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  • 管理人chaya

太陽系宇宙は神の宇宙計画の中心


ダビデは次のように言っています。

「話すことなく、語ることなく、

その声も聞こえないのに、

その響きは全地にあまねく、

その言葉は世界の果てにまで及ぶ。

神は日のために幕屋を設けられた。

日は花婿がその祝いの部屋から出てくるように、

また勇士が競い走るように、その道を喜び走る」(詩篇19・3~5)。

この口語訳は少しだらしがない訳になっていますが、文語訳は次のようになっています。

「語らず言はず、その響き聞こえざるにその響きは全地にあまねく。そのことばは地の果てにまでおよぶ。神はかしこに帷幄(あげばり)を日のためにまうけたまへり。日は新婿がいはひの殿をいづるごとく勇士(ますらお)がきそひ走るを喜ぶに似たり」。

最近、世界の宗教者が集まって、平和の祈りをしています。平和を祈るということは、人間自身の生活状態を守ろうとしているに過ぎないのです。地球上に住んでいる人間が、人間どうしのあり方を存続しようとする意識が、平和を祈願することになって現われているのです。ある宗教指導者は宗教は祈ること、感謝することだと言っています。

神に祈るということは、人間の生活のために祈ることではありません。神と霊魂の関係は人間の生活のためにあるのではなくて、生命のためにあるのです。

地球は地球自身が存続することが目的ではありません。地球が生きていることに地球の目的があるのです。地球が生きている。これが地球存在の目的ですが、これが宗教では分からないのです。

地球が生きていることが分からない。それは人間が生きていることが分からないのと同じです。

宗教家は生きていることは有難いとすぐに短絡的に考えようとするのです。抽象的、概念的に有難いと言っているだけです。

生きている本質を何処に置くかです。現世に人間が生活していることを生きていると考えている。そうではないのです。

近世文明によって人間が決定的に堕落した。肉的に運命づけられたのです。文明思想によって、人間を肉の思いに縛り付けてしまったのです。

文明を信じるということが、霊魂の自由を束縛するのです。宗教を信じることによって、霊魂の自由を奪われてしまうのです。その上に輪をかけられることになるのです。

宗教によって命の実体が分からなくされてしまった。現世に生きていることが命であり、生活そのものが命であるというような誤解を信じ込まされてしまうのです。

宗教を信じると生活主義を強固にする上に、人間の思想の根底を拘束してしまうのです。生活的な拘束と精神的な拘束と、二重の拘束になってしまうのです。これが偽キリストの文明です。

キリストは死んでいく人間を甦らせるのです。死んでいく人間の罪をなくして甦らせて、新しい命を与えることがキリストです。

偽キリストの文明を信じている人は、死んでいく人間が新しくされて、死なない命を与えられているということが分からないのです。ユダヤ人を中心にした人間文明は、これが分からなくなっているのです。

その原因は何かと言いますと、宗教と学問の堕落です。宗教主義と教育主義の堕落です。イエスはこれを「禍なるかな学者パリサイ人」と痛烈に批判しているのです。学校の教育制度と宗教制度が人間の魂を完全に殺してしまったのです。この二つが現世に生きている人間を徹底的に擁護しているのです。真正面からそれを認めているのです。

人間が人間を認めて、生活を安全、強固にすることが近世文明の目的です。現世に生きている人間を認めてしまうと、永遠の命に生きている人間を否定しなければならないことになる。そこで、キリストを否定したのです。イエス・キリストの十字架と復活を黙殺しているのです。

ユダヤ人は十字架と復活を否定できないので、黙殺するという方法をとったのです。聖書に反対することができない。キリストの復活に堂々と反対することができない。そこで、黙殺する方法をとったのです。これが人権主義です。キリストの厄介にならなくても、現世で人権を尊重すれば幸福になれる。キリストを信じなくても、人間は現世で生き甲斐を感じることができる。こういう方向をユダヤ人が選んだのです。これが偽キリストの文明です。

神のキリストを否定して、基本的人権という人間のキリストを肯定した。これが現代文明の急所です。現在の人間は文明を肯定したことによって、ユダヤ人の旗振りに同調した。そして、キリストを失ってしまったのです。自分自身の現世におけるはかない命を、キリストに仕立てているのです。

現世のはかない命、死ぬに決まっている命をキリストに仕立てて満足しようとしている。これが世界に平和を、平和を世界にというモットーになるのです。

世界平和を実現してどうなるのか。人間は皆死んでしまうのです。世界平和が実現されない方が、人間自身の鬱屈した精神が回転していいのです。それを人間自身が肉の思いを肯定することによって、文明がストップしてしまうのです。生命の伸長性を失ってしまうのです。

人間は現世に生きることが目的ではありません。永遠の命への踏み台として現世があるのです。命の本質を究明するために、肉体的な生命があるのです。

肉体的な生命を経験することによって、生命そのものの本質を捉えること、生命の本質へ目を向けることが、肉体的生命の目的です。

物理的に存在するものは、心理的に存在するものへの踏み台です。これが色即是空の原理です。目に見える形で常識で肯定できる物質は、それをマスターするためにあるのです。

人間は死ぬに決まっているのです。地球はやがて壊滅するのです。どういう形で壊滅するのか。聖書は次のように預言しています。

「今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々が裁かれ、滅ぼされるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。

しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼け崩れ、地とその上に造り出されたものも、皆焼き尽くされるであろう」(ペテロの第二の手紙3・7、10)。

恐らく、太陽が大爆発を起こして、地球がその火に呑み込まれてしまうことが想像されるのです。

今、太陽が地球を愛しています。太陽は無条件で地球を愛しているのです。これは地球が造られた目的が、太陽を通して地球の物理現象を愛することを示しているのです。太陽という天体現象を通して、地球という物理現象を生かし、育てることが目的です。

育てるということの向こうには、成長して完成するという目的がなければならないのです。地球は現在、ある目的のために存在しているのです。地球は地球のために存在しているのではない。物質的に存在している地球は、物質的に存在している地球であって、地球は必ずしも物質的でなければならないとは言えないのです。

存在するということ自体が、本来霊なのです。物質が存在しているのは、霊なる状態を物柄として証明しているのです。これが物質存在です。

物質が存在するというのは、物質そのものの存在を意味するのではなくて、存在しているという事がらの内容を哲理的に現わそうとするためのものです。

地球が存在することの初歩的段階として、現在物理的に現われているのですが、物理的にある地球というのは、存在の本質を現わすためにあるのです。物理的に存在する地球は、やがて消え去るに決まっています。そうすると、物理的に存在する地球は、根本的に変質するに決まっているのです。

現在、物理的に存在している地球の中に、将来完全な地球として誕生する地球が内在しているはずです。地球の完成目的が、今の地球に含まれているのです。

花が咲いていること、鳥が飛んでいること、蝉が鳴いていること、人間が生きていることの中に、地球が完成することの原理が内包されているのです。その原理を見つめて、物体的に存在する地球をアウフへーベンするような思想を持つことができる者だけが、永遠の命に与ることができるのです。

この地球がどのように完成するのか。地球は将来完成された地球において、人間はどのような責任を持つべきか、どのような仕事を分担すべきなのか。これを勉強することが、人間の最終的な最高の唯一の目的になるのです。

現世でどんな文明を造っても仕方がない。世界平和を祈っても仕方がない。物理的な地球は必ず潰されるからです。人間は死ぬに決まっているからです。死ぬに決まっている人間や、崩壊するに決まっている地球を当てにして、現在の学校教育や、宗教的な思想が存在しているのです。

現世を認めることが永遠を認めないことです。人間は現世と永遠とを同時に認めることはできません。

現世の生活はプロセスとして存在するものであって、現世そのものが目的ではないのです。過程的なもの、一時的なものとして現世を見るならいいのですが、現世が人間存在の目的ではないのです。

現世の政府は現世の社会制度を堅固にすることが目的です。日本の法律は現在の生活を守ること、現在の国や組織、形態を守ることを第一義にしているのです。

ところが、天皇制はそれを第一義にしていない。

「君が代は

千代に八千代に

さざれ石の

巌となりて

苔のむすまで」

これは永遠です。永遠を目的としているのです。天皇制の目的論は天壌無窮(てんじょうむきゅう)であって、永遠を求めること、永遠であることが天皇制の特徴です。従って、天皇制を認めるとすれば、現世の人間の政治状態、教育状態が成立しないことになるのです。

ところが、日本の政府は昭和十六年から二十年にかけて、天皇制の名においてキリスト教を弾圧したのです。刑務所で殺された牧師も多数いたのです。全くばかなことをしたのです。

現代文明は人間の目的、地球の目的、文明の目的を持っていません。国家組織が目的を持っていないのです。文明構造が理想を持っていないのです。

文明の理想は世界平和です。こんな低劣なことが文明の理想であるということが、文明が肉の思いであることを暴露しているのです。

人間自身の手製による文明理論を展開して、一時的な人間の平和、事なかれ主義の平和を実現することが、文明の目的です。

ところが、地球存在は混乱することによって、人間社会の進歩があるのです。それを事なかれ主義で押さえつけようとすれば、文明も社会も停頓してしまうのです。これが宗教の目的です。

地球という奇妙な物理構造が存在している。地球という物理構造が宇宙に存在しているということは、奇蹟というよりもハプニングというべきものです。

大体、地球という物理構造、物体現象が太陽系宇宙に存在するということが不思議です。また、太陽系という妙な宇宙が存在することが不思議です。

詩篇十九篇の四節に、「その響きは全地にあまねく。その言葉は地の果てにまで及ぶ。神はかしこに帷幄(あげばり)を日のためにもうけたまえり」とあります。

かしこにとはあそこにということです。帷幄というのはめったに使われない言葉です。これは大きい戦争をする場合の大本営のことです。

天に帷幄が設けられたというのは、地球が存在すること、太陽系宇宙という特殊な物理的宇宙が存在することが、神の大本営になっているのです。神の宇宙経営の大本営です。

これは英語ではタバナクル(tabernacle)となっています。これは幕屋という意味です。帷幄という言い方は英語にはありません。帷幄というのは、柵をめぐらし、のきを渡して布帛(ふはく)で覆った仮小屋です。

参謀の戦略の根本原理はここで決定されるのです。部分的な勝った負けたを決める所ではない。全体的な戦略、戦術を決定するのが帷幄です。これはタバナクルというただの幕屋とは違うのです。

これについてパウロは次のように書いています。

「しかし、キリストがすでに現われた祝福の大祭司として来られた時、手で造られず、この世界に属さない。更に大きく、完全な幕屋を通り、且つ、やぎと仔牛との血によらず、ご自身の血にとって、一度だけ聖所に入られ、それによって、永遠の贖いを全うされたのである」(ヘブル人への手紙9・11、12)。

手で造られない、この世界に属していない、更に大いなる完全な幕屋とあります。これが帷幄の意味です。

太陽系宇宙は現在の宇宙に属していないと書いているのです。現在の銀河系の宇宙に属していないのです。この世に属していないのです。この世とは現在の宇宙構造のことを言っているのです。

太陽系の宇宙は特殊な宇宙であって、現在の宇宙構造に属していないのです。現在の宇宙構造は原則的には星雲です。ガス体の集まりです。分子の集まりであって、絶えず離合集散を繰り返しているのです。

太陽系宇宙は単なる分子の集まりとは違います。海があり、陸があるという不思議な宇宙です。万物が生育している。生命現象に満ち満ちている。こんな宇宙は太陽系以外には何処にもないのです。

地球には天地森羅万象という奇妙なものがある。これがタバナクルです。太陽系宇宙という幕屋です。この天地森羅万象が神の永遠の計画の原点を示しているのです。

これが初めに神が天と地を造ったということを受けているのです。初めに神が天と地を造ったという言葉がスタートラインです。

初めに神が天と地を造ったという悠遠無双の大構想が、旧約聖書の創世記第一章の冒頭に書かれている。初めに神が天と地を造ったのは何のためか。何の目的においてなのか。また、その完成はどうなるのか。これが太陽系という帷幄において証明されているのです。

初めに神が天と地を造った。絶対者がこの宇宙に存在する。絶対者の意志によって宇宙が活動を開始した。

その受け皿というべきもの、または目的論的な終点、終末、完成の状態が、手にて造らないこの世界に属していない、更に大いなる幕屋です。イエスはここを通ったのです。イエスはここを通って血を流したのです。これによって、宇宙の矛盾がきれいに洗われたのです。

私たちは宇宙の矛盾を洗うためではなくて、私たち自身の誤解、考え違いを根本的に修正するために、イエス・キリストと同じように血を流さなければならないのです。

血を流すとはどういうことか。イエスが血を流したのは、十字架にかかったということではない。十字架にかかって血を流したというのは、終末的な意味における象徴です。

十字架の血というのは、イエスの全生涯を象徴しているのです。ところが、イエスは自分自身の毎日の生活で、血を流していたのです。

これについてイザヤは次のように書いています。

「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、

彼は侮られて人に捨てられ、

悲しみの人で、病を知っていた。

また、顔を覆って忌み嫌われる者のように、

彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

まことに彼はわれわれの病を負い、

われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った、

彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと、

しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲らしめをうけて、

われわれに平安を与え、

その打たれた傷によって、

われわれはいやされたのだ。

われわれはみな羊のように迷って、

おのおの自分の道に向かって行った。

主はわれわれのすべての者の不義を、

彼の上におかれた。

彼はしいたげられ、苦しめられたけれども、

口を開かなかった。

ほふり場にひかれて行く小羊のように、

また毛を切る者の前に黙っている羊のように、

口を開かなかった。

彼は暴虐な裁きによって取り去られた。

その代の人のうち、誰が思ったであろうか。

彼はわが民のとがのために打たれて、

生けるものの地から断たれたのだと。

彼は暴虐を行わず、

その口には偽りがなかったけれども、

その墓は悪しき者と共に設けられ、

その塚は悪をなす者と共にあった。

しかも彼を砕くことは主の御旨であり、

主は彼を悩まされた」(イザヤ書53・2~10)。

このようにイエスは、毎日の生活で血を流していたのです。これを私たちもしなければならないのです。ところが、毎日の生活で血を流そうとしない。

ことに、宗教制度、学校制度は悪いのです。血を流すことを最も嫌うのです。血を流さないようにしているのが、近代文明、現代文明の本質です。血を流すことを拒むのです。

血を流すというのは、現世の生活において不自由を感じることです。悲しみをこらえるのです。矛盾を呑んでしまうこと、我慢をすること、苦しみを乗り越えることです。

人間の現世における生活は水と血です。肉体は水です。苦しさと悲しみ、喜びは血です。喜怒哀楽は人間の肉体生活における血です。これを流すのです。これが聖書を信じることです。

現世における人間生活は、喜びとか楽しみという形で、血をわかす面がある。また、悲しみ、苦しみという意味で血を流す面がある。血をわかす面と血を流す面と、両方が人生にはあるのです。私たちは血をわかすために生きているのではない。血を流すために生きているのです。

神は恵みに富みたもうお方です。人間が肉体生活を続けることによって、喜びや楽しみを味わうことを認めてはいますが、それが目的ではありません。

肉体的に人間が生きていることは、血を流すことが目的です。悲しみを通りこすこと、苦しみや悲しみによって闘うことが目的です。

自分自身の精神的な矛盾は罪を味わっているのです。罪と闘うことが人間が生きている目的です。欲を忘れて、矛盾を消すのです。我を忘れて暑さを消すのです。

罪と闘って血を流すことが、私たちがこの世に生まれてきた目的です。罪と闘って血を流すと、自分自身の生活の中で死を味わうことができるのです。悲しいこと、苦しいこと、寂しいこと、辛いことを呑んでいく。これが血を流すことです。

特に男はこれをしなければいけない。これをしなければ、男はちりに帰れないからです。ちりに帰ることができない男は、一切救われません。ちりに帰る男だけが救われるのです。

女は現世で男の下積みになって苦労してします。女の人は男の中に入るということだけで許してもらえるのです。男は何処に入るのかというと、キリストの中に入るのです。キリストの中に入る男だけが救われるのです。そして、キリストは神の中に帰るのです。これが新天新地の構想です。

これを実現するためには、まず女が男の中に帰らなければならない。男がキリストの中に帰るためには、男は女にならなければならないのです。女が男の中に入ると、男が女になれるのです。女になった状態で、今度はキリストの中に帰るのです。これが、キリストとその教会の組織になるのです。

現在の地球には森羅万象が溢れています。これが神の約束です。生命現象が地球に一杯溢れている。これが神の約束です。この原点がコビナント(covenant)です。人間がこの約束を受け取るとプロミス(promise)になるのです。

コビナントは神が一方的に人間に与えようとしている決心です。エバーラスティング・コビナント(everlasting covenant)が創世記の九章に使われている。これが虹の契約です。

エバーラスティング・コビナントを永遠の契約と日本語で訳しています。永遠の契約が地球現象です。これが虹です。虹ですから、物理的に存在していません。本当の空即是色はここから出てきているのです。

宇宙構造における空即是色は、空が色になっている。これは虹の契約を了承して、しっかり学ばなかったら分からないことです。

般若心経だけ読んでいても、空即是色の意味は分かりません。色即是空、空即是色というのは、ノアの洪水の後に現われている地球現象を指しているのです。洪水までの地球現象と、洪水以後の地球現象とでは、全然違ったものになっている。こういうことを根本的に弁えなければ、神の計画の原理が分からないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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はじめに

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