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地の果てにまで及んだ福音


人間には人格が与えられています。これが五官の基礎になっているのです。五官は人格の延長です。生理機能的に人格が働いて五官になっている。心理的には人格が、理性と良心になっているのです。

イエスは次のように言っています。

「あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りしなさい。そうしないと、その訴えるものはあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう」(マタイによる福音書5・25)。

これだけ聞いたら、分かりそうなものです。これだけ聞いて分かったら、聖書はいらないのです。女性はこれだけ聞いたら分かるはずです。

イエスは聖書を読んでいたのではありません。聖書を読んで信じたのではない。アブラハムは聖書を読んで信じたのではない。アブラハムの時には聖書はなかったのです。

人間に人格が与えられていること、人生が与えられていること、これだけあればいいのです。本当に選ばれた人であれば、すべてが分かるのです。

私たちに人格が与えられていること、それが生理的には五官になり、心理的には理性と良心になっている。これだけがあれば、聖書ができるのです。心理機能と生理機能だけで、永遠の命がはっきり保証されているのです。これが分からない人は、火の池へ行くしかないのです。

肉体を持っている人間が、お互いに話し合っているのは、非常に軽佻稀薄です。お互いにおべっかを言い合っている。心にもないことを言ってみたり、嘘を承知で言ったりしているのです。嘘の上に嘘を積み、また、その上に嘘を積み込んでいるのです。これは人間の人格のあり方と反対の方向に行っているのです。これが原罪のなせる業です。

肉体的に生きている自分を本当の自分と考えていることが、神に逆らっていることになるのです。これが理論的にでも分かったら、まず実行したらいいのです。そうすると、前人未踏の人生になっていくのです。

人間は自分の本性として、生理機能を持っている。また、心理機能を持っているので、人格のことが何となく分かっている。分かっていながら、それを実行しないだけです。人間に与えられている人格をそのまま実行したら、自然に前人未踏になってしまうのです。

神は人間にこれほど確かな手掛かりを与えている。救われる道をはっきり示している。ところが、人間はそれを実行しない。責任は全部人間の方にあるのです。神は与えるべきものを与え、提示すべきものを提示しているのです。だから、新しい世界へ入れないのがおかしいのです。

人間は一度死んで、そして、死んだ後に裁かれるのです。つまり、二回死ぬのです(ヘブル人への手紙9・27)。一度は現世を去るのです。現世で生きていて、肉の自分を楽しんでいた。霊を喜ばずに肉を喜んでいた。その罰に、現世を去った後に、もう一度死ぬことになるのです。

一回目に死ぬのは自然現象です。自然現象としての鉄則です。二回目に死ぬのは、霊の命が与えられていながら、肉の命を楽しんでいた。その罰則として、当然のことなのです。一回目に死ぬのは本当に死ぬのではありません。これは与件です。

そこで、神の報いを受け入れる人が親類縁者にいると、その人のお陰で救われることになるのです。

般若心経は肉を切ってしまうのです。般若心経の他に、人間の肉を切ってしまうものはありません。今、全世界に必要なものは、般若心経です。

悔い改めて福音を信じるというのは、般若心経を踏まえて聖書を見るのです。これを神が私たちに明確に命じているのです。

改めてというのは、聖書を信じることです。新約の御霊を受け取ることです。これが原則です。人間の人格はロゴスです。これが人間に与えられているのです。

人格を正しく用いれば、福音は掴まえられるに決まっています。福音を掴まえそこなったら、火の池へ行くに決まっているのです。絶対的な裁きを神が実行するということは、人間の方に絶対的な悪さがあるからです。理性と良心があり、おまけに五官がある。理性と良心は人格が理性的に働いていることですが、これが人間に植えられている。これはア・プリオリの事実に違いないのです。ア・プリオリでなかったら、こういうものはありえないのです。

母親の中にいる胎児は、血液の循環の音を命の慰めとして聞いているのです。母親の胎内の血液の流れ、呼吸の状態が、胎児の感性の基礎になっているのです。

赤ん坊の五官は、生まれる前の母親の命の流れによって調整されているのです。生まれる前の状態が、生まれた後の状態になっている。これは人間の生まれる前の状態を示しているのです。

人間の五官の閃き、感覚、理性や良心の閃きは、人格からくるものです。人間の人格は、神の人格にそっくりです。今生まれたばかりの赤ちゃんは、永遠の生命を持っているのです。嬰児は永遠の顔をしているのです。私たちは嬰児に帰ればいいのです。

自分が生きていると思っているために、人格を阻害しているのです。人世の矛盾、撞着、悩み、苦しみ、欲望は、自分が生きていると思うから発生するのです。人間は自分の肉性に甘える癖があるのです。自分の気持ちを自分で信じる癖がある。これがいけないのです。

現世に生まれてきたことは、肉なる者の下に売られたことです(ローマ人への手紙7・14)。これがカルマです。このカルマを乗り越えることが、霊魂の絶対的な責任です。

まず、カルマを乗り越えようという絶対的な意志を持つことが必要です。自分のカルマを自分で乗り越えてしまうという反発心、そういう馬力がない者は、救いを与えられません。

自分で自分のカルマを乗り越えて、生まれる前の自分に帰るのです。生まれた直後の赤ちゃんの状態に帰るのです。そうして、自分の意識の中から、この世に対する思いを追放するのです。この世に甘えると、自分の肉性を認めるのです。肉性を認めると、それに甘えることになるからです。

肉体的に生きている自分はいない。ただ理性と良心、五官が働いているだけです。飲んだり食べたりしている時でも、肉体的に生きている自分はいないということを、強引に意識しながら飲食するのです。

食べる時には自分は肉体的に生きていないということを、強引に意識するのです。そうして食べるのです。これをすると感覚が変わってくるのです。

歩いていても、肉体的に生きている自分ではないと強引に意識するのです。原罪は強引なものですから、こちらも強引に抵抗しなければだめです。

分かっても分からなくてもするのです。分かりませんからできませんと言ってもだめです。分かっても分からなくても強引にするのです。できなくてもできるという気持ちでするのです。

今まで生きてきた自分の意識ではだめです。肉体的に生きている自分の意識を乗り越えてしまうのです。私たちの生涯はまだ始まっていないのです。私たちの生涯があると考えて妥協してしまうと、もうだめです。

パウロは次のように述べています。

「従って、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。しかし、私は言う、彼らには聞こえなかったのであろうか。否、むしろ『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及んだ』」(ローマ人への手紙10・17、18)。

旧約聖書に、次のようにあります。

「もろもろの天は神の栄光を現わし、

大空はみ手のわざをしめす。

この日は言葉をかの日に伝え、

この夜は知識をかの夜に告げる。

話すことなく、語ることなく、

その声も聞こえないのに、

その響きは全地にあまねく。

その言葉は世界の果てにまで及ぶ」(詩篇19・1~4)。

これをパウロが引用しているのです。これは何を言っているのかと言いますと、エホバの御名を言っているのです。

イエスは言っています。「永遠の命とは、唯一のまことの神でいますとあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネによる福音書17・3)。

これがキリスト教では全く分かっていません。唯一の誠の神とは何か。私たちが生きているそのことです。神は自分自身のことを、「有りて在る」と言っています。

「在」というのは客観的な意味での神です。「有」というのは、それを受け止める受け皿です。唯一の誠の神を、人の子という受け皿が受け止めているのです。

現実は唯一の誠の神です。ところが、現実がいくらあっても、それを受け止める受け皿がなかったら、現実が成立しないのです。

皆様の霊魂は不思議なことに、現実をはっきり受け止めているのです。味、色、形、香りは神の栄光です。これが現実に現われているのです。皆様の五官は、現実を受け止めているのです。受け皿を意識すると人の子になるのです。これは人間ではありません。

皆様の五官の働きは、人間の働きではありません。自分が見ているのではない。自分が味わっているのではない。霊魂が味わっているのです。だから、肉体がないと考えて食べなければ、本当の味は分からないのです。肉体があると考えて食べると、本当の味が分からないのです。肉体がないと考えて食べる時に、味の妙味が分かるのです。味の受け皿である自分の尊さ、有り難さが分かるのです。

現実があっても、受け止める者がなければ、現実は成立しない。これは世界中の人が知らない重大な問題です。ユダヤ人も分からないのです。

神が自分自身の御名の栄光を、現実という格好で現わしているのです。これをユダヤ人は受け入れないのです。山の全体を見ずに、目の前のことばかりを問題にしているからです。

自然現象は現実の媒体です。山そのものが現実ではありませんが、山がなければ現実が捉えられないのです。天然自然は現実の最も有力な媒体です。これが哲学者に分からないのです。こんな簡単なことが分からない。人間の文化、文明はこれほど頼りないものです。次元の低いものです。

人間の伝統を踏みつぶしていくのです。蹴飛ばしていくのです。神がそうしているからです。現実は人間の伝統を無視しているのです。神がそうしているから、私たちもそうしなければならないのです。

日本人の伝統、アメリカ人の伝統、ヨーロッパ人の伝統、文明というユダヤ人の伝統を踏みつけていくのです。

「その響きは全地にあまねく」とあります。太陽の暖まり、明るさは響きです。

人間は花を見てきれいだと意識します。満開の桜を見ると、感動して言葉が出ないくらいです。これが言葉です。その言葉は地の果てまで到る。これが言葉です。おいしいとか美しいことは意識できますが、これが言葉です。

響きは言葉を伝え、言葉は響きを伝える。両々相まって、エホバの御名を証しているのです。唯一の誠なる神を万物が証しているのです。

人間は現実が神であることを受け取る受け皿として、五官が与えられているのです。人間から言えば、五官が働いているという刹那しかないのです。現実の受け皿として、五官が働いていることしか霊の働きはないのです。

現実を与える神と、それを受ける受け皿としての人の子、それを受け取る魂という機能があるだけです。それ以外は全部肉の言葉になるのです。肉の事実というのは、現実を受け止めているだけで満足しないで、肉的に現実を引っ張っていこうとしているのです。

五十年生きてきたから五十歳だという考えは、愚劣下等な考えです。人間の命は瞬間、瞬間しかありません。人間が肉体的に何年も生きていたという事実は、絶対にないのです。何年も生きてきたという考えは、人間の側からの一方的な誤解です。一方的な誤解を神に押しつけているのですから、言葉が全地にあまねくということが分からないのです。

昼が明るいというのが響きです。自分の意識を神に押しつけているから、響きの内容が分からないのです。

人間の魂は神の御名の栄光の受け皿です。受け皿がなかったら、神が神にならないのです。神を神とするのが人間の霊魂です。神を神とした者は、神の方でもその魂を人の子とすると言っているのです。

唯一の誠の神を知ることが、とこしえの命です。唯一の誠の神を知ることによって、唯一の誠の神の方からとこしえの命を与えられるのです。

とこしえとは何か。とこしえは現実です。現実以外にとこしえはありません。日本語でいうと常です。常の他にとこしえはないのです。これは神の人格性と、人間の魂の能力性との相関関係です。

神の栄光を人間が受け皿として持っている。これを神が愛している。神は愛するのです。人は愛されるのです。

現実において、神の栄光を認識して、それを受け止めるのです。花の美しさ、香りによって、その現実を神の栄光の表現形式として受け取るのです。

肉というのは単なる残存意識、残存感覚です。これを問題にしないという感覚を、自分で持つしかないのです。

イエスは風や波を初めから無視しなかった。初めから認めているのです。奇跡を初めからしようとしなかったのです。仕方がないから、波や風を叱っただけです。風や波は人間の心の中にあるのです。人間の心の中にあることが外に現われているのです。

皆様は肉なる者としてこの世に出されたのですから、肉の記憶、肉の感覚があるのは当たり前です。最も重大なのはセックスの感覚です。

人間は今の人間のセックスに対する考えが良くないことを、男も女も知っているのです。だから、セックスのことを公に持ち出そうとしないのです。その感覚が人間にこびりついてしまっているからです。

人間の肉性にセックスがこびりついてしまっている。こげついてしまっているから、しょうがないのです。味ではない味、香りではない香りになっている。得体の知れないものになっているのです。世間一般がそうなっているから、しょうがないと思っているのです。世界中の人間がこげつかしているのです。

これはアブノーマルな状態です。こげつき現象は勝手にそうなっているのではない。こげつかしているからいけないのです。

現実がエホバの御名によって成り立っているのですから、現実が正しく把握できないようでは、とこしえの命は絶対に分かりません。

現実は今です。現実と今とが一つであることが分からなければ、とこしえの命は分からないのです。

現実に響きがあり、言葉があるということを、次に述べています。

「しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、誰が私たちから聞いたことを信じましたか』と言っている。従って、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ人への手紙10・16、17)。

キリストの言葉を聞くというのは、現実を聞くことです。現実を聞くことが、神の御名の響きを聞くことです。

花の場合は見た時の感じが響きで、じっと見ていると言葉になるのです。響きが語りかけているのです。これがキリストの言葉として理解できなければ、福音は絶対に信じられません。

民族の伝統、社会の伝統はばかになりません。伝統はこげつきです。芸術や宗教はこげつきを売り込まなければ商売にはならないのです。

文化の香りというのは、こげつきの香りです。こげつきというのは肉の執着です。人間はこげつきの中に逃げ込んでいるのです。

皆様が今という言葉を使う時に、今という時間がある気がするのです。人間の語法としては今という言葉を使わなければならないのですが、今という時間があるかと言いますと、ないのです。

パウロは「私たちが顧みる所は、長きの間ではない、しばらくの事だ」と言っている。これを掴まえるのです。この掴まえ方が難しいのです。

夫婦でもこげつきをよく考えなければならないのですが、世間にこげつきの伝統がありますから、人間はつい世間並だと言って自分の欲望を自分で誤魔化そうとする。これがいけないのです。

瞬間であっても、愛というもの、本当に霊的なもので、魂の眼が開かれることに直結していなければならないのです。

お互いに愛し合うことによって、響きを感じているのです。響きは全地にあまねくのです。響きがそのままキリストの言葉になるならいいのです。

イザヤは、「主よ誰が私たちから聞いたことを信じたか」と聞いていますが、聞いたことは英訳では、アワー・レポート(our report)になっています。

イザヤはエホバの栄光が全地に満ちたこと、エホバの位が高く上がって、その裳裾が神殿に満ちたこと、神殿全体にエホバの栄光が取り巻いていると言っているのです。

神が預言者に与えた預言は、預言者自身のレポートになるのです。皆様に与えられている現実は、皆様自身のレポートになるのです。

万国の預言者は自分が生きていることが、そのままレポートになることを信じるべきです。これを認めるような技量がなければならないのです。

神が私たちの日本で起こしたのは、レポーターになるためです。預言者はすべてレポーターであって、自分自身の生活がレポートになっているのです。

現実にどういう響きがあるのか。花を見て美しいと思う。言葉で言えば美しいのですが、美しいとはどういうことか。「福音を伝える者の足は美しい」とありますが、足が美しいのです。

現実は神自身の歩みです。現実から受ける感銘がビューティフルです。これは花だけではありません。私たちは家の中をきれいに掃除して整理すると、美しいと感じます。そのように、いろいろなものをきれいに並べると美しいと感じるのです。

人間の生活は原則的に皆ビューティフルです。人間がビューティフルと感じるのは何か。お茶のマナー、女性のおごそかな立ち居振る舞いは、皆ビューティフルです。

ビューティフルとは何か。女性は自分がビューティフルでありながら、それが分からない。これをとこしえの命に位置づけることが、男の仕事です。女が女であることを、とこしえの命に位置づけるのです。そうすると、女が救われるのです。

女性がなぜビューティフルなのか。女性の本当のあり方がそのまま骨の骨だからです。女性を骨の骨として位置づけなければならないのです。

女性を骨の骨として位置づけるために、女の貞操をどのように受け止めるかです。女が女であることをどのように受け止めるか。その受け止め方です。

こげついた感覚で見ると、顔の形とか、スタイルが気になりますが、女であることが女がいることをさすのであって、女が女であることがビューティフルの原点になるのです。それから感じられることは、女性のやわらかさ、しとやかさ、優しさです。女性がいることがビューティフルなのです。

日本人の場合、たまたま日本に生まれて日本人になったのであって、日本人をやめてアメリカ人になることはできるのです。

ユダヤ人の場合はそうではない。約束の民です。約束というのは相互契約であって、約束を与えた方と約束を受けた方がある。それに対する義務が生じるのです。与えた方は与えた義務、受けた方は受けた義務が生じるのです。それが約束です。そうでなかったら、約束という言葉が使えないのです。

一般社会でもそうです。霊魂に関する限り、約束は契約とも訳せる意味になるのです。

契約というように訳せる言葉であるとすると、約束を与えられたことに対する義務は当然あるのです。約束した方にも義務があるし、された方にも義務があるのです。

義務に対する認識を全然実行していないということになると、約束の民であることを自動的に解約されていることになるのです。

第二次世界大戦中に、アウシュヴィッツで六百万人のユダヤ人が殺害されても神は沈黙していたのです。異邦人から見ると、ユダヤ人を助けにくる神はいないのではないかと思えるのです。

約束した以上、神が助けなければならない責任があるのです。助けに来ないということは、約束を解除されていることになるのです。ユダヤ人はすべて約束を解除されているのです。

恋とか五官の本体は、生まれる前のものです。セックスを享楽的に扱うことは、けしからんことです。情欲の感覚で女を見ることは、姦淫になるのです。最高のものを情欲として扱ってしまうからです。命の最高の味わいを、享楽として扱ってしまうことになりますと、救われることができなくなってしまうのです。セックスを甘く見たら、ひどい目にあうのです。

神はエデンでいろいろな植物や動物を見せた。神の栄光を見せたのです。ところが、アダムはそれに対してさっぱり反応を示さなかった。しょうがないから、アダムを深く眠らせて、あばら骨を抜いて女を造った。これをアダムに見せたのです。

これは旧約聖書の作り話かもしれませんが、最高の作り話でしょう。人間存在に対する的確以上の真実性を持っている内容です。

アダムはエバを見た時、驚嘆しています。

「これこそ、ついに私の骨の骨、私の肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」(創世記2・23)。

ついにというのは英訳では、ナウ(now)になっています。これはキリストの復活に関係がないことですが、なぜナウと言ったのか。骨の骨と言ったのは何を感じて言ったのでしょうか。アダムが感じたナウの内容は何であったのか。どういう今を感じていたのか。

私の骨の骨と言ったのですが、この場合の私というのは、妥協を意味するものとは違うのです。

エデンの園でアダムは何を見ていたのか。食べるに良いいろいろな木を見て、朝日が昇る姿を見て、そして、夕陽が沈む姿を見たでしょう。雲の流れを見て、鳥が飛んでいる姿、川に泳ぐ魚を見たでしょう。

人間の罪によって、呪われていなかった時のエデンの自然現象は、例えようもないほどすばらしいものであったに違いないのです。

富士山を見ると人々は感動します。なぜ感動するのでしょうか。実は、私(自分)の命を富士山という形で見ているからです。だから、すばらしいと思うのです。

女というのは何か。森羅万象を濃縮すると女になるのです。女を広げると森羅万象に広がっていくのです。エデンにおいて、アダムは森羅万象を見ても、何も感じなかった。森羅万象を見て男が感じないものを女は持っている。神がそれを持たせるように女を造ったのです。

男自身のハートを抜き出して見せるしかなかったのです。男が持っているハートとは何か。それを男に見せたのです。

アダムがそれを見た時に、「今や私の骨の骨」と言ったのですが、彼はまだ神が分かっていなかったので、肉の肉であるとも言ったのです。

アダムには生きている経験がなかった。アダムがその時に持っていた感情というのは、ちょうど御霊を受けた人間と同じ状態であると思えるのです。御霊を受けたけれど、まだ携挙されている訳ではない。神の子になりきっている訳ではないのです。

御霊は受けているのですが、ただの肉ではない。しかし、全くの霊でもない。肉でもないし霊でもない。アダムのその時の状態は、現在の皆様とそっくり同じであったのです。

聖霊を受けた者は、エデンにいる自分を自覚できるはずです。エデンにいるアダムの状態が、自分の状態であると考えてもいいのです。

御霊を受けた人は、神の国に入ろうと思えば入れるのです。御霊を受けたということは、神の国の救いの手形を与えられたことになるのです。手付けを与えたと言っているのです。救いの手は手付けである聖霊を受けたのですから、受けた手付けを深めていけば、救われるに決まっているのです。

ところが、皆様の受け方がどうであったのか。神から受けた福音の手付けを尊んでいない。その時のアダムと同じ状態だったのです。御霊を受けたから死んだ人間ではない。しかし、生きているとは言えない。どちらとも言えるのです。

エデンの園のアダムの状態と、皆様は同じ状態だと言えるのです。神の処置によって、創世記の二章の状態に入らせてもらったのに、皆様はそれを正しく認識していないのです。

アダムには肉の焦げ付きはなかったのですが、皆様には肉の焦げ付きがあるのです。女には女の焦げ付きがあり、男には男の焦げ付きがある。焦げ付きが根を張っているので、アダムのように聡明な感覚で、骨の骨とは言えないのです。

女性はエデンに咲いている花よりも、食べるに良いフルーツよりも優れたものです。鳥や魚や獣、景色や太陽よりも、もっと優れたものです。大自然の景色を見せても、アダムには分からなかった。そこで、大自然よりももっと優れたものを、アダムの中から抜き出したのです。

アダムは良いものを持っていたのに、それを見ることができなかったから、それを引き抜いてアダムに見せたのです。

アダムはそれを見て、「骨の骨、肉の肉」と言ったのです。骨の骨という言い方は良かったのですが、肉の肉と言ったので、元も子もなくなってしまったのです。

今の皆様をどう見たらいいのか。今の皆様の中から引き抜いて、女を見せているのです。女の人は自分の姿が分からない。なぜ分からないのかと言いますと、女は女なりに焦げ付いてしまっているからです。皆様は自分自身の肉体の感覚による罪によって、皆様の霊魂が焦げ付いているのです。だから、美しいとはどういうことかが分からないのです。

実は、女性の美しさは神の歩みです。「良き訪れを告げる者の足は麗しい」とあります。神の歩みの美しさが、エデンの園には満ちあふれていたのです。その光景が見えてくるのが、現代の預言者の特権です。

「地はあなたのために呪われた」のです(創世記3・17)。呪われた地球の中に、エデンの園における神の歩みが見えてくるのです。現在の汚れた地球の中にある万物において現われている、神の歩みが見えてくるのです。万物、神の歩みが喜びの訪れを伝達しているのです。

アダムは万物を見て、何も感じなかった。鳥を見ても太陽を見ても、何も感じなかったのですが、エバを見てひどく感じたのです。

万国の預言者としての霊を与えられた者は、万物を通して、女を感じるのです。女は万物の代表者です。女の良さをちりばめると、万物になってしまうのです。

万物を見た時、何を感じるのか。太陽を見た時に何を感じるのか。花を見た時に何を感じるのか。万物を見た時よりは、女性を見た時の方が濃厚な感じを持ちます。迫力があるからです。万物の美しさが、女において集約されているからです。

麗しい足は一体何を人間に与えるのであろうか。全地に広がっている響きによって、全地に及んでいる言葉によって、何を私たちに教えようとしているのであろうか。これを日本で述べた人がまだいないのです。

そこで、神はキリスト教が日本に入ることを許して、キリスト教的な語法によってそれを皆様に知らせようとしているのです。これが救いです。

人間の魂がビューティフルの足を見る時に、救いを感じるのです。霊魂の救いに直結するような恋愛でなかったら、本当の恋愛とは言えないのです。

人間は神の救いを汚しているのです。性行為を禁じているのではない。そこにすばらしい奥義があることを承知してしなければいけないのです。掟的に見る必要はありませんが、皆様は信仰によってそれをするかどうかです。

人間は耳で聞き、目で見て、手で触っています。何に触っているのか。初めからあった命の言(ことば)に触っているのです。麗しい足が何を持ってきて訪れているかです。

麗しい足から聞こえる言葉がキリストの言葉になるのです。その響きは全地にあまねく、その言葉は地の果てにまで及ぶ。世界全体の森羅万象がそのまま信仰の言葉になるのです。これは日本人にはもったいない言葉です。

男の心理状態は救いを捉える心がなくなっているのです。だから、女性を通して、万物を通して、救いを見つけなければならないのです。

人間の霊魂が海の底から引き上げられるのです。これが救いです。万物や花が救いを示しているのです。日本のお茶とかお花の礼儀作法が救いの入口を示しているのです。

一般生活の中にお茶の作法があることが、霊魂の救いの入口があることを日本文化が示しているのです。

「二人の者が会いて一体となる」ということが、創世記の二章二十四節に書かれています。その後に、「二人共裸であったが恥ずかしいとは思わなかった」とあります。

今の人間のセックスは、神の創造の原点を破壊しています。人間の救いを踏みにじっているのです。それを改めなければいけないのです。目でよく見て、手で触るということだけで、十分に救いが分かるにようになっているのです。

手で触るというのは、一体となるための性行為を意味しないのです。性行為が悪いのではない。心構えが悪いのです。焦げ付いた性の感覚から救われるというのは、本人の心得次第になるのです。

救いというのは、原則的な意味において、報償を与えられることを意味するのです。報償のない救いはありません。救いというのは褒美を与えられることなのです。

世間並だと考えて、欲の焦げ付きに従って、麗しい足を汚していてもしょうがないのです。その人には報償は与えられません。私たちは現世に肉体的に生きている間に、報償を受け取ってはいけないのです。現世で肉的に喜ぶということは、報償を要請することです。肉の喜びは当たり前というのが、こういう考え方です。

現世において、肉体的な今生を喜んではいけないのです。今生を喜ぶ者は、永生を与えられないのです。永生を望むなら、今生を放棄しなければいけないのです。現世の命は生ではありません。命と生は違うのです。生はとこしえの命を意味するのです。

現世の命をとこしえの命と考えてはいけないのです。現世の命は散ってしまうに決まっている命です。

今までのことはいいとして、皆様はこれから神の国を与えられなければならないのです。神の国を受け取ろうとするなら、現世で報償を受けることをやめて頂きたいのです。

恋愛というのはキリストの言葉を感じることをいうのです。救いとしての喜びです。

パウロは「常に喜べ」と言っています。私たちが現世にいるのは何のためか。神の国を受け取るための訓練をしているのです。

皆様が花を見て美しいと感じるのはなぜか。花を見て救いを感じているのです。きれいと感じている時、目を通して、神の救いを感じているのです。これが分かる人は、救われる可能性がある人です。

花を見てきれいだと思った瞬間に、その霊魂は救いを実感しているのです。これをキリストの言葉として受け取ったらいいのです。

花がきれいだということを、神の歩み、エホバの歩みとして受け取るのです。エホバの歩みがそのままキリストの言葉になるのです。

父なる神の歩みがキリストの言葉になるのです。これをユダヤ人が聞いたら、どう思うのでしょうか。これが分かったら、モーセの間違いがすぐに分かるのです。モーセとイエスの違いがはっきり分かります。モーセよりイエスの方が偉大であることが、旧約より新約の方がすばらしいことが、はっきり分かるのです。これはユダヤ人にとって驚嘆すべき福音です。

エホバの歩みがキリストの言葉です。これを神が天地創造の時に語っているのです。こういうことは本来、異邦人が聞けることではないのです。

花はただ咲いているのではない。人間の命に対して非常に深いつながりがあるに決まっているのです。

花が咲いていること、陽気がだんだん暖かくなって春が来たということが、人間の霊魂にどういう係わりがあるかということです。これが皆、救いの感覚です。人間の霊魂がすばらしいと感じることは、皆救いです。日本民族には救いという言葉がありませんから、分からないだけのことです。悟りなら分かるでしょう。

皆様の舌がこれはおいしいと感じた時に、その人は救いを味わっているのです。本当に愛する人と手を握りあうとすれば、救いになっているのです。初めからいる命の言葉を、そういう格好で味わっているのです。これが本当のプラトニックラブです。永遠の命につながるからです。永遠の命につながらないのは人間の理屈です。

永遠の命につながるような、プラトニックラブを経験して頂きたいのです。

人間存在と救いをつなぎ合わせて考えるなら、皆様の肉体は肉(現象)とは違います。霊(本質)です。そのように皆様の意識を転換すると、周波数がぐんと上がるのです。周波数の上昇が携挙につながるのです。

周波数の違いは脳波の違いになる。脳波の違いは存在の違いになるのです。

現世に生きていることはすばらしいことを経験しているのです。救いを現実に見ているのです。人間生活の肉体的な感覚で物を見ると、欲望ばかりが見えますが、生まれた直後の感覚で女性を見ますと、無限の美しさが分かります。これが骨の骨です。

舌で味わうのと同じように、目で見、手で触ることによって、永遠の命の味わいが分かってくるのです。これが本当のおいしさです。

人は神の受け皿です。受け皿がないと神が神ではなくなってしまうのです。

ローマ人への手紙の十章十八節は、詩篇第十九篇四節の引用です。キリストの言葉を伝える麗しい足が、エホバの歩みであって、エホバの歩みを麗しい足として感じる時に、エホバの歩みがそのままキリストの言葉になるのです。

「信仰は聞くにより、聞くはキリストの言葉による」とあります。キリストの言葉を聞いて麗しいということが分かりますと、その人の霊魂に救いが訪れることになるのです。救いが皆様の中に入ってくるのです。

ここまで分かると、御名を呼び求めるとはどうすることかが分かってくるのです。

ローマ人への手紙の十章とルカによる福音書の十二章を一緒に見ていきますと、イエスとパウロがどのように生きてきたか、何を感じていたのかが分かるのです。

どのような世界観を持っていたのか。イエスやパウロの生活感覚がどのようなものであったのかが分かってくるのです。二千年前の人物が今目の前にいるように分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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はじめに

人間は何のために現世に生まれてきたのかと言いますと、言(ことば)を聞くためです。前世で人間は根本的に失敗した。生まれる前の単一人格において、私たちは死んでしまった。その結果、自我意識によって占領されてしまったのです。 自我意識というのは、あってはならない意識です。人間は自我意識によって生きているのではない。自我の能力によって生きているのでもない。自分が自分の命を造り出しているのではない。食物でも、

人間は神を知っている

人間は自分が生きていると考えています。自分が生きているという考えの中に、自分で生きているという意味が含まれています。自分で生きているという根底がなければ、自分が生きているという発想が出てこない。これが悪いのです。 自分で生きているということと、自分が生きているということとは、相似性、近似性という非常に似た考え方になるのです。自分が生きていると思っている人間でも、自分の力で生きていると思っていないと

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