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キリスト

聖書は個々の人間の救いとか悟りを説いているのではないのです。個々の人間が救われるか、救われないかを中心に考えますと、どうしても宗教になってしまうのです。

キリスト教の間違いはそういう所から出発しているのです。

イエス・キリストが十字架にかかって死んだことが、すべての人が死んだことであるということが、分かったようでなかなか分からないのです。

キリストということが異邦人には理解できないのです。キリストというのは特殊な思想です。これは約束の民しか分からないことです。現在ではユダヤ人もキリストを知りません。

 ユダヤ人が知っているキリストは、彼らは宗教的な教義としてのキリストですが、歴史的に現われたキリストを全く知らないのです。

 ユダヤ教の教義というのは歴史から浮き上がっているのです。従って、ユダヤ人の立場から考えますと、キリストは歴史とは別のものです。宗教と歴史は別のものだという見解になるのです。

 他方キリスト教の方を考えますと、キリストが歴史の実体だということが分からないのです。キリストそのものが歴史の実体を意味するのだということが分からないのです。

 キリストというのは歴史全体の代表を意味するものです。人間の歴史の代表を意味するものが、聖書のメシアです。ところが、異邦人には人間全体を代表するキリストが分からないのです。異邦人の方から考えますと、イエス・キリストという一人の人間、ナザレのイエスという一人の人間が、全人類を代表するものだということが、どうしても分からないのです。

 異邦人から見れば、イエス・キリストが人類を代表する存在だということが分からないし、ユダヤ人から考えれば、ナザレのイエスが全人類を代表するものだということに、合点ができないのです。両方共分かっていないのです。

 皆様には個々の人間があるような気がするらしいのです。固有名詞の人間とイエスとの関係が分かったようで分からないのです。

 固有名詞の人間の罪をユダヤ人であるイエスが背負って死んだということが、なかなか分からないのです。理屈はそうかもしれないのですが、実感的にはどうも納得できないのです。だから贖罪論というものが、宇宙に浮いた神学論になってしまうのです。そこで創世記の勉強をして頂きたいのです。

 聖書は何であるかということです。ローマ人への第二の手紙の第五章に書かれていることは、すべて事実です。事実ですけれど、これを一つ一つ取り上げて論証しますと、却って分からなくなるでしょう。これには綿密な哲学性と宗教性とが必要になるのです。

 宗教哲学の理論性を考える前に、まず皆様は聖書六十六巻を概括的に捉えるという方法を取って頂きたいのです。

 聖書は一体何なのか。何を書いているのかということです。聖書は地球ができてから消滅するまでのことを書いているのです。地球存在が生まれること、またそれが消えてしまうことを書いているのです。

 地球が存在する前に一つの世代があったことを書いているのです。現在の地球ができてからのことは、創世記の第四章から書いているのです。

 創世記の第四章からが、地球ができてからの記憶になっているのです。ヨハネの黙示録の第二十二章には、地球が消えてしまって、完全無欠の新しい地球ができることを書いているのです。これが聖書の内容です。

 人間が救われるか救われないかということは、小さい問題です。今の物質的な地球が消えてなくなってしまうことを理解できた人だけが、地球の歴史を乗り越えて生き残ることができるのです。

 聖書六十六巻を理解することができると、地球存在全体が分かるのです。従って、人間の歴史全体が分かるのです。

 日本とかアメリカとかいう小さい問題ではないのです。二○一五年現在で、世界に七十一億人の人がいますが、この人類歴史がどうなるかという小さい問題ではないのです。

 シリアでは化学兵器によって千五百人が殺されたことが、世界中で大きな問題になっていますが、そういう小さな問題ではないのです。

 地球が始まってから、地球がなくなってしまうまでのことを聖書は書いている。それを皆様が公明正大な感覚で理解して信じることができたとしたら、皆様は地球存在の主として、永遠に生きることができるのです。

 地球存在を貫いて、地球存在の中心的な命題として、永遠に展開するテーマをキリストと言うのです。これを信じるか信じないかということが問題です。自分の罪がどうなるかという小さな問題よりも、聖書全体の大きいテーマを捉えるという、太っ腹な考えを持って頂きたいのです。

 こういう大きい考え方を持って、これを具体的に理解するためには、現実における自分自身の古き人、罪という問題、セックスの問題を考えていかなければならないのです。

 「神の国と神の義を求めよ」とイエスが言っています。この考え方からキリストを捉えることが必要なのです。自分の救いがどうなるかということを中心に考えますと、どうしても神学的な命題に捉われてしまうのであって、宗教哲学の虜になってしまいます。そうすると、イエスの本体が分からなくなるのです。

 聖書に次のようにあります。

 「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。私たちのいのちなるキリストが現われる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現われるであろう」(コロサイ人への手紙3・3、4)。

 現実に肉体的に生きている皆様は、霊的に見れば既に死んでいる者になるのです。キリストと共に生きているのです。キリストにおいて生きているのです。キリストと共に生きたり死んだりしているのです。

 キリストの栄光がやがて現われることになるのですが、その時にあなた方の栄光も現われるのだと言っているのです。

 今生きている皆様は本当の姿ではないのだと言っているのです。

 キリストを勉強するのです。キリストが栄光のうちに現われる時に、皆様の栄光も現われるのです。

 皆様の命はキリストと共に神のうちに隠れているのです。キリストが分からない状態で、いくら自分の命のことを考えてもだめです。

 皆様の命はキリストと共に神のうちに隠れている。だから、キリストと神との関係を知ることが、第一なのです。キリストと神との関係を知れば、自分の命のあり方は勝手に分かるのです。

 やがてキリストが再臨します。キリストの栄光が現われる時に、あなた方にも救いの栄光が現われるとあるのです。現実に生きているあなた方自身のことは、考えるなと言っているのです。

 キリストを信じるということは、キリストを知ることです。

 「永遠の命とは、唯一の誠の神でいますあなたと、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」とあります(ヨハネによる福音書17・3)。

 イエス・キリストを知ることが永遠の命なのです。イエス・キリストを知ることがとこしえの命ですから、自分がとこしえに生きなければならないのではないのです。

 イエス・キリストが分かれば、勝手にとこしえに生きているのです。とこしえの命はキリストを離れてあるのではないのです。

 実は釈尊はこれを見たのです。釈尊はキリストを見たのです。明けの明星というのは、復活したキリストのことです。キリストを見て、現在生きている人間はすべて空だと言ったのです。これが般若心経の思想です。

 釈尊は人間はすべて空だとはっきり言ったのです。今生きている人間は、息をしている形はあるけれど、実は全部死んでいるのです。これが釈尊の説です。

 人間は死んでいる。キリストは生きている。これが釈尊の説です。だからキリストを知ることです。

 とこしえの命は、唯一の誠の神とイエス・キリストを知ることだと言っているのです。これをするのです。キリストを知ることに、もっと鋭角的な感覚を持って頂きたいのです。

 キリストを知ることが必要です。自分が救われたという気持ちを捨てるのです。自分が救われようが救われまいがどうでもいいのです。キリストさえ分かれば勝手に救われるからです。

 キリストが救いです。キリストが救いですから、キリストが分かれば勝手に救われるのです。これが聖書の結論です。

 聖書は地球が始まって終わるまでのことが書いてあるのです。聖書を勉強してこれが分かった人は、地球が終わってから後に、新しい天地が現われるのですが、そこの住民になることができるのです。

 このことが理解できた者は、新天新地に生きることができるのです。これをとこしえの命と言うのです。聖書六十六巻はそれを書いているのです。

 自分が生きたり死んだりすることはどうでもいいのです。

 地球は今から四十五億年前にできたと言いますけれど、この地球はやがてなくなってしまうのです。そうして、新しい天地ができるのです。この全体を取り上げているのが聖書です。聖書が分かれば地球の運命を貫いて、皆様自身の命が永遠に輝くことになるのです。これを私たちは勉強しているのです。

 創世記の一章は、二章、三章より後から書かれたものでありまして、二章、三章はモーセの時代に書かれたものですが、一章は後代にエレミアの時代に書かれたようです。二章、三章で足りない点を補足するために書き添えられたと考えられるのです。

 書き添えられたのはいいのですけれど、書き添えられたことによって、現在の人間にとっては却って混線してしまっているように思える所があるのです。

 一章の男と女との関係と、二章のアダムとエバとの関係がどうなるかということです。これはなかなか難しい問題です。

 二章のアダムとエバの問題は、一章の男と女の問題とは違うのです。別の問題です。はっきり別の問題と言えるのです。関係はありますけれど、同じことを取り上げているとは言えないのです。

 ユダヤ人は創世記の一章をほとんど読んでいないようです。

 キリスト教を教えている人でも、それを綿密に理解している人はほとんどいないでしょう。一章二十七節に出ている女(female)と二章二十三節の骨の骨とは同じではないのです。

 一章に二十七節の女はただのフィメールであって、この場合の女は、骨の骨を意味しないのです。一章二十七節の男と女は、現在の男と女を指すものと考えられるのです。

 創世記の二章、三章は前世だと考えて頂きたいのです。一章は現世から見た前世です。このように考えたらいいのです。

 空というのは人間の考え方が虚しいという意味であって、創世記で言いますと、二章の終わりの男女のあり方の感覚が空観と言えるでしょう。

 現在の男女間のセックスの見方を空じてしまうのです。そうすると前世的な見方になるのです。陥罪以前の見方になるのです。そうすると、二人共に裸にして恥じなかったという状態になるのです。これが空です。

 前世の状態を現世で見ることです。例えば自分の肉体のあり方を前世的な意識で捉えると、空になるのです。

 地球存在を前世的なあり方で捉えますと、空になるのです。空というのはそういう意味で、霊を意味するのです。空と霊は同じ内容を持っているのです。

 創世記の二章の終わりに書いている男女のあり方は、そのまま空なのです。創世記二章はこの世に生まれる前のあり方を意味するのです。

 この世に生まれてからの自分の常識を捨ててしまえば、空になるのであって、生まれる前の裸にして恥じざりきと同じ状態になるのです。

 イエスは神に生きるという状態において、自分のセックスを空じていたに決まっているのです。こういうことが言えるのです。

 般若心経の五蘊は色受想行識の五つに分解して説いているのです。物があるように見えることが色蘊です。目で見たとおりのものがあると考えられる感覚を色蘊と言っているのです。

 それを受け取ったものが、自分の想念になる。想念が行いになる。行いが常識、知識になるのです。これがいわゆる五蘊です。

 五蘊が人間の命になっているのです。皆様の命は五蘊です。皆様は目で見たとおりの気持ちを持っています。その気持ちで生活しているのです。これが人間の命のあり方になるのです。これが五蘊です。これが空だと言っているのです。

 皆様が生きている命は、色受想行識です。これが現在の人間の精神構造を意味するのです。

 人間の命の実体、実質は精神構造のことです。悔い改めるというのは、精神構造を新しくすることです。そうすると、新しい命になるのです。

 般若心経は五蘊が皆空だと言っています。だから、人間の肉の思いを捨てるのです。そうすると、新しい色、受、想、行、識ができるのです。霊の色、受、想、行、識ができますと、霊の命ができるのです。そうすると、新しい見方が自然にできることになるのです。これを勉強して頂きたいのです。

 念仏とは何かです。仏を念ずるとは自分自身を念じないことです。ところが、浄土真宗は間違えているのです。

 念仏は仏を念じることであって、この場合には自分自身が空になって仏を念じることが念仏です。自分自身が生きていて、自分が成仏するために仏を念じるというのは、宗教観念です。

 本当の念仏というのは己を捨てて、己が虚しくなって、己を空じて、自分自身が空っぽになって、仏だけを念じることです。

 現在の他力本願では、これがすっかり間違えられているのです。法華経も同様です。法華経の第一巻、第二巻、第三巻には、空がしっかり書かれているのです。現世に生きている人間が空であることを、はっきり書いているのです。これを踏まえて火宅煩悩の教えを説いているのです。

 現在の仏教は釈尊の空を踏まえるという形を取ってはいるけれど、日本の仏教はそれを重視していないのです。私はここが悪いと言っているのです。

 法華経は空を重んじているけれど、法華経を宣伝している宗教が空を信じていないのです。日本の法華経のお坊さんが、法華経どおりに教えていないのです。

  念仏でもそのとおりです。念仏するということは、仏を念ずることであって、己自身の救いを念ずることではない。こういう点が間違っているのです。

 本当の釈尊の空というのは、己自身のことを一切考えないことです。これが釈尊の本当の空です。般若心経はこれを説いているのです。

 ところが、般若心経が日本では正しく説かれていないのです。般若波羅蜜多が正確に説かれたということは、日本ではないのです。

 日本では般若波羅蜜多が付け足しになっているのです。仏典の経文の付け足しに般若波羅蜜多が扱われているのです。これは般若心経を軽んじたり、弄んだりしていることになるのです。

 般若心経は日本に長い間ありましたけれど、本当に読まれたことはなかったのです。

 般若波羅蜜多が釈尊の本当の思想です。

 聖書は現世に生きている自分を捨てることを言っている。自分を捨てて、新しい人を着よと言っているのです。これが新約聖書の教えです。

 自分を捨てなければ新しい人を着ることはできないのです。皆様は現在固有名詞の状態で聖書を勉強しておいでになりますが、これが間違っているのです。まず自分を捨てるのです。

 固有名詞の自分が聖書を勉強している。山田太郎という固有名詞が聖書を勉強している。固有名詞の人間は絶対に救われません。

 固有名詞の人間は現世に生きている人間です。現世に生きている人間はキリスト教の勉強をしたらいいのです。ところが、キリスト教の教義は嘘です。

 キリスト教の牧師は、イエス様を信じたら死んでから天国へ行くと言います。これははっきり嘘です。死んでから天国へ行くということは聖書には書いていないのです。

 「生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」とイエスははっきり言っているのです(ヨハネによる福音書11・26)。ところが、キリスト教の牧師は、必ず死んだら天国へ行くと、死ぬことを容認しているのです。

 また、イエスは、「水と霊とから生まれて、神の国へ入れ」と言っているのです。神の国へは生きている間に入るのであって、死んでから行く所ではないのです。

 キリスト教の牧師は嘘を言っているのです。キリスト教なら固有名詞の人間が救われると言うでしょう。聖書はそういうことを絶対に言っていないのです。山田太郎という固有名詞の人間が救われることはあり得ないことなのです。

 山田太郎という固有名詞を持った人間が、聖書を勉強しているのです。これをやめて頂きたいのです。

 皆様はこういう過ちに誘われやすいのです。現に誘われているのです。皆様は現世に生きている固有名詞の人間を自分だと思っているでしょう。

 これはこの世に生きている自分です。この世に生きている自分は絶対に救われません。これはキリストの十字架によって死んでしまったものです。死にたるものです。

 死んでしまっている者は救われるはずがないのです。これを教会ではっきり言いますと、信者が集まらなくなるのです。だから、牧師は言わないのです。だから死んでからと言ってごまかしているのです。嘘を言っているのです。死んでから天国へ行くと言うのは全くの嘘です。

 生きているうちに神の国を見るのです。また、神の国に入るのです。

 「汝らまず神の国と神の義を求めよ」とイエスが言っています(マタイによる福音書6・33)。生きている人間に向かって、生きている間に神の国へ入れと言っているのです。

 皆様は現世に生きている状態で、神の国の実物を掴まえるのです。そのためには、固有名詞の自分、現世に生きている自分を解脱する必要があるのです。

 こういう言い方をしますと大変難しいように思えますが、固有名詞の皆様と皆様の魂とは、何の関係もないのです。聖書の勉強をするのは魂であって、魂には名前はないのです。

 皆様は霊的に考えるということが、全くできていないのです。こういうことの訓練ができていないので、現世に生まれて、役所の戸籍台帳に登録されている自分を自分だと思っているでしょう。この自分は現世の行政上の自分です。

 現世における行政上の人間と、神との係わりがある人間の魂とは全然関係ないのです。魂というのは皆様が鼻から息を出し入れしているという事実を言っているのです。皆様の心臓が動いているという事実は、固有名詞に関係がないのです。

 山田太郎も、加藤清正も鼻から息を出し入れしているという事実には関係がないのです。従って、固有名詞に関係なく、自分の利害得失を考えないで、自分が救われたいという根性を捨てて、冷静に、生きているという事実だけに基づいて聖書を見るのです。

 この作法を忘れて聖書を勉強してもだめです。固有名詞において個人的な認識と、個人的な利害によって聖書を勉強してもだめです。

 こういうことができるかできないかを考えるよりも、そうしなければならないと考えて頂きたいのです。

 皆様の命というのは皆様の精神構造です。命というのは心臓が動いていることではありません。心臓が動いているということは呼吸機能の問題です。呼吸機能の問題は生命に関係はありますけれど、皆様の生命の原点となるものは皆様の精神構造です。

 心の持ち方が皆様の命の本体です。心の持ち方さえはっきりしていますと、心臓が止まっても命はなくならないのです。

 精神構造そのものが命です。「肉の思いは死であり、霊の思いは命である」という言葉が聖書にありますが(ローマ人への手紙8・6)、人間の精神によって死んだり生きたりするのです。

 皆様が世間並みの人間の精神を持っていれば、必ず死んでしまいます。今まで皆様が持っていた精神は、必ず死ぬに決まっている世間並みの精神です。

 世間並みの常識を持って常識に生きている人は、必ず死んでしまいます。常識を捨ててしまって、常識ではない精神を持てばいいのです。これを信仰というのです。信仰とは何かと言いますと、魂が生きている状態をいうのです。例えば何かを食べている時に、甘いとか辛いとかを感じるでしょう。感覚している状態が魂の精神構造です。

 甘いものを見て甘いと感じる。丸いものを見て丸いと感じる五官の働きが、皆様の精神構造を意味するのです。これは前世からの精神構造の続きです。これが魂の働きです。魂が救われたらいいのです。

 ところが、皆様は魂として生きないで現世の常識で生きているのです。これが間違っているのです。

 皆様は現世の常識で生きているのです。だから、聖書の勉強が難しいとか、私の言うことが難しいと思われるのです。

 勉強がしにくいとか、難しいと思うのが般若心経の五蘊です。生きている人間の気持ちです。この世に生きている人間の気持ちというのは、前世の人間の気持ちではありません。この世に生まれた人間の気持ちです。

 この世に生まれた人間の気持ちは、罪人の気持ちです。罪人の気持ちを持ってしまったので、死ぬに決まっているのです。聖書は罪人の気持ちを捨ててしまいなさいと言っているのです。

 「古き人を脱ぎ捨てて、新しい人を着よ」と聖書は言っているのです(エペソ人への手紙4・22~26)。このとおりにしたらいいのです。これはなかなか簡単にできないことかもしれませんが、これをしなければ皆様は死ぬべき方向から、とこしえの命の方へ転換することはできないのです。

 宗教は嘘ばかり教えています。宗教でいうやりやすいこと、やさしいことは嘘です。キリストの贖いを信じれば救われるという言い方は嘘です。

 皆様の魂の眼が開かれなければだめです。魂の眼が開かれるとはどういうことかと言いますと、五官が開かれることです。目で見ていること、耳で聞いていることが、そのまま命の言を見ているのです。聞いていることが、命の言(ことば)を聞いているということが意識的に理解できなければいけないのです。

 現在皆様が見ているのは、命の言です。これを見たり聞いたりしているのです。

 皆様が生きているのは、命の言に触れているのです。だから生きているということの実体を把握するのです。心臓が動いているから生きているのではありません。精神構造が神の命の言に触れているから生きているのです。

 皆様の精神構造が神の言に触れるようにして頂きたいのですが、まず第一に人間としての精神ではなくて、魂としての精神に目覚めることが必要です。固有名詞の自分ではなくて、魂としての自分に目覚めることです。

 魂に目覚めるためにはどうするかと言いますと、霊的に見るということが必要です。固有名詞の自分の利害得失に捉われないで、自分という気持ちを脱ぎ捨てて、生かされているということを中心に考えるのです。冷静に綿密に考えるのです。こういうことを自己訓練したらできるのです。

 これはしようと思えば十分にできるのです。世間並みの人間ではなく、生きているそのものとしての人間として生きるのです。生きているということは霊です。リビング(living)ということは霊です。霊なる自分を見るのです。

 神に生かされているのが霊魂です。魂である自分に目覚めるのです。世間で商売をしているとか、会社勤めをしている自分とは違います。固有名詞の自分ではない、生きている自分を見るのです。お茶を飲んで味わっている自分です。この自分が神に結びつくためには、魂の目覚めが必要です。

 自分に対する考え方を変えるのです。これを悔い改めると言うのです。花が咲いているとしますと、花が咲いていることが神の国です。

 花が咲いているということが何を現わしているのか。皆様は生まれる前に前世にいたのです。皆様の魂は生まれる前に前世にいたのです。皆様は前世にいた時に花を見ていたのです。

 花が咲いているというのは神の国が現われているのです。イエスが神の国を求めよと言っているのは、現世で花という格好で神の国があるのですから、その中に入ったらいいのです。

 これは花だけではありません。芋の味とか、大根の味、カボチャの味、牛肉の味、魚の味はすべて神の国です。味とか色、形、香りはすべて霊であって、霊なるものは神を現わしているのです。これが神の国です。

 だから、神の国を求めるのです。神の国と神の義を求めるのです。

 皆様が現在生きているのは、おいしいものをが食べたいからです。きれいなものが見たいからです。皆様の霊魂は神の国を求めるのですけれど、固有名詞の人間が間違っているのです。

 皆様の魂は正確に神の国を求めているのですけれど、皆様の自我意識はそれを求めていないのです。

 皆様の魂は、これはおいしい、これは美しいというように、味とか、色とか、形、香り求めているのですが、皆様の常識が悪いのです。

 常識というのは碌でもない理屈を並べて、がたがたと文句を言っているのです。これが間違っているのです。

 現在の学理学説はユダヤ人が造った理屈ばかりです。どうでもいいことを学問と言って祭り上げているのです。こういうユダヤ主義に人間は洗脳されているのです。これを脱ぎ捨てて霊に従って見るのです。

 五官に従って神の国と神の義を求めるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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