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天使長ルシファーの反逆


聖書はマナーを問題にしています。態度は問題にしていません。生きている心構えを問題にしているのです。人間は理論的に分かっていても、実際の生活で分かっていない。これが弱点になっているのです。

ペテロはオール・マナー・オブ・リビング(all manner of living)を清くせよと言っています(ペテロの第一の手紙1・15)。生活のすべてのマナーを清くせよと言っているのです。

私たちは人類のトップリーダーになることを、神に要請されているのです。イスラエルは神に反抗しているので期待できません。私たちがイスラエルのリーダーになるという意識を持っていれば、ユダヤ人には感じる所があると思われるのです。

ユダヤ人とは誰か。新約聖書には血族的なユダヤ人ではなくて、霊なるユダヤ人が本当のユダヤ人であると言っています。御霊を受けた人、聖霊を受けた人こそ本当のユダヤ人と言うべきです。

この意味からすれば、日本の国内にも自分で意識していないユダヤ人がいるのです。日本にはそういう人がたくさんいるはずです。私たちが一般の日本人を相手にしていても、ユダヤ人を相手にしている場合があるのです。

私がお話ししている内容は、異邦人には分かるはずがないのです。異邦人は現世に生まれて、現世に生きるためにいるのです。神の国と神の義には関係がないのです。神の国と神の義を求めるのが、本来のユダヤ人です。

異邦人の一家族の中にも、ユダヤ人的な素質を持っている人と、全く持っていない人がいるのです。

人間の中には、ユダヤ性と異邦性と、二つの人格があるのです。ユダヤ性は物の裏を見ようとしているのです。現象をそのまま素直に受け取らないで、物事の裏を見ようとするのです。自分ではそのように意識しているつもりはありませんが、普通の人が考えないようなことを考えるのです。人が悪いように見えますが、悪いのではなくて、物の見方がシビアーなために、人が悪いように見えるのです。

例えば、アングロサクソンの白人には、ジョン・ウェインみたいな人も多いのです。彼はあきれるほど単純でした。単細胞でした。これがいいか悪いかは別として、彼はそういう正確の持ち主でした。

日本人は聖書に対して、また、キリストに対して、性格的に反抗するのです。キリストという言葉を聞いただけで、反感を持つのです。これには封建制度とかキリシタンバテレンに対する反感もありますが、日本人のあり方そのものが、キリストに反発する感覚を持っているのです。

例えば、日本の大名で、小西行長とか高山右近は、熱心なクリスチャンだと思われていますが、そうではないのです。彼らはキリストに感心したという面はありますが、本当に心からキリストを知っていたのかというと、甚だ疑わしいのです。

高山右近は自分の城も国も棒に振って、キリストを信じていたと言われていますから、本当に信仰を持っていたように見えますけれど、結局、宗教観念でした。

頭で分かっていても、実際マナーになりにくいのです。概念的、思想的にキリストと一致することができても、魂がキリストに一致しないのです。

イエス・キリストの信仰に同化するということは、一朝一夕にできることではありません。私たちは長年聖書の勉強をしてきました。御霊に導かれてきましたけれど、もともと異邦人です。世間のキリスト教信者から見れば、比較にならない程、聖書が分かっていますけれど、まだ聖書の言葉が本当の命になっていないのです。

その間違いは女性には分かりますが、男性には分からないのです。男性が女性を勉強しなければならないというのは、そういうことです。

女性は分かっています。男性よりも分かっているのです。個人差もありますから、全部の女性が分かっている訳ではありませんけれど、大多数の女性には分かっているのです。

女性的なセンスが豊かな人とそうでない人がいますが、女性から見ると男性の欠点が分かるのです。

私たちの何処がどう間違っているのか。御霊を受けても御霊が崇められない。霊が渡せない原因は何かです。霊を渡したと言っても、まだ頼りないのです。

なぜかと言いますと、本当に霊を渡したとすれば、物の考え方、物腰が変わってしまうのです。本当に霊を渡すと、女になるのです。イエス・キリストにある時には、男もない、女もないとパウロが言っています。女が男的になり、男が女的になる。これが通例です。だから、男もなし、女もなしと言っているのです。

私たちは弁解する必要もありませんし、甘い点数をつける必要もありません。ただ聖書にどうあるべきかを考えたらいいのです。聖書に対する捉え方が甘ければ、それを直したらいいのです。

聖書に対する甘さということについて、パウロは次のように述べています。「彼らは神を知っていながら、神を崇めていない。神が神であることは、造られた万物において明らかに認められるはずである。人間はそれを言い逃れることはできない」(ローマ人への手紙1・19、20)。

二十一節では、「彼らは神を知っていながら、それを神として崇めていない。そのために、愚かな気持ちが暗くなった」と言っている。私たちの気持ちが愚かで暗くなっていないかどうかです。

神を知りながら、神として崇めていない。こういう欠点が男にはあるのです。男はお人好しです。考え方が粗雑です。女性の方がずっと綿密に、正確に、シビアーに考えています。

本当に聖書を正しく捉えるためには、考え方を逆転しなければいけないのです。

神が男性に女性を与えたのは、女性が骨の骨であることを男性が知ることによって、自ら骨の骨であることを学ぶためです。

神はアダムの一番良い所を引き抜いて、女性にしたのです。アダムはその美しさに仰天したのです。今でも男性は女性の美しさに仰天しているのです。ただ仰天しているだけではだめで、女性の本当の値打ちを見て、男性の欠点が分からなければいけないのです。

女性は結婚すると自分の肉体は夫に与えますが、心は絶対に与えません。夫に従っているような形はしていますが、その方が得だからそうしているのです。実際には、心を夫に与えることはしないのです。どんなに貞淑な女性でも、こういう性格を持っているのです。

肉体は与えるが心は与えない。女の家庭生活の姿は本当の姿ではないのです。肉体を与えるが心は与えないという女性とは何か。女性は結婚するけれど、本当に夫に心を与えない。これを男性から見ると、女性は片意地、頑固に見えるのです。ところが、片意地、頑固なのではない。神は霊魂の本来のあり方を教えているのです。ここに秘密があるのです。

男性は女性より考え方が浅いのです。男の頭の回転は現世向きです。この世のことについては、ピュアーな感覚で見ているのです。

女性は現世向きにできていないのです。自分の事をよく知らないのです。秘かに天国を求めているのです。男はそれが分からないのです。

男でもある人はこういうことを感じているのです。しかし、感受性は薄いのです。女性は本当の天国を狙っている。厚かましいのです。

男が本当に責任を自覚するといいのです。男は正攻法で勝負しようと思う。神の国を攻めるというのは、正攻法ではだめです。

女は待っているのです。結婚したらもう待つ人はいないはずです。ちゃんとご主人が決まっているはずですから、もう待つ人はいないはずです。ところが、待っている。結婚しても女は待っています。八十歳になっても、九十歳になっても待っている。おばあさんになっても待っている。なぜ待っているのか。

とにかく、偉大なものを待っている。これがユダヤ的です。これがユダヤ人の本当のど根性です。ですから、日本人はキリストを信じることができないのです。

日本人は悪い意味で女性的です。面従腹背は女性的です。へいへいの糞くらえというのは女性的です。表面上は政府に非常に従順なように見えますが、腹から本当に主権者に従おうとしないのです。そこに天皇制が乗っているのです。

日本人は本当に腹の底から人に従うということがありません。主君に従おうとしないのです。従っていないと損だから従っているだけです。

日本人の土性骨がユダヤ的です。日本人の根性の骨の髄を洗うと、ユダヤ人の根性が出てくるのです。キリストにどうしても従えないのです。

日本で福音を説くというのは、まさにユダヤ人に福音を説くようなものです。キリストという名前を聞いたら、もう拒否反応を起こすのです。

女は待っている。何を待っているのかと言いますと、キリストと意識はしていないですが、キリストとしか言いようがないものを待っているのです。ここが女の特長です。宗教ではない神とは一体何かということです。

「人間は神を知っている。知っていながら、神として崇めていない」とパウロが言っていますが(ローマ人への手紙1・21)、これはどういう事でしょうか。

女は自然の用を知っている。知っていながら、自然の用をはっきり認識しようとしていない。自然の用を不自然の用に代えてしまっているのです(同1・26)。

女性は自然の用を知っているのですから、女性は尊い存在です。世が世であれば、男性が女性に向かって、「おいこら」とは言えないお方です。現世が罪の世ですから、しょうがないから、夫に従わなければならないようになっているのです。この世にいる間は、男に従わなければならない。これが神の処置です。

従わせている男が、女性に学ばなければならないのです。聖書は男女のことを学ぶ非常に正確な教科書です。神の教科書です。

聖書を正しく学んで、初めてエデンの園でアダムがエバに驚いたように、女性を見なければいけないのです。その時、アダムはエバをどのように扱っていたのか。その扱い方を勉強しなければならないのです。

そうすると、夫婦の内容が変わってくるのです。そうして、夫なるキリストが妻である教会をどんなに愛しているかが分かるのです。

私たちはキリストの妻にならなればいけないのです。人がキリストの妻となるのは、全く驚くべきことです。

命が分かったらいいのです。これが人間がこの世に生まれて来た目的です。私たちが生きているということは、言葉で表現できない程、大したことです。人間が考えていることの何千倍か、何万倍かのすばらしいことです。

ユダヤ人問題は、聖書を勉強すると分かるのです。ユダヤ人がどれほど愚かか、神がユダヤ人をどれほど愛しているかが分かるのです。

それと同じように、私たち自身がどれほど愚かか、神が私たちをどれほど愛しているかが分かるのです。ユダヤ人を勉強すると、私たちが分かる。こういう仕掛けになっているのです。

地球が存在するのは、地球計画の現われです。これは宇宙計画と言ってもいいでしょう。地球計画という宇宙計画が聖書になっているのです。

地球が存在する秘密が、ほとんど聖書に出ています。不思議な本です。地球があれば聖書はなくてもいいですし、聖書があれば地球はなくてもいいのです。地球と聖書と人間存在の三つは同じものです。私たちの値打ちは聖書と同じ値打ちです。地球がある値打ちと、私たちの値打ちは同じものです。

人間は肉体的に生きているのを自分だと思っている。これは自分の入口にすぎないのです。

私たちが生きている間に、自分が読めただけ神が読めるのです。神が読めただけ自分が読めるのです。人は神にかたどりて造られた。自分自身を読んだら、それだけの分量で神を読んだのです。

私たちは折に適った、忠実にして賢明な番頭にならなければならないのです。忠実にして賢明な所まで行かなければならないのです。

本当に聖書を正確に読めば、神の本物が分かりますし、命の本物が分かるのです。そうすると、今生きている現世の人間から離れてしまうのです。

脳波が宇宙に流れています。脳波が脳に働いているから、考えられるのです。脳波が命のエネルギーです。命のエネルギーは思想です。本当のエネルギーは思想です。思いです。

脳が働かなければ考えられないのとは違います。神が分かると、大変なことが分かるのです。脳波の根源が分かります。だから、脳が灰になっても構わないのです。

イエスは、「私を信じる者は、たとい死人でも生きる。また、生きていても、私を信じる者は、いつまでも死なない」と言っています(ヨハネによる福音書11・25、26)。

なぜイエスはとこしえに死ぬことがないと言っているのか。現在生きているうちに、永遠の命の実物に移ってしまうからです。人間として生きることをやめて、神の子として生きるルールに乗り移ったらいいのです。これをするのです。これは絶対にしなければならないのです。生ける神の子というルールに移ってしまうのです。

自分で考えている間はだめです。そういう人は必ず死んでしまいます。神を信じるとは、恐ろしいエネルギーを信じることです。だから、自分が生きている必要はありません。自分が生きていたらいけない。自分が生きていたら邪魔ばかりしているのです。異邦人の分際でこういうことが分かるというのは、破天荒な恵みです。

宇宙には命の実物があるに決まっています。人間の頭で考える必要がないのです。自分の頭で考えなければならないというように、人間が勝手にそう思っているのです。

人間の能力の根源が何処かにあるに決まっています。それを見つけなければいけないのです。宇宙には永遠の命の流れがあるのです。なければ、地球が自転、公転するはずがないのです。太陽が照るはずがないのです。

太陽はやがて消えるでしょう。太陽は消えても、太陽を働かしている力は消えないのです。太陽を働かしているのは、宇宙の命が働かしているのです。

太陽の働きには時間的な限界があるに決まっています。太陽にも耐用年数があるはずです。太陽は有限の物体ですから、やがてなくなりますが、太陽を働かしている力はなくなりません。

この力を地上で捉えなければいけない。人間の常識ではできないと思うかもしれませんが、それをしなければ永遠の命を掴まえることはできないのです。人間の常識はそれを捉えたいと思うのです。捉えなければ死ぬしかないのです。

神は神のことを全然考えていない人間でも、生かしています。雨を降らし、太陽を照らしています。皆救われる可能性があるから、そうしているのです。神のことを全然知ろうとしない人間でも、神から見れば見込みがあるから、生かしているのです。

信仰の実体を認識して、その方向へ歩みよろうとする姿は、神から見れば女性になるのです。男性は神の栄光です。女性は男性の栄光です。女性はじっと見ると、自分の栄光が分かるのです。その栄光を男性が自覚しなければならないのです。何を自覚するのかと言いますと、女性が待っているということを自覚するのです。

その待ち方を男性が勉強するのです。女性の真似をして、女性の長所を自分のものとして受け取るのです。

女性の良さは、待っているという姿です。待っているという姿勢が、ウーマンボディーに現われているのです。女性のボディーは待っているボディーです。待っているという姿勢がボディーに現われているのです。

男が女を愛したくなるのは、待っているからです。待っているという姿勢が、女の色気です。男は女が待っていると考えるのです。ところが、女は男を待っているのではない。男を貫いて、もっと上のものを待っているのです。

男は神の栄光です。それを女は知っていて、男の上にあるものを待っているのです。

神の栄光として男が現われている。男の栄光が女に現われている。これが骨の骨です。もしエバがアダムの骨の骨であるとすれば、アダムは何なのか。女の直感は恐ろしく鋭いものです。女は自分で自覚していないけれど、直感しているのです。

すべてのものは神の言葉で造られているから、すべて読みものです。人間の立ち居振る舞いから、人間がしていることすべてが読みものです。

亡くなった有名人が、毎日、新聞の社会面に出ていますが、全部地獄へ行くのです。自分として生きていたからです。人間がいると思っていたからです。

自分が生きていると思っている人は、皆地獄へ行くのです。仕事をした。社会奉仕をした。学理学説を発見した。こんな業績を残した。こんな歌を作った。こんな本を書いたと思っています。自分がしたと思っている人は、皆神の命を泥棒しているのです。

私たちはユダヤ人を相手に文句を言わなければならないことになるのです。これは神の戦いです。これはエホバの戦いなのです。

神は太陽系を宇宙の秘密、地球が完成される秘密を、私たちに教えようとしているのです。

神のとこしえの力という点から考えると、地球が四十五億年存在しているように見えるのです。これは神の力が継続的に働いているからそのように見えるのです。エバーラスティングパワー(everlasting power)が働いているのです。

神の力は二通りあるのです。瞬間的に働く力がエターナルパワー(eternal power)です。エバーラスティングというのは、神の力が継続的に働いているのです。この二つの面があるのです。断という面と続という面とがある。これがいなずまの特長です(ヨハネの黙示録4・5)。いなずまの特長がそのまま神の永遠性を示しているのです。断ということも続ということも同じです。どちらでも言えるのです。

肉の思いは感覚を重んじますが、続の方だけしか見ていません。断の方を見ないで、続の方だけを見るのです。ですから、地球が四十五億年あるとか、五十億年あるとしか見えないのです。

この見方しかできないということが、人間が陥りやすい欠陥です。存という字も、在という字も、両方共、長らえてと見るのです。これが間違っているのです。

人間は実体の世界を見ないで、感覚の世界しか見ようとしないのです。ところが、人間の本心は、断の世界と続の世界の両方を意識しているのです。

人間は座っている時でも、同じ姿勢を長い間保っていられません。動かすということが伴わなければ、同じ姿勢で座っている訳にはいかないのです。人間の心理状態がそのまま姿勢に現われているのです。

人間の心理状態はいつでも動いています。心理状態の動きが、人間が生きていることの実感であり、実体なのです。これが断の面です。

デカルトは「人間の心理的なものはいつでも変化する。しかし、物理的なものは変化しない」と言っています。これは彼が故意に歪めた言い方をしていると思われますが、もし本気になってそう言っているとしたら、デカルトは誠に皮相的な見方をしていた数学者であったと言えるのです。

人間の心は神の性格においてしかありえないことを意味しているのです。動かさずにおこうとしてもそうはいかないのです。心はいつでも動き続けていなければ、心にはならないのです。これがいなずまの原理です。

一方、雷(いかずち)の面があるのです。神の面にいなずまの面と雷の面があるのです。ごろごろと鳴っているのです。雷はごろごろと鳴っていますが、実体はありません。いなずまは実体がありますが、雷は実体がないのです。

現象世界が継続的にあるように見えるのは、雷の面を耳で聞いているからです。自分自身の心理的な面と生理的な面を知ることが大切です。

創世とは何か。闇が淵の表にあったという条件を踏まえて、初めて創世が成立するのです。この条件を踏まえなければ、創世の原理は発生しないのです。これをよく考えてみる必要があるのです。

今、存在と呼んでいるものは、闇が淵の表にあったということを原理にしているのです。闇が淵の表にあったという原理がなかったら、存在という事がらが発生しないのです。

私たちが今現象と考えているものは、全く感覚の世界です。感覚の意識的継続を、現象と呼んでいるのです。ただ意識的な継続があるだけであって、実体ではないのです。ただ雷がごろごろとこだましているだけです。

ところが、聞いている感覚で言いますと、実際にあるように見えるのです。ごろごろと鳴っている間は、いなずまが継続的にあるように思えるのです。地球環境があるだけで、実体はないのです。

感覚の世界から抜け出してしまえば、現象が実体ではないということがよく分かるのです。

自分の感覚の世界に捉われないということを意識に実感する工夫をして頂きたい。禅宗では進歩の工夫と言います。進歩の工夫をしないと、色即是空といくら口で言っても、その実感がありません。色即是空の実感がないから、現象のことにこだわることになるのです。

私たちがこの世で経験したことは、ことの大小にかかわらず、全部虚像です。親子は虚像です。兄弟も虚像です。夫婦も虚像です。目に見えるものは皆虚像です。

この世に生まれてから、肉体的に生きているという条件で経験したことは、全部嘘です。嘘の中から本当のものを掴み出すのです。

私たちは嘘を経験しているのです。嘘を経験しているという条件の中から、本当のものを掴み出すことができるかどうかが勝負になるのです。

経験していることの中のどういう部分が本当であったのか、どういう部分が嘘であったのか。嘘と実を自分で見分けることができると、イエスが生きていた心境が分かるのです。

どんな理由があっても私たちは大なり小なり、イエスが生きていた心境に達するのでなかったら、私たち自身が真理を知ることができないし、救いも経験することができないのです。

生きている間にナザレのイエスと同じ心境に達することが、絶対的な神の要請です。イエスほど継続的にその心境に留まることができなくても、イエスの心境を自分で実感できるような状態にまで、どうしても行かなければいけないのです。

そうして、できるだけその時間が長続きできるように訓練しなければならないのです。長続きするようにということは、生活でそれを具体的に表現することです。

イエスと同じ心境に到達することが第一です。その次に、到達した心境をできるだけ持続することです。持続の時間が長いか短いかによって、キリストのボディーとしての位置が決まるのです。

キリストには手もあり足もあり、目も鼻もあります。パウロはそれをメンバーと言っています。メンバーの一つになれるとしても、メンバーのどこに位置するかが違ってくるのです。持続の仕方の上手下手によって、メンバーの位置が決まるのです。これが報いです。救いではなくて報いです。

救いというのはイエスの心境をそのまま実感することです。これは絶対にしなければいけないことです。後は、それをどれだけ持続して実践するかということです。持続とは実践を意味するのであって、ヨハネは次のように述べています。

「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネによる福音書6・63)。

この言葉の深さを実感して頂きたい。人を生かすものは霊です。命を与えるのは霊です。神の御霊の働きです。これがエネルギーです。

エネルギーという言葉の本質は、精神的なものです。物理的なものではありません。これがエネルギーの本質です。人間の命のエネルギーは精神的なものであって、これは御霊の働きを意味するのです。

人に命を与えるものは、神の御霊の働きです。肉は何の役にもなりません。肉というのは、神の御霊の働きが形態的に人間に感じられることです。そのように感じられるものが肉です。

そう感じられるのは、人間が肉体を持っているからです。生かされているということが、肉体的なもののように見えるのです。そのように感じられるのですが、これは益がありません。益がないということは、実体がないという意味です。全くの映像であって、幻覚にすぎないということです。

肉体的に生きていると思うその感覚は幻覚です。これは原罪に基づく幻覚作用です。

五官の働きと言いましても、五官が肉体的に働いている感覚は幻覚です。目で見ているというのは、その意識的な面は幻覚です。映っていることが実体です。

客観的に物事を捉えていくのです。そうして、自分が生きているという事実を解脱していくのです。これができなければ、イエスについて行くことはできません。

なぜそうなるのかと言いますと、闇が淵の表にあったということが、創世の原点になっているからです。悪魔の意識が土台になっていなければ、現象世界、物理的な世界ができるはずがないのです。闇が淵の表になかったら、現象があるはずがないのです。

元来、宇宙はガス体であることが本体です。物体があっても仕方がない。「地は形なくむなしく」ということが、宇宙の原形です。闇が淵の表に座り込んだということがおかしいのです。

悪魔はありもしない淵を自分の幻想の中で描いたのです。これがルシファーと呼ばれる大天使の創造原理になっているのです。天使長ルシファーは、この世があるべきだと考えた。創世記一章二節の段階では、現象があるはずがないのです。海も川もないのです。海も川もないのに、どうして淵があるのでしょうか。

淵はある時ルシファーの中に生まれた幻想です。そういう幻想が起きたことが、神への反逆になったのです。闇が淵の表にあったというのは幻想です。幻想がルシファーの中に発生したのです。これが創世の原理になっているのです。

神がそれに乗ったのです。乗って悪魔を自滅させようと考えた。これが天地創造の根本原理です。

神は悪魔の反逆を、神の完成、神が神であることを、宇宙に闡明(せんめい)するチャンスにしたのです。穿った見方をすると、神はそういう下心があって、ルシファーを天使長に任命したと言えるかもしれないのです。

しかし、イエスの言い方を借りれば、「人を躓かせる者はある。人は躓くことがあるに決まっている。しかし、人を躓かせる者は災いだ」と言っているのです。ここです。

躓きがあるのはなぜか。神が弁証法的に自己完成をするとすれば、宇宙に躓きが発生するはずです。現象意識が宇宙に起きたとしても、それは当たり前です。それがなければ、弁証法的な神自身の完成が考えられないからです。

だから、神は自分自身を完成するために、闇が淵の表に座するということがあるのは当然です。そういうことが宇宙に発生するのは、当然だというのです。

イエスは「躓きはある。それはあって当たり前である。しかし、躓く原因になったのは災いである」と言っています。

ルシファーは当て馬に使われたと言えるかもしれないのです。淵の表に座り込む可能性を、ルシファーは持っていた。それを神は承知して、大天使(天使長)に任命したのです。

神は予め躓きを予想した。神自身の驚くべき直感によって予想して、ルシファーに大天使の役目を与えたのです。果たして、彼は躓いた。これが闇が淵の表に座ったということです。

まだ淵も地球もない時に、淵の表に座った。なぜかと言いますと、淵というものがあるべきだとルシファーが構想した。大天使ルシファーが構想したので、宇宙に甚大な影響を与えることになったのです。現象体というありもしない幻が発生することになったのです。

太陽系以外の外宇宙を考えると、すべてガス体です。星雲の世界はガス体です。ガス体の世界には、天も地もないのです。ある必要がないからです。

アンドロメダ星雲には、三億、四億の星が集まっていますが、そこには天はありません。形なくむなしくという状態においては、天も地もいらないからです。これが宇宙の原形です。一切無の状態です。

一切無というのが、宇宙の原形です。そこへ神はルシファーという大天使を任命すると同時に、天と地という原理を誕生させたのです。これは悪魔が反逆する前です。神は悪魔の反逆をはるかに見通して、天という原理と、地という原理を設定した。

そこで、神の大完成が想定されたのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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はじめに

人間は何のために現世に生まれてきたのかと言いますと、言(ことば)を聞くためです。前世で人間は根本的に失敗した。生まれる前の単一人格において、私たちは死んでしまった。その結果、自我意識によって占領されてしまったのです。 自我意識というのは、あってはならない意識です。人間は自我意識によって生きているのではない。自我の能力によって生きているのでもない。自分が自分の命を造り出しているのではない。食物でも、

人間は神を知っている

人間は自分が生きていると考えています。自分が生きているという考えの中に、自分で生きているという意味が含まれています。自分で生きているという根底がなければ、自分が生きているという発想が出てこない。これが悪いのです。 自分で生きているということと、自分が生きているということとは、相似性、近似性という非常に似た考え方になるのです。自分が生きていると思っている人間でも、自分の力で生きていると思っていないと

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