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顚倒夢想

最近、基本的人権ということをしきりに言われています。少し飛行機の音が大きすぎると、生活権の侵害になると言われるのです。隣の犬が鳴きすぎると、基本的人権に抵触すると言われるのです。

何かにつけて、基本的人権、基本的人権と言われるのです。基本的人権という面だけを強調しすぎると、人間は却って不幸になるのです。

基本的人権を強調すると、人間の魂がだんだんふやけてくるのです。人間が付け上がってくるのです。そうして、自分が偉い者だという錯覚を持つようになってくるのです。

人権というのは一体何から来たものなのか。人間は自分が生まれたいと思った訳でもないのに、人権が本当にあるのかということです。欧米思想が本当に人間に対して正当な理由を持っているかということです。

 白人主義の考え方は大変な現世主義でありまして、人生の見方が偏向しているのです。偏重していると言った方がいいかもしれません。人間が現世に生きているということだけを考えているのです。

 現在の文明も、生活ということばかりを考えているのです。基本的人権と言いましても、生活に関する自己主張ばかりです。生活に関する自己主張を基本的人権と言っているのです。

 人間は生活するために生まれてきたのではないのです。生活は第二義的なものです。これは人間であることの不随行為のようなものです。

 人間は働いて生活するために生まれてきたのではないのです。人間はまず人間であるために生まれてきたのです。この簡単なことが白人には分からないのです。白人は元来、狩猟民族の末裔であって、動物を殺して食べていたのです。こればかりをしていたので、白人の物の考え方は生活一辺倒です。

 文明の文というのは綾模様という意味です。これは森羅万象の綾模様のことを言っているのです。仏教的に言いますと、曼陀羅ということです。胎蔵界の曼陀羅です。

 物質的現象の世界は曼陀羅です。この綾模様を明らかにすることが文明であるはずです。ところが、西洋文明は文明ではないのです。ただの生活です。

 シビリゼーション(civilization)という言葉は、市民生活とか、公民生活という意味になるのです。文化生活という意味になるのです。

 白人の文明に関する考え方は、徹頭徹尾生活主義です。東洋人の考えはそうではありません。生活主義のシビリゼーションを文明と訳したのです。この訳し方は大変いいと思われるのです。

 これは宇宙の森羅万象の意味を明らかにすることを示しているのです。「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の因縁なり」と道元禅師が言っていますが、道元禅師でなくても日本人は自然にそのように考えているのです。

 生を明らめ死を明きらめるということをしていきますと、自ら万物の存在を明らめることになるのです。あきらめるとは明らかにするということです。

 万物の存在を明らかにするのです。人間はなぜ死ぬのか。死んだ後にどうなるのか。なぜ死という嫌なものがあるのかということを明らかにするのです。これが本当の文明でなければならないのですが、こういうことを棚上げして、ただ生活ばかりを一生懸命にしている。政治家なら仕方がないとしても、私たちはそれではいけないと思うのです。

 政治家は欲が深い人がなりたがるのでありまして、訳が分かった人はあまりなりたがらないようです。生を明らめ死を明らめたいと思っている人は、政治家になりたいと思わないでしょう。こういう人は人権、人権という考えには賛成できないと思われるのです。

 人権、人権とやかましく言っている人々は、生活的な意味で人権を主張しているのです。

 人間は人生とは何かを知らずに生きているのです。結婚とは何かを知らずに結婚しているのです。なぜ死んでいくのかを知らずに死んでいくのです。これは危ないことです。全く危ないことです。親子とは何かが分からない。なぜ親の言うことを聞かなければならないのかと、子供が言うのです。産んでくれと頼まないのに産んで、なぜ親の言うことを聞かなければならないのかと子供が言うのです。ひどいものです。

 親子とは何か。夫婦とは何か。貞操とは何か。こういう基本的なテーマが全く分かっていないのです。これは生活ばかりを考えているから自然にそうなってしまったのでしょう。

 今の文明は人間をばかにしている文明です。白人がリーダーシップを取って、東洋人がそれに尻尾を振ってついて行った。その結果、とうとう文明がつぶれなければいけない状態になったのです。

 文明は必ず潰れます。今の文明が長く続くはずがないのです。地球全体の運命として、食糧問題にしても、人口増加によって食糧や資源が追い付かなくなっているのです。文明は行き詰まらなければならなくなってしまったのです。

 それは文明の本質が人間の本性に合わないものだからです。文明の制度が高い所ほど、人間の本質が悪くなっているのです。大都会ほど、人間の素質が悪くなっているのです。文明の度合いが低い所ほど、人間の素質が良いのです。文明の度合いが低い所ほど、健康的にも精神的にも人間らしい人間がいるのです。

 文明の本質が人間の本質に適合していないことは明らかなのです。こんな簡単なことが今の人間に分からないのです。全く今の人間はばかです。何のために生きているのか分からずに生きているのです。そして死んでいくのです。せっかくの命を棒に振っているのです。

 現在皆様は生きているのですから、それをよくよく考えれば、その命を棒に振らなくてもすむのです。

 私たちは命の本質を弁えるために生まれてきたのです。私たちは森羅万象を通して、生を知ること、死を知ること、人間を知ることを目的にして生まれてきたのです。商売をするのも結構です。家庭を持つのも結構ですが、そうした人間関係を通して、人間とは何であるかを知ることが目的で生きているのです。

 中国唐の時代に趙州(じょうしゅう)和尚という禅僧がいました。この人の所へある人がやってきて、「道場は一体どこあるのですか」と聞いたのです。「あんたは今どこから来たのか」と和尚が言うと、「あちらから来ました」。「どこへ帰るのじゃ」と聞くと、「元の所へ帰るのです」と言ったのです。

 和尚は、「あんたは道場から来て、道場に帰るのだ。それが道場というものだ」と言ったのです。

 家庭が道場なのです。道場とは悟りを開く場所という意味です。また、悟りという意味もあるのです。私たちは家庭生活をしたり、社会生活をしたりしていますけれど、これは道場にいるのです。

 人生というものは本質的に道場です。私たちは現世でマイホームを楽しむために生まれてきたのではないのです。道場で悟りを開くために生まれてきたのです。

 地球というのは神が人間に与えた住み処ですが、同時に教室でもあるのです。ところが、現在の文明は教室のガラスを叩き割ったり、教室の柱を切り取ったり、床をはがしているのです。壁に落書きをしたり、天井に穴を開けたりしているのです。

 教室である地球を食い荒らしているのです。これを文明だと言っているのです。全くばかみたいなことをしているのです。

 私たちは地球という教室において、人間完成のために学ばなければならないという重大な目的があるのです。これをしないで教室を食い荒らして、めちゃくちゃにしているのです。空を汚す。海を汚す。山を汚す。川を汚す。畑を汚しているのです。公害戦争、ゴミ戦争、交通戦争、受験戦争と戦争ばかりしているのです。こういうことは人間の本質から考えて、全く間違っていると言わなければならないのです。

 私たちは生まれたいと思って生まれたのではないということを、よく考えなければならないのです。人生は本質的に自分自身の意志によるものではないということです。天の意志か、宇宙の意志か、人間以外のものの意志によるのです。

 両親が子供を産もうと思っても、生まれるものではないのです。産まずにおこうと考えても、産まずにおれるものではないのです。

 聞いた話ですが、ある人に止という名前の人がいました。八人目の兄弟ということで、親がもう産みたくないということで子供に止という名前を付けたのです。それで止まったかというと止まらなくて、また子供ができたのです。九番目の子供にお初という名を付けたら、ようやく止まったということでした。

 人間が生まれるというのはこういうものです。親が産もうと思っても生まれるものではないし、本人が生まれたいと思って生まれるものでもないのです。人生は本質的に自分の所有物ではないということを、お考え頂きたいのです。これがはっきりしますと般若心経が分かってくるのです。

 人生が自分自身のものだと考えている間は、般若心経をいくら読んでも分かるはずがないのです。聖書はもちろん分かるはずがないのです。

 般若心経とか聖書とか言いますと、人生は自分で考えるからほっといてくれという人がいます。人生は自分で勝手にすると言っても、人生は自分のものではないのですから、勝手にという訳にはいかないのです。人生はある程度、他人に世話をやいてもらわなければどうにもならないのです。

 現在の人間の物の考え方はすべて裏返しになっているのです。人権、人権とやかましく言いますけれど、人間の責任ということを全然考えようとしないのです。人権というのなら責任を考えなければならないのです。人間の責任があるのです。

 人責を考えようとしないで、人権ばかりを主張するというのは、裏返った考えになるのです。般若心経に、遠離一切 顚倒夢想という言葉があります。人間の考えは顚倒夢想である。ひっくり返っていると言っているのです。逆立ちしているのです。

 石が流れて木の葉が沈むという浄瑠璃の文句のようになっているのです。だから、人間の考えから遠離しなければいけない。遠く離れてしまえと言っているのです。

 人間の思想は逆立ちしている思想です。人間が本当だと思っていることは、実は嘘です。正義だと思っていることは不義です。善だと思っていることが悪です。命だと思っていることは死です。人間の思想は大体において裏返っていると言わなければならないのです。

 亀が喧嘩をすると相手を裏返えそうとするのです。裏返された亀はかわいそうなもので、自分でいくらもがいても甲羅がじゃまをして元通りにはならないのです。そのうちに干からびて死んでしまうのです。

 今の人間もそのとおりです。ほっといてくれと言うけれど、ほっといたら人間は死んでしまうのです。死んだら地獄へ行くに決まっているのです。ほっとけないからこうして皆様にお話ししなければならないことになるのです。今の人間の考え方があまりにも間違っていますから、黙っておれないのです。だからこうしてお話ししているのです。

 裏返った亀は自分で表返ることができないのです。他人に手伝ってもらわなければ、表返ることはできないのです。釈尊とかイエスという人たちに、世話をやいて頂こうと思っているのです。

 イエスが復活したということは歴史的事実です。イエスが復活したという記念日を日曜日として休んでいるのです。イエスの復活を記念しているのです。

 今年は二○一五年ですが、イエスの誕生によって人間の歴史が新しく始まっているのです。イエスが死なない命を持ってこの地上に誕生したので、新しい歴史が始まった。これが西暦紀元です。

 イエスが誕生したことを祝うのがクリスマスです。イエスが死を破って復活したことが日曜日です。イエスは暦年算定の基準になっていますし、皆様は日曜日という形でイエスの復活を経験しておいでになるのです。

 皆様が御存知であっても御存知でなくても、知ると知らざるとに係わらず、イエスの復活と皆様の人生とは、重大な関係があるのです。

 釈尊の悟りは東洋民族としての代表的な思想です。色即是空、五蘊皆空と言っています。五蘊というのは人間の考え方全体です。これが空っぽだと言っているのです。

 五蘊皆空が分かりますと、初めて、自我意識の間違い、白人主義の考えの間違い、人生の捉え方の間違いという基本的な概念が分かるのです。

 しかしこれだけでは救いがないのです。般若心経には悟りがありますが、救いがないのです。究竟涅槃というのは涅槃を突き止めることです。

 涅槃というのはサンスクリット語でニルバーナーと言いますが、これは冷えて、消えてなくなってしまうことを言っています。これが空です。般若心経の中心思想は、人間が冷えて消えてなくなってしまうことを教えているのです。しかし、本当の命についての説明は全然していません。これが東洋民族のいいところです。また、東洋人の悪いところです。

 聖書はイエスの復活において、宇宙の大生命のあり方を示しているのです。

 仏法は徹底的に無を説いています。聖書は徹底的に命を説いているのです。従って、般若心経が前編になり、聖書が後編になるのです。両方で完全なものになるのです。

 涅槃だけではどうしても分からないのです。般若心経を宗教的に取り扱っている人はたくさんいます。皆様の中にも般若心経に興味を持たれている方が多いと思いますが、本当の意味が分かっている人はほとんどいません。

 般若心経はただ読んだり、唱えたりしていればご利益があると考えているのです。これはまんざらの迷信ではありませんが、これだけではご利益は非常に少ないのです。

 ご利益の中心を獲得しようと思ったら、五蘊皆空が何であるかということを体得して頂きたいのです。空という思想を体得して頂きたいのです。そうしたら、初めて自分の考え方が全く見当違いであったということが、はっきり分かるでしょう。

 その次に考えて頂きたいことは、今皆様が生きているということです。

 皆様が空気を造っているのではありません。水を製造しているのでもありません。太陽光線を造っていませんし、地球を自転公転させている訳でもないのです。一体地球を回しているのは誰か。地球が自転公転しているのはどういう仕掛けになっているのか。仕掛けくらいの説明は自然科学でもできるかもしれません。

 なぜ地球という妙なものがこの宇宙にあるのかということです。地球には森羅万象と称する全く複雑奇怪な生物、動植物、鉱物が山ほど集まっているのです。

 アメリカのアポロ宇宙船が月へ到着して、月面の写真をたくさん送ってきましたが、全部砂漠です。生き物は一匹もいません。火星も金星も同じです。ところが、地球には森羅万象、生き物で満ち満ちているのです。

 地球は物体ではないのです。生物です。地球自身が巨大な生き物です。だから生き物が無限に生まれてくるのです。もし地球がただの鉱物なら、生き物が生まれてくるはずがないのです。

 地球は生き物です。生きているのです。生き物だから皆様が生まれてきたのです。

 地球が生きているということはどういうことなのか。一九五三年にウォルト・ディズニーによって「砂漠は生きている」という映画が製作されました。砂漠だけが生きているのではない。地球全体が生きているのです。

 地球が生きているというその命を皆様が捉えたら、皆様は死ななくなるのです。

 イエスは地球が生きているという命を掴まえたのです。だからイエスは復活したのです。死を破ったのです。皆様も命の本質を掴まえたら死ななくなるのです。

 死ぬのは命ではありません。命という言葉は死なないものをいうのです。

 「生をあきらめ死をあきらめる」という道元禅師の言葉がありますように、本当に人生の実体を掴まえることができたら、皆様は死ななくてもいい人間になるのです。

 死にたくないのに死ななければならないと考えるのは、負け犬の思想です。初めから負けることを知っていて、喧嘩をしているのです。自分は負けると思いながら喧嘩をしているのです。これは敗北主義です。

 皆様は死ぬのは嫌でしょう。死ぬのが嫌なら、死ぬのが嫌だとはっきり言って頂きたいのです。私は死ぬのが嫌だと言ってみてください。そうしたら命を見つけることができるのです。

 イエスは復活したのです。はっきり死を破ったのです。これは歴史的事実です。この歴史的事実の意味が分かれば、皆様もイエスと同じ運命に自分の魂を置くことができるのです。

 まず五蘊皆空で、皆様の考えの根本が間違っていること、空であることを悟るのです。その次に、イエスの復活という宇宙的な大事件を率直に受け入れるのです。この二つを実行して頂いたらいいのです。

 神を信じるということはただ思想の問題ではなくて、生活の問題になるのです。神を信じるというのは神を生きることです。神に生きることです。これを意味するのです。従って、キリスト教の教義を勉強してもなかなかできることではないのです。

 聖書とキリスト教は違うのです。キリスト教はイエス・キリストの贖いを信じれば救われるということを教義にしています。これは間違っていません。問題はイエス・キリストを信じるとはどういうことなのか。どのように信じるのか。贖いの実体は何であるのか。人間の命とイエスの贖いとはどのような関係になるのか。これが宇宙的にはどのようなことであるかということです。

 これをもう少し詳しく言いますと、物理的にいうとどういう説明ができるのか。生理的にはどのような説明ができるのか。どのような面からでも、十分に説明できるのでなければいけないのです。

 宗教にはキリスト教だけでなくて、どんな宗教でもすべて教義があるのです。教義を教えるのが宗教です。聖書は教義ではないのです。聖書はイエスの実体を書いているのです。

 聖書で、「すべて重荷を負うて苦労をしている者は、私の元に来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」とイエスが言っています(マタイによる福音書11・28)。

 イエスが私に来なさいと言っているのです。これはキリスト教に来なさいという意味ではありません。イエス自身に来なさいと言っているのです。イエスという人間存在、イエスという存在に来なさいと言っているのです。

 イエスが生きていたという立場で生きなさいということです。

 「よくよく言っておく、人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命があり、私はその人を終わりの日に甦らせるであろう」とイエスが言っているのです(ヨハネによる福音書6・53、54)。

 イエスの肉を食べること、イエスの血を飲むことです。これが聖書の信仰です。

 般若心経にも同じことが言えるのです。観自在菩薩が般若波羅蜜多を行じていた者に、五蘊皆空であることを照見した。悟りを開いて大成したと言っているのです。

 般若心経は六百巻余りの膨大な般若経典を要約して、その中心思想を捉えたものですが、大般若経の内容は釈尊の悟りを説明しているのです。釈尊が自分の悟りを説明しているのです。

 観自在菩薩というのは、釈尊の悟りを観自在菩薩という名によって発表しているのです。

 釈尊は宗教家ではありません。王家の皇太子でした。宗教的には素人です。イエスは大工の青年でした。釈尊もイエスも宗教家ではなかったのです。大工の青年とか、王家の皇太子が人生をまともに考えて、人生の究極を極め尽したのです。この事実が般若心経と聖書に現われているのです。

 般若心経は釈尊という人間の思想ではなくて、観自在菩薩の思想として説いているのです。これはどういう意味かと言いますと、釈尊という人間の中に仏性があるのです。この仏の性に基づいて悟りを開いたのです。これは人間の悟りではなくて、観自在の悟りなのだということになるのです。

 人間が悟りを開けば禅宗のようなものになるのです。人間が悟ること、また人間が信じることは宗教です。聖書はイエス・キリストの信仰でなければだめだとはっきり言っているのです。

 キリストを信じるということは、イエス・キリストの信仰に合一することです。キリスト教を信じるのではなくて、イエス・キリストという人の人生と、自分の人生が一つに解け合うことを意味するのです。これをイエス・キリストを信じると言っているのです。従ってこれはキリスト教を信じることとは違うのです。

 聖書はイエス・キリストの信仰を中心にしている。般若心経は観自在菩薩の悟りを中心にしている。これはどちらも人間の悟り、人間の信仰ではありません。人間離れしているのです。

 本当の意味での空が分かりますと、自分自身が生きている事がらが、空であることがはっきり分かるのです。

 イエス・キリストの信仰も同様です。実は皆様が生かされているという事実、皆様の目が見えること、耳が聞こえるという事実、心臓が動いているということが、皆様方と共にいます神の力が、そのまま顕現しているのです。

 皆様と共にいます神、インマヌエルの神がイエスの救いです。皆様の心臓が動いているという事実が、神という事実なのです。

 皆様は心臓が動ているから生きていると考えやすいのです。これは反対です。間違いです。心臓が動いているから生きているのではありません。生きているから心臓が動いているのです。

 命があるから皆様は生きているのです。この命は皆様個々の命ではありません。例えば、山川さんの命、西村さんの命、田中さんの命があるのではありません。命は宇宙に一つあるだけです。宇宙に一つある命が皆様に現われているのです。従って、命が何であるかが分かりさえすれば、皆様は死ななくなるのです。宇宙が死なないように、宇宙が永遠に死なないように、皆様も永遠に死なないのです。

 命の本質を知るために、まず観自在菩薩の悟りによって空を弁えること、イエス・キリストの信仰によって、神の子である自分自身の実質をはっきり知ることです。そうして神に生きることです。自分自身に生きないで、神に生きるのです。これが命なのです。

 イエスの復活は歴史的事実です。聖書が毎年百五十億冊も発行されていると言われていますが、断トツの世界最高の超ベストセラーを続けているのです。

 聖書の中心思想はイエスの復活でありまして、イエスの復活が新約聖書に書かれているのです。だから、毎年百五十億冊も売られているのです。もしイエスの復活が嘘であれば、毎年百五十億冊もなぜ売れ続けるのでしょうか。

 しかも皆様はイエスの復活記念日を一週間に一回ずつ、日曜日という形で休んでいるのです。こういう歴史的な必然性があるのです。

 人間には知らないことがたくさんあるのです。現在自分自身で実行していながら、その意味が分からないことがたくさんあるのです。イエスの復活もその一つです。

 般若心経にある無明と老死のことですが、無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無無老死尽とありますが、これは十二因縁のことを言っているのです。これは仏教の教義です。また、無苦集滅道とありますが、苦集滅道とは四諦のことです。四つの知恵のことです。

 般若心経は十二因縁とか四つの悟りというものも、実はないのだと言っているのです。これは人間が死ななくなるということではないのです。

 老死というのは年が寄って死ぬのではなくて、十二因縁の中の用語です。仏教教学の用語です。これを般若心経は説いているのです。

 仏教の四諦八正道とか十二因縁という仏教教義も、無用のものになるのです。人間の頭で考えている知識とか常識が全部空なのだから、仏教の教義も無であると言っているのです。

 老死は死ななくなるという意味ではなくて、老死という教義を指しているのです。

 仏教には一人ひとりに因縁があると言っています。因縁というのは親から受け継いだ気性とか、その人の持ち前、例えば情緒的な人とか、理論的な人とか、行動的な人とか、人間はそれぞれ個性がありますが、その個性のあり方によって早く分かる方もありますし、またそうでない人もいるのです。

 聖書的な言い方をしますと、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」ということになると思います(マタイによる福音書7・7)。求めよとは英語でアスク(ask)となります。アスクなさることが一番必要です。これは仏法の方でも、疑団を持てと言います。菩提心というものがアスクする心をいうのです。

 釈尊は生老病死の四つの苦しみが人間にあるのはなぜかという大きな疑問を感じたのです。人間にはどうしてこの四つの苦しみがあるのか。これを悟りたいと考えてバラモンの道場に入ったのです。これが菩提心です。菩提を求める心です。

 この菩提を求める心と、求めよ、そうすれば与えられるというイエスの言葉とは、本質的には同じことを言っているのですが、ただ聖書の場合には何をアスクせよとは言っていないのです。

 求めよ、そうすれば与えられるというけれど、何を求めるのかと言っていないのです。例えば、救いを求めよとか、神を求めよとか、悟りを求めよとかと言っていないのです。ただ求めよと言っているのです。

 皆様が生きているということが、求める対象になるのです。自分が生きているというそのことです。これは間違いのない事実でありまして、これは宗教でも哲学でもありません。実際的に生きているのです。

 生きているというはっきりした具体的な事実を私たちは持っているのであって、この意味をアスクするのです。生きるという事実の意味をアスクするのです。これをイエスが求めよと言っているのです。

 これを実行すればいいのです。やり方はいろいろあるでしょう。般若心経を読むということも方法ですし、聖書を読むことも方法ですけれど、個人個人が勝手に読んでいてもなかなか分からないのです。そこで若干の人が集まって話し合うことが必要になるのです。

 イエスも、「二人または三人が私の名によって集まっている所には、わたしもその中にいる」と言っているのです(同18・20)。

 こういう言い方は仏典の中にもあるのです。結局人間が一人で勉強しているよりも、三人よれば文殊の知恵と言うように、お互いに集まって勉強するということが一番良いのです。

 宗教ではなくて、率直に、生きているという事実をテーマにして話し合うのです。

 般若心経や聖書が難しいもののように考えられているのは、専門家が占領してそのように言っているからです。般若心経を仏教者が占領している。聖書をキリスト教の牧師さんが占領しているのです。こういう人たちが、般若心経や聖書を難しいもののように言うのです。だから難しいもののように思われているのです。

 イエスというのは大工の青年です。釈尊は皇太子です。こういう素人が神を見たり、仏を見たりしているのですから、宗教ではだめです。

 専門家の手に聖書を任しておくのはよくないのです。専門家の手に般若心経を任しておくのはよくないのです。宗教的な観念で般若心経や聖書をいくら読んでも、本当のことは分かるはずがないのです。

 率直に心を開いて話し合うのです。これが一番いいのです。私がいつも言っていることですが、愚直であること、率直であること、そして廉直であること、この三つの直でなければいけないのです。

 宗教家は愚直でもないし、率直でも、廉直でもないのです。お坊さんは生活のことがありますから、廉直ばかりを言っておれないのです。愚直、率直に言いすぎると、信者に嫌がられるからです。だからなるべく真綿で首を絞めるような言い方をするのです。

 そういう遠慮するようなグループではなくて、はっきり物を言い合うようなグループができたらいいと思うのです。

 人生が本当に新しくなるという事実があるのです。人間の実体は何かと言えば、思いです。思念、または思想が人間の実物です。

 肉体が人間であるように言い、考え違いしていますけれど、皆様が正常な意識を持って生活している状態を、法律では人間と言っているのです。正常な意識があるかないかで、人間であるかないかが決定されているのです。

 人間の本質は肉体ではなくて思いです。これは唯心論や唯物論とは違います。当たり前のことです。その人の思い方、考え方がその人の健康、家庭生活、職場生活にも自然に現われるのです。

 だから思いを更えて新にしたらいいのです。思いを本当に更えれば死なないことが分かるのです。

 死ぬということを言いますけれど、現世を去ることが死ぬということではありません。現世を去るのは新陳代謝の現象です。これはやむを得ないことです。これは一つの欠落状態です。このような状態はありますけれど、死ではありません。

 現世を去るだけのことです。現世を去ることと死ぬこととは違うのです。

 死ぬというのはその人の魂がお先真っ暗になることです。魂が働かなくなることです。固定してしまうことです。思想や思念が固定してしまうことが死ぬことです。ですから、皆様の頭が固定しないようにいつもかき回しているといいのです。

 般若心経を取り上げるとか、聖書を取り上げるとかをして、自分自身の思想を引っ掻き回すのです。そうしていけば思想的活動能力がどんどん向上するのです。

 魂という言葉の意味、内容を宗教家ではっきり説明できる人はいないでしょう。なぜかと言いますと、宗教家は教義を問題にしているのです。

 ところが、魂は事実を意味するのです。これは宗教ではありません。霊魂という言葉は聖書にはありません。霊と魂はあります。霊と魂は内容が違うのです。

 魂は英語でソウル(soul)です。霊はスピリット(spirit)です。スピリットソウルという言い方はありません。

 魂とは皆様が現在生きていることです。皆様の目が見えること、大脳神経が働いていること、考えたり、仕事をしている状態が魂です。これは生態と言った方がいいかもしれないのです。これが生理機能の面です。

 もう一つは人間の心理機能の面があるのです。生理機能と心理機能の面を一括して魂というのです。

 今皆様は何を考えて暮らしているのか。自分の命をどのように考えて生きておいでになるか。これが皆様の魂の状態です。

 例えば、物質現象が存在すると考えているとします。やがて、心臓が止まって、大脳が働かなくなりますと、意識はなくなります。そうすると、今まで皆様が考えていた常識とか知識の内容が固定するのです。これが死の状態です。皆様の魂は眠るような状態になるのです。

 ところが、眠った魂は必ず目を覚ますのです。これが恐いのです。眠るだけならいいのですが、必ず起こされるのです。死んでしまえばそれまでだという人がたくさんいますが、そんなばかなことはないのです。

 現世に生きている人間が、良かれ悪しかれ色々なことを考えて生きていた。喜怒哀楽を考えて生きていた。この人間が死んでしまえば消えてしまうというばかなことはありません。人間はシャボン玉ではありませんから、消えてなくなることはないのです。人生で経験した思想状態、思いの状態が、そのまま固定することになるのです。これが眠りです。永眠です。

 永眠はある一定の時間がたちますと、やがて起こされる時が来るのです。それから神の裁きが始まるのです。良い者は神の倉に入れられ、悪い者は消えない火で焼かれることになるのです。これが恐いのです。皆様は消えない火で焼かれることのないようにして頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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