聖書に、「見えるものは現われているものから出てきたのではないことを、悟るのである」とあります(ヘブル人への手紙11・3)。この意味が分からないといけないのです。霊の思いが分かっていないのです。霊の思いで聖書を見るということが分かっていないのです。
精神の霊を新しくしなければいけないのです。精神構造の基本原理が分かっているなら生きるのです。
皆様は変えようとは思っているけれど、変わっていないのです。精神の霊を新しくするというのは、レニュード(renewed)であって、精神の原理、あり方を転換することが、心の霊を新しくすることです(エペソ人への手紙4・22~24)。
精神次元を新しくすることです。これはできるのですが、皆様はまだ決意ができていない。それは霊(人生)を神に渡していないからできないのです。
古き人をはっきり脱いでしまうのです。花嫁の備えを全うするというテーマに取り組んでいるグループは、新約時代が始まってからないでしょう。
もっと次元が高い指導原理を持って頂きたいのです。皆様自身がまだ達していなくても、理想を高い所に置いて頂きたいのです。今までの皆様の精神次元で考えることを、やめて頂きたいのです。
自分自身を脱皮するのです。精神次元が低いことは、精神構造が新しくされていないということです。精神の表裏が改められていないということは、自分の原罪に押さえ込まれているからです。
原罪を蹴飛ばしてしまうのです。もっと大胆に、勇敢に考えて頂きたいのです。聖書に、屋根瓦を壊して中風の人を下ろして、イエスに治してもらったとか、血漏の女が人をかき分けて、強引にイエスに突進して行ったという記事があります。天国を激しく攻めるというやり方をしてもらいたいのです。
上品ぶっているからいけないのです。自分のペースを認めているからいけないのです。今までの自分のペースを自分で踏みつけるのです。そういう勇敢な気持ち、バイオレンスをしてもらいたいのです。新約聖書の理想に向かって突進してもらいたいのです。
未だかつて、世界のキリスト教会の中で、私たちが考えているようなグループはなかったでしょう。私たちはイスラエル十四万四千人の額に、生ける神の印を印するということを考えているのです。これを神が期待しているのです。
十四万四千というのは、完成の完成であって、第一の完成は教会の完成を意味します。第二の完成は神の教会の完成を意味します。天のエクレシアーを完成するための責任行動を取らされようとしているのです。
神の教会を完成するための責任者になれと、神は命令しているのです。これがイスラエル十四万四千人に印をするということです。
これをまず人に言って頂きたい。人に言うことによって、自分がそうならなければならないと思うのです。
イスラエル十四万四千に印を押すのです。これは完全に霊的状態のものを完成するのです。完全に霊的状態のものを、完全数に満たすのです。完全を完全にするのです。これが十四万四千です。
私たちが直接十四万四千に印を押すのではないかもしれない。その場合には、私たちの活動が教会完成への導火線になるのです。この進行を誰も止めることができません。必ず達成されるのです。
東方の天使、日出ずる国の御使いは、リビング・ゴッドのシール(印)を持っています(ヨハネの黙示録7・2)。これはいわゆる人間の神観の神ではありません。
リビング・ゴッドのシールとは何か。リビング・ゴッドとは何か。シールとは何か。皆様がリビング・ゴッドのシールを持つことが絶対条件です。
リビング・ゴッドのシールとは何か。私たちに今働いている生理機能、心理機能、五官が働いていることが神の実物です。しかもこれは、創世記第三章で、アダムが陥罪を犯す前の命の状態を、今現在、経験しているのです。今現在、経験していることが印です。
神の実物、永遠の生命の実物、アダムが陥罪する前の命の実物を、今現在、確実に経験しているのです。これがリビング・ゴッドのシールです。これを持っていることを確認しなければいけないのです。
私たちは日出ずる所から出る天使としての責任を、果たさなければならないのです。これが自分であるかないかを考えなくてもいい。自分であると信じたらいいのです。
新約の原理は、自分がそうであると信じればそうなるのです。信じない者はそうなりません。信じる者がそうなるというのが新約の原理ですから、実行したらいいのです。
「命をかけて我に近づく者はないか」と神が言った時、イザヤは「我ここにあり」と言って、神に近づいて行ったのです。これができなければいけないのです。我ここにありと言える自分になればいいのです。
今まで生きてきたのは自分ではなかったことが分かるのです。生ける神の印を持てば、今まで生きてきたのは自分ではなかったことが、はっきり分かるのです。これが分かったら、神に霊(人生)を渡したことになるのです。自分がいないということを、毎日考えたらいいのです。
生ける神の印を持った天使の集団であることを、名実共に実行しなければならない。もし、神が私たちにそのような期待を持っていないとしても、私たち自身がその集団であると切望すればいいのです。
何につけても、霊を渡し続けるのです。心を一つにし、思いを一つにして、神が欲する所を行えばいいのです
信じる者は救われるというルターの考えは間違っています。アブラハムのシード(seed)は一つですから、一人の人を救うだけです。メシアは人間を救わないのです。
人間は一人です。私たちは時間的、実力的なものに基づく表象で生きています。数量というのは、人間の通念、通欲の理論であって、実は存在していないのです。
神においては事がらだけしかないのですから、自分がいないと同様に、地球もないのです。時間や空間を越えて考えるという認識を持たなければならないのです。
神はアブラハムに多くの子孫を与えると言っています。子孫とは何か。シードとは何かです。単数のシードを地のちりのようにするとあります。これは何を意味するのかということです。
一つのシードがちりのようになれるはずがない。神がアブラハムにシードを与えると言った時、アブラハムはキリストの世を見ていた。イエスがこの地上に現われることを、自分のシードが現われると見ていた。
そうすると、シードは約束の完成を意味するのです。おまえに大いなる約束を与えると言っている。これがシードです。神がアブラハムに与えたのは、パウロが言うように、極めて大いなる限りなき栄光です。これをアブラハムはシードとして見ていたのです。
キリストを自分の末として見ていたのです。そこで、神が営みたもう所の望みある都を見ていた。これはニューエルサレムのことです。新天新地のことです。
アブラハムはシードという言葉によって、これをすぐに感じたでしょう。彼は新天新地を望んでいたのです。
実は新天新地には一人の人しかいません。天国は一人の人であって、花嫁が完成すると、花嫁は花婿になるキリストと一人の人になる。会いて一体となるのです。これがアブラハムの子孫です。アブラハムはこの日を見ようとして喜び、それを楽しんでいたのです。
アブラハムが望んでいたシードが忽然として現われた。これがイエス・キリストです。
シードから見ると、祖先とは何か。イエスは、「私はアブラハムより先にいた」と言っています(ヨハネによる福音書8・58)。イエスがアブラハムより先にいた。祖先とはシードのことです。祖先が子孫になるのです。また、子孫が祖先になるのです。
おまえの子孫千代に恵みを施すとありますが、祖先千代の恵みが子孫千代に及ぶのです。子孫から見れば、祖先の恵みが子孫に及ぶのです。また、子孫の恵みに祖先が与るのです。子孫と祖先は同じことです。
アブラハムが神を信じたというのは、信仰の実体を信じたのであって、それはイエスを信じたのです。アブラハムが義とされた信仰というのは、イエスの信仰を与えられたのです。アブラハムはイエスを見ていたのです。
大体、聖書は異邦人が信じられるものではありません。思想の系統が全然違うのです。宗教の系統と約束の系統とは、思想の系統が全然違います。約束の報いとあります。報いというのは普通のこととは違います。救われることとは違うのです。
アブラハムは神から何を受けたのか。パウロはアブラハムが受けた祝福が、イエス・キリストにおいて異邦人に与えられると言っている。イエス・キリストを通過して、異邦人に与えられることになっている。そのために、私たちが約束の霊を受けたと言っている。
この約束とは何か。ここでガラテヤ書の三章十四節が問題になってくるのです。
パウロは次のように述べています。
「それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を私たちが信仰によって受けるためである」。
祝福とは約束のことです。約束の当体は何であるのか。アブラハムが受けた祝福とは何であるのか。約束とは祝福の約束であって、その実体は何であるのか。
人間は自分の気性とか、個性があると考えています。それを全部投げ出して、空っぽになって、白紙になって考えることができないのです。
祝福する者を神が祝福するのです。現在、私たちがイスラエルの回復のために祈ることが、アブラハムを祝福することになるのです。
神がアブラハムに与えた約束が、成就しますようにと祈ること、そして、アブラハムの子孫たちの内に、アブラハムの信仰が甦りますようにと祈ること、アブラハムの子孫たちの不信仰がなくなって、彼らに信仰の花が開きますようにと祈ることが、アブラハムを祝福することになるのです。
これはイエス・キリストがしたことです。イエス・キリストがアブラハムを祝福した。アブラハムが受けた祝福を祝福したのです。アブラハムが神から祝福された。それをキリストが祝福したのです。これがイエスのユダヤ伝道です。
私たちはイスラエルの回復のために祈っています。これはアブラハムを間接的に祝福することになるのです。これ以外にアブラハムを祝福する方法はありません。
アブラハムが受けた祝福を私たちが祝福する。これはアブラハムが受けた祝福以外に本当の祝福がないことを知った人間でなければできないことです。
アブラハムが受けた祝福以外に、天地創造の結論はありません。アブラハムが受けた祝福、祝福の約束が成就しますようにと祈ることは、アブラハムを祝福することになるのです。
神がアブラハムという人間を祝福したのではない。神がアブラハムに与えた約束を賛美することを神が喜ぶのです。
アブラハムが神から祝福された。そのしるしに約束を与えられたのですから、アブラハムは祝福の約束を受けた。それが大いなる報いとなるのです。そこで、おまえの末が現われると言われたのです。
アブラムは人間です。アブラハムは信仰の父であって、人間ではありません。アブラムがアブラハムになったように、人間が消えてしまわなければいけないのです。そのために、ああでもない、こうでもないと時間を費やすことになるのです。
イスラエルは四十年間、砂漠を彷徨っていたのです。アブラムという人間がいたのではないという感覚は、人間の感覚では分からないのです。
神はおまえはアブラムと呼んではいけない、アブラハムと呼べと言われた。この時、人間が消えたのです。彼は全能の神の前に出た時に、平伏した。アブラムが消えたのです。
「わが前に歩みて全かれ」と言われた時に、アブラムは平伏した。そして、アブラムは消えたのです。ですから、人間がいるというのは、全くの妄念です。
神は祝福を与える方、アブラハムは受け取る方です。神の義は与える義です。アブラハムは受け止める義です。彼の義は祝福を受け止める義です。
イエスは「神の国と神の義を求めよ」と言っています。神の義とは神が与える義をいうのです。アブラハムは神の義を受け止める心理状態になった。これがアブラハムの義です。
皆様は神の義とアブラハムの義の両方を知っていなければいけないのです。神が何を与えようとしているのか。私たちは何をどのように受け取れば良いのか。新約時代の私たちは両方が分かっていないといけないのです。
アブラハムは神の義が全然分からなかった。全能の神という言い方だけをされたのです。神がキリストを与えるという具体的な提示はなかったのです。だから、神の義だけで良かったのです。
今の皆様は十字架が分かっています。そして、復活、昇天と神の恵みまで分かっているのですから、ただ受け止める義が分かっているだけではないのです。
「彼は神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、却って信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また、成就することができると確信した。だから、彼は義と認められたのである。
しかし、『義と認められた』と書いてあるのは、アブラハムのためではなく、私たちのためであって、私たちの主イエスを死人の中から甦らせた方を信じる私たちも、義と認められるのである」(ローマ人への手紙4・20~24)。
新約になると、与えたもう神の義は歴史的事実になってはっきり現われているのです。復活、昇天、聖霊降臨までありますから、神の義ははっきりしているのです。
十字架、復活、昇天、キリストが神の右に座したこと、聖霊が降臨したことが、キリスト教では正当に説かれていません。キリスト教は言葉を知っていますが、不正直に説かれているために、神の義が分かっていないのです。
神の右に座せしめたとはどういうことか、何のために神の右に座せしめたのかが分かっていないのです。
イエスを神の右に座せしめなかったら、皆様は自我意識を自分の足台にできないのです。
自我意識を自分の足台にしなかったらだめです。それは神の右に座しているイエスを信じなかったらできないのです。皆様はまだ自我意識を本当に踏みつけていません。自我意識に脅かされてふらふらしている。自分の意見を持っている人は、神の右が分かっていないからです。
皆様が神の右を正しく受け止められるような神の義を、皆様自身の中に育てていかなければならないのです。これが聖書の勉強です。
結局、霊(人生)を神に渡さなければだめです。本当に霊を渡して、第三の天におられる我らの主イエス・キリストが神の右に座しておられることが、はっきり会得できなればいけないのです。神の義が皆様にはっきり会得できなければ、神に義とされないのです。神の義をはっきり知ることです。そうすると、皆様も義とされるのです。
神はアブラハムに、「おまえに子孫を与える」と言っています。空の星を見せて、これが分かるか、数えられるかと言ったのです。子孫は星の数のようになるであろうと言った。しかし、子孫はたった一人を指すのです。
一人の子孫を神が与えながら、空の星を見せて、星が全部数えられるのかと言っている。ところが、一人しかいない。シードは一つです。これがおかしいのです。
実際にはアブラハムが死んだ後に、多くの人が生まれたのです。これを良く考えて頂きたいのです。つまり、人間は二人いるのです。アブラハムの場合でも、私の場合でも、また、皆様の場合でも同様です。
神が義として、アブラハムと呼べと言われた。この時、アブラムという人間が消えたのです。アブラハムというのは、多くの国民の父という名詞です。荒野に叫ぶ声みたいなものです。信仰の父というのは名詞であって、固有名詞とは違います。
名詞的な意味での霊的なアブラハムと、人間アブラハムがいるのです。サラが死んで後妻をもらって、男と女を生んだ人間アブラハムがいた。霊なるアブラハムと肉なるアブラハムがいたのです。
天から生まれた人と、地から生まれた人がいるのです。霊なる自分と肉なる自分がいるのです。これを良く弁えて聖書を読まないと、全然分からないのです。
多くの国民の父は霊なるアブラハムです。これは人間ではありません。事がらです。そういうものであって、現世で商売をしている自分と、神を信じて第三の天にいるキリストのボディーとしての自分と、両方いるのです。
「初めに神は天と地を造った」とあります(創世記1・1)。天につける自分と、地につける自分がいるのです。こういう目で見ると、肉において見ているものと全然違ったものが見えてくるのです。
皆様は肉体を持っていても、霊に従って生きるなら死なないのです。肉体を持っていて、肉の思いで生きていれば、必ず死にます。肉体を持っていても、霊に従いて生きれば死なないのです。霊の思いは命であり、平安です。こういうことを正確に見て頂きたいのです。
皆様は世界の人に向かって、是か非かを判断しなければならない責任があります。あなたは救われるが、あなたはだめだと言わなければならないのです。
アブラハムは復活を先取りしていたのです。天のエルサレムを見ていたのです。
現世につける自分はいてもいいのです。アブラハムも現世の自分はいたのです。もう一人のアブラハムを本当に理解して、それを見つけるのです。それが霊なる自分です。そうすると、天のエルサレムのメンバーになるのです。メンバーはなくてはならない者です。
アブラハムはイサクを生んで、その一人子を約束の子として喜んでいた。後妻をもらって、男と女を生んだアブラハムですが、後妻をもらったアブラハムは肉体的に生きていた。
また、もう一人のアブラハムがいたのです。信仰の父として、事がらとしてのアブラハムです。後妻をもらったアブラハムは人間としてのアブラハムです。人間としてのアブラハムは肉体的に存在していたから、肉の思いで生きていたのかというと、そうではない。ここです。肉体的に存在していたからと言って、肉に従って生きなければならないのではない。
イエスが幼子のようにならなければ天国へ入ることができないと言っています。幼子は肉体的に存在しているけれど、肉の思いで生きていません。霊の思いは分かりませんが、肉の思いも分からないのです。そこで、天使が仕えているのです。
なぜ、天使が仕えているのかが分からなければ、天使は使えません。天使が使えなければ、ユダヤ人伝道はできないのです。こういうことは聖書の奥義の問題になってくるのです。こういう秘密は今まで世の中で語られたことがなかったのです。
アブラハムは肉体的に生きていたが、肉体があるとは思っていなかったのです。肉体があると思って生きていますと、肉の思いになるのです。
客観的に言えば、二人のアブラハムがいたのですが、アブラハム自身が二人の心を持っていたのかというと、そうではないのです。これをパウロが言っているのです。
肉体的に生きていても、霊に従いて歩むなら、命である。私たちは肉体的に生きているが、肉に従って責任を取らなければならないものとは違うと言っています。
パウロは肉体的に生きていたが、肉体があるとは思っていなかった。肉体があると思わずに肉体で生きているとどうなるのかと言いますと、天使を使う信仰になるのです。
イエスの信仰はこれだったのです。私たちもここまでいかなければいけないのです。自分が持っている肉体は媒体であるという信仰を持つのです。
パウロは言っています。
「聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし、最後のアダムは命を与える霊となった。
最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る」(コリント人への第一の手紙15・45~47)。
私たちは土に属している形を持っている状態で、天に属している形を持たねばならないのです。私たちは現世における異邦人としての形を持っています。しかし、天から来た第二の人、イエスの形を持たなければならない。
肉に体あり、霊に体あり。二つの体を同時に持つのです。これができる人だけが携挙(けいきょ)されるのです。
これについてパウロは次のように述べています。
「兄弟たちよ、私はこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができない。朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
ここであなたがたに奥義を告げよう。私たちすべては、眠り続けるものではない。終わりのラッパの響きと共に、瞬く間に変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者に甦らされ、私たちは変えられるのである」(同15・50~52)。
これが携挙です。ここまでいかなければならないのです。ここまでいくのが神の御心だからです。
終わりのラッパと共に、たちまち瞬く間に、天に属する形に変わってしまう。これができるために、神はイスラエルに伝道をさせようとしているのです。
神の側から言えば、ここまで引っ張ってきて、イスラエル伝道をさせようと考えているのです。こうなってほしいのです。皆様から言えば、五十一節、五十二節が実現してほしいのです。そこで、神が考えていることと、皆様が考えていることが一つになるのです。
これがキリストの花嫁になる条件です。これを自分のものにするためには、皆様にはもっと愚直、素朴な感覚になってもらいたいのです。もっとばか正直になるのです。
皆様はまだまだ大人でありすぎます。それでは御使いが使えないのです。大人は悪魔の子ですから、もっと子供らしく、単純素朴になったら、神が良しと言ってくれるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)