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アウフヘーベン


現在、私たちが地球上で生きていることが、実はそのまま福音を証しているのです。これがそのまま神の国、人間完成、神の教会を証しているのです。

これは詳しくお話ししなければお分かり頂けないかもしれませんが、イエスが十字架上で、「事終わりぬ」と言われました(ヨハネによる福音書19・30)。十字架によって神のあらゆる御業は完成されたのです。私たちは事が終わったという事がらの次第を弁えて、それを受け止めていきさえすれば、勝手に救われるのです。救われている自分を自覚することができるのです。

現在、世間一般の人は偶然に生まれてきて、偶然に存在すると考えています。いちいちそう考えている訳ではありませんが、何となく生まれてきた、何となく生きていると考えている。何の目的で、何のために生きているのかを考えようとしないで、ただ生きていることをそのまま鵜呑みにしている。これは偶然に存在していると考えていることになるのです。

マルクスは人間は偶然に存在しているとはっきり言っていますが、そういう考えでいますから、本当の人間存在の意味が分かりません。分かろうとしないのですから、分からないのは当たり前です。

人間は却って自分を不幸にしているのです。マルクスのいわゆる革命論のようなことを考えて、それを実行するためには、大変な努力をしなければならないのです。

マルクスの理論を勉強するだけでも大変な努力がいりますし、その理論を実体化して革命運動を実行することになりますと、言語に絶する無理なことをし続けなければならないのです。

そのような努力を重ねて、仮に全世界を革命の理想に近いものにしたとしても、人間文明の終末に出会うことになるのです。革命はできたが、文明は潰れるのです。何をしているのか分からない。そういう愚かなことを人間は繰り返しているのです。そうして、十字架を愚かなものと考えているのです。

現在の人間の感覚は愚かそのものです。愚かの見本みたいなことをしているのです。

パウロは言っています。

「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには、神の力である」(コリント人への手紙1・18)。

滅び行くというのは、英訳ではペリシュ(perish)という言葉を使っています。これは人間や動物が死んでしまうことを意味しているのです。現在の人間はペリシュです。文明そのものがペリシュです。

こういう人々にとって、十字架はフーリッシュネス(foolishness)に見えるのです。フーリッシュネスというのは、ばかばかしいとか、滅茶苦茶とか、ちゃんちゃらおかしいものに見えるという意味です。死んでいく人間から見ると、十字架はちゃんちゃらおかしいものになるのです。

十字架は現存在の人間の正体を余すところなく暴露しているのです。現存在の人間を肯定する立場から見ますと、十字架は全く認められないことになるのです。

大体、万物が存在するということを人間は鵜呑みにして肯定していますけれど、現存在の万物を鵜呑みに肯定することが、愚かと言わなければならないことなのです。現存在の万物をそのまま認めることがフーリッシュネスです。ばかばかしいこと、ちゃんちゃらおかしいことなのです。

ところが、人間は万物を認めている。肯定しているのです。そこで万物が存在することを否定した十字架を、逆にフーリッシュネスと言っているのです。

人間の文明から見ると、十字架ほどフーリッシュネスなものはありません。文明を完全に否定しているからです。

こういう十字架をキリスト教では全然見ていません。第一キリスト教では人間自身が死んでいるに決まっているということを信じていないのです。また、人間がペリシュであることを、文明は信じていないのです。

生きている現時点の事がらに、何かの意味を見出そうとしているのです。現在生きていることに、何かの楽しみ、喜び、幸福を見出そうとしているのです。だから、人間がペリシュであるとは思えないのです。

今生きて楽しんで暮らしている。だから、ペリシュではないと思っているのです。目の前で楽しんで生きています。しかし、生きて楽しんでいることが何をしているのか知らないのです。

知らず知らずにただ肉の思いで楽しんでいる。俗な言葉で言えば、酒と女で楽しんでいるのです。何をしているのか分からずに、ただ酒が楽しい、女が楽しいと考えているのです。楽しいとはどういうことかを知らずに、楽しんでいるのです。そうして、やがて死ぬかもしれないが、現在を楽しんでいる。楽しみが目の前にあると思っているのです。

ところが、聖書は「今の人間は死ぬ彼ら(them that perish)」と言っている。死ぬに決まっている彼らです。もっとはっきり言えば、死んでいる彼らということになるのです。

人間は肉体的に生きていることを生きていると思っているのです。ところが、肉体的に生きているのは、ペリシュそのものです。死んでいることなのです。ここにどんでん返しがあるのです。

肉体的に生きている。だから、生きていると思っているのです。しかしそれは、肉体的にという但し書きがつくのです。ところが、神から見ると、肉体的に生きていることが死んでいることになるのです。

パウロは「アブラハムはこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」と言っています(ローマ人への手紙4・17)。

死人を生かしという所を英訳では、who giveth life to the deadとなっています。これを直訳しますと、死人に生活を与えているとなるのです。現在の人間は神の命、永遠の命を知らずに生きている。これは死んでいることになるのです。死人がただ生活しているだけなのです。また、パウロは言っています。

「あなたがたは死んだものであって、あなたがたのいのちはキリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロサイ人への手紙3・3)。

肉体的に生きているということがペリシュです。これに気がつくと、俄然十字架の意味が分かるのです。

人間は生きているはいるが、命が分からない。命とは何かが分からない。生きてはいるが、命が分からないということが、死んでいる証拠です。彼らはすでにペリシュであることを意味しているのです。

森羅万象とは何か。言(ことば)が働いて万象ができているのです。「すべてのものは言によってできた。できたもののうちで一つとして言によらないものはない」と聖書は厳命しているのです(ヨハネによる福音書1・3)。

言が物になっているのです。物というのは聖書の語法に従えば、肉になります。言が肉となっている。これが万物存在です。

大体、言が肉となるということがおかしいのです。言は霊なるものであって、肉になるはずがないのです。ところが、言は肉になってはいないのです。

言が肉となったというのは何か。ヨハネによる福音書の一章十四節に、「そして、言は肉体となり、私たちのうちに宿った」とあります。これはイエスが肉体的に来たことを言っているのですが、イエスという人物が本当にいたのかというと、肉的に認識することはできたのですが、実体的には存在していたのではなかったのです。

イエスは生きていましたが、彼自身が肉体的に生きていることを、実体とは考えていなかった。イエスは天から下って肉体的に現われているけれど、依然として天にいたのです。依然として天にいたということは、彼は肉になったけれども、霊に従って生きていたのです。肉体的にこの世に下ってきたけれど、これを肉体的に存在するとは考えていなかった。霊的に存在すると考えていた。これが人間存在に対する正しい認識です。

実は、言が肉となったという事実はないのです。人間の仲間ではそう見えるのです。人間の意識によって見ればそう見えるのですが、実体的に霊的に、神的に見れば、肉になっていないのです。

大体、肉というのは物象的現象が仮存在態で捉えられるもの、認識できる存在をいうのです。それを肉と呼んでいるのです。物象的存在があたかも存在するかのように捉えられる意識、感覚の認識的名称を肉というのです。

物理現象が物体となって現われている状態を、人間が固定的な感覚で捉えて、物があると思っているのです。物は実は存在しないのです。

肉とか物が本当にあるのかというと、本当にあるのではない。物理現象があるだけです。物理現象とは物理運動のことです。運動が現象となり、現象が物として捉えられている。これが肉です。

従って、肉があるべき道理がない。自然科学の理屈でもこの程度のことは分かるのです。ですから、あるべき道理がないものをあるというようにイエスが考えるはずがないのです。

学者は物はないという理屈を並べていながら、実は物は存在するという意識で生活しているのです。理論的な演繹と、生活の実感とが分裂しているのです。これが学者です。

イエスにはこういう分裂はなかったのです。なぜかと言いますと、信仰によって生きていたからです。イエスの信仰を説明しますと、理論性と意識性が一つになっていたのです。これがイエスの信仰です。

皆様は理論性と意識性がばらばらになっているのです。学者が持つ分裂状態と同じになっているのです。

物理世界は存在するというべきではなくて、現われているというべきものです。現象というべきものです。存在ではなくて現象です。現われているだけです。

現われているということは存在していることとは違います。万物は現われてはいるが存在していないのです。そこで、聖書は物という言葉を使わないで、肉という言葉を使っているのです。肉というのは新陳代謝の過程を示しているのです。これを指摘しているのが、肉という語法になっているのです。

言は肉となったとありますが、妙なことに、言は肉とならなかったのです。人間が肉という言葉を用いますと、牛肉の肉を考えたり、豚肉の肉を考えたり、大根の太り具合を考えたりします。肉を全く肉的に考えるのです。

聖書にある肉という言葉は、新陳代謝の過程です。プロセスです。プロセスの原理は何かというと、神の口から出るプロシードワード(proceed word)です。プロシードワードがそのままプロセスを意味するのです。

プロシードワードが現象体になっている状態を人間はプロセスと捉えて、肉と呼んでいるのです。あるのは肉ではなくてプロセスです。プロセスがあるだけです。言が肉となったという言葉はありますけれど、肉となったという事実はないのです。

イエスは肉体で生きていたけれど、肉の思いを持っていなかった。従って、肉体で生きていることがイエスの命にはなっていなかったのです。命になるというのは、思いが命になるという意味です。肉の思いが命になっている人は肉の命に生きているのです。

イエスは肉体を持っていたけれど、肉の思いに生きていなかった。霊の思いに生きていたのです。彼の命は霊の命でありえたのです。

皆様の場合も、皆様の思いがそのまま命になるのです。思いがそのまま命になるのです。今まで肉体で生まれて今日まで生きてきたという思いを持っている間は、皆様の命はやはり肉の命です。ペリシュの命です。死ぬべき命そのものです。

死ぬべき命、肉体で生きているという気持ちを持っていながら、十字架を信じようとしても信じられるはずがありません。肉体で生きていると思いながら、自分は十字架で死んだのだと考える。これは全く精神分裂の状態です。

十字架で死んだと言いながら、自分は肉体で生きている。利害得失、喜怒哀楽、善悪の情がいっぱいあるのですから、その自分の感情とか欲望に任せていながら、自分は十字架で死んだと考えている。そんな欲深いことを考えてもだめです。

そういう考えが偽善です。御霊をばかにしているのです。神を侮っているのです。そういうことをキリスト教は人々にさせているのです。キリスト教の考えは根本的に神と神の御霊をばかにしているのです。

こういう教義の根幹は、ユダヤ人から出ているのです。キリスト教とユダヤ人とは正反対のように見えますが、実は同じ所から出ているのです。キリスト教を叩くことは、同時にユダヤ人の間違いを叩いていることになるのです。

宗教概念は一つの文化概念であって、すべて近代文明に属する文化概念は、ユダヤ人から流れ出していると考えても間違いないのです。

イエスは肉体で生きているという条件はありましたが、肉に従って生きていたのではないのです。霊に従って生きていた。そこで、彼は天から下ってなお、天に生きていたのです。

神がイエスをこの地上に遣わされたというのは、彼をメシアとするためです。メシアとするということは、油注がれた者とするという意味です。油注がれるとは何かと言いますと、天使の長にするという意味です。

御子は生ける神の御子であると同時に、天使の長にされるために、この地上に来たのです。従って、天使の長になる人は、肉にありて肉を治める者でなければならないのです。肉の外にいて肉を治めることができたとしても、天使長にはなれません。天使を動かすため、天使を治めるためには、自ら天使の中に入らなければならないのです。これがアウフヘーベンの原理です。

アウフヘーベンの原理とは、その事がらの中から発生してその事がらを克服することをいうのです。揚棄というのは何か。白い色があったとします。白に関係がない黒がやってきて、「白よ、お前は間違っている」と言ったとしても、これはアウフヘーベンにはならないのです。

白というテーゼがあって、白というテーゼの中から必然的にアンチテーゼが発生することが、本当のアンチテーゼです。白の中から出てきた白でないもの、白の中から出てきて白に対立するものです。これでなければ、本当の弁証法的原理にはなりません。

肉の中から出てきて肉を否定するのです。これを油注がれるというのです。メシアとは油注がれた者ということですが、肉体的に生まれては来たが、肉体に従って生きていなかった。これがキリストの明白なしるしだったのです。

イエスは肉体を持ってきたけれど、彼の認識は水と血とによって生きていたのです。肉体的に来たということは、水によって来たということです。水だけでなく血も兼ねていた。ヨハネはイエスを見て看破したのです。そうして、同時に、自分自身がイエスと同じように水によって来た者であり、同時に水と血を兼ねている。これを証するのが御霊である。こういうことが分かったのです。

「イエスを信じる者、神の子を信じる者は、水と血と御霊の三つの証を与えられている。これは神の証であって、この証を持たない者は、御子を持たない者である」とはっきり言っているのです(ヨハネの第一の手紙5・6~8)。これがヨハネの証です。

パウロは、「死ぬべき肉体にキリストの霊が宿っているなら、肉体が変質してしまう」と別の言い方をしています。「死は勝に呑まれた。たちまち瞬く間に化せられる」。いわゆる携挙ということをパウロは言っています(コリン人への第一の手紙15・50~56)。

また、パウロは第三の天に引き上げられた。肉体においてか、肉体を抜け出してか分からないと言っている。つまり、肉体はあると思えばある。ないと思えばないと言っているのです。自由に肉の思いの外に出て生活しているのです(コリント人への第二の紙12・1~5)。

これと同じ感覚を、イエスの弟子のペテロ、ヤコブも持っていたのです。皆様もそうならなければ救われません。

皆様はまだ本当にイエスを信じているとは言えない状態にあります。イエスを信じていない者が、救われるはずがないのです。肉体的に生きている自分を自分だと思っている。こんなばかなことがあってはいけないのです。肉体的に生きているのが自分だと思う人は、聖書の勉強をする資格がないと言わなければならないのです。そういう人はキリストと何の係わりもないのです。キリストと係わりがないということは、仲間として一緒に勉強することができないということです。

「私を信じる者は私と同じ業をするであろう」と言っています。また、「私よりも大いなる業をするであろう」と言っています。

私たちは肉にありながら、肉を支配することができなければいけないのです。肉にならなければ肉を支配することができない。しかし、肉になったということは、肉に従って生きるために肉体を与えられたのではなくて、肉を従わせるために肉体を与えられたのです。これがナザレのイエスの肉体認識だったのです。

イエスは肉にありて、なお肉に生きてはいなかった。この世に現われたけれど、依然として天にいた。以前在天です。これが私たちの生活意識でなければならないのです。

これはまた、人間を造った目的でもあるのです。すべての肉を支配するため、万物を支配するために、人間は創造されたのです。

私たちは肉を支配するために、肉において地上に生かされているのです。支配するとはどうすることかと言いますと、揚棄すること、アウフヘーベンすることです。

肉に従って生きるという形はあるが、意識では肉に従って生きないで、霊に従って生きるのです。そうすると、生きているという形がありながら、肉をアウフへーベンすることができるのです。肉を揚棄するのです。これがイエスの生活態度でした。

肉的に生きていないのなら、肉を揚棄することができない。肉的に生きているという条件があるから、揚棄できるのです。

肉的に生きているというのは、肉が実は存在するのではなくて、一つの過程として意識されているだけです。意識されているのであって、存在しているのではない。これが肉です。

私たち自身の意識の持ちようによって、私たちが存在させられている状態が変化する可能性があるのです。意識の持ちようです。思いの持ちようです。自分の思い方一つによって、私たちが現在存在させられている条件をどんどん変えていけるのです。神の与件を変更していくのです。これが信仰の目的です。人間の創造の目的です。

肉にありて肉を従わせることが、肉を揚棄することです。肉を揚棄させるということが、神の第一創造(現在の物理的創造)を完遂することになるのです。

神の第一創造というのは、目に見える形の創造ですが、これは現在の地球が消滅した後にできる完全無欠の地球、目に見えない地球への前提です。第一創造は第二創造への前提です。新しい創造への前提です。

第一創造に与った者は、その事がらの故由を弁えて、第二創造へのきっかけを掴まなければならないのです。第二創造こそ、とこしえの命そのものですから、第二創造へのきっかけを掴み損なった者は、地獄へ行くしかないのです。

ヨハネは、「もろもろの人を照らす誠の光があって、世に来た」と言っています(ヨハネによる福音書1・9)。

もろもろの人はすべて、本質的にはイエスと同じ内容を持っているのです。もろもろの人を照らす光となって、イエスが現われた。もろもろの人とイエスが違ったものであれば、イエスはもろもろの人を照らすことができないはずです。照らされても何のことか分からないはずです。

ところが、もろもろの人を照らす光があって、この世に現われたというのは、照らされるべきもろもろの魂はイエスと同じ性質を持っているのです。だから、キリストがあなたがたを照らすとあるように、キリストの光によって照らされると、私たちの本体が明らかになるのです。

そうして、自分がイエスと同じものであることを自覚することになる。これを救いというのです。従って、イエスが肉において肉に従っていなかったように、逆に肉を従わせていたように、私たちも肉にありて肉を従わせる生活態度を取らなければならないのです。

エペソ四章十三節に、「光にさらされる時、すべてのものは明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである」とあります。

人間の魂は神の御子です。だから、一人子の光によって照らされると、御子である本性が目を覚ますのです。そうして、一人子なる御子と同じ意識に立つことができる。そういう信仰状態に立つことができるのです。

そのために、神はイエスを与えただけでなくて、彼の肉体を十字架につけて、肉とはこういうものだということを私たちに示して下さったのです。これがゴルゴタの十字架です。

父なる神が肉なるものをこのように処分した。また、処分すべきであるという神の絶対的な御心を、ゴルゴタの十字架ではっきり示されたのです。

神は十字架につけたままのイエス・キリストを私たちにお示しになった。そうして、肉というものは処置された。従って、もはや肉なる者は生きてはいない。キリストの肉が殺されたことによって、すべての肉は殺されたということが、十字架によって証明されたのです。そして、これを信じる者は肉から抜け出した者と認定されたのです。

肉が殺されたことを認定するのでなかったら、十字架を信じたことにはならないのですから、肉が殺されたことを認定する者、自覚する者は、キリストと共に十字架につけられて罪はないと神に認めて頂くことになるのです。これが十字架の贖いです。

大体、宇宙に肉が存在しなければならない理由はありません。ところが、肉を真実だと考える逆性が発生したのです。神はやむを得ず、肉を発生したのです。淵の表にある思想が発生したので、淵のような意識を具体化した形で、この世に現わさなければならなかったのです。

肉というのは淵のことです。淵が肉です。肉の思いは淵の思いです。淵の表に立つ思いです。これが肉の思いです。

こういうものが発生したから、キリストが肉となって地上に下らなければならなくなったのです。肉とならなければ肉を従わすことができないからです。

神の御子によって肉を完全に揚棄した。逆性をはっきり滅ぼして、逆性は実体ではないという事実を証明したのです。淵の表の思想は、実体ではないという事実を、イエス・キリストを通して証明されたのです。

皆様は現在肉体的に生きてはいるけれど、肉性に従って生きてはいけないのです。霊に従って生きるのです。これは自分自身の肉を揚棄しながら生きることになります。自分の肉をアウフヘーベンしながら生きることになるのです。

さらに十字架を信じることによって、自分自身がアウフへーベンされてしまうのです。固有名詞の存在である自分という人格が、アウフへーベンされてしまうのです。ただ肉が揚棄されるだけではない。自分が揚棄されるのです。自分という意識存在が揚棄されて、自分ではないものになるのです。このことを新に生まれるというのです。

この世に生まれてきたものではないものになってしまうのです。これが十字架の一大特徴です。ただ肉が消えるだけではない。霊的にも自分ではないものになってしまうのです。

自分の業(ごう)にも先祖代々のカルマにも何の関係もない、原罪に何の関係もない人間になってしまうのです。自分の記憶とか経験にも関係がないものになってしまうのです。別の人間になってしまうのです。これが光に照らされた者は光になるということです。イエスに照らされた者はイエスになると言ってもいいでしょう。

「私を信じる者は私と同じことをするであろう」とイエスは言っています。皆様は万物を支配する力を神から与えられなければならないのです。これがイスラエルに伝道するための一つの切り札になるでしょう。

神は異邦人の中から皆様のような人を起こして、全く驚天動地の大事業をさせようとしておいでになるのです。その結果、千年王国がこの地上に現われるのです。イスラエル伝道をきっかけにして、キリストの王国をこの地上に現わす。千年王国を実現させるという神の御心を成就させようとお考えになっているのです。だから、自分の古き人生に馴染んではいけないのです。

十字架によって自分自身が揚棄された。十字架よって自分が否定されることが実現しました。そうして、イエス・キリストの復活によって、揚棄された事実が歴史的に現われたのです。

十字架と復活のこの二つのことを踏まえて考えますと、今私たちが生きているこの世界は、全く違ったものになってしまっているのです。

言が肉となったということは、イエス個人だけのことではないのです。人間全体もそうですし、万物全体もそうです。

イエスは万物全体を代表して現われたのです。なぜかと言いますと、万物を治めるためには、万物を代表する形でこの地上に現われる者が必要です。万物万人を治めるためには、万物万人を代表する形で、一人の人格が肉体的に現われなければならないのです。これを油注がれた者というのです。

神が人間を造ったのは、万物を治めるためです。この目的を果たすためには、万物万人の中からすべてを代表する見識と力を兼ね備えた者が現われて、万物と万人を治めなければならない。これが油注がれた人格です。

ナザレのイエスがそれです。ナザレのイエスは万人を代表した。すべての人に誠の光を与えただけではなくて、万物の存在の原理を示し、神の御名を示して、万物を本来あるべき所に変えてしまったのです。いわゆる草木国土悉皆成仏を実現させた。これがメシア王国の実体であって、そのためにキリストはメシアとしてこの地上に送られたのです。

彼の十字架と復活において、特に復活において、この事実が実現したのです。この事実が実現したことを新約聖書は第三の天と言っているのです。

今、第三の天において、イエス・キリストは神の右に座している。彼は万物を完成したので、神は彼を甚だしく崇めて、彼の功績を認めて、彼を自らの右に座せしめたのです。このような事実が現われたことを第三の天というのです。

今イエス・キリストを信じる者は、彼が座している所と同じ所に座せられるのです。ですから、私たちの信仰と私たちの祈りは絶対です。この祈りと信仰は、神の驚くべき力と知恵によって、神に支えられているのです。

全知全能のお方が、私たちの祈りを支えているのです。私たちの信仰の見方をしているのであって、「すべてことが働きて益となる」という事実を私たちに示しておいでになるのです。

今まででも神は私たちを導かれていましたが、これからも神自身の御心を成就するために、神は私たちに対して援助を惜しまないでしょう。

十字架は滅びるに決まっている者、死ぬに決まっている者から見ると、ちゃんちゃらおかしいものですが、救われるべき者、救われた者にとっては神の力です。何者にもかえがたい絶対者の力が、十字架となって私たちに与えられているのです。十字架は神の力です。私たちは十字架によって救われたのです。救われてしまっているのです。

十字架という歴史的事実、宇宙的事実は、私たちの人生の土台であると共に、神の経綸の基礎原理になっているのです。

既に第二創造(新天新地)は始まっているのです。そうなるであろうではなくて、そうなりつつあるのです。イエスの復活は神の救いが具体的事実になって現われていることの証明であって、神はこのような明々白々の保障を万人に与えて、悔い改めを命じておられるのです。

イエスが復活昇天したという明々白々な歴史的事実を保障として人間に与え、人間に見せ、知らせて、悔い改めを命じておられるのです。「悔い改めて福音を信じよ」。このことを私たちはどうしてもイスラエルに伝えなければならないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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