top of page
検索
  • 管理人chaya

新しく生まれる


皆様は現在生命を持っています。生と命とは違います。命というのは、口に令がついているのです。口とは生きていることを意味します。生きている人間は天の命令に服従しなければ生きていられないという意味です。これは現世に生きている人間の命を指しているのです。

これは皆様の常識で判断できる命です。生というのは天然自然の植物が大地にはえている格好を示しているのです。すばらしい大木が生という格好になって現われているのです。

永遠の命を文字で現わすと生になるのです。皆様は生と命の両方を持っているのです。ところが、皆様は世間並に生きているのです。世間の人間は業(ごう)で生きているのでありまして、皆様が世間で生きていると、一応は世間並の気持ちに感化されることになるのです。そこで、生のことが分からずに、命しか分からない状態になってしまうのです。これが人間の妄念です。

実は皆様が考えている人間、戸籍台帳に記載されている人間と、皆様の本質とは全く違うものなのです。戸籍台帳には固有名詞の人間が届けられています。日本社会に生きるためには、そういう手続きが必要だということです。それには、日本社会で生きるためという条件がつくのです。それは本当の命ではないのです。

固有名詞の人間というのは、この世に生きている人間です。しかし、皆様の魂の本性は生です。皆様の魂は永遠の命を求めています。永遠の命を求めているということが、そのまま永遠の命を持っていることを意味しているのです。

大乗仏教にボディサットーバーという言葉があります。これを菩薩と訳していますが、これは求道者、道を求める者という意味です。菩薩というのは道を求める人格を指すのです。また同時に、道を求めるということが、道に入ってしまうことをも意味するのです。これが仏法の優れた語法であると思います。

ボディサットーバーというのは、道を求めるということですが、その人の中に道があるのです。自分の中にある道を、意識的にはっきり見つけるのです。自分の中にある誠の命を、自分の外の世界で証してもらいたいのです。これがボディサットーバーなのです。

もし皆様が永遠の命を本気になって求めるとしたら、それは皆様方の中に永遠の命があるからです。永遠の命が自分の内にない人は、初めから求めようという気がしないのです。そういう人は、全然求めようとしないのです。これを聖書は滅びる者と言っているのです。

滅びるに決まっている人はいるのです。ところが、どうしても真理を知りたい、永遠の命を掴まえたいという気持ちがある人は、その人の中に真理があるからです。本当の命があるから求めなければならないのです。

自分の中にある命の実質を他動的に立証してほしいのです。自分自身の主観的な意識だけでなくて、客観的に証明してほしいのです。客観的な事実と主観的な意識とが一つになってほしいのです。

自分の外の世界と自分の内の世界が一つになって、世界全体が大きい我として認識してほしいのです。こういう気持ちが魂にはあるのです。これをボディサットーバーというのです。

私は皆様がそういう魂であると考えるから、ハイレベルなことを申し上げているのです。世間の人が絶対に言わないこと、世間の人がめったに聞けないようなことをお話ししているのです。皆様はそれくらいの本性をお持ちであると思うから、申し上げているのです。魂の本性がどういうものかということを、悟りさえすればいいのです。

皆様が現世に生きているのは、実は本当の自分ではなかったのです。本当の自分ではなかったことが、はっきり自覚できるに違いないのです。私はそれを自覚していますから、申し上げているのです。

イエスはこれが分かったのです。生きているうちに、自分の中にある命の本質がそのまま父なる神であることが分かったのです。そこでイエスは自分の命の本質において生きることが、父の内に生きていることだということが分かったのです。

皆様の内にある理性の働き、良心の働きが、生ける誠の神です。生ける誠の神の命の息が、皆様の中に留まっているのです。これをイエスは発見したのです。

これは人間創造を勉強されたら分かるのです。この地球はなぜ造られたのか。天地創造の原理が分かれば、人間創造の秘密が分かるのです。

日本人の世界観は貧弱で低級です。古事記で考えている程度の天地創造しか分からないのです。古事記の天地創造は本当に貧弱なものです。

かつて天地創造という映画がありました。これは地球が造られたことを映画にしているのです。地球が造られたのは間違いありませんが、創世というのは世が造られたということです。

世とは何かと言いますと、いわゆるゼネレーション(generation)です。ゼネレーションが造られたのです。これは地球という物質が造られたのではない。地球が物として現われる世代が造られたのです。

地球は必ずしも物でなければならないことはないのです。物ではない地球もありうるのです。これこそ本当の地球の原質です。

地球の原質は霊なるものです。霊なる地球が物として現われた。これを創世と言っているのです。世代が造られたのであって、万物が造られたのではないのです。

キリスト教では万物が造られたと考えているのです。創世記には万物が造られた段取りが書いてありますが、鳥や獣や魚は、鳥、獣、魚という格好が現われなくてもいいのです。魚として現われなければならない霊なるものが、魚になっているのです。魚「である」ことが魚「がある」という状態になったのです。

例えば、菊の花があります。菊の花として現われなければならない必然性が、菊として現われているのです。菊の花「である」ことが、菊の花「がある」こととして現われているのです。これがビー(Be)動詞の本質です。

「である」ことが「がある」こととして現われるのです。これがビー動詞です。イズ(is)というのはそれです。

魚ができなくても、魚になるべき本性がこの宇宙にあるに決まっているのです。魚として現われるべき本性が宇宙にあるのです。これが魚になって現われたのです。

魚となって現われているのは現象です。これを般若心経は色即是空、空即是色と言っているのです。空なるものが色として現われているのです。だから、空即是色になるのです。

空なる魚があるのですが、これが色なる魚として現われているのです。これを空即是色というのです。

色として泳いでいる魚は空である。本来、魚となるべき性質が魚として泳いでいるのですから、魚があるのではなくて、魚であるべき空なるものが、魚になって現われているのです。色即是空はこれを言っているのです。

私は何も特別なことを言っているのではありません。千年以上前から般若心経によって言われてきたことなのです。般若心経の愛好者が一千万人もいて、誰でも知っていることなのです。般若心経の字句は誰でも知っているのですが、事実を誰も知らないのです。

魚がいるというのは、魚がいるべき事実が魚となっているだけのことです。色即是空と言っても、空即是色と言っても同じことです。

地球というのは空即是色から考えますと、地球がなくても地球はあるのです。地球という物体がなくても、地球となるべき必然性が宇宙にあるのです。それが今、地球となって現われているのです。これが創造です。

創人ということがあるのです。人間となるべき必然性が宇宙にあったのです。これがすばらしいのです。人間となるべき必然性の本体は何であるのか。これがすばらしいのです。

色即是空、空即是色の実質を具体的に説明できるのです。

天地(創造)という影も形もないものが、形となったのではなくて、神が花を呼び出した、人間を呼び出したのです。「無きものを在るもののように呼んでいる」と聖書にあるのです(ローマ人への手紙4・17)。

神が呼んでいるのです。神の言葉が働いているのです。神が無いものを在るがごとくに呼んでいる。これが現象世界です。アブラハムはこの神を信じたのです。

過去において地球という形がない時があったのです。形がない地球があったけれども、それを形があるものにしなければならない必要が発生したのです。なぜかと言いますと、死という法則が生まれたからです。死の法則が生まれたからです。

偽りという原理が宇宙に登場したのです。偽りであるものと、偽りでないものとを証明しなければならない必要性が発生したのです。そこで、地球になるべき必然性が現在の地球になっているのです。これが地球です。

やがて、地球は消えてしまうのです。こういう思想は日本にはないのです。アメリカにもありません。ヨーロッパにもありませんが、聖書にはあるのです。イエスはこの思想を自分自身で実験したのです。実験した結果、死を破ったのです。

もし皆様が死からの脱出を真剣に考えるのなら、現在の人間の考え方が未熟であり不完全であることを、はっきり確認していただきたいのです。

この未熟で、不完全な状態を捨てて、本当の願い、本願、本望が何であるかを考えて頂きたいのです。この本願、本望が、皆様の本性にはっきり焼きつけられているのです。このことを悟って頂きたいのです。皆様の本願、本望が皆様の本性なのです。これがイエスによって証明されたのです。

皆様が本当のことを求める気持ちがあるかどうかを、皆様自身の心に問うて頂きたい。皆様が本当に菩薩であるかどうかです。菩薩であるとお考えになったら、必ず菩薩になれるのです。

今の男女は結婚したら子供を産みます。女の人は特に子供が欲しいと言います。なぜ子供が欲しいと思うのでしょうか。もし人間が死なないものであるなら、子供を産みたいと思わないでしょう。創世記第二章のアダムは死なない人間でした。だから、子供を産もうと考えなかったのです。

アダムとその妻は、二人共裸であったが、恥ずかしいとは思わなかったので(創世記2・25)、セックスの感覚を全然持っていなかったのです。人間がセックスの感覚を持ち始めたのは、死ぬようになってからです。

子供が欲しいという気持ちは何かと言いますと、自分の命を残したいという気持ちからです。これは動物的な考えです。動物はすべて自分の子孫を残すために生きているのです。人間が動物並に下落したので、子供を産むことになったのです。

これは人間の本当の願いではないのです。人間の本当の願いというのは、自分自身の存在の中から死なない命を産むことです。自分自身の中から、死なない命を引っ張り出したいというのが、本当の願いです。

自分自身の中にある永遠の命を発見すれば、新しい自分が生まれるのです。役所に登録してある名前ではない。天に名が記される自分です。これが発見できるのです。天に名前が記される人です。そういう人を自分自身の中から産み出すのです。

新しく生まれるのです。自分の中にある本当の命を発見するのです。これは自分自身の中から新しい人間を産み出すことと同じ意味になるのです。

マリアの中からイエスという永遠の生命が生まれたように、私たちの中から死なない命を産むのです。個々の人間はマリアになるのです。皆様の中から永遠の生命が生まれ落ちるのです。これが人間の最高の願いです。

イエスが処女降臨したということは、人間の中から本当の人間が生まれるということを、神の言葉で表現したのです。

死ぬべき人間の中から死なない人間が生まれるのです。男女の結合によって生まれるのはその譬です。人間の中から死なない人間が生まれることを処女降臨というのです。

観世音ということが、皆様がこの世に生まれた目的です。観世音というのは、人間が目覚める状態の目標を指しているのです。

イエスは新しく生まれなさいと言っていますが、これを日本人的な仏教表現で言いますと、十句観世経になるのです。

十句観世経は次のように言っています。

「観世音 南無仏

与仏有因 与仏有縁

仏法相縁 常楽我浄

朝念観世音 暮念観世音

念念従心起 念念不離心」

この意味は次のようになります。

観世音菩薩に帰依します。私たちにも仏と同じ因果の法則があり、また縁でつながっています。仏と法の縁によって、私たちは常に心を清らかにし、楽しく過ごせます。朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます。この念は仏心から起こり、また心を離れません。

念念観世音したらいいと言っているのです。人間は世音を見るために生まれてきたのです。観世音ということは、人間存在の目的そのものです。

私たちは生活するために生まれてきたのではない。観世音するために生きているのです。皆様は観世音しなければならないし、観世音するだけの能力は十分にあるのです。

自分の肉体があるということが世音です。また、この世に生まれるということが世音です。入学したり就職することも世音です。友達づきあい、仕事をすること、結婚をすることも世音です。

人間のあらゆる営みは世音です。人間の営みが世音ですし、また、万事万物がすべて世音です。花が咲くことも、蝉が鳴くことも世音です。地球が自転公転することから、雨が降ることも、風が吹くことも、皆世音です。

何のために暑さ寒さを経験させられているのか。商売で損をしたり、喜んだり悲しんだり、病気になったりしますが、これが皆世音です。

世音を観じるのです。ただ見るのではない、観じるのです。観じるとは英語で言いますと、ビホールド(behold)です。ビホールドとはしっかり見ることです。物事の本質を見極めるように、つらつら見るのです。

こういう見方をするのです。自分が生きているという実体をよくよく見るのです。また、自分が生かされているという万事万物をできるだけ多く勉強するのです。私たちはこういう勉強をするために、この世に生まれてきたのです。

生活するために生まれてきたのではありません。生きるためです。何のために生きるのか。観世音になるために生きるのです。

生きていなければ観世音にはなりません。観世音になるために生まれてきたのです。日本人の常識に分かるように説明したら、こうなるのです。

観世音するとどうなるかと言いますと、神の胸の内が分かるのです。神は天地を造った親方です。神は非常に物事の分かったおやじさんです。這いつくばって物を言わなければならない人とは違います。

礼儀作法によって接する人とは違います。人間の礼儀作法は神の前では通用しないのです。本当の神は父です。本当は神としかめっ面でいうべきものではないのです。イエスは神のことを「アバ父」と呼んだのです。これはおとっつあんという意味です。

イエスは神を気楽におとっつあんと呼んだために、ユダヤ教のラビや律法学者から、神を冒涜する者として掴まえられて殺されたのです。

客観的に言えば、神という名刺は必要です。神という言葉は必要ですが、実は私たちの父であるだけです。おやじがいるだけです。

訳が分かったおやじさんが神です。「アバ父」というのはおやじさんという意味です。おやじさんの腹の中へ飛び込んでしまったら、おやじさんの気持ちが皆分かるのです。

おやじさんが人間の霊魂に何をさせようとしているのか。本来、人間の本質は何であるのか。これをはっきり教えてくれるのです。

キリスト教の牧師は、イエス様を信じたら、死んでから天国へ行けると言います。天国へ何をしに行くのでしょうか。福沢諭吉は死んでいく前に、他力本願の寺のお坊さんに、「西に向かって手を合わせて、ナムアミダブツと言いなさい」と言われました。「何でそんなことをしなければならないのか」と諭吉は聞いたのです。

お坊さんが、「生きているうちに弥陀の名号を唱えれば、死ぬ時に如来がお迎えに来て下さる。このことは阿弥陀経にはっきりと示されているから、その通りにした方がいい」と言ったのです。

諭吉はしばらく考えて、「如来さんが迎えに来て極楽へ連れて行って下さる。それは大変結構なことですが、さて、極楽へ行って何をするのですか」と聞いたのです。

お坊さんは、「極楽へ行ったら何もしなくてもいい。ありがたい所ですから、何もしなくてもいい。ただ楽しく遊んでいればいい」と答えたのです。

「極楽には仕事はないのか」と聞いたら、「仕事なんかあるはずがない」とお坊さんは答えたのです。そこで諭吉は、「それなら、私は極楽行きはお断わりしたい。私は仕事が大好きですから、仕事がない所には絶対に行きたくない」と言って、極楽行きを断ったのです。これは本当の話がどうかは分かりませんけれど、そういう話があるのです。

宗教は全然分かっていないのです。人間完成とはどういうものかが、キリスト教も仏教も分かっていないのです。

何のために人間は完成するのか。これが全然分かっていないのです。死んだら天国へ行くと言いますが、何をしに天国へ行くのでしょうか。これが分からないのです。

神は非常に訳の分かったいいおやじです。神の言葉をよくよく考えると、自分の命が分かるのです。自分の命が分かりますと、生きている状態で世音を見ることができるのです。世音を観じることができるのです。

何のために自分の命があるのかということです。何のために神が地球を造ったのか。何のために花が咲いているのか。菊が菊であるとはどういうことなのか。神は菊の花を咲かせて、皆様の魂を養っているのです。花を見ることによって、皆様の霊魂が養われる仕掛けになっているのです。

花を見ると皆様の脳神経が刺激を受けるのです。そこで、皆様の霊魂が養われるのです。魚を食べれば魚の味がする。味がするとはどういう事なのか。味をじっくり味わうと、初めて天地の愛、命の愛が分かるのです。

天地の命にはすばらしい愛があるのです。この愛が魚の味になったり、リンゴの味になったり、花の色になったりしているのです。

人間の五官が捉えているものは、愛ばかりです。命の愛をいつでも捉えているのです。このことが分かりますと、初めて、生きている喜びが分かるのです。

そこで、「ああ、生まれてきて良かった」と、しみじみ言えるのです。生まれてきて本当に良かったと言えるのです。

とこしえの命を見つけて下さい。観世音したらいいのです。観世音したら、生まれてきて良かったとはっきり言えるのです。

皆様の魂は本当のおやじと付き合いたいのです。この世の親ではありません。この世の親ではなくて、本当のおやじと付き合うために、五官が与えられているのです。

観世音しますと、万物の霊長とは何かが分かってくるのです。神は天地の主宰にして、人は万物の霊長です。万物の霊長とは何であるのか。人間は何のためにこの世に生まれてきたのか。

皆様が現世に生きているのは、本当の命ではありません。これは死ぬに決まっている命です。今の皆様の命は死ぬに決まっている命です。こんなものではなくて、死なない命を見つけて頂きたいのです。

死なない命を見つけたら、初めて皆様は大往生できるということが分かるのです。この世を去る時に、初めて本当に生まれることが分かってくるからです。

肉体的生命の私は仮の私です。本当の私ではありません。世を忍ぶ仮の姿です。本当の私はもっと上等です。固有名詞の自分を脱いでしまったら、上等の私になるのです。

私の本当の人生はまだ始まっていないのです。元禄時代にいた盤珪(ばんけい)和尚が、人間はまだ生まれていないとしきりに言っていました。

今の肉体生命は過程的な命ですから、これが本当の命だと思ったらひどいめにあいます。この世を去ってから本当の仕事があるのです。万物の霊長としての大仕事があるのです。

だから、地球の万物をよくよく心得て頂きたい。世界の歴史がどのように流されてきたのか。時間と空間がどのように皆様に係わっているのかを、おやじの心を知って勉強して頂きたい。

おやじの心を知らなかったらだめです。天地の主宰であるおやじの心を知って、万物の長である人間の本質を勉強して頂きたいのです。人間はこれをするために、この世に生まれてきたのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:24回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

人間は何のために現世に生まれてきたのかと言いますと、言(ことば)を聞くためです。前世で人間は根本的に失敗した。生まれる前の単一人格において、私たちは死んでしまった。その結果、自我意識によって占領されてしまったのです。 自我意識というのは、あってはならない意識です。人間は自我意識によって生きているのではない。自我の能力によって生きているのでもない。自分が自分の命を造り出しているのではない。食物でも、

人間は神を知っている

人間は自分が生きていると考えています。自分が生きているという考えの中に、自分で生きているという意味が含まれています。自分で生きているという根底がなければ、自分が生きているという発想が出てこない。これが悪いのです。 自分で生きているということと、自分が生きているということとは、相似性、近似性という非常に似た考え方になるのです。自分が生きていると思っている人間でも、自分の力で生きていると思っていないと

bottom of page