top of page
検索
  • 管理人chaya

四つの生き物


聖書の基本原理が分かっていれば、神が人間に与えている栄光と誉れが、悪魔に逆用されて人間が欲望の奴隷になっているということの内容が、十分に把握できるのです。

天使長ルシファーが神に反逆した。悪魔は宇宙的な意味での創作を敢えてしたのです。そうして、神の御心に非常に深刻な変化を与えたのです。これが、天地創造の原理になっているのです。

初めに宇宙は空でした。空であってよかったのです。宇宙はすべて、形なくむなしくして、荒涼漠々としたガス体でした。現在でも大宇宙はそうなっているのです。

そのようなガス体の宇宙が、太陽系という特殊な宇宙を造らなければならなくなった。また、地球という超特別な惑星を造らざるを得なくなったのです。

こういう宇宙のハプニングを招来させる原因を造ったのは天使長ルシファーの反逆です。神の御業の一大進化の原因を造ったのです。

いいか悪いかは別として、神の御心にそのような激変性を起こさなければならないような反逆を大天使がしたのです。

ルシファーに言わせれば、これは反逆ではありません。当たり前の事であって、正当な認識であると思っているでしょう。ですから、彼は徹底的に悔い改めることをしません。自分の言い分をますます強力に押し通そうとしているのです。

それと同じように、ユダヤ人が天使長ルシファーが歩んだ道を、そのまま歩ませられているのです。そうして、全世界の人間がその考えに従っているのです。

天使長が歩いた道をユダヤ人が歩いている。そうして、全人類がその後を歩いているのです。

人間全体の流れが、何処でどのように混乱を始めたのか。これについての基本的な認識がなければ、世界全体の歴史の流れを変えるという大運動はできません。

私たちは人類の歴史の流れを変えるのであって、その目標は宇宙の流れを変えるのです。ただユダヤ人問題について考察するのではありません。ユダヤ人問題にタッチすることは、世界の歴史の様相を変えることです。

人間歴史の様相を変えるということは、地球存在を初めとして、宇宙全体の流れを変えるという、全く驚天動地の大仕事をするのです。それをするためには、それにふさわしい確固不抜の大信念がいるのです。

天使長ルシファーから流れ出した思想が、イスラエルに受け止められ、イスラエルによって全世界の人間が引きずり回されている。この一連の思想の根底は何かと言いますと、肉の思いです。

肉の思いを徹底的に打ちのめすような神の論理性を身につければ、ルシファーに対して堂々と対抗できるのです。悪魔といちいち理論闘争する必要はありません。彼は悔い改めないから、闘争する必要はないのです。しかし、天使長ルシファーの言い分をイスラエルが受け継いでいるのですから、悪魔に対抗するのと同じ程度の論理性を、私たちははっきり認識していかなければならないのです。

ルシファーという名前が示すように、彼自身は輝ける者です。なぜ輝ける者かというと、神の栄光と誉れを与えられているからです。彼はこれを逆用したのです。

神の栄光と誉れがルシファーに象嵌されているのです。神は天使長であるルシファーのために、惜しむことなく神の知恵と知識を象嵌したのです。

これは旧約聖書に詳しく書いています。

「あなたは知恵に満ち、

美のきわみである完全な印である。

あなたは神の園エデンにあって、

もろもろの宝石が、あなたを覆っていた。

すなわち、赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、

緑柱石、縞めのう、

サファイア、ざくろ石、エメラルド、

そして、あなたの象眼も彫刻も金でなされた。

これらはあなたの造られた日に、

あなたのために備えられた。

私はあなたを油注がれた、

守護のケルブと一緒に置いた」(エゼキエル書28・12~14)。

天使長ルシファーは神の山ではとても輝かしいものでした。ところが、神の栄光と誉れを逆用して、自分の個性と自分の肉性においてそれを展開したのです。表面的には輝ける者という名にふさわしい理論を展開しているつもりですが、その論理は神の栄光と誉れがすべて肉的に入れ替えられて用いているのです。

神は霊ですが、悪魔はこれを肉的なセンスに焼き直して用いているのです。人間も同じことをしているのです。人間の本性として与えられた神の栄光と誉れが、人間の肉の思いにおいて肉性のために裏返されてしまった。これが悪魔の力になっているのです。

人間の優れた優越性は人間自身の優越性ではない。これは人間に与えられたすばらしい恵みです。

「栄光と誉れを冠として与えた」とありますが(へブル人への手紙2・17)、この冠が悪魔の王冠として用いられているのです。これが基本的人権という考えです。

基本的人権はまさに悪魔の冠です。肉性の人間がいただいている冠です。この世の君(プリンス)は悪魔ですが、この世の君は人間が受けた冠をいただいているのです。皆様の肉性は知らず知らずの間に、悪魔の冠をかぶらされているのです。

例えば、皆様の自尊心を見て下さい。皆様の人権的な合理主義を見て下さい。それは悪魔の王冠が皆様のハートに乗っているのです。だから、それを捨てなさいと言っているのです。

皆様は何十年間か生きてきたと思っています。その記憶の内容は悪魔の冠です。悪魔が誇りにしているものを自分の誇りにしているのです。

肉体的に生きてきたというのが皆様の誇りです。これだけの給料をとり、これだけの働きをして家族を養ってきたと考えている。これはすべて悪魔の冠です。それを神はアウシュヴィッツでユダヤ人から徹底的に取り上げたのです。

人間に与えられている冠が悪いのではありません。自分の冠だと思っているが自分の冠ではありません。神の冠です。冠のかぶり方が悪いのです。ちょっと横に歪めてかぶっている。これがいけない。真っ直ぐにかぶればいいのです。

皆様が何十年間か生きてきたという記憶が冠をかぶっている。そこで、記憶という名前の長老が、冠を投げ出さなければ役に立たないのです(ヨハネの黙示録4・10)。

皆様の記憶は冠をかぶったままの二十四人の長老です。固有名詞の人間の記憶は二十四人の長老です。栄光と誉れの冠をかぶっている。しかも、人間としてかぶっているのです。何十年間かこの世に生きてきた人間としてかぶっているのです。自分にはこれだけの生活力がある。バイタリティーがある。キャリアがある。力量があるという確信を持っている。それが全部肉性の人間に与えられた冠です。

この冠を御座の前に投げ出さなければ、長老は使いものにはならないのです。そこで、二十四人の長老が冠を投げ出す所を見て下さい。皆様の中にある四つの生き物が徹底的に神を賛美するようになれば、長老は冠を投げ出さざるを得なくなってくるのです。

皆様の中にある四つの生き物は、神に対して賛美歌を歌っていません。だから、長老は冠を投げないのです。黙示録の四章は興味津々たるものがあるのです。

栄光と誉れを神に帰するのです。自分がかぶっていたらいけないのです。

そこで、四つの生き物が神を賛美するためにはどういう気持ちになればいいのか。御座の前にいる二十四人の長老が平伏して、世々限りなく生きておられる方を拝したとあります。

今までこの世に生きてきた経験の原理が何であるのかというと、実は自分が生きてきたのではなくて、神に与えられた栄光と誉れという冠が生きてきたということを、長老が語るのです。そうして、賛美するのです。

「われらの主なる神よ、

あなたこそは、

栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。

あなたは万物を造られました。

御旨によって、万物は存在し、

また造られたのであります」(ヨハネの黙示録4・11)。

栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方は、あなただけである。私のような人間が大きな面をして冠をかぶっているべきではないとはっきり言い現わすのです。これが出来ない者は神の役に立たないのです。

神はアウシュヴィッツ等において、ユダヤ人が現世で持っていたあらゆる意味での冠を投げ出せと言われた。しかし、彼らは自分から投げ出したのではなくて、客観的な強制力によってはぎ取られたのです。これではだめです。私たちは自ら投げ出すのです。自ら御座の前に平伏して、冠を神に投げ出すのです。捧げるのです。それでなければ、神の役に立たないのです。

そのためには、四つの生き物の次のような賛美が分からなければいけないのです。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、

全能者にして主なる神。

昔いまし、今いまし、やがて来たるべき者」(同4・8)。

皆様の中にある四つの生き物は、理性として十全に働いています。それが、推理、記憶、判断、感受性です。そのように、機能性、精神の機動力が皆様の中に働いているのです。人間は五官を通して何を経験すべきか、現前において何を受け取るべきかということを考えなければいけないのです。

二十四人の長老は四つの生き物が、即ち、皆様の記憶力、判断力、推理力が本当の意味において神を賛美していないから、自分自身の能力性を誇大に、過大に認識して、冠を捨てようとしないのです。

皆様の記憶性、推理性が、神を賛美しているということに気が付かなければいけないのです。皆様の記憶は何を賛美しているのか。人間の思い出は何を思い出そうとしているのか。「古里の山に向かいて言うことなし」と言いますが、古里の思い出は何を思っているのか。

これが分からないというのは、皆様の中にある四つの生き物がまだ神を賛美していないのです。皆様の記憶は神を賛美していない。皆様の推理、判断は神を賛美していないのです。

神は何とかして皆様にイスラエル伝道というすばらしい働きをさせて、皆様に最終の冠を与えようとしているのです。本当の命の冠を与えようとしておいでになるのです。

限りなき命の冠を、皆様に与えようとしているのです。それを皆様は受け取ろうとしていない。受け取るだけの悟りに到達していないのです。

皆様の記憶は神を賛美していません。ただ、この世に何十年間か生きてきただけのことです。人間に与えられた栄光と誉れを、自分のものとして横領しているのです。自分の記憶の中に、神の恵みと知識がどのように象嵌されていたのかを、全く知らずに生きてきたのです。

そのような心理状態が悪魔の心理状態であることを悟って頂きたいのです。皆様の記憶性、推理性、判断性は御座の回りに飛び交っているものです。

御座の側近く、その回りには四つの生き物がいるのです。これがそのまま人間の心理機能の重要な役割を果たしているのです。

人間の心理機能の中枢には御座があるのです。その回りには四つの生き物が飛んでいるのです。六つの翼があって、翼の回りには外も内も目で覆われていたとあります。

翼が目で満ちているとはどういうことか。実は六枚の翼があるために、皆様は大変得をしているのですが、またその反面、損をしているのです。

六枚の翼の内訳が良く分らないから、四つの生き物が何をしているのか分からないのです。四つの生き物の本性が何なのかも分らないのです。四つの生き物は働きもするが、自分を隠してもいるのです。結局、人間は自分自身で認識できないような神の秘密の心理機能を植えられているのです。

人間の記憶が何を記憶しているのかというと、すばらしいものを記憶しているのです。そこにあるものは恨みでも不平不満でもない。恵みと喜びの記憶ばかりがちりばめられているのです。

皆様の今までの記憶は、すべて神の恵みの象嵌です。それが分からない。自分自身が存在していることについての認識が全くない。そのために人の悪口を言ったり、嘘をついたり、焼きもちを妬いたりしているのです。

その原因は皆ひがみ根性です。私みたいな者と考えるのです。それがあるために、妬きたくない焼きもちを妬くのです。結局、自分自身の実体を客観的に冷静に認めていないのです。そこで、四つの生き物が何を賛美しているのかという内容を聞いて頂きたいのです。

四つの生き物は、夜も昼も、絶え間なく、叫び続けている。皆様が寝ている時も起きている時も、絶えず叫び続けているのです。

例えば、皆様が夕焼けの景色を見ているとします。美しいと感じるのですが、それは何をしているのでしょうか。実は人の内にいる四つの生き物が、神を賛美しているからです。

景色を見るとは何を見ているのでしょうか。四つの生き物が神を賛美しているのです。昼も夜もいつも叫び続けている四つの生き物の賛美を聞いていないから分からないのです。

大自然のすばらしい景色を見ていると、心からすばらしいと思えるのです。なぜそう思えるのか。皆様の内にいる四つの生き物が、神に向かって賛美しているのです。

どういう賛美をしているのかというと、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神、万軍のエホバ」と賛美しているのです。「昔いまし、今いまし、やがて来たるべき者」と賛美しているのです。

昔いましというのは、創造以前にいますお方です。今いましというのは、創造以後にいますお方です。やがて来たるべき者というのは、現在の世界が終って、新天新地にいますお方です。

地球が出来る前にいました。この世をすべて治め、現世を完成して神の国を展開して下さるお方です。今皆様は景色という形で新天新地における神の幕屋を見ているのです。それに皆様の魂はびっくりしているのです。

ところが、皆様の頭は肉の思いで満ちている。だから、四つの生き物の賛美が全く聞こえてこないのです。景色を見て感心していながら、なぜ感心しているのかが分からないのです。目の前に展開されている景色こそ驚くべき新天新地における幕屋の光景を見ているのです。

昔いましというのは、創造以前の空なる状態をさしています。この世が造られる前の状態です。初めに神が天と地を造ったと創世記に書いていますが、天と地が造られる前に空があったのです。

その時の空は、そのまま霊なるものでした。天でもないし地でもなかった。天と地が一つに含まれている偉大な霊でした。それが昔いました時の神の御名です。

天と地が一つになった霊なるお方が、あえて天と地とを分けられたのです。霊なるお方が自ら天となり、地となって、ご自身の御名を二つに分けて、万物の父でいますことを現わして下さったのですが、そのことを皆様の中にいる四つの生き物は知っているのです。

皆様の中に植えられているすばらしい機能である四つの生き物は、それを知っているのです。

生まれたばかりの赤ちゃん、何も知らない赤ちゃんが、夢を見て笑っている。いわゆるベビースマイルです。なぜ笑っているのか。全く経験がなければ笑わないのです。生まれる前の楽しい経験を思い出して笑っているのです。

生まれたばかりの赤ちゃんが、二十四時以内にお母さんのおっぱいをのみます。どうしてのみ方を知っているのかと言いますと、昔いましたお方の生理機能がそのまま植えられているからです。

現世に生まれたばかりの赤ちゃんが、生まれる前の意識を持って生きています。これを人の内に働いている四つの生き物が知っているのです。昔いますお方が今いますということを知っているのです。生まれる前にいましたお方が、今いますのです。

皆様が生まれる前にいました父なる神が、今皆様と共にいるのです。皆様は生まれる前に神の内にいたのです。今は父なる神と共にいるのです。

今父なる神と共にいるということが確認されて、その生活ができるようになったら、やがて新しい地において、皆様は永遠に神と共に住むことになるのです。

現世において、共にいます父なる神を確認するかしないかということが、魂の命運に係る永遠の別れ路になるのです。

私たちは神と共にいるのです。これがインマヌエルという事実です。これがイエスの御名です。現世でイエスの御名を掴まえるか掴まえないかによって、皆様の命運は永久に変るのです。

昔いまし、今いまし、やがて来たりたもうという賛美の内容は、聖なる方、聖なる方、聖なる方、三位一体のお方を四つの生き物がよく知っているのです。私たちの心理機能、判断力、記憶力もやがて来たるべき新天新地のためにあるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:12回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

人間は何のために現世に生まれてきたのかと言いますと、言(ことば)を聞くためです。前世で人間は根本的に失敗した。生まれる前の単一人格において、私たちは死んでしまった。その結果、自我意識によって占領されてしまったのです。 自我意識というのは、あってはならない意識です。人間は自我意識によって生きているのではない。自我の能力によって生きているのでもない。自分が自分の命を造り出しているのではない。食物でも、

人間は神を知っている

人間は自分が生きていると考えています。自分が生きているという考えの中に、自分で生きているという意味が含まれています。自分で生きているという根底がなければ、自分が生きているという発想が出てこない。これが悪いのです。 自分で生きているということと、自分が生きているということとは、相似性、近似性という非常に似た考え方になるのです。自分が生きていると思っている人間でも、自分の力で生きていると思っていないと

bottom of page