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ちりなればちりに帰るべきなり


聖書に次のようにあります。

「するとどうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者がいたとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。

断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、『あなたが言葉を述べる時は、義とせられ、あなたが裁きを受ける時、勝利を得るため』と書いてあるとおりである」(ローマ人への手紙3・3、4)。

これはユダヤ人の事を書いています。ユダヤ人の不真実によって、神の真実が無になるのかとパウロが問いかけているのです。

皆様は人間である自分を信じている。そして、神が神であることが信じられない状態になっている。ユダヤ人の不真実が神の真実を無にするかという問いかけが、人間自身の不真実が神の真実を無にするかという問いかけと同じになるのです。

ユダヤ人がユダヤ人の思想を信じているように、私たちは私たちのあり方を信じている。だから、信仰が徹底しないのです。

ユダヤ人がユダヤ教を信じている。皆様は人間を信じている。人間から見れば、神が不真実だと思えることが、たくさんあるに決まっているのです。そればかりであると思っているでしょう。

自分が信じられないからと言って、なぜ神が信じられないと思うのでしょうか。自分の気持ちによって神を判断していいかどうかです。

自分の考えに拘らないで頂きたい。自分の考えは多少なりとも僻んでいるに決まっているのです。僻んでいる状態で判断すれば、僻んだ判断になるに決まっているのです。

あらゆる人を偽り者として、神を真実なものとする。これが分からなければ、いくら聖書を信じてもだめです。自分の考えが本当だと思っていたら、いくら信じてもだめです。自分の立場、自分の記憶に何の価値があるのか。火の池へ行くだけの価値しかないのです。

私たちはイスラエルの回復のために祈らなければならない。イスラエルの回復のために祈るというのは、イエスの復活が地球の歴史的事実になって現われること、復活という事実が人間の事実になって現われるためです。

今の地球は人間の罪によって曲げられているのです。魚の味も、お米の味も、空気、水の味も曲げられているのです。今の人間は罪によって曲げられた地球しか知らないのです。

私たちはあらゆる矛盾を乗り越えて、あらゆる人間の間違いを無視して、強引にイスラエルの回復のために祈らなければならないのです。復活という神の事実が地球の事実になるため、神の事実が地球に現われるために祈っているのです。

ユダヤ人のためというだけではありません。付随的にはユダヤ人のためになるに決まっています。国がイスラエルに返されなければ、地球は元のようにならないからです。

国をイスラエルに返すというのは、神の約束が地球に現われることを意味するのです。約束の民が約束の民としてのあり方を持つことが、地球が地球としてのあり方を持つことになるのです。こういう宇宙の大義、地球存在の大義が分からなければ、勝手に火の池へ行くしかないのです。

自分自身の真実ではない考えによって、神を真実でないと判断しているかどうか。自分の気持ちによって、神があるかないかを決めているかどうかです。

パウロが七節で言っています。

「しかし、もし神の真実が私の偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、私はなおも罪人として裁かれるのだろうか」。

私の偽りとは、人間自身が生きていることが偽りの塊です。自分がいるという思いが嘘です。パウロが私の偽りと言っているのは、私がいることが偽りだという意味です。私の偽りによって、神の真実が明らかにされるのです。

人間が偽りでなかったら、神の真実は証明されないのです。もし、人間が本当であったら、神の真実を証明する必要がない。神と人間が一つだからです。

人間が偽りだから、神の真実が証明されなければならないことになるのです。人間と神との逆の状態が理解できなかったら、原罪の世界を見ることができません。私たちがこの世に嘘の状態で生きていても、しょうがないのです。

世間並の合理主義から見れば、私の言うことは極端なことと言われるかもしれません。皆様はどうしても、人間が考えている真実を真実だと考えようとする癖があります。そのために、神の真実を掴まえることができないのです。

皆様が生きているとは何か。何をしているのでしょうか。女性は自分が生きていることの原質、原点に立って、自分の気持ちを当てにしないことです。そうしなければ、女は女になりきれないのです。この考え方が人間の原点になるのです。

女が女であること、女が生きていることに値打ちがあるのであって、自分の意見をあれこれ考えることが間違っているのです。人間もそのとおりです。人間が生きているということだけで値打ちがあるのであって、考え方が問題ではない。考えたら間違いになるのです。

自分のあり方から出なければ、必ず火の池へ行きます。自分が真実であるという気持ちを捨てなければ、神の真実は絶対に分かりません。

人間の真実と神の真実と、二通りの真実があるのですが、どちらをとろうとしているかです。世界中の人間は、ユダヤ人が真実だと是認している考え方に従っているのです。これが文明の状態です。ユダヤ人のあり方、ユダヤ人の指導のあり方を、世界中の人間が認めているのです。

ユダヤ人の嘘が世界中の真実になっているのです。信じたい人は信じたらいいでしょう。神を信じない状態の人間は、自分の思想を信念にしているのですが、それがどんなに頼りないものであるかと言いたいのです。

国会の議会の質疑応答の状態が、人間のあやふやさ、人間のインチキ性がそのまま出ているのです。答える方も質問をする方も、どちらもインチキを承知の上で、理屈を並べているのです。

皆様が常識で考えているのは、それと同じことです。例えば、ある人が自分のあり方のどこが間違っているのかを考えようとします。そう考えることがもう間違っているのです。それを人間は皆知っているのです。自分自身が信用できないことは、誰でも知っているのです。

なぜ信用できないのか。人間が生きているからです。それだけのことです。人間が人間として生きている以上、絶対に信用できません。本人が嘘を言っているつもりはありませんが、人間が生きていることは偽りが生きていることになるのです。自分自身にも確信がないし、また、他人を信じることもできないのです。

どんな本でも本当のことは書いていません。ある程度、本当のことのように思えますが、とことん突っ込んでいきますと分からなくなるのです。これが相対の世界です。相対の世界には、絶対がないのが当たり前です。

自分が生きているということが不真実です。人間が生きていることが真実ではないから、それを引っくり返そうと考える。これは無理なことです。しかし、無理でも、敢えてしなければならない。そのために、人間は理性を与えられているのです。理性は神の言葉を受け止めて判断しているのです。それをすることが、理性の本当のあり方です。

神の言葉を受け取らなければ、人間が生きていることが、皆嘘になってしまうのです。人間が生きていることが嘘ですから、何を考えても皆嘘になってしまうのです。すべての人はそれを知っているのです。自分の言うことが絶対真実ではないことを知っているのです。

真実とは何か。大いなる白い御座(great white throne)のみが真実です(ヨハネの黙示録20・11)。これ以外に宇宙に真実はありません。大いなる白い御座に入ろうとしたら、自分にまといついている嘘から、どうしても抜け出さなければいけないのです。どうしたらこの嘘を脱ぎ捨てられるかを考えなければならないのです。

分かったと思っても、分からないと思っても、自分が生きていることが嘘ですから、分かったと思うことがもう間違っているのです。

世界中の人間が神を信じることができない状態で生きている。大いなる白い御座が分からない状態で生きている。これが分かるためには、自分が消えてしまわなければいけないのです。

自分がいると思うことが嘘です。真実であろうがなかろうが、「いる」ということがほんとうです。これが女です。女が女であるということは、「いる」ということだけです。何を考えて、どうするのかということではありません。女がいるということを男が見て、骨の骨を勉強するのです。自分より優しいからです。優しさを持っていなければ、女がいること自体が無用です。

現世に生きている女を見習えと言っているのではありません。ただ女がいるということだけが、女であることの本質です。それを男は見習わなければならないのです。そのために、女の人はいるのです。一切文句を言ってはいけないのです。文句を言ったら、女が女ではなくなるのです。

人間は神のやり方に対して、理屈を言って反対する権利はありません。神は何をしようと、どう考えようと、神が神であることが神です。人間の方から考えて間違っているように見えても、神です。これを黙って呑むことが人間の真実です。女はその見本です。

ただ女がいるということでも、それが完全というのではない。ただその霊魂がどのように神の言葉を慕っているのかということだけに値打ちがあるのです。神の言葉が正当に分からなくても、神の言葉を慕っているのかいないのか、それで値打ちを見分けていかなければしかたがないのです。

神の言葉を慕っている場合には、本人の現在のあり方が不完全であっても、神の言葉を慕っているというそのことを見て、値打ちが認められることになるのです。

神の言葉を慕っていれば、神の言葉に同化できることになるでしょう。だから、慕っているかどうかによって評価されることになるのです。

現在、完全である人は一人もいません。神の言葉をどのように慕っているのかということです。

男の場合は、神の言葉という意味が非常に分かりにくいのです。分からないとは言えませんが、男には神の言葉を慕うという気持ちがなかなか分からないのです。

女性は現世的な野心をあまり持っていませんから、神の言葉を比較的素朴に受け取りやすいのですが、男はそれがしにくいのです。これを考えれば、女性に学ぶということが分かるはずです。

その意味から言えば、女を指導者にしたらいいのですが、仕事ができないのです。なぜ仕事ができないのかというと、現世に接触する機会が少ないからです。霊的な点から言えば、女を中心にして集会を造ったらいいのですが、集会経営ができないのです。

男には聖書に学ぼう、聖書を慕うという気持ちがありません。自分の気持ちだけで利用しようと考えているのです。

イスラエルの回復というのは、神を助ける仕事です。神を助けようというのが、ユダヤ人のために祈ることになるのです。神を助けようという人が世界には全くいません。自分が救われることだけを考えているからです。

「すべての人を偽りとし、神を真実とせよ」。これができなかったらだめです。自分自身の考えが嘘の塊であることが本当に分からなければ、聖書が信じられるはずがないのです。

ただ大いなる白い御座があるのです。そのほかに何もないのです。「やがて、すべての現象は神の前から逃げ去っていく」と書いています(ヨハネの黙示録21・1)。天地万物の現象は神の前から逃げ去っていくのです。人間は逃げ去っていく方ばかりを掴まえているのです。

神は人間の助けを必要としていません。ユダヤ人の回復は、私たちが祈らなくても成就するのです。なぜなら、第三の天で、キリストが祈っているからです。

「主よ、彼らを許したまえ」というキリストの祈りは、第三の天でなお続けられているのです。私たちはそれをちょっと助けているだけのことです。だから、嫌なら祈らなくてもいいのです。キリストの祈りだけでユダヤ人は回復するのです。もし、第三の天のキリストの祈りに自分が合わしているという自覚があれば、その自覚のとおりに取り扱われるでしょう。

イスラエル回復の祈りというのは、全く正確な第三の天の思想に合わせた祈りです。第三の天のキリストはこれ以外に祈りませんから、イスラエルさえ悔い改めたら、万事うまくいくのです。この地球が天の地球になるに決まっています。

神が造った人間とは何か。聖書に次のように書いています。

「主が昔、そのわざをなし始める時、

そのわざの初めとして、私を造られた。

いにしえ、地のなかった時、

初めに、私は立てられた。

まだ、海もなく、また、大いなる水の泉もなかった時、

私はすでに生まれ、

山もまだ定められず、丘もまだなかった時、

私はすでに生まれた」(箴8・22~25)。

これが人の子です。初めに人が造られたのですが、この初めとは何か。初めにという時点が何処をさすのか。どういう時点をさすのか。非常に微妙です。箴言の八章二十二節の初めと、創世記の第一章一節の初めがどういう関係になるのか。

これは預言者の文でもない。また、詩篇や歴史書の記録でもない。箴言として書かれていることが興味津々たる所です。つまり、天と地が造られる前の初めに、自分が造られていたということを自覚できる人だけを、神は人の子と呼んでいるのです。

天と地が造られる前の初めに、自分がいたのです。だから、天と地の外に立って発言できるのです。人の子とはそういう人格です。その自覚が持てない者は、聖書が分からないし、救われないのです。

天と地が造られる前に自分がいたと言われて、すぐ分かるのは女性です。男性はなかなか分かりません。現世に生きているのが人間だと思っている人は、なかなか分からないのです。

天と地が造られる前に自分がいたと言える人でなかったらだめです。神はその人をちりに帰らせて、天地を造ったのです。その人が造られていなければ、ちりはない。ちりがなければ、地球はないのです。原料がないからです。

天と地が造られる前に私がいたから、聖書を見れば何でも分かるのです。これが預言の霊です。預言の霊だけが、イエスの証ができるのです。イエスの証ができる者は、箴言八章の証を持っているからです。天と地が造られる前に私がいたという証が、イエスの証の根本になるのです。

パウロは次のように述べています。

「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれた方である。

万物は天にあるものも、地にあるものも、見えるものも、見えないものも、位も、主権も、支配も、権威も、皆御子によって造られ、御子のために造られたのである。

彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っているからである」(コロサイ人への手紙1・15~17)。

御子はすべてのものの初めに生まれたのです。これが箴言の八章に出ているのです。すべてのもののいや先に生まれたということは、私たちの脳細胞を見ると分かるのです。私たちが生きている状態で、すべてのもののいや先に私が生まれたという証拠があるのです。

パウロはイエスが万物のいや先に生まれたということを、コロサイ人への手紙に書いていますが、パウロはどうして分かったのか。イエスもそれを知っていた。どうして知っていたのか。

キリストを信じた後のパウロは、自分が生きている状態、百四十億の脳細胞を見て分かったのです。

二十四の位があって、百四十億の脳細胞があることを私たちは毎日経験しているのです。経験していながら分からない。初めから生まれたという自覚がないから分からないのです。初めから生まれたという自覚があれば、二十四の位があることが分かるでしょう。

人間の外へ出ようとしている人でなければ、こういう話を聞いても分からないでしょう。人間の外に出ようという感覚が、女性にはあるのです。女の本質は命のルーツ、生命のルーツを求めているのです。命のルーツは天も地なかった時にあった人格をさすのです。これを女性は直感しているのです。

霊魂には区別はありません。アブラハム時代の霊魂、モーセの時代の霊魂、イエスの時代の霊魂、使徒行伝時代の霊魂も、今の霊魂も全部同じです。全部同時に神の前に立っているのです。

霊魂には時間も空間もありません。すべての霊魂は同時に神の前に立っているのです。今がイエスの時代です。今がアブラハムの時代です。今が教会時代です。初めも終わりもありません。自分も他人もない。ただ、霊魂があるだけです。そういうことをはっきり自覚した霊魂だけを、携挙しようと神は思っているのです。

創世記に次のように書いています。

「あなたが妻の言葉を聞いて、

私が食べるなと命じた木から取って食べたので、

地はあなたのために呪われて、

あなたは一生苦しんで、地から食物を取る。

地はあなたのために、いばらとあざみを生じ、

あなたは野の草を食べるであろう。

あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。

あなたは土から取られたのだから、

あなたはちりだから、ちりに帰る」(創世記3・17~19)。

あなたはちりだからちりに帰る。箴言八章の初めに造られた人間がちりになったのです。ちりに帰るとはどういうことか。人間が万物の造られたいや先に造られたことを自覚することが、ちりに帰ったということです。

ちりだからちりに帰るべきである。ちりに帰った人間だけが救われるのです。ちりに帰らない者は携挙されません。

皆様は神と一緒に万物を造ったのです。神が万物を造った時、そのかたわらにいたのです。これを自覚する者だけが万物の長になれるのです。男はこの確信を絶対に持たなければいけません。男に対する命令だからです。

女の人は夫を慕うことによって、また、何処までも夫に治められることによって、骨の骨になるのです。骨の骨とちりという言葉は同じことです。ただの骨は今生きている人間をさしますが、骨の骨は、今生きている人間の原形をさすのです。

夫に従って、夫についていくという姿勢をとれる女性が、骨の骨になれるのです。夫に従うという気持ちが非常に強い女性は、知らない間に骨の骨になっているのです。

夫が間違っているものとして、夫を疑っている女性は、骨の骨にはなれません。妻になる必要がない女性です。夫に従い、夫に治められること、訳が分からない夫に従わなければならない所に、骨の骨になれるチャンスがあるのです。女性はこの条件だけで許されるのです。

男は骨の骨になった女性を学んで、自らちりに帰らなければならないのです。人間の絶対原形に帰るのです。これに帰った者だけが携挙されるのです。

世が造られる前、天も地も造られる前に存在していた自分が、本当の自分であって、今の自分は影の自分、幻の自分です。「若き者は幻を見る」とはこれを言っているのです(使徒行伝2・17)。

現在の人間はただの幻です。

普通の人間では聖書が信じられるはずがありません。現実に生きている人間は真実ではない人間、偽りの人間です。分かろうが分かるまいが、現実に生きているということが偽りです。これをパウロは「私の偽り」と言っているのです。

偽りが分かるとか分からないという問題ではないのです。現実に生きていることが偽りです。人間はこういう冷淡な言い方をしないと分からないのです。今の人間は傲慢です。ユダヤ人と同じです。

今の地球が呪われているのは男のためです。火山が噴火するのも、大地震が起きるのも男のため、大洪水も、津波も、台風が起きるのも男が悪いからです。

地はあなたのために呪われた。地球は男のために呪われたのです。現在の地球の状態は呪われた状態ですから、災害、矛盾、病気が頻発しているのです。

男はハートがなくて頭ばかりなのに、威張っているのです。これが神に抵抗している状態です。頭だけで神に抵抗しているのです。

人間に与えられた自由意志は何のためか。ちりに帰るために与えられた意志であって、自分に生きるための自由意志ではありません。自分の意志を乱用しているのは悪魔だけです。自分が存在するために自由意志を持っていても、仕方がない。火の池へ行くだけです。

人間はなぜ火の池へ行くのか。人間自身の不真実がそのまま火の池になるからです。神の真実が救いです。人間自身の不真実がそのまま滅びになるのです。

人間は自分が不真実であることをよく知っているはずです。知っていながら、なお続けているのです。自分で考えたら、すべて火の池へ行くに決まっています。火の池でなければ考えられないのが、人間の考えです。

女性は訳の分からない夫に従わなければならない。そういう条件でいるから、知らない間に骨の骨になれるのです。従うことができない女性がいますが、それは本当の女性ではないのです。女であることというのは、本来、骨の骨です。本当の女なら、夫を慕うはずです。夫に従わなければならないはずです。それができないというのは、女とは違います。女であることを失っているのです。そういう女性もいるのです。

神の真実が救いで、人間の偽りが滅びです。人間は自分が偽りであることを、皆知っているのです。人間の常識は、偽りを誤魔化すための論理方式です。人間の学問でも、法律でも、人間の頭から考え出すことはすべて常識的です。偽りそのものです。

女が夫に従わなければならないように、夫は神に従わなければならない。それができない者はしょうがないのです。神に従いたければ、妻を見習えばいいのです。

女性はすでに神から刑罰を受けているから、骨の骨になりやすいのです。訳が分からないと思える夫に従わなければならないからです。従わないというのは、神の刑罰をはねつけようとしているのです。

男は女から見れば、訳が分からないものに決まっています。だから、男です。女から見ればハートを持っていないのですから、女のような思いやりを男は持っていないのです。女から見ると男は訳が分からない行動ばかりをしているのです。それに従わなければならないのですから、女は勝手に骨の骨になれるチャンスを与えられているのです。

男は神に罰せられていない。神の言葉として、「地はあなたのために呪われ、あなたは一生、苦しんで地から食べ物を得る」とありますが、今の文明では人間は苦しむ必要がなくなっているのです。人権主義、社会福祉政策が広がったことによって、現代文明は見事に偽キリストの王国になっているのです。

こういう時代に皆様は生きているのですから、この時代から抜け出さなければいけないのです。

ちりに帰ることができた者だけが、ちりから出てきた人間になるのです。ちりに帰ることができない人間は、悪魔から出てきた人間になるのです。ちりに帰ることができる人間だけが、ちりに帰ったらいいのです。

女は男に従わなければならないという形で、へりくだらなければならないように仕向けられているのです。これは女に対する寛大な処置です。女の人が損だと思っていることが、非常に大きい女の得になるのです。上から押さえつけられるので、骨になりやすいのです。

夫に従えない女は、女の原形に帰ることができません。原形に帰ることができない女は、何にもならないのです。そのように女は他動的な形で、へりくだりを求められているのです。

男は自動的にへりくだらなければならない。ちりだからちりに帰るべきであるという神の言葉に従って、自分自身が苦しんで、強引にちりに帰らなければならないのです。男の感覚や意識を否定することは、なかなか難しいのです。これを男は自発的にしなければならないのです。

善悪を知る木の実を食べるなと言われたのは男ですから、責任者である男はしなければならないのは当然です。女は責任者ではないから、他動的な形でへりくだることができるのです。

現代文明は裏返りの文明です。人間に権利があるという考えは、神の思想を完全に裏返しているのです。現代文明は偽キリストの文明です。ユダヤ人のメシア王国になっているのです。第一次世界大戦以降は、それがはっきり証明されているのです。

神は絶対です。人間社会は相対の世界です。相対の世界は非真実、偽りの世界です。これは間違っていますから、捨てるしかないのです。自分でいろいろ考える必要はない。ただ捨てたらいいのです。どうして捨てたらいいかは、自分で発見したらいいのです。

小さなことで、自分はいないということを毎日実施したらいいのです。例えば、手を洗うとか、仕事をするとか、人と話をするという時に、自分を否定するのです。小さなことで自分を消すと、大きなことで自分を消しやすいのです。小さなことで自分を消さないから、自分がなかなかなくならないのです。

現在、男に課せられた責任を男はほとんど実行していません。封建時代の男は、額に汗してという経験をさせられていたのです。大正時代には生きるということが大変でした。最近はそういう苦労はなくなっているのです。

人間が神を信じなければならない責任は、今はなくなっているのです。これが信教の自由になって現われているのです。信教の自由とは、信じても良い、信じなくても良いという考え方ですが、信教の自由という思想は、神を信じなくても良いというように解釈されてしまうのです。

信教の自由とは、信じても良いということではなくて、信じなくても良いというように受け取られてしまうのです。

信教の自由とは何か。神の約束は人間が完成されて、メシアが降臨するという約束から、千年王国が実現するという約束ですが、この約束から解放されるということが信教の自由だと考えるのです。

キリストの再臨が歴史的に実現するという神の預言から解放されたと考えるのが、信教の自由です。ユダヤ的なメシア王国が見事に出来上がったのです。目の前にメシア王国ができていますから、キリストが再臨する必要がないという思想です。これが信教の自由だと堂々と言っているのです。これが現在の世界的な傾向です。

自分が生きているという感覚が嘘です。人間の命は瞬間だけしかありません。神の口から出る言葉が、瞬間、瞬間、出ているのです。これだけが人間のリビングであって、何十年間生きてきたということを、神は認めていないのです。ただ人間が認めているだけです。人間が認めている人間は、神に対して不真実になるのです。偽りになるのです。そこで、パウロは私の偽りと言っているのです。

神の実在は瞬間だけです。これが、御座の展開です。大きな白い御座、グレート・ホワイト・スローンは瞬間だけあるのです。瞬間だけ生きたらいい。瞬間だけを認めたらいいのです。従って、自分をどう捨てようと考えることはない。過去の自分はいないからです。

自分の気持ちを信じることになりますと、グレート・ホワイト・スローンが分からないのです。私たちは生きているという不思議なことを、今経験しているのです。現実があるというこんなおかしなことはありません。

現実という妙なものがあるのです。時間も空間もないのに、現実だけがあるのです。これを絶対に意識しなければならないように、神が仕向けているのです。これが命です。

現実は全く奇妙なものです。時間、空間という有りもしないものが、有るように思えるのです。有りもしないことが有るように思えることが、人間の霊魂です。自分が生きているという事実を神に返すのです。自分が生きているのではなくて、神が生きているのです。グレート・ホワイト・スローンがあるのであって、自分がいるのではない。

あると強いて言えば、認識するという機能性だけがあるのです。認識するという機能性がなくなってしまうと、魂が存在しなくなるのです。

人間はただ認識の機能だけです。これは、自分ではないのです。認識の主体となるべき人格性があるのです。経験の主体、認識の当体がなければ、認識ができない。そういう意味での機能的な主体性はありますが、人格的な主体とは違うのです。

人間という人格はない。あるとすれば、悪魔が与えたものです。人間には機能だけがある。機能が神です。心理機能、生理機能という機能性が神です。それが、自分という認識になって現われているだけです。

これが生ける神の子です。機能があるだけですから、自分が責任を持つとか、自分が考えても仕方がない。自分はいないのですから。

時間、空間の本質が神の言葉です。私たちは時間、空間を無意識に認識しているのです。認識しているということが私たちに植えられた言葉です。

私たちに植えられた神の言葉と、外にある神の言葉、時間、空間として展開している外なる言葉を認識する機能としての言葉と、二つあるだけです。

外なる言葉を内なる言葉が認識している。これは自分に関係がないことです。これを自分という人格のように感じている。また、感じられなければ、神ではないものが神を信じることがなければ、神が天地を創造した意味がないのです。

神ではないものが神を受け取ることができるように、人格性という神以外のものが、神を自覚する形で、人間を造ったのです。人間は神から見れば、神と同じようなものです。人格的には他人のようですが、存在的には神と同じようなものです。

父の内にあるということが、グレート・ホワイト・スローンの内にあるということです。ホワイト・スローンがそのまま父です。ホワイト・スローンがなければ、現実があるはずがない。私たちが現実と思っているのは、ホワイト・スローンそのものです。ホワイト・スローンを現実として受け取っているのです。人間的な受け取り方をするから、事情境遇があると思えるのです。その錯覚を捨てればいいだけのことです。

ちりに帰るという的確な福音が日本に植えられた。日本でそれが発芽したこと、それを生ける神の印を持つ、生きていることが神であるという印を実感できるということは、将来の世界の運命に非常に大きい意味があるのです。

私たちが生きているのは、ホワイト・スローンが生きているのです。ホワイト・スローンが私たちの命です。また、私たちが生きている客観条件でもあるのです。客観的にも主観的にも、ホワイト・スローンがあるだけです。これには抵抗ができないのです。

現実という奇妙なものがあることを、冷静に考えたら分かるのです。現実の外に出て、現実を見るのです。現実の中にいて、自分が生きていると思っているからいけないのです。

現実から一歩外へ出て、奇妙なものを見る。時間、空間という人間的に説明できないものがあるということは、神的存在であるに決まっているのです。

時間、空間の説明は人間では一切できません。人間が説明できないような状況で生かされているということは。神の前で生かされているということです。

時間、空間は有っても人間には説明できないのです。神の中へ入ればすぐにできるのです。これが神の口から出ている言葉です。神の口から出る言葉がなければ、現実があるはすがないのです。

ユダヤ文明を裏切ったらいいのです。ユダヤ文明を裏切れば、ユダヤ人に対する証になるのです。ユダヤ文明を裏切らなければ、ユダヤ人に対する証ができないのです。

イエスがユダヤ文明を裏切ったように、モーセの座にユダヤ人が反対したように、私たちも反対すべきです。「偽善なる学者パリサイ人」とイエスは何回も繰り返しています。自分たちが神の国の入口に頑張っていて、他人を神の国へ入れさせないのです。自分自身も入らないし、他人も入れないのです。ユダヤ人は白く塗りたる墓です。自分の中にある梁を認めないで、他人の目の中にあるちりに文句を言っているのです。

私たちは難しい所に首を突っ込んでしまいましたが、これしか死から逃れる方法はありません。自分自身のわだかまり、悶着を打開しようとする方法は、ちりに帰るしかないのです。道はこれしかありません。

仏教が考えている悟りは全部間違っています。人間が悟っているからです。これは仏教だけでなく、回教でもヒンズー教でも同様です。どんな宗教も皆間違っているのです。

老子のように徹底した人物でも、無為と言っていながら、無為を受け取る方法が分からなかったのです。無為はすばらしいと言っています。これは神に感心しているだけです。神の中に入ることができなかった。無為の中に入ることができなかった。従って、老子の無為は思想ではあるが、救いにはならないのです。

老子は存在の説明をした。釈尊は明けの明星という預言になっている。だから、老子より優れていると言えるかもしれないのです。老子、釈尊、ソクラテスは、同時代に現われた人物です。中国とインド、ギリシアに三人の傑物が同じ時代に現われているというのは、興味津々たるものがあるのです。

この三人の考えが人間としての究極でしょう。神ではありませんが、人間としての究極です。この三人の思想をイエスは一括して具体的、歴史的に説明しているのです。だから、イエスを信じるしかないのです。

哲学を熱心に勉強している人が行きつく所は、老子です。それ以上のものはありません。釈尊の思想は空ですから、行きつく所にはならないのです。老子は行きつく所の一つのポイントですが、無為の世界にどうして入るのか。人間自身は有為ですが、死ぬことが分かっています。無為であれば生まれることは分かっていますが、有為である人間が無為の中にどうして入っていけるのか。ここで行き詰まってしまうのです。ドイツ観念論で行き詰まった者は老子に行くのですが、それ以上には行けないのです。

老子自身もそれ以上は分からなかったでしょう。老子の論理は優れていました。議論としては優れていましたが、救いにはならないのです。老子とソクラテスと釈尊を一括して、それに完全な解答を与えたのはイエスです。

私たちはちりに帰るしか方法はありません。ちりに帰ることができれば、哲学の最高原理をそのまま再現できますし、同時に、今生きている現前が分かります。現実が分かります。これがそのまま、グレート・ホワイト・スローンです。これには抵抗ができないのです。

イエスは水をぶどう酒に変えることができたのです。しかし、なお現実に頭を下げたのです。水の上を歩くことができた男が、現実の前に頭を下げたのです。イエスは現実の本当のあり方が分かった。だから、水をぶどう酒に変えることができたのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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はじめに

人間は何のために現世に生まれてきたのかと言いますと、言(ことば)を聞くためです。前世で人間は根本的に失敗した。生まれる前の単一人格において、私たちは死んでしまった。その結果、自我意識によって占領されてしまったのです。 自我意識というのは、あってはならない意識です。人間は自我意識によって生きているのではない。自我の能力によって生きているのでもない。自分が自分の命を造り出しているのではない。食物でも、

人間は神を知っている

人間は自分が生きていると考えています。自分が生きているという考えの中に、自分で生きているという意味が含まれています。自分で生きているという根底がなければ、自分が生きているという発想が出てこない。これが悪いのです。 自分で生きているということと、自分が生きているということとは、相似性、近似性という非常に似た考え方になるのです。自分が生きていると思っている人間でも、自分の力で生きていると思っていないと

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