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  • 管理人chaya

なぜ神はイスラエルを捨てないのか


イエスは次のように言っています。

「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(マタイによる福音書16・24)。

これを正確に実行しないといけないのです。これを実行していない人は、宗教観念になってしまいます。良心的に聖書が勉強できない性質を持っているからです。自己存在の先天的な欠陥を心得なければ、聖書をいくら勉強してもだめです。

自分を捨てるというのは、自分の思いを捨てるのです。自分の体を捨てる、自殺することではないのです。自分の思いを捨てるのです。思いを捨てなければ、命を捨てることにならないのです。

自分を捨てることが第一、自分の十字架を負うことが第二、イエスに従っていくことが第三です。この三つの条件をきちっと実行すれば、聖書は勝手に分かるのです。

女性は自分を捨てることが一番必要です。肉の肉である自分を捨てるのです。肉の女は肉の男を悪くするばかりです。女が女になれなければ、男はどうしても男になれないのです。女が禁断の実を男に食べさせたのです。自分のおそそ(性器)を売りものにしていることは、禁断の実を食べさせたことになるのです。女がこれをしている間は、男は絶対に良くならないのです。

女がおそそを売りものにしたことが、禁断の木の実を食べさせたということです。女の武器はおそそです。それしか持っていない女のことを、肉の肉というのです。

素人の女性の洋服のデザインをする時には、娼婦のようなデザインをするのです。芸者や水商売の女性にデザインをする時には、素人のようなデザインをするのです。素人には玄人のようなデザインをすると喜ばれる。玄人には素人のようなデザインをすると喜ばれる。肉の肉を売りものにしている人間には、そうならざるを得ないのです。これは洋服のデザインによって証明されるのです。

女がおそそを売りものにしたことが、人間全体を地獄へ追いやってしまう原因になっているのです。禁断の木の実はおそその事だから、それを今すぐにやめなさいと言ってもやめられないでしょう。だから、まず自分の思いを捨てることから始めなければならないのです。思いを捨てる訓練をしなければならない。自分を捨てるというのは、それを言っているのです。

自分の十字架を負うとはどういうことか。肉の自分は全然存在していない。これを認めることが、自分の十字架を負うことです。

第三のイエスに従うとはどうすることか。イエスを主として生きることです。この三つのことをしっかり勉強する必要があるのです。

セックスは人間全体の運命を支配する重要なポイントです。セックスは命の性(さが)です。今生きていることの中心ポイントがセックスです。これが命の性です。これを聖書が説いているのです。

聖書の勉強は、自分の命と摩り替えにすることです。命がけでしなければいけないのです。命がけで勉強しないと、地獄の刑罰を重くするだけです。聖書の勉強をしなければ、火の池の刑罰が軽いのです。聖書の勉強は、諸刃の剣になるのです。

皆様に聖書を学ぶという決死的な気持ちが見られない。この世の仕事に一生懸命になっている。その片手間に聖書の勉強をしているのです。この世に生きていて、何の意味があるのでしょうか。一生懸命に勉強しなくてもいい。命と摩り替えにしなくてもいいという理由があるからでしょう。それが何かと言いたいのです。

勉強すればするほど、刑罰が重くなるような勉強の仕方しかしていない。この世に生きていることに執着しているから、聖書を一生懸命に勉強できない理由になっているのです。

現世に生きている人間から見れば、随分立派に見えるかもしれませんが。それくらいではだめです。神が良しとする所までしなければいけないのです。

毎日、自分の生活をしていることが間違っているのです。この世に生きているから、どうしても聖書の勉強に一生懸命になれないのです。何のために生きているのか、生きていて何になるのでしょうか。

最近のテレビの番組で、うっかりミスについて報道していました。ある飛行機が自動操縦で飛んでいて、それを手動に切り替えるのを忘れたのです。うっかり忘れたのです。こういううっかりミスはあってはならないミスなのです。

皆様は自分がいないのに、いると思い込んでいる。これもうっかりミスです。こういうミスはあってはならないのに、何年も続けているのです。これを何と言ったらいいのでしょうか。

ある半島に、原油タンクの貯蔵所がありました。そこから莫大な原油が流れ出して、半島一帯が油だらけになって、漁業や農業に与えた被害は甚大なものがありました。その原因は、原油が一杯入っているタンクのバルブの締め忘れでした。うっかり締め忘れたのです。

こういうのは、ほとんど初歩的なミスに決まっているのです。うっかりミスです。これは言い訳にはならないのです。何かを考え違いしていたとか、何かを読み間違えたということなら、まだ言い訳の一つになりますが、うっかりミスは良くないのです。

皆様が今しているのは、うっかりミスです。全部うっかりミスです。やるべきことをやらないだけのことです。今皆様は生きていますが、生きているとは何をしていることか。これが分かっていないということが、うっかりミスの第一です。皆様はうっかり生きているのです。

生きているということは、御霊に生かされているということです。自分が生きているはずがない。まさか心臓を自分で動かしている人はいないでしょう。食べ物を自分で消化吸収している人はいないでしょう。脳の働きを自分でしている人はいないでしょう。五官の働きを自分の力でしている人はいないでしょう。ですから、自分が生きているというのは、真っ赤な嘘です。

自分が生きているはずがない。御霊に生かされているということが、生きているという事がらです。御霊が食べ物の味を造っているのです。味があるというのも御霊、それを食べているのも御霊の働きです。牛や豚、魚や果物に、味ができるような原理がある。これを神の言の働きというのです。

味になってしまうと、御霊の働きになるのです。原理が神の言の働きです。そのように仕向けているのが、父なる神です。

父、御子、御霊の三つの働きがなければ、味ができるはずがないのです。その味が皆様に分かるのです。御霊によって生かされているから、味が分かるのです。

私たちの舌の感覚は、御霊の感覚です。私たちの舌に言が植えられている。言としてうえられている舌の感覚が、食べるという御霊の働きによって、外なる御霊の働きと内なる御霊の働きが一つになって、舌が働いている。こういう状態で人間は生きているのです。ですから、人は生きていることを正しく認識すれば、救われていることが分かるはずです。

御霊を受けても、御霊を崇めていなければ、御霊をばかにしていることになるのです。御霊によって生かされているという、こんな簡単なことがどうして分からないのかと言いたいのです。

現実がそのまま救いになっている。自分の根性が切り替えられるという形で、御霊を崇めていれば、何とか救われるのです。

生きているということは、御霊によって生かされていることです。目で見れば色が見えます。形が見えます。寒い暑いが感じられます。食べれば味が分かります。これは御霊によって生かされているという証拠です。

こういう明白なことを現実に経験していながら、神が分からないとか、救われていないと考えている。何とばかなことを考えているのかと言いたいのです。

こういう人は聖書を勉強する資格がない。現実が分からない人は、魂であるとさえも言えないのです。魂は現実を自覚するのです。それができなければ、魂とは言えないのです。

人間が現実に生きているのは、御霊によりて生かされているのです。人間が現実に生きているというその意味が分かれば、御霊の証を受け取っていることになるのです。御霊の証を信じていることになるのです。

御霊の証を信じられない人は、初めから御霊を敵にしているからだめです。自分が生きていると考えているからです。御霊によって生かされているという、こんな初歩的なことが分からなかったら、生きている値打ちがありません。もしこれが分かっていれば、信仰が前進するはずです。

皆様が生きていることは生かされていることであって、生かされているということが、御霊の証を現実に受け取っていることです。

御霊と水と血の三つが分からなかったらだめです。まず、御霊の証です。それから水と血の証です。御霊の証がなければ、人間は生きているはずがないのです。

森羅万象は神が造ったものです。神が造ったものを見て、美しいと思えるのは、神の御霊によって生きているからです。

人間が誕生したのは、絶対的な事実ではありません。皆様はまだ生まれていないのです。生まれたという言葉は自動詞です。自分の意志がなかったら、こういう動詞は用いられないのです。

食べるとか飲むというのは、自動詞ではありません。生まれるとか歩く、走るというのは自動詞です。生まれるというのは、厳粛な自動詞です。飲むというのは他動詞です。飲むものがなかったら、飲めないのです。お茶とか水があるから飲めるのです。

生まれるというのは、お茶や水を飲むのとは違います。歩くとか走るというのも、物があってもなくても、自分の意志を発動すればできるのです。

イエスは新しく生まれよと命令しています。母親の胎内から生まれたのは、自分の意志によらずに生まれているのです。これは造られたものであって、生まれたことではありません。こういうことを日本人は知らないのです。

そこで聖書は、自分の意志によって新しく生まれよと命令しているのです。イエスは自分の意志によって生まれたのです。イエスの原形である神の言によって生まれた。神の御子が自分の意志によって生まれたのです。

私たちは自分の意志によって生まれたのではない。造られたことによって、生まれたという形を取らされただけです。

人間には人格があります。人格があっても自ら生まれたいという意志がなかったら、生まれるということは実現しません。従って、現在人間に人格があると思っていることが間違っているのです。正当な人格ではないのです。正当な人格であれば、今の人間が生まれたということを考えるはずがない。今の人間の人格は邪悪な人格です。悪魔の人格です。

生まれたというのは自動詞です。今の日本人で自ら生まれた人は、一人もいないのです。誕生日があるという思いをやめて頂きたい。誕生日を考えたらいけないのです。

生まれていない者を、勝手に生まれたと思っている。肉の思いは肉を完全に認めてしまっているのです。肉の思いで見れば、それなりの理屈があるのです。

聖書を勉強する以上に大切なものは、世の中にはありません。生きていることが神の御霊ですから、神の御霊さえ学んでいれば、生活はできるに決まっています。御霊を崇めて生活していれば、生活のことは勝手にできるはずです。仕事も勝手にできるのです。

自分では仕事をしなければならないと思わなくてもいいのです。商売をやめてしまえと言っているのではない。商売をしていることが御霊だと言っているのです。

御霊を崇めるという言葉の中に、商売も、家庭も全部入っているのです。だから、根本を掴まえて根本を実行すれば、すべてのことが皆働いて益となるに決まっているのです。

生きていることが神です。神が命です。生きていることが神ですから、生きていることを正当に認識すれば、そのまま救いになるのです。

自分が救われるのではない。生きているのは神の御子として生きているのです。神の御子としての自覚を持っているのですから、神に生かされているのです。神に生かされてという自覚が素朴に持てるとすれば、その人の霊は神の御子の状態になっているのです。

自分が良くならなければならないとか、自分がすべてを理解しなければならないと考えなくてもいい。ただ信じるか信じないかです。分からなくても信じたらいいのです。

自分が生きているという事実はありませんが、自分が生きているという気がすることは、いつでもあります。それを問題にしなければいいのです。

自分が生きていると思うことは、悪魔が一緒にいることです。それを問題にしなければいいのです。肉体がある以上、虚無的な思いがあるのは当たり前です。その気持ちがあっても構わない。放っておいたらいいのです。

人間が現世に生きていると、生きているという神経が働きます。だから、生きているという気持ちがするのは、当たり前です。どうしても分からないとか、理解できないとか、信じられないという気持ちが起きるのは、当然です。

これは肉の人間としては当たり前のことです。霊の立場から見れば、そんなことは問題にならないのです。人間は霊的にだけいるのではない。肉的にもいるのです。肉的と霊的にと、両方があって生きているのです。光と闇が両方あって生きているのです。

光を昼と名づけ、闇を夜と名づけた。光と闇が交錯した状態で、三次元の世界は存在しているのですから、自分がいるような気持ちがするのは当たり前です。分からないとか、理解できないという気持ちがするのです。そういう肉の思いは放っておいたらいいのです。

ソロモンは次のように言っています。

「私によって、主たる者は支配し、

つかさたる者は、地を治める。

私は私を愛する者を愛する、

私をせつに求める者は、私に出会う。

富と誉れとは私にあり、

優れた宝と繁栄もまたそうである」(箴言8・16~18)。

最初の箇所を新世界訳で見ると、「私によって君たちは君として支配を行い続け」とあります。

かつて、吉田茂氏が総理大臣の職にありました。吉田茂氏が総理大臣の在任中、吉田茂氏の実力で総理大臣をしていたのではない。神が一時的に、吉田茂氏と共にいたのです。神は吉田茂氏の業(わざ)と共にいたのです。神は吉田茂氏の命と共にいたのではないのです。

私たちには私たちの命と共に神がおいでになるのです。これがインマヌエルです。吉田茂氏の業と共に神がいた。だから、吉田茂氏は人気と実力があったのです。

新世界訳の十六節に、「高貴な者たちは、皆義にそって裁きを行っている」とあり、十七節には、「私を愛する者たちを私も自ら愛し、私を捜し求める者たちは、私を見出すであろう」とあります。

皆様は自分の命のことを考えているからいけないのです。神を捜し求めたらいいのです。神を捜し求めたら、神に会えるに決まっているのです。

神を捜そうとしないで、自分が納得しようと考える。これは全く愚劣なことです。これを宗教観念というのです。ああでもない、こうでもないと詮索ばかりしている。

神を信じようとしないで、自分の思いで分からない所を詮索ばかりしている。これが宗教観念です。

神を信じたらいいのに、これをしないのです。十八節の新世界訳では、「富と栄光とは、私と共にあります。価値ある世襲財産と義もそうである」となっています。

例えば、桜やバラの花がきれいだというのは、神の世襲財産です。豆ラクガンというお菓子も、神の世襲財産の中に入るのです。味はすべて神の世襲財産です。神が分かれば、神の世襲財産は勝手にもらえるのです。

私の世襲財産と私の義は、私と一緒にあると書いています。神さえ分かれば、勝手に気楽になれるのです。神を掴まえようとしない。神を求めようとしない。自分の満足を計ろうと考えている。自分が分かろうとしている。これがいけないのです。

なぜ分かりたいと思うのか。なぜ救われたいと思うのか。現在、皆様が生きていることが、摩訶不思議です。摩訶不思議な命を現在経験していながら、なぜこれが分からないのでしょうか。

異邦人は神の約束が自分と共にあることを知らないのです。ユダヤ人は神の約束は自分たちと共にあることだけを知っている。これを頑固に信じているのです。神が分からないのに、神の約束は私たちのものだと思っているのです。だから、神も捨てる訳にはいかないのです。自分は選民だと思っているから、捨てる訳にはいかないのです。

見当違いの信仰ですけれども、神の選民であると信じている場合には、それを黙って踏みにじる訳にはいかないのです。

悪かったと思えば神は蹴飛ばすが、悪かったと思うまでは、蹴飛ばさないのです。これが神の泣き所です。神のいい所です。

自分は神の選民だと思っているだけで預言者を殺し、御子を十字架につけたユダヤ人を、神は捨てることができないのです。私はこれを思うたびに、胸が痛くなるのです。

彼らは自分たちが神の選民だと思っているだけです。神も分からず、約束も分からない。何も分からないのに、自分たちは神の選民だと信じている。そのことだけで、神は彼らを捨てられないのです。

そこで、今まで選民だと思っていたが間違っていたと彼らが言い出すと、神は本気になって捨てられるのです。妙なことですが、間違いが分からなかったら、神は本気になって殴ることができないのです。

エホバの御仕置はこういうものです。分かったら殴るのです。分かるまで殴らないのです。

現在、私たちはイスラエルの回復のために祈っています。この祈りによって、やがて彼らがしまったと思い出すでしょう。イエスを十字架につけたのは間違いだと、ユダヤ人の数人が思い始めるでしょう。そうすると、神が真剣に殴り始めるのです。これが「ヤコブの悩み」と言われる艱難時代です。

私たちは御霊を受けたのです。御霊を受けたと思っている以上、神は捨てる訳にはいかないのです。人間の霊魂のつながりは微妙なものです。聖書が分からなくても、選民だと思っているだけで捨てられないのです。

神は今まで四千年間、ユダヤ人を殴り飛ばしもせず、捨てもしないでいる。アウシュビッツのようなことをしたけれど、根本からユダヤ人を私の民だとは言わないのです。言えないのです。彼らが一方的に選民だと信じているからです。一方的であっても、我々は神の民だと信じている以上、お前たちはそうではないと言えないのです。

神はそれほど人間の考え方を信じているのです。有難いことです。だから、御霊を受けた者は、私は御霊を受けたと思って下さい。一日に、五、六回でも十回でもいいから、そう思って頂きたい。そうしたら、神が捨てておけなくなるのです。

人間は納得して火の池へ行くのです。間違っていたということを十分に知って、火の池へ行くのですから、神は遠慮せずに、永遠に殴れるのです。

人間は第二の復活にあずかるのです。一度この世で死んで、黄泉で眠っていても、目が覚めた時に、霊魂の目が開いているのです。今まで現世で肉の思いでいたことが、根本から間違っていたことが、はっきり分かるのです。そういう状態から、火の池へ行く人はいくのです。間違っていたことをよく承知しているから、神は遠慮なく殴れるのです。

今は殴れないのです。キリストが第三の天で祈っているからです。御霊を受けたということは、約束の現物を与えられたことと、ほとんど同じ値打ちがあるのです。ところが、その自覚がない、忘れてしまっているのです。

「神の栄光は私と共にある」。現在生かされていることにおいて、富と栄光がいつもあるのです。

「価値ある世襲財産と、私自身の義も、あなたがたと一緒にある」。神さえ崇めていれば、これが皆様と一緒にあるのです。神は無条件で皆様を救っているのです。無条件で皆様を生かしているのです。それなのに、なぜ分からないというのでしょうか。

神というお方を現実的に考えるのです。神は皆様と共にいます。乗ろうと思って駅へ行くと、電車が来る。車を運転しようと思ったら運転できる。することなすことが思いどおりになるでしょう。これが恵みです。これが神の栄光と富なのです。

人間が思うとおりのことを神がさせているのです。神はそういうお方です。人間の力で何ができるのでしょうか。不思議なことに、人間が考えたとおりに、物事が進むでしょう。誰のせいでしょうか。皆様が神と共にいるからできるのです。

世間の人もそのとおりです。世間の人が生きていることが神ですが、世間の人は将来の希望を持っていません。現実において、現実に生きているからです。世間の人は現実が神であるということを知りません。それでも、神が助けているのです。

現実を現実だと思うことが、知らずして神を求めている状態になっているのです。人間の本心はそういうものです。人間の本心はその人の顕在意識に係わりなく、潜在意識として働いている。人間が無意識に仕事をしていることが、すでに神と共にあることになっているのです。

信じていない人間にでも神は一緒にいるのです。神を見つけて、ああここに神がいるのかということが分かると、永遠の命の方へ入っていけるのです。

神はどこにでもいるのです。これを摩訶不思議というのです。これが命の正体です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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はじめに

人間は何のために現世に生まれてきたのかと言いますと、言(ことば)を聞くためです。前世で人間は根本的に失敗した。生まれる前の単一人格において、私たちは死んでしまった。その結果、自我意識によって占領されてしまったのです。 自我意識というのは、あってはならない意識です。人間は自我意識によって生きているのではない。自我の能力によって生きているのでもない。自分が自分の命を造り出しているのではない。食物でも、

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