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  • 管理人chaya

現実とは何か


私はユダヤ人についていろいろ書いていますが、ユダヤ人を憎んでいるのではありません。彼らの間違いを叱っているのです。叱らなければ、こちらが滅んでしまうからです。ユダヤ人を叱らなければ、世界が全滅するからです。だから、叱らざるを得ないのです。

自我意識は悪魔です。機能は神です。天に御座があったという所を読むと、神が機能だということが分かるのです。

物質がある。人間がいると考えると、すべて、神の不朽の栄光を変えてしまっていることになるのです。唯物史観が人権思想の基本です。唯物史観がなければ人権思想は出てこないのです。

躾をしないと子供が幸せになれない。しかし、躾をすると子供に問題が起きる。躾をどうしたらいいのか分からないと学校の先生は言っているのです。

躾を堂々としようと思うと、唯物史観を乗り越えなければならない。唯物史観を乗り越えると、日教組が分裂するのです。

人間はいないということをはっきり了解するためには、神の御名を意識するしかないのです。物はない。人間はいない。あるのは御座だけです。これを理解して頂くのです。

時間、空間を冷静に考えていきますと、その出所は神の御座です。御座から出てきたものでなければ、人間はこれほど圧倒的な存在力、存在価値を持っていないのです。時間、空間の本質が御座であるということが分かりますと、時間、空間はなくなります。その代わりに御座があるのです。

そうすると、現実に対する考え方が全く変わってしまいます。ます、「わが前に歩みて全かれ」を実行することです。これができて初めて、ユダヤ人に間違っていると言えるのです。

子供の直感が一番大切です。子供の直感が何処から来ているのかと言いますと、未生以前の霊魂の本体から来ているのです。皆様も子供の時代に何をどのように感じたのかを、もう一度思い出して頂きたいのです。

女性の中で直感が鋭い人は、茶碗に唇が触れた時に、ときめきを感じると言います。これが分からなければ、生きているままで天に上げられたエノクの心境が分かりません。エノクの心境が分かると、初めて魂の心境が分かります。また、アブラハムの心境がどういうものであったかが分かるのです。

茶碗でもそうですが、ちょっと散歩をするとか、何かをもらったという時、三、四歳の頃はとても感動しました。することなすことすべて感動ばかりです。生まれる前の情緒性がそのまま露出しているのです。この情緒性を回復することが必要です。

茶碗に触れただけでときめきを感じるというのはどういうことなのか。温かい味噌汁を見ただけで味が分かるのです。何でもすべて感受性につながっていきますが、これを壊してしまうのが、大人の常識です。

一足飛びにエノクの心境までいこうとしてもだめです。エノク自身でも、六十五歳までは行きつ戻りつでした。神と共に歩むということが定着したのは、六十五歳になってからです。

私たちが今勉強しているのは、新しい宇宙を創造するのと同じくらいの偉業をしています。自分自身が新しい宇宙の原理になるような気持ちを持って頂きたいのです。

幼子の世界は素朴で潔白ですから、どんな場合でも、まず御座が映ります。それから、玩具とか家具とか、身の回りのものが映るのです。これが現実に従っている人間の霊魂の模型です。これがイエスの信仰の基本原理です。

幼子は電車に乗りますと、窓から外を眺めては、次から次へと目に映る景色に感激し、圧倒されるのです。現実が人間に与えている圧倒的な楽しさを感じているのです。

現実に圧倒的にというくらいのおもしろさ、楽しさが子供の心に展開していくのです。大人の人権主義、現実主義を捨てると、神の御座と人間の霊魂がどういう係わりを持っているのかが、論理的に分かってくるのです。

何が分かるのか言いますと、エホバの御名が分かります。イズ(is)が持っている絶対性が分かるのです。イズは絶対です。イズがあることが神がいることです。イズと一緒に生きていれば、神と一緒に生きているのです。それを喜ぶ時に、イズの方でも喜んでいるのです。

自分の主体的意識を自滅させてしまうことは、当たり前のことです。主体的意識を無視することが当たり前のことであって、そのことによって、私自身の客体性が光っていくのです。

客体性というのは、自分自身ではなくて、イズという神の御名の実体性になるのです。主体性を無視すれば、客体性が見えてくるのです。

主体性と客体性が同時に存在しているからややこしいのですが、主体性を無視するのです。そうすると、客体性が神の御座であることが分かってきます。従って、現実がそのまま真実であって、これが神の御座そのものであることが分かってくる。だから、現実の中の入ってしまったらいいのです。

大人の感覚で見ますと、現実はただの現実です。現実という重いものが、どんと目の前にあるのです。それに抵抗できませんが、現実の中に入り込もうともしないのです。現実に引きずられている。現実は現実だから、しょうがないと思っています。

その見方は死んでしまう見方です。死んでしまう自分の命を見切ってしまいますと、自分の主観的な意識が消えて、現実そのものが神の御座であることがよく分かってくるのです。

現実を通さなければ、神の手は人間のハートに届きません。ですから、現実は絶対に現実であって、これをどうすることもできませんが、それが神の御座であることが分かってきますと、その中に入っていくことができるのです。これは子供にはできませんが、大人にはできるのです。

子供は直感的に神を喜びますが、意識的に神の中に入ることはできないのです。大人は直感的に神を喜ぶことができません。死んでいるからです。死んでいる霊魂ですから、神を喜ぶことができないのです。

そこで、死んでいる自分の感覚を度外視するのです。霊魂が死んでいるのですから、度外視するのは当たり前です。死んでいる感覚を持っていたら、自分が困るのです。

死んでいる大人の感覚を厳しく叱りつけて、蹴飛ばすのです。これをいつも実行するのです。そうすると、死んでいない自分の霊魂が出てくるのです。これをするのです。

花を見れば美しいという潜在意識がありますが、これは死んでいません。この感覚を引き伸ばすのです。現実に抵抗するような感覚をできるだけ切り捨てるようにする。強引にするのです。

自分を否定する。自我意識を積極的に否定するのです。これを習慣づけるのです。現実が御座であって、現実がそのままとこしえの命です。現実に命があるのです。

現実は絶対です。絶対であることはスローン(御座)を意味するのです。現実には神の人格がそのまま現われているのです。御座は神の人格です。この場合の人格というのは、人間が考える人格とは違います。知能としての人格です。これが赤めのうやサファイヤというもので表現されています。

「その座にいまかす方は、碧玉(へきぎょく)や赤めのうのように見える」とあります(ヨハネの黙示録4・3)。碧玉というのは、人間が考える人格ではありません。喜んだり悲しんだり、腹を立てたりする人格ではありません。希望と恵みがいっぱいの人格です。

希望と恵みの感覚が展開している。これが現実です。分かりやすく言いますと、神は人格ではなくて機能です。肉的な人格は全部悪魔です。人間の感覚は悪魔です。ところが、現実の中へ入ってしまえば、私もあなたもない。機能の中に入っているのです。そうすると、気楽です。

恵みは機能です。希望も機能です。恵みと希望が機能ですから、楽です。ノアの洪水以後は、これがはっきりしているのです。

女性が男性に惚れるのはいいことですが、惚れようがあるのです。御座に座する碧玉と赤めのうのような男性に惚れたらいいのです。

夕鶴のお通が考えている男性は、御座に座する感覚です。現実はそういう人格を持っている。それは人格ではなくて機能です。恵みは人格のようですが、現実となって目の前に展開しているのです。

自分を見切ってしまうと、後は気楽なものです。恵みと喜びと憐れみだけがあるのです。だから、自由に言えるのです。少しも拘らないのです。ただ言わされるままに。どんどん言えばいいのです。これは気楽です。

神の中に入ってしまうのです。御座に座したもう方は、赤めのうと碧玉ですから、絶対に大丈夫です。

机にイズ(is)があります。碧玉か赤めのうのどちらかになっているのです。コップにイズ(is)があります。本にもイズ(is)があります。すべてのものにイズがあるのです。

これを現実生活で捉え続けられるかどうかが問題です。捉え続けられる人は、自分自身の中に神の国を造っていくことになるのです。

来たらん人とする新しい宇宙が、自分の中でできていくのです。そうしたら、死なないことが勝手に分かってくるのです。イエスは「私は天から来た命のパンだ」と言っている。死なないのです。死んでも生き返ることが分かっていたのです。

今の自分として、力一杯したらいいのです。神は今のやり方で不十分だとは言わないのです。

現実の他に、行く所はありません。我が前に歩めというのは、今こうしている現実そのものが、神の御座だと言っているのです。そこで、神の御座の前に冠を投げるのです(同4・10)。

現実がそのまま命です。赤めのうと碧玉です。恵みと希望です。しかし、人間が考える恵みや希望ではありません。絶対者の希望であり、恵みです。

神は悠然としています。神は決して興奮しません。冷然としているのです。冷淡なものです。冷淡だから、宝石のように冷たいのです。冷たいものですが、嘘を言いません。絶対です。

宗教の神や仏の方が熱狂するのです。すぐに、宗教の神は愛したり、恵みになったりするのです。

御座に座したもう方はそういうことはありません。冷静なものです。平然としているのです。ですから、人の方も御座に座する方におべっかする必要はありません。おべっかしても効き目がありません。相手は宝石のような方だからです。

人間が考える自我意識は悪魔であって、機能が神です。まずこれが入口です。これから進歩するのです。この入口からずっと入っていくのです。神の口の入口に留まらず、どんどん中へ入っていくのです。

人間が今生きているのは、未生以前の先天性によるのです。未生以前の先天性が人間の格好になっているのですから、神が愛するに決まっています。ですから、生まれた後の常識、知識を全部捨てたらいいのです。専門学をぼろくそに言ったらいいのです。

現在の教育の荒廃は、権利ばかりを教えて、義務、責任を教えないことにあるのです。権利を主張したいなら、義務も一緒に言えばいいのです。義務を言わないで、権利ばかりを言っているので、子供がどんどんばかになっていくのです。

神と人間の関係においては、人権を認めません。現実は神の御座です。現実は神の位という人格です。人間の人格とは違います。神の位の人格です。人間の常識でいう人格とは言えないものです。

神は御座ですから、これが本当の権威です。この権威を理解することが、本当の基本的人権です。この権威を理解すると、神の位の権威が人間の権威になるのです。そうすると、義務と言われなくても勝手に義務が履行できるのです。

神の位が人間の位になる。これが人間の基本的な存在の権威であって、これが生まれる前からの霊魂のあり方です。

花を見て美しいということが権利です。これは滅びない権利です。花を見てきれいと思うことが、人間が救われているという権利です。これを人格というのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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