストを信じることができるのでしょうか」。そのとおりです。普通の人間がイエス・キリストを信じることはできないのです。絶対にできるはずがないのです。

ところが、キリスト教ではできると簡単に考えています。そんなことはできるはずがない。ここに宗教のいんちき性があるのです。

自分が自分でなくなって、自分が別の人間だという結論を自分自身が納得して受け止めるということは、自分という人格においてできることでしょうか。

イエスを信じることができる人格はどんな人格かと言いますと、真理の御霊によって導かれているモラルによって初めて可能になるのです。

天から下った真理の御霊、イエスがキリストとして第三の天に上げられた。上げられたキリストによって、この地上に下りたもうた真理の御霊の感動によって導かれているモラルでなかったら、イエス・キリストを信じることができるはずがないのです。

ところが、一般のキリスト教は真理の御霊を本当に受け取っていないのです。イエスによって言われた信仰の三原則、イエスの弟子となる三原則を実行していないのです。

イエスは「自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」と言っています。この三原則をキリスト教の人々は厳密に実行していないのです。こういう者が、真理の御霊を受け取れるはずがないのです。真理の御霊を受けていない者が、イエスを信じることができるはずがないのです。そこで、キリスト教は間違っていると言わなければならないのです。

新教であろうが旧教であろうが、何宗にかかわらず宗教を標榜している者は、真理の御霊を標榜していません。

宗教はどこまでも人間のために人間が造った、人間の教えです。ところが、福音はそうではない。福音は神のために、神の御霊によるところの、神の御霊の教えです。これが真理です。これが純粋な福音です。

そこで、私たちはそれによって神の子を自覚するのです。これは人間が救われるのではなくて、私たち自身の本質が救われるということです。人間存在ではなくて、人間存在の本質である魂が救われるのです。

人間存在と人間存在の本質とは違います。人間存在は自分が主観的に意識している主体的な人間です。人間の立場からの主体的存在である人間が救われるのではないのです。

人間存在の主体的人間は罪人です。罪人は死ぬに決まっている人間、すでに死んでいる人間です。これが救われるはずはありません。

御霊を受けることによって、別の人格として新に造られるのです。御霊の導きと神の言葉によって、新に造られるのです。とこしえに保つ生ける神の言葉によって新に生まれることを、ペテロが言っているのです(ペテロの第一の手紙1・23)。真理の言葉によって新に生まれるのです。新に造られるのです。これが救われた人間です。

御霊と聖書の言葉によって新に造られるのです。「義と聖とによって新に造られた」とパウロが言っている新しい人です(エペソ人への手紙4・22~24)。

罪人である自分がちょっと変成されたものではありません。罪人である自分が変革されて、次元的に高くなったというものではありません。神の御霊によって新しい人間存在としての目が開かれた。心の目が開かれて、神を見ることができた。そうして、自分の本質がイエスであることが分かるのです。

イエスは生ける神が肉体を持ってやってきた。イエスは大いなる言葉とか奇跡によって、人間を導こうとしたのではない。生きていることを通して、人間にその本質を悟らせようとしたのです。

もろもろの人を照らす誠の光というのは、そういう意味です。自分が生きているというその事がらをそのまま光として、人間存在の実体を照らすという意味です。

人間存在は何かと言いますと、今肉体を持って、五官を与えられて生きていることです。目で見たり、耳で聞いたりして生きています。これが客観的な人間存在です。

ところが、現在の人間の主観意識というものは、客観的な人間存在というものの本質的な意味と価値を知らないのです。

人間の五官を肉体的な感覚で用いるものだと思っています。肉の思い(人間の常識)で見ている。肉の思いで聞いている。それで良いと思っているのです。人間に五官があるのは当たり前で、自分の気持ち、考え、自分の都合でそれを用いればいいと思っている。

ところが、五官は本来、与えられている本質から考えて、全く違ったものになるのです。アダムは現象に対して目が開かれて、現象を実体だと考えた。これがエデンの園における陥罪の結果です。

現象を実体だと考えた人間が、その気持ちによって見たり聞いたりしている。これは全部罪人が見たり聞いたりしているのです。罪人が五官を用いていることになる。その感覚は皆間違っているのです。

そこで、聖書は言っています。

「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。

見るには見るが、決して認めない。

この民の心は鈍くなり、

その耳は閉じている。

それは、彼らが目で見ず、

耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて、

癒やされることがないためである」(使徒行伝28・27)。

見ることは見るけれども認めることはしない。これはどういう訳か。認めるというのは、目が働いている状態を正しく用いて、正しく認めることを意味するのです。ところが、人間は見るという機能は与えられていますけれど、それを正しく用いることができません。それは自分の見方が正しいと思っているからです。

自分の見方が正しいと思っているから、それを正しく用いていると思っている。人間に五官が与えられたのは、物質的現象をそのまま見るために与えられたのではありません。物質的現象が存在するその本質、その意味を見破るために、五官が与えられたのです。

ところが、人間はそれをしていない。肉の思いで人間の魂が動かされているから、そうなるのです。ところが、人間はそれを知りません。

イエスが来たのは、五官の用い方、生理機能、心理機能の用い方を正しく教えるためです。イエスは自分に与えられている五官を、正確に、正当に用いたのです。そこで、神の国が見えたのです。父なる神ご自身の御心がありありと見えたのです。

イエスは自分自身の生活において、父と交わりつつ生きていたのでありまして、その状態を人々に見せたのです。そうして、「お前たちも五官を正当に用いれば、とこしえの命がはっきり分かる。だから、私を信じる者は死なない。死を破ることができる」と言ったのです。

人間が救われるということは、五官が救われることです。これが魂の救いです。五官が救われなければならないのです。

目が何を見ているのか。手は何を触っているのか。それが分からなければ救いにはならないのです。

実は私たちが生かされているという事がらによって、神と対面しているのです。神と交わっているのです。現実に生きているという事がらを通して、神と交わっているのです。

真理による誠の救いというのはそういうものであって、人間の生理機能、心理機能、五官が全部救われるのです。見ている目、聞いている耳が、そのまま救われるのです。これが本当の救いであって、これは宗教ではありません。

宗教ではないということは、人間存在そのものが、そのままイエスと同じものにされてしまうということです。これは教えでもないし、教義でもない、事実です。

イエスが「あなたの目が正しければ、全身も明るいだろう」と言っています(マタイによる福音書6・22)。目の使い方が正しいなら、生まれてくる前の目のあり方、現世を去った後の目のあり方が、すべて分かると言っているのです。

「もしあなたの内の光が暗ければ、その暗さはどんなであろう」と言っています(同6・7)。内の光とは未生以前の心です。これが暗ければ永遠に暗いのです。ところが、これが目を覚ますのです。そうして、真理を見ることができる。そうすると、現世を去った後まで明るくなるのです。これが救いです。唯一の救いです。

もろもろの人を照らす光があって、世に来た。これは本当の光です。教えではないし、論理でもない。私たちが生きているということが救われるのです。

そうして、神の子としての実感を本当に持つことができるのです。今、ここに、こうして生きている瞬間において、神を経験しているということが分かるのです。

現在、生かされているという事がらがあります。生かされているという事がらは空ではありません。事実です。肉の人間が空であっても、生かされているという実体は空ではないのです。これがそのまま生ける神の子であるという実感に到達することができるのです。そうして、神が共にいますということを実感することができるのです。

現在生きているということ、見たり聞いたり、手で触ったり、飲んだりしていることが、そのまま神であるということを教えられるのです。私たちは神を経験しているのです。

神を経験していることが、神と交わっていることなのです。今、ここに、こうしている現前が救いです。現前の他に何もないのです。

例えば、私の心臓が止まるとしますと、その現前が神です。私の魂が肉体から出ていくことがあるとしますと、これが神です。

私の肉体と魂が分離されて、魂が天に帰るとします。現世から魂が去っていくということが神です。

神が現前そのものです。現前そのものが神ですから、その人は神の子になります。現前の子ですから、神の子です。これが救われた人間の魂の状態です。そこで、死が消えてしまうのです。

現前が神であるとすれば、死は何処にあるのでしょうか。心臓が止まったら、止まったという現前があるのです。自分の魂が肉体を去っていけば、魂がこの世を去るということが神です。この世を去っていくことが信仰です。信仰によって、この世を去っていくのです。

イエスは、「命を捨てる権あり、また、得る権あり」と言っています。こういう明々白々な実感において、イエスを見るのです。

イエスは私たちの実質そのものです。未生以前の人間の実質がそのままイエスであることを信じれば、すべての人が行き着かなければならない救いとして、確認できるのです。

人間は具体的に救いに辿り着くか、あるいは地獄の裁きに辿り着くか。これ以外にはないのです。救いか裁きかどちらかです。

宗教観念はいくら学んでも、三文の価値もありません。肉体を持っている人間に対する救い主として、肉体を持っている人間を遣わしたのです。肉体に対しては、肉体をというやり方を神がした。これはある意味では目には目を、歯には歯をと言えるかもしれません。

肉体人間に肉体人間の救いを与えたのです。そこで、イエスとしてきた誠の光の他に、救いはないのです。生の人間に対しては、生の救いを与えたという事実は、イエスの他にはありません。

マホメットでも、釈尊でも、肉体を持っていたが、神が共にいるという事実を証明することができなかったのです。神と交わっているという実体を、現世でははっきり証することができなかった。だから、マホメットも釈尊も、いやはての敵である死を破ることができなかったのです。

イエスは生きているという事実を通して、死を破ったのです。死を破ってみせたのです。これが十字架の贖いの本当の意味です。

人間が生かされていることが救われなければ、人間には救いはありません。魂が肉体において生きている。未生の人格が五官において、今神を経験させられているということ、これが救われるのです。

ギリシア語のプシュケーという言葉は、現世に生きている人間の命を指しますし、魂そのものを指している。また、精神とも訳せる言葉です。現世に生きていることが、そのまま魂になるのです。

神において客観的に生かされているということは、事実です。この事実を主観的に確認した時に、人間は死を破ることができるのです。死を乗り越えることができる。これ以外に、死に勝つ方法はありません。

イエスはこの事を私たちに教えてくれました。たった一つの誠の光として、私たちにそのことを教えてくれました。肉の思いで生きている人間は、死ぬために生きているようなものです。

人間は死ぬために生きているのではありません。生きるために生きているのです。命の望みを果たすために生きているのです。

そのためには、肉の思いを脱ぎ捨てて、霊に従いて歩むことが実践されなければならないのです。霊に従って歩むということは、物事の本質、本体、実質に従って歩むことです。

霊に従いて見ること、霊に従いて聞くこと、霊に従いて味わうことです。すべてが霊においてなされる時に、五官が救われるのです。五官が救われる時に五官によって生きている魂が救われることになるのです。これが具体的な救いです。宗教ではない救いです。

イエスはその生き方を私たちの目の前で、実践してくれたのです。そこで、キリストとされたのです。

このイエスは私たちが今生きている、また、生かされていることの本質を意味するのです。神が共にいますこと、神が救いであることがイエスの御名(実体)ですが、それがすべての人の本質であること教えてくれたのです。

私たちは未生以前の父の人格をそのまま与えられて、遣わされたのです。父の機能をそのまま与えられて、現世に遣わされたのです。

私たちはイエスと同じ条件で遣わされたのです。ですから、私たちは自分の実質がイエスの名そのものであることを知る時に、私たちの実質であるイエスの名が、私たちのキリストになる訳です。

私たちの内にあるイエスの名が、私たちの救いになり、キリストになるのです。イエスがキリストであるというのは、そのことなのです。私たち自身の実質が、私たち自身の救いである。これがイエスがキリストであるということです。

「イエスがキリストであることを信じる者は、神から生まれたのである」と、ヨハネの第一の手紙の第五章の一節に記されていますが、自分自身の実質が自分自身にとつての救い主であることが分かる時に、私たちは神から生まれた者になるのです。

イエスが神の子であったように、私たち自身もまた、神の子である事に気がつかされるのです。そうして、イエスが水と血と御霊によって生きていたように(ヨハネの第一の手紙5・6)、私たち自身もまた、水と血と御霊によって生かされていることを明確にさせられるのです。

新に生まれること、新に造られることが、神の御霊と神の言葉によって私たちの人生に具体的、実感的な意識となることが、イエス・キリストを信じるということです。

これは宗教ではありません。本当のことです。もしこれが宗教であれば、全世界の人間に救いは全くありません。幸いにして、イエスが自分自身の本質をそのまま生活してみせてくれたことによって、死を破るという歴史的事実を示してくれたのです。

イエスは私の平安を残していくと言いましたが、イエスによって残された平安は、私たち自身の実質として、今現に私たちの中で生きているのです。

この他に救いはありません。人間が客観的に生かされているという事がら、私たちが存在しているということが、そのまま救いであるという事の他に、本当の救いはありません。

これは信じられる救いです。信じなければならない救いです。どうしても信じるべき救いです。この他には真理はないからです。

イエスがキリストであること、そして、今、世界の歴史がイエス紀元として、世界中の人々に守られているということをよく考えて頂きたいのです。

現在の歴史的事実も、社会生活の基礎になるべき歴史的事実も、実はそれがキリストであるのです。社会的事実もキリストですし、人間が生きていることがイエスです。

私たちが今生きているのは、固有名詞に何の関係もありません。霊に従いて生かされているという事実が、今ここに存在するだけです。

このことはいろいろな角度から、いろいろな言葉によって、聖書に書かれています。これは人間の教えではありません。イエスが生きていたという事実が、そのまま記されているのです。論理ではない事実です。

この事実の他に救いはありません。私たちは生きるために生きているのです。死ぬために生きてはならないのです。どうしても、死を乗り越えて生きなければならないのです。

世に勝つ信仰とは何か。イエスを神の子と信じる信仰です。イエスを神の子と信じることは、私自身の実質が神の子であることを信じることなのです。その時に、水と血と御霊の証が、私たちのものになるのです。

異邦人は神の約束に係わりなく、世にありて、キリストなく、望みもなく、ただ死んでいくために生きているのです。現世に生まれて、現世の人生が本物だと思い込んでいる人間が、自分が生かされている実質がイエスの御名であることを受け入れることは、なかなか大変ですが、これ以外の方法で、死から逃れる道はありません。

私たちはこの事実を学ぶために、あらゆる難関を乗り越えて、生活の実感として捉えなければならないのです。

「もろもろの人を照らす誠の光があって、世に来た。世は彼によって成ったのであるが、世は彼を知らなかった」。世という言葉を自分と置き換えて考えたら分かりやすいでしょう。

神の言葉は現実の世にあるのです。森羅万象が生きているという形で、彼が現実にあるのです。現実そのものが彼です。彼は世にあり、世は彼によって成っているのに、世は彼を知らずにいた。

人間がとんでもない盲目にされているという事実が、現世にあるのです。すべての人間は盲目にされていますけれど、生かされているという本質は盲目ではありません。

私たちの目は真実を見ています。ところが、見ていることに対する心の用い方が間違っているために、目が肉を見ているように感じているだけです。

実は目が見ているもの、耳で聞いているものは神の言葉ですが、肉の思いが肉のように受け取っているのです。そこに、死がわだかまっているのです。

私たちの目が何を見ているのか、耳が何を聞いているのか、舌は何を感じているのか、このことさえ正確に把握できるなら、私たちの内にある未生以前の心、いと小さき我を見ることができるのです。これに基づいて、私たちが生きているということを知ることができるのです。

生まれる前に、父に植えられた神の本性、宇宙の本性、神ご自身の本性が、私たちの中に、いと小さき主の兄弟となって、人間自身の本願となって、私たちの内に貫いているのです。

私たちの中に神の光があります。私たちの内にある、いと小さき霊の感性に従って、御霊を受けて神の言葉を学ぶ時に、神の命が自分自身のものになるのです。イエスの御名が私たちの救いの実体になるのです。このことがはっきり実感できるまで勉強して頂きたいと思います。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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