top of page
検索

土から出た人間と天から出た人間

パウロは次のように言っています。

「しかしある人は言うだろう。『どんなふうにして死人は甦るのか。どんな体をして来るのか』。愚かな人である、あなたの蒔くものは死ななければ生かされないのではないか。

死人の復活もまた同様である。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに甦り、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに甦り、弱いもので蒔かれ、強いものに甦り、肉のかたちで蒔かれ、霊の体に甦るのである。肉の体があるのだから、霊の体もあるわけである。

聖書に『最初の人アダムは生きたものになった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。

最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。しかし、最後のアダムは命を与える霊となった。

 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。

 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち、私たちは土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるのであろう」(コリント人への第一の手紙15・35、36、42~49)。

 これは福音が完成される本質、人間が救われることの中心点を指摘しているのです。「もしイエスの甦りがなかったら、聖書を信じている人間は最もみじめな人間だ」とパウロは言っています。コリント前書十五章で取り上げている復活の問題、いやはての敵は死であり、死が勝に呑まれているということが、異邦人の感覚ではなかなか分からないのです。

 異邦人というものは、現在生きているのが人間だと思っているのです。そう思い込んでいるのです。現在生きているのは、何のためか知らないのです。何のために生きているのかを知らないくせに、現在生きている人間が人間だ、また、自分だと頑固に思い込んでいるのです。これを迷いと言うのです。

 この迷いから解脱することを、仏教の禅では強調するのですが、解脱するとはどういうことかが、仏教自身が分からないのです。迷いから解脱したらどうなるのか。いわゆる空や無を感じることによって、現象的感覚には捉われなくなった時に、人間はどのような状態になるかということが分からないのです。

 人間は空であると考える。空であるがその人はやはり生きているのです。これを歌った歌があります。「悟りつつ身はなきものと思えども、冬の降る日は寒くもあるかな」となるのです。身はなきものという悟りを開いた人でも、その人がどんな心理状態になるかと言いますと、やはり柳は緑、花は紅となるのです。

 悟る前にも柳は緑で、花は紅であった。悟った後もそうである。どこが違うのかと聞きますと、悟った点が違うと言うでしょう。それでは悟る前の緑と、悟った後の緑とはどう違うのかと言うと、分からないと言うのです。悟った人の解脱のあり方によるのだと言うのです。

 結局禅の悟りは単なる主観的な妄念であることになってしまうのです。これがいわゆる野狐禅です。自分で悟ったことになるのです。禅の無門関四十八則とか、碧厳録を読んでみますと、こういうことがくどくどと、色々な例話が並べてあるのです。結論があるようなないようなことになっているのです。山の彼方にあるものが、なかなか分からないのです。ただ悟ったらいいと言うのです。

 ただ悟ったらいいと言うのなら、Aと悟ろうが、Bと悟ろうがそれぞれ本人の悟りようであるのだから、どれが良いどれが悪いと言うべきものではないということになってしまうのです。これが禅の悪さです。達磨の時代には、そんなでたらめなものではなかったのです。今ではやたらに印可証明が乱発されて、おかしくなっているのです。

 聖書の場合には、イエス・キリストの信仰があるのです。イエス・キリストの信仰に一致しなければ、どんなに分かったと言っても、分かったのでも悟ったのでもないのです。イエス・キリストの信仰に一致するかしないか、神の意志の上に、自分の意志を置くかどうかが問題です。それによって検定するのです。

 ところで、現在生きている人間が救われるというのは、どうなることか。三十五節にあったように、どんなふうにして死人が甦るのか。どんな体をして来るのかという質問をする者がいるということを、パウロが皮肉っているのです。

 どんなふうにして甦るのか、どんな体をしているのかという、こんな高級な質問を異邦人はしないのです。異邦人は甦りとか、新しい体で人間が現われるということを、初めから知らないのです。復活の時があることを、日本人は全然知らないのです。甦りということが何のことか分からないのです。

 現在目に見える地球はやがて消えてしまいます。火で焼かれてしまうのです。地球にある水が、太陽系以外の星に移動してしまうのです。今現在の地球には水がありすぎるのです。南極と北極には大氷山があり、水が固まっています。この大氷山が全部融けてしまいますと、海水が相当上昇するでしょう。沈没する国も多く出るでしょう。

 南極と北極の水は地球にとって多すぎる水です。この水がどこから来たのかということです。多分火星や金星には相当多くの水があったでしょう。その形跡があるのです。川があったような形跡が残っているのです。今は水がありません。その水はどこに行ったのかという疑問が生じるのです。

 この疑問は幼児のような疑問ですが、とても重要な質問になるのです。大人の質問より幼児の質問の方が、もっと高級で次元が高いのです。ある幼児がお母さんに聞きました。「指はどうして動くの」「砂糖はどうして甘いの」。この質問に大人は答えられないのです。「砂糖はなぜ甘いの」「塩はなぜ辛いの」。これは次元の高い質問です。この質問を学者はすべきです。

 人間はなぜ生まれてきたのか。生まれたいと思わないのになぜ生まれてきたのか。こういう質問ができるようになると、だんだんイエスが分かってくるのです。どんなふうにして死人が甦るのか、どんな体をして来るのか。復活の時が来ると、人間はどんな体になるのか。

 異邦人は復活の時が来るのを全然知らないのです。天国へ行きたいと言いますが、死んでから天国へ行って何をするのか。天国へ行ったら夫婦はどうなるのか。親子はどうなるのか。死後の世界はどうなるのか。地球の将来はどうなるのか。文明の将来はどうなるのか。日本人はこういうことを真剣に考えようとしないのです。

 人間は皆ユダヤ人の現代思想、唯物思想に引きずり回されているのです。ユダヤ人は唯物思想を本気で信じているのではないのです。

 ユダヤ人は神に捨てられたのです。イエスを十字架につけて殺したために、神に捨てられたのです。それなのに、現世の王になりたいために、異邦人のばかさかげんを利用して世界を振り回しているのです。

 今の人間は、どんなふうにして人間は救われるのかということを、問題にする人さえいません。パウロの時代には、人間はどんなふうにして救われるかということを問題にしたのです。こういう質問をする人間を、愚かな人間だとパウロは言ったのです。そうすると、パウロの福音観はどんなものであったのかということです。

 「どんなふうにして救われるもない。あなたの蒔くものは、死ななければ生かされないではないか」とパウロは答えているのです。現在人間が毎日生きていますが、自分自身の生活を蒔いていることになるのです。人間が生きているということは、種を蒔いていることになるのです。

 良いことをすれば良い種を蒔いている。悪いことをすれば悪い種を蒔いている。肉の思いで生きていれば、肉の種を蒔いているのです。霊の思いで生きていれば霊の種を蒔いているのです。人間が生きているのは、毎日蒔いているのですが、蒔いたものが死んでしまわなければ、新に生まれることはないのではないかと言っているのです。

 現在生きている自分が生きているままの状態で、どんなふうにして救われるのかということを考えることが、間違っているのです。

 人間は死んだらどうなるのか。これは人間が一番聞きたい質問ですが、これを今生きている人間に答えてもだめです。パウロも同じことを言っているのです。「おまえが蒔く所のものは、死ななければ生きないのではないか」。

 現在生きている自分を無視するような気持ちになったら、初めて救いが分かってくるのです。ところが、皆様は自分が生きているままの状態で死んだらどうなるかを聞きたいと思うのです。これが間違っているのです。これは愚かな人がすることです。

 まず人間は自分が死ぬに決まっていることを、はっきり確認すべきです。その上でこの死から逃れるためには、どうすべきなのかを考えるのです。このままいれば自分は死ぬに決まっているのです。死ぬのが嫌だと思うのなら、どうしたら死から逃れることができるのかということを、真剣に考えるべきです。そうすると答えが与えられるのです。

 これに対してパウロは、「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに甦る」と書いています。現在人間は死ぬべき肉体で生きている。これは種を蒔いていることになるのです。朽ちる人間の肉体の状態で種を蒔いているのですが、これが朽ちないものに甦るのです。甦るということは完成するという意味です。

 未完成の人間が生きている生き方を基準にして、どのように完成するのか。肉体的に生きている未完成の人間が、どのように完成されるのであるか。朽ちるものと朽ちないものとがあります。土に属するものと天に属するものとがあるのです。まず、土に属するもので蒔かれて天に属するものに甦るのです。天に属するものとして完成する。これが人間の命運です。

 土から出た体、現在の肉体で生きているのは未完成の状態であって、こんなものは人間と言える価値があるものではない。ある哲学者は、「人間は人間になるための過程である」と言っています。人間になるということは、人間を完成するという意味です。

 現在の世界は土に属する世界です。地球の上で生物が生息していることは、宇宙的な角度から見ますと、ほんのごくわずかの瞬間的な存在であるにすぎないのです。こんなものが永続的に存在すると考える思想が、虚偽の思想です。虚偽の思想ということは悪魔の思想ということです。

 このことを異邦人である皆様はよく考えて頂きたいのです。現象世界に人間の霊魂が出てくるはずがないのです。魂は本来神に属するものです。これが土に属する形で出てくることは、本来あるべきはずがないことです。

 あるべきはずがないことが、六千年の間現われているのです。六千年というのは人間の文化が始まってからの時間帯を言うのですが、人間が文化性を持つようになる以前においても、人類はいたのではないかという理屈はありますが、理性を持った人間が出現したのは、六千年前のことです。ここから文化が始まったのですが、それ以前の人間は理性を持たない人類で、ホモ・ファーベルと言われる存在です。

 人間は本質的に原罪動物です。無明煩悩の虜になっているのです。死ぬべき人間は無明煩悩の原罪動物です。何を考えても罪の意識から芽生えた考えであるに決まっているのです。

 罪の思想、原罪動物であるということをよく考えて頂きたいのです。どんなに善を考えても、どんなに神を考えても、信仰と言ってもすべて人間の原罪から湧いて出たものであって、それが真理であるはずがないのです。

 原罪の人間は、全部死んでしまわなければならないのです。イエスは十字架で死んでしまった。イエスの十字架を信じることは、自分が死んでしまうことになるのです。土に属するもの、朽ちるような状態で生きている自分を蒔いてしまうのです。

 朽ちるものに蒔かれ、朽ちないものに甦るというように、土につけるものが蒔かれてしまう。蒔かれたものが死んでしまう。一粒の麦が蒔かれて、その種が死んでしまいますと、麦の芽が出ます。そのように皆様は一粒の麦になって蒔いてしまうのです。自分自身を現世に蒔いてしまうのです。死ぬのを待っていないで自分から死んでしまうのです。

 死ぬのを待っていますと本当に死ぬのです。死ぬのを待っていないで、自分から死んでしまいますと、生きるのです。この手段以外に死から逃れる方法はありません。自分から死んでしまうと生きるのです。まず死んでしまえば小心翼々という気持ちがなくなってしまいます。単純率直な人間になることができるのです。言いたいことをずばりと人に言えるようになります。これがへりくだりです。

 聖書が言うへりくだりというのは、自分が死んでしまうことを意味するのです。人に頭を下げるとか、丁寧にものを言うのではありません。死んでしまうという気持ちを持たないで、ただ丁寧に言うとか、頭を下げるというのは偽善者です。心にもないことをしているからです。自分を偽らないことが一番いいのです。これが信仰の秘訣です。

 朽ちるものと朽ちないものとがあります。土に属するものと、天に属するものとがあるのです。土に属するもので蒔かれて、天に属するものに甦るのです。天に属するものとして完成するのです。

 土につける状態で自分自身を蒔くのです。蒔くというのは毎日自分を捨てるという意味です。種を蒔くように自分を捨てるのです。自分の運命を蒔いてしまうのです。自分の運命を自分で握らず、捨ててしまうのです。そうすると、神からの運命が与えられるのです。自分の運命を抱いている間は、神から永遠の生命という一番上等の運命を与えられないのです。キリストという本当の命が与えられないのです。

 自分を蒔くのです。自分の命を蒔くのです。種粒のように蒔くのです。そうすると、必ず上からの命が与えられるのです。自分の命を蒔き惜しんでいると、命が与えられません。現在持っている命を、惜しまずに蒔き続けるのです。自分を捨て続けるのです。そうすると、上から神の命が与えられるのです。必ず与えられるのです。

 自分の命を蒔き続けても、心臓が動いているという事実はなくなりません。そうすると心臓が動いているのが何であるのかを、上から知らせてくれるのです。皆様は神に生かされているのですから、神に生きるという気持ちを持つのは当たり前です。自分に生きるという気持ちを持つのが間違っているのです。

 このように述べている私自身も、自分に生きている感覚はないとは言えないのです。七十年もこの世に生きてきましたから、その感覚は完全に消えるようなものではないのです。とにかく自分が生きていることが嘘だと言い続けていますと、だんだん嘘だと思えてくるようになります。

 毎日自分の命を蒔くのです。これが修養です。自分の自尊心を毎日捨てるのです。自分の幸いを毎日捨てるのです。面子を捨てるのです。自尊心を捨てるのです。自分が得になるようなことを捨てるのです。むしろ、自分が損であると思うことをするのです。そうすると、神がその人を助けるようになるのです。本当の命が分かるようになってくるのです。これを日々十字架を負うと言うのです。

 土につける人間と、天につける人間と二人の人間がいるのです。第一の人は土に属する者であり、第二の人は天から出た人間です。土から出た人間と、天から出た人間とは全然違うのです。

 土から出た人間が天から出た人間になるのとは違うのです。土から出た人間は死んでしまうのです。蒔かれてしまうのです。一粒の麦の種のように死んでしまうのです。そうすると、それから新しい芽が出るのです。新しい芽は蒔いた麦とは全然違う麦です。変身でも変貌でもない、全然別の人間です。

 存在ということにおいては一つですが、あり方は別です。存在とは何かと言いますと、「である」ことです。「である」ことが、「がある」になっているのです。自分が自分であることには変わりません。しかし、主観的な状態と客観的なあり方は、全然違ったものになってしまうのです。

 肉体的に生きていたものが、霊的に生きるようになるというのではないのです。土に属するものと、天に属するものとは全く別なのです。はっきり別です。

 土に属する自分に未練を持ってはいけないのです。昨日の自分に未練を残してはいけないのです。今日の自分だけを見て生きるのです。幸福になろうとか、いい家庭を持とうとかを考えないのです。マイホームという考えが、現代の文明の中で一番下等な考えです。この考えを捨ててしまうと、人間はいくらかましになるのです。マイホームを握っていたら絶対に救われないのです。

 捨てがたきものを捨てるのです。一番肉的にかわいがっているものを捨てるのです。これは人によってそれぞれ違いますが、一番大事にしているものを捨てるのです。

 神は一人子を十字架につけたのです。神が一番大事にしておいでになった一人子を十字架につけたのです。私たちもまた、一番大事なものを捨てるべきです。自分自身の一人子となるものを捨てるべきです。

 土に属する人間と、天に属する人間とは全く別のものですから、この別のものになるためには、一方を捨てなければ、天に属するものになりきってしまうことはできないのです。

 福音は絶対です。非常に厳しいものでありますけれど、やる気さえあればなんでもないのです。捨てよという言葉を使いますと、大変辛そうに聞こえるのです。一番大事なものを捨てよと言われると、とても辛そうに聞こえますが、実は捨てた瞬間に、捨てて良かったと思うのです。

 実は捨てることこそ本当の喜びです。自分を捨てることが喜びです。未だかつて経験しなかった楽しさ、嬉しさを感じるに決まっているのです。

 まず自分の面子を捨てるのです。そうすると面子を持っていた時よりも、ずっとすがすがしい気持ちになるのです。捨てたらすぐに喜びが神から与えられますから、そのことを信じて、土に属する人間を捨てて、天に属する人間になって頂きたいのです。土に属する人間を捨てて、天に属する人間になるということができれば、これは人間だけではなく、地球もそのようになるのです。

 人間存在というものは、地球存在の代表です。人間存在が天につけるものになるということは、やがて地球存在そのものが、天につけるものになるのです。地球に新天新地がやってくるのです。皆様は選ばれて地球の先端を進んでいるのです。

 皆様が神の子たちの栄光の自由を獲得すると、皆様は肉体に縛られない人間になるのです。肉体に縛られない人間になることが携挙(けいきょ)です。やがて教会が携挙されますと、地球そのものが携挙されるのです。地球が新天新地に変化する。その時、皆様は万物を救うことになるのです。

 皆様は自分自身の運命を新しくするだけでなくて、地球の運命を新しくする恐るべき力を持っているのです。天地万物を救う恐るべき力を、神は皆様に与えておいでになるのです。人間の魂はそれほどの値打ちを持つものです。

 そこで皆様は、自分一人のことだと考えないで、天地万物を救うためにも、何としても自分自身を土につけるものから天につけるものに、運命を根本的に変更しなければならないのです。そうすれば、地球が新しくなるのです。万物が救われるのです。

 これについてはパウロは次のように述べています。

 「私は思う。今のこの時の苦しみはやがて私たちに現わされようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は実に切なる思いで、神の子たちの出現を待ち望んでいる。

 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのである。かつ、被造物自身にも滅びの縄目から解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。

 実に被造物全体が今に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている。それだけでなく御霊の最初の実を持っている私たち自身も、心の内でうめきながら、子たる自分を授けられること、すなわち、体の贖われることを待ち望んでいる」(ローマ人への手紙8・18~23)。

 地球と人間は一つのものです。人間が完成されたら地球が完成されるのですから、このことをよくご承知頂きたいのです。

 人間の本当の本質がどれほどすばらしいものであるかを、よくお考え頂きたいのです。土に属する人間はただ一人の人間です。死んでしまえばそれまでです。土に属する人間はただ一人のホモ・サピエンスにすぎないが、天に属する人間は驚くべき神の御子です。この生ける神の子であるという自信を持って頂きたい。

 自分を捨てれば必ずそうなるのですから、このような崇高な自分、宗教で言う神々よりもっとすばらしい自分を見つけて頂きたいのです。

 日本人が神社に祭っている神よりも、皆様の本体の方がはるかに崇高です。ですから、ぜひ天に属するものになって頂きたい。

 そうすれば地球それ自体が新しくなるのです。その責任が皆様にあるということを、お考え頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:3回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

天然が自然になって現われています。天然は霊です。それが自然という形になっている。景色の本質は霊です。聖書はこれを神の国と言っています。 天然の本質が自然になって現われている。この状態を神の国と言います。人間の命がそうなっていますから、そのように生きればいいのです。無形の天然が有形の自然になっている。これがイエスがいう神の国です。 イエスは神の国を見せるために生活したのです。それは難しいことではない

人間はなぜ死んだのか

現在の日本の社会では、本当の女性を教えてくれる人はいません。本当の女を自覚している女性も珍しいのです。 聖書にある女性と現世の女性とは違います。聖書にある女性は、「これこそ、ついに私の骨の骨」と言われている女性です(創世記2・23)。これが現在では肉の肉になってしまっているのです。 肉の肉の女性は性欲の対象にはなりますが、恋愛の対象にはならないのです。本当の意味で恋愛ができる女性は、女性自身が女で

肉の思いは死である

新約聖書のローマ人への手紙に、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安とである」という言葉があります(8・5、6)。まずここから始めて頂きたいのです。 肉(人間の思い)に従いながら、聖書を学んでいてもだめです。現世に生きている肉体人間を自分であると考えながら、固有名詞の自分を信じ、宗教を信じている状態で聖書を勉強してもだめです。キ

bottom of page