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人生のカルマ

人生には矛盾と落胆と、悲しみがあるだけです。ところで、私たちの命は、私たち自身のものではないのです。

人間は自分が生きていると思っています。これは私たちの生命を自分自身の立場から考えているのです。だから自分が生きているような主観的な感覚を持っているのです。

私たちの人生というものは、自分が生まれたいと思って生まれてきたのではないのです。また、自分で生きたいと思って生きているのではないのです。

皆様の命は自分のものではないのです。ところが、自分が生きていると思っている。そのように思い込まされているのです。そのために人生は矛盾だらけのような気がするのです。

これはこの世の人間全体の責任です。現世に生きている間に人生の矛盾を解決しておかなければいけないのです。

 皆様の命は現世だけのものではありません。これをよくお考え頂きたいのです。皆様の命は現世だけのものではありませんから、そこで困るのです。

 例えば、皆様は今日という日をご存じです。昨日という日があって今日があるのです。また、明日があるのです。昨日があって、今日がある。今日に続いて明日があるのです。このことを皆様は知っているのでしょう。だから今日という日を自然に過ごすことができるのです。

 もし明日があることが分からなければ、明日があることを認識していなければ、今日の生活は恐らく成立しないでしょう。

 このように皆様の人生には生まれる前があったのです。生まれる前に人生があったのです。現世を去った後も人生は続いていくのです。これが命というもののあり方です。

 死んでから命があるはずがないと言う人がいますけれど、これは現世の常識的な理屈です。その人がどう思おうが、命の本質は皆様の思うとおりにはいかないのです。

 皆様は命を経験させられているのであって、皆様自身が命を左右することは全くできません。皆様は客観的に生かされているのであって、皆様が生まれたいと思って生まれたのではないのです。従って、命は皆様のものではないのです。

 命は初めから自分のものではないのです。これが神と皆様との関係です。地球と人間との関係と言ってもいいでしょう。

 地球があることが、皆様が存在することの原理になっているのです。地球がなければ皆様の肉体があるはずがないのです。

 宇宙があるから地球があるのです。地球があることが、皆様の命があるということです。この原則は曲げることも変えることができないのです。これが神と人間の霊魂との関係です。神と人間の魂との相関関係になるのです。だから認めざるをえないことになるのです。

 魂の本質さえ分かれば死ななくなるのです。本当に死ななくなるのです。魂の本質が分からない、命の本質が分からないから、皆様は死ななければならないことになるのです。

 自分の人生の本質を捉えることができた人は、精神活動は止まりません。目が見えなくなり、耳が聞こえなくなっても、精神活動は止まらないのです。

 命というのは精神活動です。心臓が止まっても、目が見えなくなっても関係がないのです。永遠の命は人間の肉体に関係なく存在しているのです。

 地球の命は皆様が死んでも存在しているのです。地球がなくなっても宇宙の大生命はなくなりません。命というものの本質は人間の思想に関係なく存在しているのです。これを神と言うのです。

 皆様は現実にこの神と付き合っているのです。付き合っている状態のことを霊と言うのです。だから自分の思うとおりにならないのは当たり前のことです。

 家庭も国も、神が存在することを前提として存在するのです。これを当然のこととして弁えて頂きたいのです。これが皆様の霊魂の入口です。

 皆様の霊魂が、永遠の命である神の実体に触れるためには、地球が存在することの原理に基づいて、命を考えなければならないのです。

 命は初めから人間のものとは違うのです。だから、命の本質を捉えないままで心臓が止まってしまいますと、後から困ることになるのです。

 皆様の肉体はやがてなくなりますが、命はなくならないのです。肉体がないままの状態で命だけの状態になってしまうのです。

 命の本質は神の本質がそのまま現われているのです。神の実体が分からない状態のままで心臓が止まってしまいますと、命が分からないままの状態でいることになるのです。

 死んでも命がありますから、霊魂の裁きという問題は残っているのです。本当の命の実体を弁えようとしなかったのは、無責任極まる状態です。

 この無責任極まる状態のしわよせが、死んでから起こるのは、当然のことです。そうなるに決まっているのです。

 命の本質は神自身です。これを皆様は今経験しているのです。そこで命を本当に弁えることができた人は、宇宙の主になるのです。

 命が宇宙の実体ですから、宇宙の実体を自分でマスターすれば、宇宙の主になるのは当然です。これを霊魂の完成と言うのです。

 現在皆様の目が見える間に、命の本質を掴まえるのです。ナザレのイエスはこれを実行したのです。キリスト教はこれが分からないのです。

 生きている間に命の本質を捉えるのです。命の本質は神そのものですから、神と一つになってしまうことができれば、その人は死ななくなるのです。

 人間は自分で生まれたいと思わないのに、自分の命があると思い込まされているのです。人間全体がそのような間違いを思い込まされているのです。

 人間の命というものは誰でも自分のものではありません。自分で生まれたいと思って生まれた人は一人もいないのです。従って今いるのは自分ではないのです。

 現在皆様が生きている状態を自分で認識するのです。生きているとはどういうことか、何のために生きているのか。この問題が分からない状態ですと、人生を無駄に生きていることになるのです。

 人間は生きたいように生きている。食べたいものを食べている。自分がしたいことをしている。そういうことのために人間は生きていると勝手に思っているのです。

 生きているということはどういうことか。人間は生まれる前から生きていたのです。また、現実に生きているのです。人間は生まれる前には前世的に生きていたのです。

 人生は前世と現世と来世と三つあるのです。昨日があって今日がある。今日の続きに明日があるのです。人間は過去、現在、未来という三つの時間的なあり方を一つのものとして認識しているのです。これを時間と言うのです。

 こういうことが人生の業(ごう)です。人生のカルマです。このことをよく弁えて、死んでからのことを現実のこととして考えるようになりますと、来世に対する心配は完全になくなるのです。

 現世において、前世と来世とを考えるのです。そうすると死んでからの心配がなくなってしまうのです。これをしないから、心配が尽きないのです。

 世間一般の人は現世に生きていて、現世のことしか考えていないでしょう。こういう人は、前世のことが全然分かっていないのです。前世のことが分かっていない人は、来世のことも分かりません。こういう人は死んでから地獄という状態になるのです。

 地獄というのは人間の精神的な行き詰まりの状態を言うのです。これはあるに決まっているのです。

 昨日のことが分かれば今日のことが分かる。今日のことが分かれば明日のことが分かるのです。

 今生きている命の本質をどのように捉えるかということが、生命に関する正しい認識なのです。これが私たちが生かされていることの重大な目的です。キリスト教でも仏教でも、またあらゆる宗教でも、こういうことの説明は一切できません。

 こういうことをよく勉強して頂きたい。よく勉強して頂きますと、死ななくなるという意味での人間の命が分かるのです。これが生命に関する正当な認識です。これを神の命と言うのです。

 神の命と人間の命とが一つになればいいのです。神の命と一つになるのです。神の命の他に永遠の命はありません。この命と一つになるのです。こういう経験をして頂きたいのです。これはできるのですから、して頂きたいのです。

 私の真似をすることは何でもないのです。お聞きになって分からないことがありましたら、どんどん質問して頂いたらいいのです。

 禅宗には命が全然ありません。理屈があるだけです。禅宗は理屈を弄んでいるのです。それで分かった、分かったと言っているのです。解脱という言い回しで、勝手に自分の信念に追い込んでいるのです。これは全くの思い上がりです。

 こういうことで満足できる人はそれでいいでしょう。できない人は禅の修行を何年してもだめです。

 ナザレのイエスは歴史的に実在した人物です。彼は宗教家ではありません。哲学者でもありません。ただの大工の青年です。ただの大工の青年ですけれど、この人は自分が生きている命の本質が、地球が実存する本質と同じものだということを直感していたのです。

 自分が生きている命の本質が、宇宙が存在することの本質と同じものだということを直感したのです。そこでキリストになったのです。この他に人間の救いはありません。

 これはキリスト教の話ではありません。皆様にもできるのです。皆様が生きている命は、宇宙の大生命と同じものです。月や星を見れば、月や星ということが分かるのです。月や星が分かるということは、皆様方の生命が宇宙の生命と同じものだということを意味しているのです。

 ところが、常識でものを考えているために、永遠の命が分からなくなっているのです。だから世間並みの人間のように死んでいくことになるのです。

 生きているということを客観的な本質として捉えるのです。自分が自分の命を判断するのではなくて、客観的に自分が生まれてきたということを、冷静に考えてみるのです。

 皆様は生まれたいと思わないのに生まれてきたのです。親も産もうとして産んだのではないのです。産もうとしないのに生まれてきた。皆様自身も生まれたいと思わなかったでしょう。人間は勝手に生まれてきたのです。

 人間には理性が与えられています。これは宇宙に通用する理性です。時間的にも、過去、現在、未来に通用するのです。空間的にも無限の宇宙に通用するのです。そのように、理性は時間的にも空間的にも永遠に通用するものです。このことを冷静に考えて頂きたいのです。

 昨日のことが分かり、明日のことが分かるということは、永遠のことが分かるということです。

 皆様は昨日のことが分かり、明日のことがだいたい分かります。これは生まれる前の自分が分かるということです。また、死んだ後の自分が分かるのです。また神が分かるはずです。

 命という点においては、皆様はイエスと同じ直感力を持っているのです。だからイエスを信じるのは当たり前です。

 イエスと私たちは同じです。私たちもイエスと同じです。イエスと同じ生理機能、心理機能、五官を持っているからです。

 皆様は明日のことが分かります。明日のことが分かるということは、死んでからのことが分かるということです。大きい気持ちになって、こういうことを考えて頂きたいのです。

 私たちは肉体を与えられているので、命を具体的に捉えることができるのです。人間は生という問題、死の問題を把握するために、肉体を与えられたのです。肉体を持つことによって、本当の生を捉えることができるのです。こういう人は、神の命に与ることができるのです。

 これを聖書は救いと言っています。キリスト教でいう救いではありません。神の救いに与るのです。神の命に同化するのです。天国へ行くのではありません。天国へ行って昼寝をするというばかな話ではありません。

 生きている間に、心臓が動いている間に、自分の命が神の命と同じであることを認識することができる状態を、救いと言うのです。これができる人は死ななくなるのです。

 命の本質は生と死とは関係がないのです。天地に生きている命は、宇宙の命そのものですから、生まれる前の命が現実に生きている命になっているのです。

 例えば、性という問題は生まれる前の命です。生まれる前には性があったのです。創世記二章、三章がセックスの原理になっています。

 この原理が肉体を持っている皆様に、全く曲解されてしまっているのです。全く誤解されてしまっているのです。

 今皆様がしているセックスは、人間が考えたセックスであって、本当の命のセックスではありません。人間が考えるセックスを正当であると考えることは、罪を犯しているのです。

 皆様の命は神の命と同じです。これを弁えることです。自分が生きている状態が、神が生きているのと同じであることをそのまま認識したら、皆様の考え方が根本から変わってくるでしょう。

 神と同じ状態で生きているということが分かってくれば、セックスが分かってくるのです。

 肉は人間の業(ごう)です。霊が人間の本質です。霊に従って歩むことができさえすれば、人間の迷いは消えてしまうのです。

 そうすると、現世で悟った状態がそのまま永遠に通用するのです。これをとこしえの命、永生というのです。

 皆様が現世に生きている間に、自分の心のあり方を明々白々にしてしまうのです。そうして、人間の霊魂とはどういうものか、肉体というものはどういうものかを、はっきり認識するようになりますと、永遠の命の実質を現世に生きている間に捉えることができるのです。

 現世において命の実体を正しく認識して生きた人が、ナザレのイエスです。現世において神を生きるということ、人間の命の本質は神の命の本質だと考えて生活したのがイエスです。イエスは神と一緒に生きていたのです。こんな人はめったにいません。

 普通の人間が神と一緒に生きるのはなかなか難しいのです。だから、イエスを信じて彼の功績によって何とか認めてもらうしかないのです。私たちの実力はイエスほどではないのです。イエスの実力によって同様に見てもらうしかないのです。

 皆様が生きている命が神そのものです。皆様の目が見えること、耳が聞こえることが神そのものです。ところが、人間は目が見えることが神そのものだとは思えないのです。自分が生きていると思っているからです。ここがイエスと人間の違いです。そこで、イエスを信じることが必要になってくるのです。

 イエスのように完全に神と一つになっていた人は他にはいないのです。

 お釈迦さんもだめです。神を信じていなかったからです。肉体を持っている人間は、完全な生活を実行するということができません。今日以後に実行できたとしても、今日までの間違いがあるのです。これをどうすることもできないのです。

 従って、人間の過去、現在、未来の三つの問題を神の前に完全にするためには、ナザレのイエスの命を勉強するしかないのです。

 イエスは弟子たちに、「エルサレムを離れずして、イスラエル、ユダヤ全土、サマリアまで福音を述べ伝えよ」と言っています(使徒行伝1・4~8)。日本にまでとか、イギリスまでとか言っていません。これは重大なことです。これがキリスト教では分からないのです。

 エルサレムを離れずして、イスラエル全土、サマリアに福音を述べ伝えよと言っている。私は日本に福音を伝えることが目的ではありません。使徒行伝の一章に同調したらいいのです。聖書に同調したらいいのです。

 イスラエル及びユダヤ全土が救われればいいのです。そうしたら、神の国が全世界に実現するのです。

 エルサレムを離れずしてと言っているのはなぜかと言いますと、エルサレムは神の都であって、エルサレムのことを忘れるようでは、本当の聖書の真実は分からなのです。

 世界中のキリスト教で、エルサレムのことを忘れないで本当のキリストを説いている人間はいません。私たちしかいないのです。

 私はエルサレムを離れないで、イスラエルとユダヤ全土のユダヤ人に福音を伝えることを目的にしているのです。ユダヤ人さえ目を覚ませば、全世界に神の国が実現するのです。私はこのことを確信しているのです。使徒行伝の初めに、このような確信が神の方から出されているからです。この神の確信を私は実行しているのです。

 エルサレムを離れずと言っているのは、エルサレムにユダヤ人の中心が置いてあることを考えて、まず第一にエルサレムにいる人々が救われなければならないのです。ユダヤ人が神の国を信じなければならないのです。アメリカ人とかイギリス人やフランス人、ドイツ人は問題ではないのです。

 本当に神の国が実現するためには、ユダヤ人に福音を伝えなければならないのです。このことが全世界のキリスト教の人々に分かっていないのです。だから、私はキリスト教はだめだと言っているのです。

 エルサレムという神の都を頭に置いて、イスラエルを中心にして聖書を見なければ、本当の福音を説けるものではないのです。イエスはこれを強調しているのです。

 エルサレムというのはイスラエルの首都であるだけではなくて、全世界の人間の霊魂の首都です。肉体人間の首都は世界にそれぞれありますが、霊魂の首都はエルサレムです。

 エルサレムを離れずしてというのは、ユダヤ人問題の中心にがっちり立って、ユダヤ人問題という考え方を踏まえて、聖書を見ていきなさいという意味です。

 ユダヤ人問題を踏まえて、エルサレムを離れずして神の約束の本家であるエルサレムをはっきり踏まえた状態において、神の約束を正しく踏まえるのです。これをしっかり踏まえて、宗教ではない聖書を正しく伝えることが神の目的なのです。

 そこでエルサレムを離れずしてと言っているのです。

 皆様は人間的に考えますとユダヤ人ではありません。ユダヤ人問題は人種の問題であるとも言えますけれど、実は血液の問題なのです。これが分からないのです。

 日本人にはユダヤ的な血液が入り込んでいるようです。日本の中心にユダヤ人の血液が非常に濃厚に入り込んでいるのです。

 エルサレムを離れずしてという言葉と、日本の関係はどうなるのかということです。エルサレムは千年王国の都になるのです。全世界の中心になるのです。

 全世界に神の国が実現する時に、世界平和が実現する時に、エルサレムは世界の首都になるのです。これを踏まえて聖書を勉強しない者は、キリスト教になってしまうのです。

 神の国が実現する直前には、キリスト教は全部潰れてしまいます。エルサレムを離れないで、ユダヤ人を離れないで説かれる福音が、神の約束に基づく本当の福音です。これが世界でただ一つの神の福音です。

 皆様はユダヤ人ではありませんが、ユダヤ人のような人です。私の話に興味が持てるというのは、霊魂の本質が神の民であるということを証明しているのです。

 この意味で、エルサレムを離れずしてと言うのは、皆様に福音をお話ししていることと、同じ意味になると考えてもいいのではないかと思うのです。

 神の問題、永遠の生命の問題をこのように勉強しようとお考えになるのは、皆様は人間ではなくて霊魂なのです。これは神が皆様のことをエルサレムというような形で見ておられることになるのです。だから皆様も霊魂を考えて頂きたいのです。

 皆様が生きておいでになる状態を冷静に見て頂ければ、魂になるのです。人間が肉体的に生きている状態を客観的に見れば、魂になるのです。

 私がお話ししているのはキリスト教ではありません。神の言葉に基づいて、神の経綸に基づいて、本当のキリストの命を説いているのですから、そのようにご承知頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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