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  • 管理人chaya

三次元の世界


現在の三次元の世界は、悪魔の反逆のために神が造ったものであって、三次元の物体は物ではなくて肉です。存在ではなくて仮存です。存在というべきものではなくて、仮にあるものです。

そこで、このような世界を造って、これを現象と見るか、非現象と見るかによって、神に見方をするか悪魔に見方をするかを、神が判定しようと考えたのです。

悪魔は果たして、三次元の現象世界を実体だと考えたのです。そうして、自分は淵の表の王であるはずだと考えた。そこで、彼は現世の王となるために人間をたぶらかしたのです。

人間は現世における最高の創造ですが、それを自分の弟子にしてしまえば、悪魔が現世の王になるのです。悪魔はこの手をうったのです。現世が実体だと思えたからです。

悪魔は現世を押さえてしまえば、自分の勝ちだと考えた。現世を押さえた者は神に勝つと考えたのです。現世を信じた者、現世に権威をはった者は、神に勝てると考えたのです。

ところが、イエスはそう考えなかったのです。現世は仮存在である。だから、現世に対する神の処置を変えるくらいの信仰を持つ者こそ、勝てるのだと考えた。

悪魔は現世に勝てないと考えた。イエスは現世に勝てると考えた。事々物々に勝てると考えたのです。現象は幻ですから、勝たなければ信仰ではないと考えたのです。

イエスは言っています。

「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」(ルカによる福音書17・6)。

桑の木は抜け出して海に植われるはずがない。桑の木の根は縦横に曲がりくねっていて、土をしっかり抱いるのですから、桑の木が抜けるはずがないのです。仮に抜けた所で、海に植わるはずがないのです。

聖書に次のような記事があります。

「イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大勢の群衆が御元に集まってきた。イエスは海辺におられた。

そこへ、会堂司の一人であるヤイロという者が来て、イエスを見かけると、その足元にひれ伏し、しきりに願って言った、『私の幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子が治って助かりますように、お出でになって手をおいてやってください』。

そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大勢の群衆もイエスに押し迫りながら、つついて行った。

イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々が来て言った、『あなたの娘は亡くなりました。この上、先生を煩わすには及びますまい』。

イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、『恐れることはない。ただ信じなさい』。

そして、ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネの他は、ついて来ることを誰にもお許しにならなかった。彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをご覧になり、内に入って、彼らに言われた、『なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである』。

人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、子供の父母とともの者たちだけを連れて、子供のいる所に入って行かれた。そして、子供の手を取って、『タリタ、クミ』と言われた。それは、『少女よ、さあ起きなさい』という意味である。

すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち大変な驚きに打たれた。

イエスは誰にもこの事を知らすなと、厳しく彼らに命じ、また少女に食物を与えるようにと言われた」(マルコによる福音書5・21~24、35~43)。

現象的に全く不可能なことができると信じるのが信仰です。三次元世界においては当然できないことです。死んだ娘は耳が聞こえないはずです。それに向かって物を言うのです。

イエスは娘が死んだとは考えなかった。眠っていると考えた。人間的に考えたら無茶苦茶です。イエスは死んでいるという客観条件をあえて無視したのです。死んでいるのではない。眠っているのだと考えた。そう考えた時に、そうなったのです。イエスがそう考えた時に、そうなったのです。

娘の手を取って娘に呼びかけた。「娘よ起きなさい」と言って起こしたのです。そうしたら霊が帰ってきたのです。

娘は聞こえなかったけれど、娘の霊は聞こえたのです。だから、霊が帰ってきたのです。娘の耳は聞こえなかったが、霊の耳には聞こえたので、霊が帰ってきたのです。

死者の霊は死骸から出るのです。ところが、イエスはその霊に向かって呼びかけた。この信仰です。イエス・キリストの信仰はこれです。

イエスは言った。「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネによる福音書11・25、26)。

甦りというのは現在の命を初めから否定しているのです。イエスは現世に生きている大工の青年である命を否定していたのです。

イエスは現世に対しては、初めから死んでいた。そして、神に生きていた。現世に対して、初めから死んでいるとイエスは考えていた。そうして、神に向かって生きていた。これは甦りです。

私は甦りであり、命である。イエスは十字架にかかって復活するはるか前にそう言っているのです。十字架にかかる前です。死んで復活して甦りというのなら分かるのですけれど、十字架にかかる前に、私は甦りであると言っている。これを考えて頂きたいのです。

皆様は三次元の現象世界を絶対だと思っています。天地万物、森羅万象が本当にあると思っているのです。

目に見える現世は幻だということが分からないのです。自分の肉体があるということ自体が、色即是空であって、嘘です。こんなことは般若心経にも書いてあるのです。

現在、私たちが見ている山川草木は嘘です。色即是空です。自分自身の肉体も実在していないのです。仮存しているのです。仮に存在しているだけです。

私たちは毎日、般若心経をあげたらいいのです。般若心経をまずマスターしなければ、十字架はとても信じられません。

般若心経が了得できない者は、十字架が信じられるはずがないのです。色即是空が信じられない者は、十字架がどうして信じられるでしょうか。

色即是空は前篇です。十字架は後篇です。こういう順序になっているのです。

現在の地球存在は、このまま存在していても何の意味もありません。信仰ということは現象を信じないと同時に、全能者の腕を動かすことができると確信することです。

ただ現象を信じないだけなら、色即是空を信じるだけで終わりです。これでは信じたとは言えないのです。全能者のかいなを動かす、大能のかいなを動かすのです。これが信仰です。

これは般若心経にはありません。何処にもありません。これは宗教の世界にはないのです。ヨシュアはヨルダンの水を止めたのです。モーセは紅海の波を裂いた。しかし、死者を甦らせなかったのです。これはイエスが初めてしているのです。命を呼び帰すということを、イエスが初めて行ったのです。これは絶大なる偉業です。

アブラハムがイサクを捧げよと言われた時、神がイサクを必ず甦らせると信じた。神がそれに負けたのです。

アブラハムはイサクが必ず甦ると信じた。なぜなら、イサクは約束によって与えられた子供であるから、神が召し上げてしまうはずがないと確信していたのです。つまり、神の約束を信じていたのです。

現象よりも約束を信じていた。約束は必ずなると信じたのです。これが約束の霊です。この約束の霊が皆様の心に張り付いたら、神の約束は必ず成るという恐ろしい信仰が働き始めるのです。

約束は実現するのです。創造者の約束ですから、実現するに決まっています。

創造とは何か。モーセがホレブの山で神に出会った時に、あなたの名前は何ですかと質問した。その時に神は「私は有って在る者」(I am that I am.)と答えているのです。

アム(am)が神の実体です。ただのBe動詞です。ただのBe動詞が恐ろしいのです。一番平凡なものですが、一番恐ろしいのです。

Be動詞の処置を変えるのです。死人であるということを変更するのです。死人であるということを、生きる人間であると変更するのです。であるという状態を変更するのです。

イエスはこれをしたのです。モーセも海であるという状態を陸であるという状態に変えたのです。モーセのやり方は華々しく見えますが、一人の人間を甦らせたということには到底及ばないのです。太平洋の波を裂くよりも、一人の人の魂を生き返らせる方が重大です。

旧約時代には、モーセやエリアによって物理的な意味での信仰はなされていたのです。エリアでもしていました。物理的な意味で神の手を動かした人はいましたが、命理的な意味で神の手を動かした人はイエスが初めてです。

イエスは新しい命を創造したのです。死んでいる人間を生き返らせたのです。これは新約の復活ではありませんけれど、新約の復活への前提条件となるべきものだったのです。

この娘は生き返りましたが、また、死んだに決まっています。何十年かの後に、この娘は死んだのです。ベタ二アのラザロも生き返ったが、また、死んだのです(ヨハネによる福音書11・1~44)。

ところが、イエスが復活した後の甦りの命を信じる者は、絶対に死なない。永遠に死なないのです。これをよく承知して頂きたいのです。

大体、現世に生きていることが幻です。幻ですから、現世から去ることは死を意味しないのです。幻の世界から霊の世界へ帰るだけのことです。これは死ぬのではないのです。

私たちは今、幻の世界にいます。幻の事がらを見ているのです。だから、利害得失、善悪を信じたらいけない。現世のできごとを、自分の気持ちで信じたらいけないのです。

命に関する神の処置を曲げるということができなければ、人間は救われないのです。私は生ける神の子キリストであるという以上、命に関する神の処置を曲げることができなければ、キリストであるという証が嘘になるのです。

イエスはここで、私は生ける神の子キリストであるという言葉に対する証をしている。これがキリストの証です。そこで、皆様もキリストの証を持ちたいと思うなら、古い自分はもう死んでいる。再び、甦って新しい命に生きていることを信じて頂きたい。

第二の命に生きていることを信じて頂きたい。生まれながらの命には生きていないと信じるのです。第二の新しい人生に生きていると信じて頂きたい。そうして、新約聖書がそのまま自分の命であると信じて下さい。

自分の気持ちを全く信じないことです。どんな理由があっても信じないことです。新約聖書の言葉を自分の命として受け取るのです。

「私の言葉は命であり霊である」と言ったイエスの言葉のように、イエスの言葉が命です。また自分の霊であると信じることです。

パウロは言っています。

「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのです。私たちの命なるキリストが現われる時には、あなたがたもキリストと共に栄光のうちに現われるであろう」(コロサイ人への手紙3・3、4)。

人間は賤しい低い状態でこの世に現われているのですが、これは私たちの本当の命ではないのです。私たちの命はキリストです。キリストが再臨する時に、キリストと共に栄光のうちに現われるのです。

今の命は本当の命ではない。キリストが再臨する時に現われる命、携挙される時の命が本当の命です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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