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目いまだ見ず、耳いまだ聞かず


聖書に次のようにあります。

「しかし、聖書に書いてあるとおり、

『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、

人の心に思い浮かびもしなかったことを、

神はご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。

そして、それを神は御霊によって私たちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるものだからである。

一体、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、誰が知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には知るものはない」(コリント人への第一の手紙2・9~11)。

人間が究極的に知らなければならないことは、九節のことです。自分が損すると思っても、得をすると思っても、どうでもいいのです。皆様が究極的に知らなければならないことは、九節です。

そのためには十節が必要です。十一節は人間存在についてのことを、譬として言っているのです。九節、十節のことを説明するために、人間存在の事例を持ってきて話しているのです。

人間自身のあり方を知ることが、神のあり方を知ることになるのです。そのために、十節、十一節について知らなければならないことになるのです。

目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことが、人間が突き止めなければならない人間自身の存在価値です。

神を愛する者たちのために備えられたというのは、そういうことなのです。

神を愛する者たちというのは、端的に言いますと、天使長ルシファーに同調しない者を指すのです。これは万物の霊長として自らを完成する素質を持っている者という意味になるのです。それを錬成し、まとめて一つの人格として完成するためです。そういう目的で聖書は書かれているのです。そのために天地が造られたのです。

神を愛する者たちに特殊な特権を与えるためです。特別の利益と権利を与えるために、天地が造られたのです。どういう形で利益が与えられたのか。目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったとはどんなことか。聖書に次のように書いています。

「私はまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

また、御座から大きな声で叫ぶのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神と人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみもなく、叫びも、痛みもない。先のものがすでに過ぎ去ったからである』」(ヨハネの黙示録21・1~4)。

先のものというのは、今私たちがこのように経験している世界のことです。いわゆる現象世界です。この現象は、人間の肉体に植えられている五官によって、触れること、見ること、聞くことができる世界です。これが今の世界です。

ところが、肉体的な五官によって感覚できる世界というのは、可視光線の世界です。肉体的に感覚することが可能な世界に限定されているのです。

太陽光線の反射によって、物が見えるのであって、太陽光線の紫外線から赤外線までの七色に分光される範中に属するものだけしか見えないのです。それに反射するものしか見えないのです。反射しないものは一切見えません。

聞くこともそれです。私たちの耳の鼓膜に適応するような音響だけしか分かりません。例えば、地球が自転公転している恐ろしい音は全然聞こえないのです。

そのように、私たちが見たり聞いたりしている世界は、宇宙存在のほんの一部です。それが宇宙の全部ではないのです。

ところが困ったことに、人間はギリシアの昔から今日まで、宇宙のことをああだこうだと考えてきたのです。太陽系宇宙のようなものが宇宙にはたくさんあるというのですが、それは人間が肉体的に感覚できるような限度からしか見ていないのです。

自分自身の善悪利害でさえも、肉体感覚からしか見ていない。全くばかみたいなことをしているのです。

人間の五官で感じられる世界は、やがて消え去ってしまう世界です。先の世界はすでに過ぎ去ったとあります。

人の目から涙をぬぐい去って下さった。死もなく、悲しみもない、痛みもない。つまらない妄念を抱くことはなくなったのです。

神の幕屋があって、そこに人が住んでいる。人が神と共に住み、神自ら人間と共に住んでいるとあります。神と人が共に住んでいる世界が、宇宙が完成された、人間が完成された後の世界です。これは仏教阿弥陀経による仏国浄土とは違います。これはあらゆる矛盾を完全に克服して、地球が完成された状態を示しているのです。

海がなくなった。時間、空間の世界がなくなったのです。従って、死もなくなったのです。すべての涙がなくなったのです。苦しみも悲しみもすべての痛みもなくなっている。もはや焼きもちを妬くことも、疑いを抱くことも、くよくよすることもなくなっているのです。

人間はこれを望んでいるのです。人間が出てきた所がそれであったからです。それは人間が先天的に、先験的に経験していた所です。

先験的にというのは、生まれる前に経験していたということです。人間の経験の原点です。従って、これは先験的というよりも原験的にと言った方がいいかもしれません。これは生まれる前に経験していたという意味です。

先験というのは、前に経験したという意味になるのです。今年の経験よりも去年の経験という場合に、先験という言葉が使えるのです。

原験という言葉を使いますと、元々の経験となるのです。皆様は元々の経験で今生きているのです。生まれながらの赤ちゃんは、おっぱいを飲むだけの知識、感覚があるのです。知識、経験がなかったら、そういうことができないのです。

赤を赤として認識する。甘い物を甘い物として認識するのは、すべて人間の経験に基づくものです。この経験がなかったら、衣食住という人間の営みが成立しないのです。

赤ちゃんがおっぱいを飲むことを知っているというのは、記憶していることです。記憶しているということは、経験したということです。これは元々の経験であって、人間になる前の経験です。ですから、原験(元験)というのが正しいのです。

元々の経験が記憶になって働いている。記憶が無意識に行動になって働くのです。仏教でいう受想行識になっているのです。受想行識が働いて、これが赤ん坊の行動になって、自然に現われているのです。

蜘蛛が巣を張る原理です。鹿が子を育てるのもその原理です。動植物一切はすべて原験によって生きている。ア・プリオリによって生きているのです。

山がなぜ山であるのか。山になぜそのような風景があるのか。これが宇宙の原験です。天地が造られる前に、宇宙が経験していたことが、今天地として現われているのです。

ア・プリオリというのは、人間だけのことではありません。魚や鳥、木々やすべての花、すべての形、すべての香りに、皆そのことが言えるのです。

電子の運動によって、分子が生まれる。分子が要素を造っている。ここまでは分かりますが、なぜそれが木々や、色々な花になって現われるのか。鳥は飛び、魚は泳ぐのか。

量子力学的な運動が、金魚になって現われるとはどういう訳なのか。すばらしいハンサムな人になったり、すばらしい美人になったりして現われる。人間の顔は千差万別という程違いますが、どうしてその違いが現われるのか。この説明が科学にはできないのです。

それは目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことですから、分からないのです。

目がまだ見ず、耳がまだ聞かずということが分かるようにならなければ、人間は自ら完成することはできません。人間が自ら完成するとどうなるのか。これが「聖なる都、新しいエルサレムが夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神の元を出て天から下ってくるのを見た」とある状態です。

これが新しい大天使の姿です。新しい宇宙の支配者の姿です。人間はこういう格好で完成するのです。

人間は新しい町になるのです。新しい集団になるのです。新しいグループになるのです。そうして、新しい人格になるのです。これが十万億土の彼方にある仏国浄土の原形です。これが阿弥陀如来の浄土です。

浄土とは何か。人間完成の状態です。皆様にはここへ行くまで、勉強して頂きたいのです。

自分一人が救われるのではありません。集団として救われるのです。これがエクレシアーです。集団行動でなかったら、救いはありません。これをまず承知して頂きたいのです。

人間は他人と協力、協調なしに、絶対に救いはありません。互いに相愛することなしに、絶対に人間完成はありません。だから、違和感があったら、いよいよ一致しなければならないのです。

人間はニューエルサレムとしてしか完成されないのです。集団的にしか救いは成就しません。だから、お互いに打ち解けて、心から相愛する気持ちがなければいけないのです。

皆様は表面的には和気藹々に見えますが、腹の中に一物があるようです。腹に一物、背中に荷物を持っているとだめです。結局、お互いに言いたいことが言えないし、知りたいことが分からないのです。

「汝ら互いに相愛せよ」が、集団の原則です。一致協力できなければ、イスラエルに伝道はできないのです。

新しいエルサレムの一員としての自覚を持たなければいけないのです。従って、個人の人間の利害得失があってはならないのです。そんなことを考えていたら、新しいエルサレムはできないのです。

そのためには、一人ひとりが自分の望みを捨てなければいけないのです。自分が持っている理想を捨てなければいけない。そうすると、一致することができるのです。

お互いに自分の利害得失を捨ててしまえば、イスラエル伝道に対して思いは一つになれるのです。

自分が生きている原形が分かっていない。ア・プリオリによって生きている。神によって与えられた原験的な意識で生きていることが分からないのです。

皆様は生まれる前に神を見ていたのです。神を経験していたのです。生まれる前に神を見ていた経験が、現在の生活の営みの基礎になっているのです。

皆様は甘い物をなぜ甘いと思うのでしょうか。辛い物をなぜ辛いと思うのでしょうか。砂糖を舐めたら、アメリカ人でも、イギリス人でも、ロシア人でも、中国人でも皆甘いと思うのです。塩を舐めたら辛いと思うのです。私は世界一周を二回して、そのことをつくづく経験してきました。

人間に世界共通の見解がなぜあるのかということです。それは人間は一人しかいないからです。世界中に、人間は一人しかいない。それが数十億人に分かれているだけのことです。

「一つの血から全人類が造られた」と聖書に書いています。だから、人間は一人しかいないのは当たり前です。

人間は主観的な意識で考えるという習慣がついてしまっているのです。だから、客観的に考えるという思考方式を行動原理にしようと考えないのです。だから、お互いに一致できないのです。

客観的な思考方式を自分の行動原理にするということをはっきり確認できなければ、絶対に一致できません。

皆様は長年聖書を理解していながら、まだ神を信じていません。神を信じますと、客観的な意識が自分の行動原理になるのです。人の立場を自分の立場として確認できるはずです。

ところが、自分の立場は自分の立場、他人の立場は他人の立場だと思っているでしょう。こういう感覚がある間はイスラエル伝道はできません。やっても失敗します。

人の立場を自分の立場として考えるのです。

神が現実に誰かを用いることによって、おのずから位が決定するのです。序列があります。中心になる人はもちろん神を絶対中心にしなければなりません。神を中心にするという条件において、指導者はその中心にあるべきです。

動物の世界にも中心になるべきボスがいます。猿の集団にはボスがいます。蟻の群にもボスがいるのです。預言者の集団にも位があるのです。

質問や疑問を解決するために、意見を述べるのは結構ですが、いわゆる客観的なあり方を自分自身の主観として認識しない。その意識がいけないのです。

神という絶対客観を自分自身の主観とする。これが神を信じることです。イエスはこれをしていました。私たちもこれをするのです。もちろん指導者はそうする責任があるのです。これは誰かが偉いとか、偉くないというのではない。そういう組織が必要なのです。

ニューエルサレムには、イエス・キリストという中心があります。神の幕屋が人と共にある。神が人共に住み、人は神の民になる。

これはどういうことかと言いますと、人間が肉的に意識している諸現象が、消えてしまうということです。物理的現象、物質的現象、肉体的に生きるという現象が、皆消えてしまうのです。消えてしまえば一つになるに決まっています。

皆様が一つになれない原因が何処にあるのかと言いますと、自分が肉体を持っているからです。肉体を持っているから、家庭があるのです。家庭があるから生活があるのです。それはすべて消えてしまうのです。

神の幕屋に人が住むのです。神の幕屋というのは、肉の幕屋とは違います。神自身の幕屋です。人間が認めているような幕屋ではありません。霊なる幕屋です。

この時人間は上から幕屋を着せられて、携挙されるのです。その時、肉体は持っていません。肉体を脱いでいるからです。

どういう人が肉体を脱ぐのかと言えば、携挙される前に、日常生活の状態において、自分自身の幕屋を脱げるような気持ちを持っている人が携挙されるのです。その人自身の肉体が脱落してしまうのです。従って、有形的な宇宙が全部脱落してしまうのです。そうすると、神の幕屋が展開するのです。

神の幕屋を皆様は見ているのです。人間が直感的に感じる景色とは何か。これが神の幕屋です。神の幕屋を感じるから、景色がすばらしいと思うのです。なぜすばらしいのか。神の幕屋だからです。自分自身が完成される原形が景色という格好で出ているのです。

すばらしい景色を見たいというのは、神の幕屋を望んでいるのです。

今の世界で本当の神の幕屋に生きている人間は、少なすぎるのです。皆自分の幕屋に住んでいるのです。神の幕屋には住まないのです。

自分の幕屋は死ぬべき幕屋です。ここに住んでいると危険です。いつ死ぬか分からないからです。

神と人と共に住むのです。ここに完成状態があるのです。この時、人間の気持ちはどういう気持ちかと言いますと、自分の主観がきれいに消えているのです。

自分の主観は何処から来たのかと言いますと、皆様の後天的な生活から来ているのです。原験的なものではないのです。後天的な肉の生活習慣から、皆様の主観は割り出されているのです。

皆様はどうすればいいのかを暗黙のうちに理解できているのですけれど、顕在意識的に論理化することができないのです。

世界中の人間は、ケーキを見たら甘いと思います。果物を見れば、およその味が判断できます。食べられるものと、食べられないものとが、大体区別できるのです。

ナマコ(海鼠)については、見ただけで食べられるとは判断できませんが、食べたらおいしいのです。食べられると予想ができたから食べたのです。

食べられるものと食べられないものとを分ける先天的なセンスが、人間には与えられているのですが、それが論理化されていない。顕在的に意識化されていないために、人間存在の価値が分からないのです。

神をまず論理的に顕在的に意識的に受け止めなければ、神に生きることはできません。

神とはこういうものだということを常識として、いつも頭におく訓練をすることが大切です。その次に、常識的にいつでも頭においた神を、生活原理に持ってくるのです。神が常識になっていても、それだけではまだ頭の信仰です。生活の信仰にはなっていません。

神とはこういうものだということが頭できちっと分かったら、今度はそれを行動原理に据えるのです。

ざっくばらんに言いますと、皆様は肉において物をいう習慣がついてしまっているので、何を見ても欲の対象になるのです。

聖書でいう欲という言葉は、色欲、情欲を基点にしているのです。異性を見る時、例えば、男が女を見る時、肉体的な女性として見ているのです。ところが、峡谷の景色が神の幕屋をそのまま出しているように、男が女に対して感じる色気は、人として現われたすばらしい幕屋です。神の幕屋ですから、アダムにエバが与えられたのです。

アダムはエバを見て、「これこそついに私の骨の骨、肉の肉」と言ったのです。これは骨の骨という幕屋です。肉の肉という幕屋です。それをアダムは直感的に知っていたのです。

骨の骨というのは何でしょうか。骨ならありますが、骨の骨はあるのでしょうか。何処にもないのです。骨の骨というのは、骨として使われている幕屋のことをいうのです。つまり、霊なる骨、霊なる肉をアダムは看破したのです。これは陥罪する前ですから、何となく分かったのです。

男性から見ると、女性の色気がすばらしく見えるのです。神の幕屋ですから、すばらしいのです。それを肉欲的に認識したら、何の価値もありません。霊的に見ると価値があるのです。

ところが、色情を抱いて女を見ることができる人は、霊的にも見る能力があることを示しているのです。情欲を抱いて女を見るということが、神の幕屋を見ることができるという天性的な能力を持っていることを証明しているのです。

神の幕屋を見る能力がなかったら、情欲を抱いて女を見ることはできないのです。そういう先天性の英邁な素質が、皆様の内に既に備わっていることに気づいて頂きたいのです。

それを研けばいいのです。研かずに放っているから、腐ったぼた餅を有り難がっていることになるのです。

本当の女性の色気はすばらしいものです。なぜすばらしいのでしょうか。神を知っている皆様が見てもすばらしいと思えるのですから、神の幕屋に決まっています。

大自然の美しさを見れば、すばらしいと思うのです。神の幕屋という宇宙の原形も、大自然の原形が、有形的に表現されているのです。それを私たちはすばらしいと見ているのです。

もし原形がなかったら、どうしてすばらしい大自然が展開しているのでしょうか。人間は原形に基づいて色々な機械を設計、製造しているのです。天地の創造も原形に基づいて創造されたものであるに決まっているのです。

女性の原形は一体何でしょうか。愛が原形です。愛の幕屋が原形になって、女性の格好ができているのです。それがすばらしい女性のボディーラインになっているのです。

原形に基づかなければ、本当の価値判断はできません。これが正しい価値判断です。神が分かると初めて価値が分かるのです。景色の価値、色気の価値が分かるのです。

女性から男性を見るとどうなるのか。男の原形はキリストです。知恵と知識と力の原形がキリストです。知恵と知識と力が男性に現われているのです。

女性から見ると、男性は「わが知恵の知恵、わが力の力」です。こういう見方がア・プリオリの見方です。皆様はそういうア・プリオリに基づいて生活しているのです。ア・プリオリの原理が自分の常識になれば、自分自身の利害得失はなくなるのです。

先に引用したコリント人への第一の手紙の二章十一節を英訳で見ますと、人間どおしがお互いに生きています。愛し合ったり、憎み合ったり、嘘を言ったり、おべっかを言ったりしている。そういう事がらは人間自身の中にある霊の他に知っている者はないと言っています。

そして、十五節には、「霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない」と言っています。

それぞれ個々の人間は、色々なことを判断します。良いとか悪いとか、利益とか損害とかを判断します。しかし、自分自身は誰からも判断されないと言っています。これが悪魔の本性です。

この十五節にある状態の人は救われません。自分自身は誰からも判断されることを許さない。自分は自分だけの考えに立てこもっている。こういう意識を持っている人は、自分の霊を自分で押さえ込んでいるのです。

そこで、霊を渡すということは、霊を神に渡すのです。自分自身のことを自分自身で判断するが、他人の容喙(ようかい)を許さないのです。これをやめるのです。絶対自主行為、絶対自主意識、このような主観的認識を捨ててしまいますと、神の霊において、神の事がらを見ることができるようになるのです。

神の霊によって神の事がらを見るのです。

男性から見た女性の色気、女性から見た男性の尊さというものが、神の幕屋です。男性には神の位、神の知恵、神の幕屋が現われているのです。

男という人間がいるのではない。女という人間がいるのではない。神が男を現わしている。神が女を現わしているのです。現われているものはすべて神の幕屋です。これは神の御霊によらなければ分かりません。そこで、神の御霊によって歩むことが大切になるのです。

これは端的に申しますと、純粋な客観的感覚で見ることです。自分の主観で見ないのです。特に純粋主観が最も悪いのです。

例えば、誰かの小説を読んで、また、誰かの論文を読んで感じるというのは、純粋主観ではありません。自分自身が根も葉もない所から、自分の腹の中にある根性から何かを考えようとする。私みたいなものはと考えるのです。これは純粋主観です。これははっきり悪魔の考えです。

その反対に純粋客観があります。これは神の考え方です。人の心未だ思わざることです。私たちが見ている景色は、驚くべきことに、新天新地における神の幕屋の片鱗を見ているのです。これは純粋客観です。こんなことは人間の主観から出てこないのです。

純粋主観ははっきり罪です。どうしてそういうものが出てくるのかと言いますと、自分の人生は自分のものだと思っているからです。自分の命、自分の財産、自分の持ち物が存在すると考えている。そこから純粋主観が出てくるのです。

この純粋主観を放擲(ほうてき)しなければ、本当の協力一致はありません。あり得るどうりがないのです。

自分の人生とか、自分の命を持っていたら、互いに相愛することはできません。give and takeという考えだと、全部そうなってしまうのです。give and takeをやめて、give and giveにするのです。

「汝ら互いに相愛せよ」と言っています。愛してもらいなさいとは言っていないのです。愛することだけを神が命令しているのです。愛することだけを考えていれば、その人は神の愛が分かるのです。

なぜ神が愛することだけを命令しているのかと言いますと、愛することだけを実行すれば、神はその人を愛するに決まっているからです。愛されることを期待する必要はないのです。愛することだけを考えたらいいのです。

男女の間でも、愛することだけを考えたらいいのです。あの人は私を愛してくれているかと考えなくてもいいのです。そんな考えは、けちくさい考えです。その人を愛しているなら、純粋に愛したらいいのです。

もしその人が愛してくれなかったら、神が代わりに愛してくれるのです。神が代わりに愛してくれますから、安心して愛したらいいのです。

ニーチェが愛した女性のようなことを言わなくてもいいのです。「あなたは永久に私を愛してくれますか」という必要はないのです。永久に人を愛すると約束できるはずがないのです。今日愛しても、明日愛するか分からない。これが人間です。

皆様が何を願って、どうして生きているのかをよく考えて頂きたい。人間は純粋主観のばかばかしさをよく知っているはずです。

人間が生きている事がらは自分自身の主観によって、いつでも自分が裏切られているのです。自分の主観によって、自分が苦労していることが分かるはずです。

人間の霊はそれを知っているのです。主観的意識は罪です。純粋主観は絶対に罪です。純粋客観が信仰です。純粋客観が一番まともな考え方です。これが本当の世界観、価値観です。

生きているのは自分ではない。神が自分という格好で生きているのです。従って、自分の人生はないのです。

人生は全部キリストの人生です。これはニューエルサレムにつながるべきものという意味です。人間はニューエルサレムにつながる可能性で生きている。これが人間最高の望みです。私たちは望みによって生きているのですから、そのような客観意識に立てばいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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