現在、地球にいる人間が、毎日、毎日、死んでいきます。昨日も一昨年も、数え切れない人が死んできました。これはなぜか。なぜ毎日多くの人間が死んでいくのか。ユダヤ人が神に悔い改めないからです。
イエスは言っています。
「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。私は言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』と、おまえたちが言う時までは、今後再び、私に会うことはないであろう」(マタイによる福音書23・38、39)。
主の御名によってきたる者とはイエスのことです。ユダヤ人がイエスを受け入れたら、地球上から死がなくなる。人類は死ななくなるのです。これは驚くべきことです。
イエスはイエス・キリスト来たりたまえとイスラエルが祈ることを、予告しているのです。そういう時が来ることを、イエスは知っているのです。
イエスがこれを予告しているということは、そういう時が来るに決まっているということです。だから、私たちはこの時を来たりませと祈るのです。
ところが、イスラエルのために祈ってはいけないのです。イスラエルのために祈るということは、父なる神に反抗することになるのです。イスラエルを苦しめることが神の御心だからです。
私たちはイスラエルが覆ることを祈っている。これは父なる神の御心に背いて祈っているのです。だから、それなりの覚悟がなければいけないのです。
こういう祈りをキリスト教はできないのです。神に逆らう、第三天におけるキリストの祈りに同調して祈るからです。キリストの妻となるべき者は、キリストと同じ祈りをするのであって、キリストは第三天において父なる神に逆らっているのです。
父なる神はイスラエルを捨てたのです。父なる神に捨てられた民族のために、「父よ、彼らを許したまえ」と祈るのです。キリストの妻はキリストと一緒にその祈りをするのです。父なる神はイスラエルのために祈れとは言わないのです。イスラエルを勘当した手前、そういうことができないのです。
私たちは第三天のキリストの祈りに会わせて祈っているのです。父なる神に逆らって、キリストに賛成しているのです。キリストには賛成しているが、父なる神に反対して祈るのです。この根性を持たないといけないのです。この根性がなければ、祈ってはいけないのです。
神に逆らって祈る場合は、神がよほど分かっていなければだめです。父なる神が手に取るように分かっていなければできないのです。神に逆らって祈るからです。
第三天のキリストの祈りというのは、現世の祈りとは違います。第三天でなければできない祈りをしているのです。第三天は神の右です。神の右に座する者でなければできないような祈りを、私たちはさせられているのです。神の右で祈っているのです。だから、無理なことが言えるのです。
自分の救いを棒にふってもいいから、神に逆らって祈るという決心をしなければならないのです。
主の名によって来る者は幸いであるとユダヤ人が言う時期が来るに決まっていますから、その時期を早く来たらせたまえと祈るのです。イエス・キリストの預言を祈っているのです。私たちが勝手なことを祈っているのではないのです。キリストが予告しているのですから、その予告的事実が現われますようにと祈っているのです。
神に捨てられたユダヤ人のために祈る人は、キリスト教では一人もいないでしょう。
人間は生ける神を知らないのです。イエスは生ける神の子として生きていた。神の御心を知っていたから、ユダヤ人を叱ったのです。神はユダヤ人を選んだけれど、はっきり捨てたのです。これが現在のユダヤ人の状態です。
ユダヤ人が神に背いたために、異邦人の時が来たのです。異邦人が救われるようになったのです。ここまではキリスト教でも分かっていますが、救われた異邦人が、父なる神に逆らってイスラエルを救いたまえと言わねばならないことに、キリスト教全体が反対しているのです。特に、カトリックは反対しているのです。ユダヤ人のために祈ったらいけないと言っているのです。
私たちは滅ぼされても構いませんが、イスラエルが回復されて、約束が成就しなければいけないのです。
第三天におけるイエス・キリストの名において祈るとすれば、父なる神は聞かざるを得ないのです。神の右の名によって祈るのですから、その祈りがしてはならないものであっても、その祈りを聞かない訳にはいかないのです。
そうしなければ、キリストの再臨は実現しないのです。再臨が実現しなければ、キリストの復活の栄光を人間が信じることができないのです。
神がキリストを甦らせて、第三天へ座せしめたけれど、全世界の人間に見られないのなら何にもならないのです。キリストの再臨が実現するためにも、第三天にキリストが座していることをユダヤ人が信じなければ、キリストの栄光が地上に実現しないのです。だから、神に逆らってでもキリストのために祈らなければならないのです。
キリストの栄光が現われるために、そして、イスラエルの回復のために祈るのです。父なる神がその祈りを望んでいなくも、神に無理にそうするのです。
世界中のキリスト教で、マタイによる福音書二十三章三十八節、三十九節をいう人は一人もいません。
神はユダヤ人を憎んでいますけれど、ユダヤ人に約束を与えたのは神ですから、ユダヤ人が元通りにならなかったら、神の面子にかかわるのです。神の面子にかかわるのですが、神はユダヤ人を憎くて、憎くてしかたがないのです。
あるキリスト教の人々は、千年王国が実現すればイスラエルが回復するとして、千年王国の実現を祈ったのです。これは逆です。イスラエルが回復しなければ、千年王国は実現しないのです。
主の名によって来る者に幸いあれとユダヤ人が祈らなければ、再臨は実現しません。これを言う人がいないのです。主の名によって来る者は幸いであると、まずイスラエルに言わせなければならないのです。そうしなければ、キリストの再臨ができないのです。イスラエルにそのように祈ってもらわなければいけないのです。
イスラエルの回復の祈りをユダヤ人にしてもらうこと、そうすると、キリストが再臨するのです。異邦人がいくら「主よ、来たりたまえ」と祈ってもだめなのです。
かつて、キリスト教のある人々は、異邦人である私たちが「主よ、来たりたまえ」と祈れば、再臨が実現すると考えていました。これが間違っていたのです。
イスラエルのために真剣に祈る人は、キリスト教会にはいません。世界のキリスト教会の中にもいないでしょう。自分の救いを棒にふって、イスラエルの回復のために祈る人はいないのです。
現在、世界中で毎日、毎日、人間が死んでいきます。なぜ死んでいくのかと言いますと、ユダヤ人がキリストの復活を信じないからです。ユダヤ人がキリストの復活を信じて、「主の名によって来る者は幸いなり」と言い出せば、キリストの再臨が実現します。再臨が実現すれば、人間が死ぬというばかな事実が地球上からなくなってしまうのです。
でたらめな政治、経済、宗教がだらだらと続いています。こういうでたらめな人間文明が続いているのは、ユダヤ人が祈らないからです。
ユダヤ人がキリストを受け入れないので、本当の聖書の光が全く開かれていない。主なる神の御名、イエス・キリストの御名という根本的問題が全く欠如しているのです。新約聖書があってもなくてもどうでもよい状態になっている。まともに聖書が信じられていない。
若干のユダヤ人が真剣になって、主の名によって来る者は幸いなりと言い出せばいいのです。世界中が行き詰まって、人間がどんどん死んでいく。文明とキリスト教の腐敗を直すためには、若干のユダヤ人がイエスのために祈ればいいのです。その人々が私たちの所に来ればいいのです。
聖書に次のようにあります。
「私はあなたのわざを知っている。見よ、私はあなたの前に誰も閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、私の言葉を守り、私の名を否まなかったからである。
見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実、ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足下に来て平伏するようにし、そして、私があなたを愛していることを、彼らに知らせよう」(ヨハネの黙示録3・8、9)。
私たちのグループがこれに該当しているかどうか分かりません。神がそれを決めるでしょう。私たちがこれに該当するグループになるように切望する次第です。
生ける誠の神の前に出ていないからいけないのです。神の膝をたたいて、ユダヤ人を何とかして下さいと祈らなければいけないのです。キリストの御名によってただ切望しますと言って祈るのです。神の膝を動かして祈るのです。
イスラエルの祈りを真剣にすると、自分を捨ててしまわなければならないことがだんだん分かってきます。そうすると、本物の信仰になるのです。自分のことを考えているようでは、とても本物の信仰にはならないのです。
父なる神に逆らうような祈りをすると、初めて、イエスが十字架につけられた意味が分かってくるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)