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  • 管理人chaya

イエスが持っていた永遠の命


聞くだけで行わない人は、滅びる人です。

例えば、食べ方を色々教えてもらいますが、食べるのは本人です。本人が生きていますから、命は本人が受け取らなければならないのです。

この世に生きているのが自分だと思っているのです。何年も聖書の勉強をしていながら、まだ自分が生きていると思っているのですから、そんなに自分が大切なら自分と一緒に心中したらいいのです。そんなに自分が重大でかわいいと思うなら、そんな自分と心中したらいいのです。

聖書の言葉を自分の意見で勝手に曲げている場合には、聖書に同調していないのですから、しかたがないのです。こういう人を聖書は滅びる人に定まっている魂と言っています。いくら聞いても自分と別れることができない人は、滅びるために生きてきた人間になるのです。

聖書にはそういう人がいるとはっきり言っているのです。そういう人間は火の池に行って、消えない火で焼かれるのです。

聖書の言葉は説明や導きはできますが、その人に理解させることはできないのです。本人が理解するのです。それができなければ、滅びるしかないのです。

神が人間を救わなければならない責任はありません。何をしようが、どんな経験をしようが、自分が生きている間は絶対にだめです。人間は自分が救われるのではないということが、どうしても分からないのです。

胃を半分取られようが、夫婦別れをしようが、手を一本切られようが、片目になろうが、地獄へ行くよりは神の国へ行った方がいいのです。それくらいの決心をしなかったらだめです。

パウロは次のように述べています。

「あなたがたもまた、キリストにあって、心理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである。

この聖霊は私たちが神の国を継ぐことの保証であって、やがて神につける者が全く贖われ、神の栄光を誉めたたえるに至るためである」(エペソ人への手紙1・13、14)。

皆様はこういうことを経験するためにいるのです。皆様は約束された聖霊の証印を受けているのです。神の約束が御霊であること、御霊が神の約束であること、御霊と約束が同じものであることを教えられているのです。

聖書の言葉を与えられている。聖書の言葉が命であることを体験している。そして、聖霊の証印を皆様は受けているのです。この聖霊は神の国を継ぐことの保証であると言っているのです。

ところが、皆様は受けた御霊を崇めていない。だから、神の国が見えてこないのです。約束の聖霊を受けた。聖霊の証印を受けた。聖霊の証印とは神の国を継ぐことの保証です。これを受けた者は、御霊を崇めていれば、神の国が見えてくるのです。神の国が勝手に分かってくるのです。

水と霊とによって新しく生まれて、神の国へ入るということがどういうことか、聖霊を崇めていれば勝手に分かるのです。崇めていない証拠に、神の国へ入ろうとしないのです。神の国が見えていないのです。

「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることができない」とイエスは言っています(ヨハネによる福音書3・3、5)。

聖霊を受けた気持ちを考えたら、新に生まれたという経験が誰でも分かっているのです。どのように聖霊を受けたのか、また、どのように御霊を受け止めたのか。どういう感激を味わったのか。御霊を受けた時のことを考えたら、新しく生まれた時のことを経験しているのです。

新しく生まれた命をじっと見ていけば、神の国が見えてくるに決まっているのです。それが見えてきたら、この世に自分が生きていると思っていることが間違っていることくらいは、誰でも分かるはずです。

頭が良いとか悪いには関係がない。それを実行しない人が悪いのです。

皆様は元来異邦人ですが、皆様がもしそれを実行したら、皆様は神のイスラエルになるのです。約束の聖霊を受けるというのは、割礼を受けることです。割礼を受けて聖霊を崇めれば、安息に入れるのです。

そこで、聖霊を受けてそれを崇めれば、割礼を受けて神の安息に入ったこと、神の安息を守っていることと同じ意味になるのです。ユダヤ人が考えている割礼や安息よりも、もっと上等です。霊の割礼、霊の安息を味わうことができるのです。

神に霊を渡すのです。霊を渡すというのは、自分自身を神に渡すのです。自分が生きていてはいけないということです。相手は神です。「神を軽んじるな」とパウロが言っています。人間は目に見えない所で、神を軽んじています。御霊を軽んじているのです。

御霊を受けていながら御霊を崇めないというのは、甚だしい不敬です。そういう不敬、罪を犯していることを認識して、不敬、罪をやめるならいいのです。御霊を与えられたのは、神の国を継ぐために与えられた約束の印です。これを約束の印と考えていない人は、神の国に入る資格がない人です。

キリストの再臨が間近に迫っていることについて、一向に切羽詰まった感覚を持っていない。現代文明がこんなに腐っていることについて、心から腐っていると思っていない。これがいけないのです。

人間文明はこれ以上存在する値打ちがありません。存在していてもしかたがないのです。文明の偽体がこのようになっているからです。テレビドラマにある状態が、一般社会に反映しているのです。テレビドラマは大多数の人が同情を感じて好意的に見たがるので、視聴率が上がるのです。これが現代社会の風潮を示しているのです。

こんな文明はあってもしょうがない。人間が生きていることが無意味です。五蘊皆空を実行しようと思わなくても、そのまま生きていたらいいのです。何にもならないだけ、地獄へ行くだけです。全く何にもならないのです。

皆様は霊を神に渡さずに自分で握り込んでいる。霊とは人生のことです。人生を自分で握り込んでいたい人は、握り込んでいたらいいでしょう。しかし、何にもならないのです。良いことはない、悪いことだけがあるでしょう。どんなに道徳的でも、どんなに宗教的でも、どんなに善事善行を行っても、そういうものは皆様の救いには何の関係もないのです。

世の中の動きは私たちが考えても考えなくても、神の処置どおりになっていくでしょう。やがて、中東和平が成立して、偽キリストが現われてきます。初めの三年半は上手くいくでしょう。それからが問題です。

地球に経済的、政治的、大変動が起きるのです。地殻変動が起きたり、気象変動が起きたりして、地球の物理条件が変わってくるのです。そうして、キリスト再臨の前兆が現われるのです。

自分を捨てることができなかったら、自分という古き人と心中するしかないのです。今まで何十年間生きてきた自分が存在すると思いたい人は、思ったらいいでしょう。そんな自分は何処にもいないのです。

聖書には不思議なことが書いてあります。イエスは次のように言っています。

「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死人でも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネによる福音書11・25)。

これはおかしい言葉です。こう言った時のイエスは、まだ十字架にかかる前です。もちろん復活する前です。これを言ったのは、十字架にかかる一週間前のことです。これはどういうことなのか。

イエスが甦りと言ったのは、普通の命ではないということです。普通の人間なら、甦りとは言わないはずです。甦りを英訳ではレザレクション(resurrection)という言葉を使っています。これはイエスの復活後の甦りと同じ言葉を使っています。

レザレクションというのは、イエスが十字架につけられて、復活したからできたものではない。イエスは十字架にかかる前に、私は甦りだと言っているのです。

レザレクションはライズアゲン(rise again)とは違います。ライズアゲインは今まで生きていたものが死んで、息が絶えた、そして、しばらくして、再び生き返った状態を言うのです。ラザロが生き返ったのは、ライズアゲインです。レザレクションではないのです。死んだ人間がもう一度生き返ったのです。

イエスは死んで生き返ったのではありません。レザレクションとは何か。これは別の命という意味です。地球上に、別の命が現われたという意味です。

イエスの命は別の命です。イエスがヨハネの福音書の十一章で、「私の命はおまえたちの命ではない。別の命だ」と言っているのです。「生きていて私を信じる者は死ななくなる」とイエスが言ったのは、こういう意味です。

イエスはマルタに、「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と聞いています。文語訳では、「汝、我を信じるか」となっています。とても歯切れがいいのです。

マルタはイエスに、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」と答えたのです。

マルタはやがてメシアが現われてユダヤ民族を救うと考えていた。今目の前にいるイエスの命が甦りであり、命であると信じていないのです。キリストが甦りであり、別の命です。ユダヤ人にはこれが分からない。十字架以後、二千年も分かっていないのです。これをユダヤ人にしっかり言わなければならないのです。

イエスはこの世へ来た。イエスの命は普通の命ではなかったのです。レザレクションを見せるために来たのであって、人間が生きている命ではない、別の命を持ってきたのです。

「私は別の命で生きている。おまえたちから見れば、普通の命に見えるかもしれないが違う」と言っているのです。甦りであり、命であるというのは、おまえたちと違う命を持っている。しかし、おまえたちと同じ命も持っている。二つの命を持っていると言っているのです。

十字架以後は、復活の命だけになったのです。十字架にかかる前は、普通の命と、甦り命と、両方の命を持っていた。だから、「私は甦りであり、命である」と言っているのです。この言葉は意味深長です。

御霊を受ける、聖霊を受けるとどうなるのか。受けた命はどういう命なのか。レザレクションの命です。死なない命を与えられたのです。御霊を受けたもの、聖霊を受けた人には、当然この実感があるはずです。

イサクの子とはこういう意味です。「私は甦りなり」というのは、イサクの子という意味です。イサクの親玉がイエスです。

イサクは死ぬべき人間とは違います。アブラハムが特別に神に頼んで神から与えられた命を、イサクというのです。普通に生まれた人間ではない。神の約束によって生まれた子です。約束の子です。イサクの命はレザレクションをそのまま現わしている命だったのです。

イサク自身も知らなかったのです。今になって考えると、福音の流れがそうなっているのです。パウロは「イサクの子だけが救われる」と言っているのです。皆様もイサクの子であると信じるなら、両親から生まれた命を捨てるべきです。

聖霊によりて新しく生まれた自分であることを自覚するのです。これならレザレクションに係わることになるのです。生きているままで死なない自分になるのです。「私を信じる者はたとえ死んでも生きる」となるのです。

二十六節に「生きていて私を信じる者は、いつまでも死なない」と書いているのですが、この言葉がぴたっと自分のハートに張り付くのです。私は死なない命に生きているということが、はっきり分かるのです。死が全然怖くない人間になってしまうのです。死を乗り越えてしまうからです。

御霊を崇めるというのは、約束の子になることです。受けた御霊を命とするか、親から生まれた命を自分の命だと信じるか。どちらかになるのです。

皆様は御霊を受けた時に、新しく生まれたのです。それを自分の命と思うか思わないかです。御霊を受けた時は古い命を持ったままで受けたのですから、古い命を持った自分が御霊を受けたと思いやすいのです。ところが、そうではない。受けた御霊が、自分の前の命よりも大きい意味を持っている。前の命よりも絶対的な意味を持っている。受けた御霊は死なない命です。ところが、御霊を与えられたいと思っていたのは死ぬべき命です。

死ぬべき自分が御霊を与えられたことによって、死なない自分に変わってしまったのです。これを御霊を崇めるというのです。

皆様は今まで、自分の命で生きていました。これはイサクから出た子とは違います。イサクから出た子は約束によって生まれた子であって、これは「私は甦りである」とイエスが言うように、別の命です。

ヨハネは言っています。

「なぜなら、すべて神から生まれた者は、世に勝つからである。そして、私たちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。

世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか。

このイエス・キリストは、水と血とを通って来られた方である。水によるだけではなく、水と血とによって来られたのである。その証をするものは御霊である。御霊は真理だからである。

証をするものが三つある。御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する」(ヨハネによる福音書5・4~8)。

私は甦りの命と言っただけではだめです。その証がなければいけないのです。水と血と御霊の証がいるのです。水の証とは何か。自分の体が水だという意味もありますが、これは個人的な小さい意味です。もっと大きい意味があるのです。

六節には「水を通ってきた」とあります。ここには、ザ・ウォーターという言葉が使われています。ただのウォーター(water)と、ザ・ウォーター(the water)があります。まずただのウォーターが分からなければ、ザ・ウォーターは分かりません。

最初に書かれている定冠詞がないウォーターは、森羅万象全体を指しているのです。現象世界全体をウォーターと言っています。

聖書に、「古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水が元になり、また、水によって成った」とあります(ペテロの第二の手紙3・5)。現象世界全体で水素原子が九十八%を占めていると言われています。水素原子が万物の基本元素になっている。万物が水によってできたというのは、こういう意味を指しているのです。

神の霊が水の面(顔)を動かしているのです。その水を通ってイエスはやってきた。イエスは自分自身が水であることを確認していた。自分自身が水であることを確認すると、ザ・ウォーターになるのです。

現象世界に入ってきたのは、ウォーターです。これは定冠詞のない水です。水の面が動いている所へイエスが入ってきた。そして、自分の肉体が水であることをイエスが確認した時に、彼の肉体がザ・ウォーターになったのです。

聖書の言葉を細かく説くと、とても人間には分からない事になるのです。聖書はこの世に生まれた人間には、とても分からないものです。イエスが水を通ってきた。これが分からなければ、とても水の証はもらえるものではないのです。人間の肉体も万物も水だというだけではだめです。

水の顔(表)を神が動かしている。水の顔がいくらあってもだめです。御霊がそれを動かしているのです。御霊が水に号令をかけている。皆様は今それを見ているのです。

御霊が水の顔を動かしている。これが皆様の命の原点です。荷物を持とうとして持ち上げると同時に力が出るのです。荷物を下に降ろすと力がなくなるのです。力とは何かです。

イサクの子である自分が発見されると、力とは何かがすぐに分かるのです。肉という水の顔を神の御霊が動かしているのです。持ち上げると同時に、力が入る。降ろすと御霊が力を止めるのです。そこで、力がなくなるのです。

皆様が見たり聞いたりしているのは、何をしているのでしょうか。皆様の心臓が動いているのは何でしょうか。神が動け(move on)と号令をかけなかったら、動かないのです。号令を止めたら、すぐに動きが止まるのです。神はいつも水の表に号令をかけて動かしているのです。そうしないと動かないのです。

皆様はこの世に生きていて、食事をして、手足を動かして、仕事をしたり、家事をしていますが、生理機能から肉体機能まで、すべて動かしているのです。御霊がいつも号令をかけているのです。このことをイエスは、「生かすものは霊である」と言っているのです。こういうことが分かると、約束の子になる。イサクの子であることが証明されるのです。水の証を持ったのです。

また、ヨハネは述べています。

「私たちは人間の証を受け入れるが、しかし、神の証はさらに勝っている。神の証というのは、すなわち、御子について立てられた証である。

神の子を信じる者は、自分のうちにこの証を持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子について証せられたその証を信じていないからである」(同5・9、10)。

証をするものが三つある。水と血と御霊の三つです。皆様が神の子であるかないかを、水が証しているのです。水とは何か。森羅万象です。森羅万象が皆様が神の子であることを証しているのです。

イエスが神の子であることを、水が証しているのです。イエスはまた、森羅万象を証している。この時初めて、私たちは神の子として、神にかたどりて、神のかたちのように造られたこと、本当の人間の存在の意味が分かるのです。

イエスを神の子と信じる者はこの証を持っているのであって、この証を持っている者はとこしえの命を持っていると言っているのです。

イエスが神の子であることを、水が知っていた。だから、イエスが波に向かって、「静まれ」と言ったら、静かになったのです。水がイエスを知っていたから、波がイエスの声に従ったのです。

なぜ霊を渡さないのでしょうか。人生を自分で握り込んでいるからいけないのです。

六節はイエスのことを言っています。七節、八節はイエスのこととは違います。ただ、水と血と御霊のことを言っているのです。

皆様が御霊を見ていれば、御霊が皆様を見ているのです。御霊を見ていなければ、御霊が皆様を見ていないのです。従って、御霊が皆様のことを知らないのです。皆様が御霊を知っていたら、御霊も皆様を知っているでしょう。

皆様が血のことを知っていたら、血もまた、皆様のことを知っているのです。皆様が血のこと、水のことを知らなければ、水も血も皆様のことを知らないでしょう。ところが、御霊と血と水が証してくれなかったら、皆様は神の子ではないのです。

なぜかと言いますと、水を知ることが神の子のしるしになるのです。血の本性を知ることが、神の子であるしるしになるのです。また、御霊の本性を知ることが、神の子のしるしになるのです。

水の証が分かっていない原因は何かと言いますと、創世の原理が分かっていないからです。神が万物を造ったとはどういうことか、人間を造ったとはどういうことか。人間を造ったとは誰を造ったのか。

神が人間を造ったというのは、レザレクションの人間を造ったのです。死ぬ人間を造ったのではないのです。

創世記の第一章を書いたのは、ネヘミヤではないかと言われています。ネヘミヤでなければ、当時の預言者の誰かが書いたのです。その預言者は旧約時代の預言者でした。旧約時代の預言者は、メシアの降臨ばかりを頭においていたのです。私たちが今イスラエルの回復ばかりを念頭に置いているのと同じです。

その時の預言者はメシアが来たりたもうことばかりを考えていたのです。その時神はネヘミヤに何を書かしたのか。神のかたちのごとく神にかたどりて、神が人を造ったと書かせたのです。御霊がそう示したのです。ネヘミヤが書いたというより、御霊が書かせたのです。

御霊はネヘミヤに何を示したのか。ただの人間を示したのではない。聖書を読んでいるイスラエルの人々は、ユダヤ人たちのことを書いていると思っているのです。ただのユダヤ人たちが、なぜ神にかたどっていると言えるのでしょうか。今のユダヤ人たちは人間の実体を全然知らないのです。

第三の天において、神の右に座しているキリストは、復活の命を持っている。キリストご自身がそのままの状態で、復活の栄光を持ったままの状態で、地球上に降りてくるのです。

「天を裂いて下りたもう」と預言されているのです。「彼の足が橄欖山に立つ」とはっきり言われているのです。「我すみやかに来たらん。必ずすみやかに来たらん」とあります。そして、「アーメン」という言葉があるのです(ヨハネの黙示録22・12、20)。これはキリスト教会の信者が言うアーメンではなくて、キリスト自らがアーメンと言っているのです。

再臨のキリストが、「我すみやかに来たらん。アーメン」と言っています。これは大変なことです。皆様はこのキリストをお迎えする光栄ある責任者になるのです。ですから、皆様は親から生まれた体も命も、全部棒にふらなければいけない。これができなければ、その責任は果たせないのです。

現世に生きていることが、神の国に生きているのと同じであれば、そのことを水と血が知っているのです。血とは皆様の食べ方、飲み方です。奥さんの抱き方です。万物と人間は一つです。万物の霊長という言葉は恐ろしい言葉です。

私たちは全世界の歴史を新しくしなければならない責任を負っているのです。人間の命を新しくするのです。イエスがキリストであることを信じるだけでいいのです。イエスがキリストであることを信じることは、皆様が神の子である証を持っていることを意味するのです。神から新しく生まれていることを意味するのです。

神から生まれた者は罪を犯さないと書いているとおりです。古き人で生きていないから、罪を犯す必要はないのです。

パウロは、「私は神に生きるために、掟によりて掟に死んだ」と言っています(ローマ人への手紙7・11)。これを実行するのです。神に生きるというのはとても楽しいことです。

神に生きることを建前にしてご飯を食べるのです。そうすると、私に食べられたご飯が、この人は神の子であることを証してくれるのです。神の子であるという信仰でサンマを食べると、サンマは神の子に食べられたことを知っているのです。万物は非常に素直です。こちらの信仰状態がすぐに分かるのです。

生ける神の子であるという自覚を主人がはっきり持ちますと、その家庭のすべてが勝手に良くなるのです。生きていることが御霊になってしまうのです。

生きていることは御霊に決まっています。パウロは「私たちは御霊によって生きているから、御霊によって歩みなさい」と言っています。

イエスは「生かすものは霊である」と言っています。イエスもヨハネもパウロも、水と血と御霊をよく見ていたのです。聖書を本当に信じると人間が変わってしまいます。水が自分の証をしてくれるのです。水に証をしてもらおうと思いますと、いい加減な信仰ではだめです。

受けた御霊を崇めるのです。これだけでいいのです。新約時代はすべての人に死なない命が与えられている。それを受け取ろうとしない人が、全世界に七十一億人もいるのです。

神に霊を渡すというのは、神の導きに対して、徹底的に素直になることです。女性は自分が持っている色気を知らないのです。これはちょうど人間が魂でありながら、魂であることを知らないのと同じです。人間は魂が自分の命です。女性は色気が命です。それを知らないのです。何という愚かかと言いたいのです。

女性は細かい所に気をつかって、男の人にああしてあげよう、こうしてあげようと無意識に考えています。これが女性の色気です。女性はそれが色気だとは知らないのです。誰かの世話をすることが女性の喜びです。そうすると、自分の霊の喜びが分かるのです。それと同じように、人間はどのように神に気をつかうかです。神に気をつかうと、神が喜んでくれるのです。

男は鈍感ですから、女性に気をつかわれても分からないのです。気をつかってくれるのが当たり前だと思っているのです。人間の霊魂が神に気をつかうことを、崇めるというのです。御名を崇めるというのです。神に気をつかうと、人間の三倍も、五倍もそれを知ってくれるのです。女性が男性に気をつかうこととは全然違うのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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