top of page
検索
  • miwa

悪魔を騙すために造られた現象世界

肉体は自分のものではありません。これを自分のものと思うことが罪です。体も命も全部神のものです。

この世に生きていることをやめなければいけない。この世に生きていたら必ず死にます。これをよく考えなければいけないのです。

命には必ず死ぬ命と、絶対に死なない命と二種類あります。肉体的にこの世に生きていると思っている人は、必ず死にます。必ず地獄に行きます。絶対に裁かれます。

自分の命はありません。命は神のものであるに決まっています。神の御霊によって光を与えられていながら、その光の恵みを神の命として受け取っていない者は、皆悪魔に味方をしていることになります。悪魔は神の知恵をどんどんもらっていながら、これを自分なりに利用しました。これが悪魔のやり方です。闇の世界では何も見えませんが、光の世界で見ると立体的に見えるのです。同じ景色でも、光と闇とでは全然違って見えるのです。これが分かる人間は何者かです。

 人間の実体は魂です。魂ですから、光と闇の区別が分かるのです。それを人間の感覚で見ている。世間の感覚で見ていると思っているからいけないのです。見ているのは神の国ですが、受け取っている感覚が人間的だからいけないのです。これは恐ろしいことです。

 新約時代の今日では、固有名詞の自分は全く消えてしまっていますし、今生きているのは御霊という宇宙のエネルギーによるのです。

 男性のハートより、女性のハートの方が上等です。霊的には女性の方が神に近いのです。男性の方が遠いのです。男性は頭で物事を考えます。ハートで直感するのは苦手です。

 神はアダムの手本になるためにエバを与えたのです。アダムがどうしても神を直感できなかった。そこでアダムのあばら骨を引き抜いてエバを造ったのです。あばら骨は人間のハートであって、人間のハートの一番すばらしいところが、女性になっているのです。

 霊的には男性より女性の方が上等です。男性は現世で商売をするのに向いています。女性は天国向きにできているのです。男性はもっと女性を崇めなければいけないのです。アダムがエバを見てびっくりしたように、女性の直感力を見習うべきです。男性の考え方は知識、常識的です。これは肉です。女性の直感は霊です。潜在意識にずっと近いのです。ですから、女性の直感性に見習わなければいけないのです。

 男性は女性を押さえつけて、自分のわがままを通そうとしないで、女性の素直さを学んで、自分の欠点をなくすようにして頂きたいのです。女性の値打ちを本当に知ると、奥さんは夫を本当に尊敬するでしょう。尊敬される夫になるのです。そうなろうと思えば、もっと女性をじっくり勉強しなければいけません。女性の良さが分からない男性を、女性は尊敬しないのです。

 パウロは次のように述べています。

 「あなたがたは代価を払って買い取られたのだから、自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」(コリント人への第一の手紙6・20)。

 聖書は「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受け取られなくなった」と言っています(ローマ人への手紙3・23)。自分を絶対とする自我意識と、目に見える現象世界が実在すると考える現象意識を持ったことが、罪を犯したことになるのです。その結果、人間は皆死んでいるのです。

 ところが、イエス・キリストが十字架につけられたことによって、すべての人にある自我意識と現象意識を否定してしまった。絶対に死ななければならないという人間の運命を完全に否定した。死を滅ぼしたのです。これが代価を払って買い取ったことになのです。

 新約時代の現在では、死ぬべき人間は一人もいないのです。皆、御霊によって生かされている。御霊とは、森羅万象を生かしている驚くべき大自然のエネルギーですから、これによって生かされている人間は、死ぬはずがない状態におかれているのです。

 神の御霊を崇めて、景色を見るのです。そうすると景色がすばらしく見えるのです。聖書に御霊を受けるという言葉がありますが、聖書の言葉が自分の命になることを言うのです。そうすると死ぬべき人間から、絶対に死なない、永遠の命によって生まれることができるのです。

 御霊を崇めるというのは、受けた御言葉を崇めることです。これが命だからです。この御言葉を崇めたら、景色のすばらしさの意味が分かるのです。

 景色は神の国です。景色を見て感動しているのは、神の国に感動しているのです。これを霊的に受け取ったらいいのです。そうしないと、景色を見たことによって、却って神に滅ぼされることになります。感覚を霊に変えるのです。感覚を信仰的に受け取るのです。そうすると、神の国に入れるのです。

 女性は霊的に見ないと分かりません。肉的に見ていたら分からないのです。人間は聖書の話を哲学的観念で聞いてしまうのです。それを自分の命として聞いていないのです。神の言葉は命であって、命の言葉として聞かなければ聖書の勉強をする必要はないのです。

 景色を見て喜んでいるのは、人間が喜んでいるのではないのです。神が魚の刺身を与えたり、おいしい果物を与えているのは、人間の肉を喜ばせているのではありません。神は人間の肉におべっかする必要はありません。第一、神が人間を救う必要は全くないのです。人間が勝手に肉の人間になっているのです。

 神が景色を見せたり、おいしいものを食べさせているのはなぜか。これには大きな意味があるのです。あるに決まっているのです。

 女性を肉の人間として愛さずに、命の糧として見るのです。

 アダムがエバを見た第一声に、「これこそ、ついに私の骨の骨、私の肉の肉、男から取ったものだから、これを女と名付けよう」と言いました(創世記2・23)。女性は肉のためにあるのではない。肉のためにでもあるのですが、実は霊のためにもあるのです。

 神が女性を与えたのは、骨の骨としての見方を教えるためです。肉の肉としても与えているが、本当は骨の骨だけでいいのです。女性を何回でも抱きたくなるのはなぜか。その本当の意味を知らずに抱いているのは、たとえ夫婦でも姦淫になるのです。神はただで女性を抱かせているのではありません。神は非常に勘定高い人ですから、ただでくれることはないのです。神は無駄なことはしません。ただで男性に女性を抱かせるはずがありません。また、女性もただで抱かれてはいけないのです。抱く値打ちのある男性に抱かれなければいけない。

 これが分からない男性も女性も皆、姦淫をしているのです。女性は活造りの刺身よりもはるかに上等のものです。最高の料理よりももっとすばらしいのです。景色よりはるかに上等のものです。森羅万象を造ってアダムに見せたが、それを全然理解しなかった。最後に一番分かりやすい形で、神の最高の栄光を女性として現わしたのです。女性は森羅万象の中で最高のものです。

 景色を見ている時の気持ちをじっと見るのです。その時の気持ちを深く深く見ていくと分かるのです。女性を見ているのと同じ気持ちで景色を見るのです。富士山を見るのです。また、富士山を見ているのと同じように、女性が見えなかったらだめです。そこまでいかなかったら、霊が分かっているとは言えないのです。

 砂糖が甘いのも、塩が辛いのも、雨が降ることも、暑いことも寒いことも、すべて人間の霊魂に神の栄光を悟らせようとしているのです。

 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのだから、自分の体をもって、神の栄光を現わしなさい」とパウロは言っています。これはどうすることかと言いますと、自分が生きていることが、神の栄光を現在経験していることだということを、実感しなさいと言っているのです。

 神が人間を地上に送ったのはなぜか。肉体的にこの地上で生活してみなければ、神の栄光を知ることができないからです。それを知らせるために、人間を地上に送ったのです。

 刺身を食べさせるため、美しい景色を見せるため、女性を抱かせるためではないのです。そういうことを通して、神をどのように崇めるのか。神の命をどうして実感するのかを教えるためです。

 自分自身に生きないで、神に生きなければいけないのです。

 あなた方の体をもって、神の栄光を現わしなさいというのは、体がなければ神の栄光が具体的に分からないからです。体を通して神の栄光が具体的に経験できるのです。

 この三次元の世界では、神の栄光はすべて現象的に現われなければならないのです。神の栄光はすべて、現象的にしか現われないことになっているのです。なぜか。悪魔に見せるためです。悪魔が現象的に現わしてほしいと、強く主張したからです。

 それでは現在現われている森羅万象は、一体何か。隠れている神の栄光、この世が造られる前の神の栄光を、有形的に現わしているのです。

 有形的に現われているすべてのものは、全部神の栄光です。これを経験しなければ神の栄光が分からないので、肉なる人間にそれを経験させているのです。

 肉なる人間は罪の下に売られた人間です。罪の下に売られた人間というのは、悪魔の子である人間のことです。悪魔の子である人間に、霊の経験をさせるために肉体を与えたのです。肉の経験をするために肉体があるのではなく、霊の経験をさせるために肉体があるのです。

 目に見える現象(肉)があるのではなく、目に見えないもの、現われていないもの、非現象(霊)を示すために現象(肉)があるのです。女性がいる、景色、果物、牛肉があると思っているからいけないのです。見えないはずのものが、見える形になって現われているのです。

 目に見えないものがある。それを見つけるために現世にいるのです。現象が実体であると思っていると、必ず地獄へ行くことになるのです。

 目に見えるものが存在していると思っている。この感覚は肉(悪魔の思い)です。この感覚を捨てなければ絶対に救われません。地獄へ行くに決まっています。

 御霊を受けていたら目の前にあるものが、目で見ている現象とは思えるはずがないのです。御霊を崇めるというのは、霊において見るということです。それをしていないから、神が皆様に森羅万象を見せている意味が全然分からないのです。大体、肉体的に生きている人間は、死ぬに決まっています。死ぬに決まっているものを神が造るでしょうか。

 神は全知全能です。霊なるものです。霊なる神が肉の人間を造るでしょうか。そんなばかなことをするはずがないのです。

 そうすると、肉の人間はいないはずです。十字架があろうがなかろうが、肉の人間は初めからいないのです。いるように思えるだけなのです。肉の思いで見れば、肉の人間がいるように思えます。それは悪魔を騙すためです。悪魔をいっぱい引っかけるために、神がそういうことをしているのです。

 悪魔には肉の思いしかありません。肉の思いしかない悪魔を満足させるために、肉の人間がいるように見せかけたのです。

 ヘビは肉の人間がいると思ったから誘惑した。そこで悪魔の言葉がエバの中に入った。入ってしまったので、善悪を知る木が好ましく思えたのです(創世記2・15~17、3・1~7)。

 善悪を知る木にはヘビが居着いていたのです。それが顔を出してエバに呼びかけたのです。ヘビの声は善悪を知る木から出ているのです。ヘビと善悪の木は一つになっていた。エバがヘビの声を聞いて善悪を知る木を見たところ、食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましく思えたのです。

 ヘビの言葉を聞いた途端に、へびの言葉がエバの中に入ってしまった。その時エバは、目で見ていることが実体だと思った。これが肉の思いです。

 ヘビの言葉がエバのハートに入ってしまった。エバが先に善悪に木の実を食べてしまったのです。その実を取って自分一人で食べただけなら良かったのですが、それをアダムに与えた。アダムもそれを食べたのです。

 エバがアダムに善悪を知る木の実を食べさせた。そこでエバがアダムの下に置かれたのです。

 本当はエバの方が上等です。あばら骨は頭よりも上等です。頭は現世で生きるための知恵です。考える機能です。生まれる前の命はハートでないと分かりません。

 女性が先に善悪を知る木を食べたので、女性は夫を慕わなければいけないことになった。本当は反対です。男性が女性に惚れて、男性が女性の下にならなければいけないのです。

 これが当たり前ですが、女性の方が先に禁断の木の実を食べて、男性に食べさせたのですから、罰として男性の方が上になったのです。それを今の女性は知らないのです。本当は女性が上であることを知らないのです。

 神は人間を自分より勝るものとして造ったのです。神ご自身は肉を持っていません。神でさえ持っていないものを人間に与えたのです。肉を与えたというのは、肉体人間を造ったことではありません。肉をマスターできる能力を霊で与えておいたのです。肉の上に立つことができるる能力を、人間の霊魂に与えておいて肉を与えたのです。神の言葉が肉になったというのは、そのことなのです(ヨハネによる福音書1・14)。

 皆様の本質は神の言葉ですから、肉よりも上です。肉より上の力を与えておいて肉体を与えた。そうするとどうなるか。肉より上の力を持っているから、神の言葉という霊の力によって、自分の肉をマスターすることができる。肉をマスターすることができると、悪魔を踏んづけることができるのです。悪魔を踏んづけたことになるのです。

 肉的に生きている人間は皆悪魔です。自分の気持ちで考えるから、思い煩いが起きる。自分の気持ちで考えるから、自分が不幸になるのです。

 信仰によって神を通して見れば、悩み、矛盾はすべてなくなります。病気があっても命に関係がないのです。命は霊なるものですから、霊なる命が分かれば、病気であってもかまわないのです。この世を去ってもかまわないのです。

 この世に生きていてはだめです。御霊を受けた者はこの世を去ってもいいのです。御霊を崇めていれば死ぬことは怖くない。死んでどこへ行くか分からないから、死が恐ろしいのです。

 御霊を受けた者は神の国に入れるのです。現世に生きていながら、神の国に入るのです。神の国に入っていないから、思い煩い悩みがあるのです。御霊を受けてから思い煩うことはあり得ない。御霊を受けたら、今生きている世界が神の国であることが分かるはずです。

 皆様が現在見ているものはことごとく神の栄光です。神の栄光として森羅万象があるのです。神の栄光というのはこの世ができる前のものです。この世ができる前には、死はなかったのです。死がなかった時代のことを神の栄光の世界と言うのです。

 この世には死があります。この世に現われているものは全部死んでしまうのです。現象世界は死の世界です。死ぬに決まっているものが現象として現われているのです。

 そこで現象世界を見て、これが本当だと思っている人は死の世界を見ているのです。肉体的に生きている自分がいると思っている人は必ず地獄へ行きます。絶対に行くのです。

 肉なる人間はいない。霊なる神が肉なる人間を造るはずがないのです。

 皆様は目に見えているものが肉だと思えるでしょう。家がある。道路がある。車があると思えるでしょう。実はそんなものはないのです。

 物質はすべて科学現象です。神の言葉の働きは科学の原理を意味しています。科学現象が実在のように見えるのです。実際には実在していないのです。あるように見えるだけのことを、本当のように信じている者は、神を信じないで肉を信じていることになります。悪魔を信じているのです。

 悪魔は人間と同じ気持ちで見ているのです。皆様は悪魔と同じ気持ちで見ているのです。これを死と言うのです。肉の思いは死であるとあります。これから抜け出さなければ、死んでから行く世界がどういう所か分からないのです。

 死んだらどんな世界へどのように入って行くのか。皆様は天に帰らなければならないのです。天も霊も同じものです。霊が肉になって現われている。現世はこの世ができる前の霊の世界が現われているのです。

 天があるから地がある。霊があるから肉がある。逆に言うと、肉があるから霊があるのです。地があることは天があることを示しているのです。

 神は皆様に見せるために美しい景色を造っているのです。見ても分からないものに神は見せるつもりはないのです。景色をすばらしい神の国として見たのは、私たちが初めてでしょう。

 景色ははっきり神の国です。神の国はこの世が造られる前の風景です。それが今、景色として現われている。ここまで見破らなければならない。ここまで見破ると、この世の人ではなくなるのです。

 美しい景色を見ていると、人間の霊魂が吸い込まれるような感じがするでしょう。なぜそういう感じがするかと言うと、人間の霊魂は自分が生まれる前の天を求めているからです。皆様の霊魂はそこにいたのです。天にいたものが今地上に現われている。ですから、皆様の霊魂はいつでも天に帰りたいと思っているのです。

 ところが、肉の自分が、この世があるとか、所帯があるとかを考えて、霊が天に帰ろうとするのを、肉の自分が押さえつけている。霊の国が目の前にありながら、現世のことに夢中になっている。そこで元の木阿弥になってしまうのです。

 霊の国が分かったら、そこへ入らなければいけない。これを御名を崇めると言うのです。新に生まれて神の国に入るのです。

 男性は女性を勉強しなければいけない。女性の直感は男性にないものです。これを勉強すると神の国に入る要領が分かるのです。

 肉は実在しない。ただ肉の思いがあるだけです。肉の思いがあるので、自分で肉の世界を造っているのです。肉体的な自分がいると思っている。そんなものはどこにもないのです。自分がいると思っているから自分があるのです。肉の思いが肉の形をとってしまうのです。自分の思いが自分の世界を造ってしまう。人間はそういう愚かなことをしているのです。

 信仰によりて歩むなら、霊の思いが生じて霊の世界を展開してくれるのです。肉の世界はありますが、肉の思いを叩いてしまうと消えてしまい、霊の国になってしまうのです。

 私たちが見ている世界は、実は霊なる国です。目で見えないはずの世界を見ているのです。これが神の栄光です。神の栄光を見ているのです。

 私たちが今生きているここに、神の国があるのです。死んでから天国へ入れると思ったら大間違いです。今生きているうちに入るのです。

 天にいます父の御心を行うものは、そこに入ると書いています。天国はどこにあるのか。天国は畑に隠れた宝のようなものである。天国は良き真珠を探している商人のようであるとあります。これが天国です。ここに入るのです。私たちは神の栄光を見ているのですから、これさえ分かればそこに入れるのです。

 花が咲いています。これは霊なることです。天なることです。花が咲いているという世界があります。その世界がなければ花は咲かないのです。花が咲いているのが見えます。その世界へ入ってしまうのです。天国はそこにあるのです。死んでから行く所とは違うのです。生きているうちに入れるのです。

 花が咲いているという天に父がいますから、そこに行くのです。父の前に行ったらいいのです。

 生きている世界に永遠の命があるのです。花が咲くというのは、御霊の働きに決まっています。御霊のいます所には生ける神がいるに決まっています。

 花が咲いているのが見える所というのは、生ける神の働きを見ているのです。見ていながらそこに入れないというのは、肉の思いが妨害しているからです。肉の思いを捨てさえすれば、誰でも神の国に入れるのです。

 皆様が生きているのは、天国の入り口に生きているのです。御霊を受けた人は、神の国に入らなければいけない。御霊を受けた者が天国へ入れないということはあり得ないのです。ただ宗教観念で、肉の自分を見ているからいけないのです。肉の自分が救われようと思っているからいけないのです。

 救われるのは誰か。御霊を受けたという魂が救われるのです。御霊を受けたから救われるのです。御霊を受けたという事がらが救われる。自分という人間が救われるのではないのです。

 自分は初めからいません。キリスト紀元には自分は一人もいないはずです。代価を払って買い取られたのだから自分はいないのです。買い取られたから自分は消えているのです。御霊を受けたという手付によって、買い取られている。これが十字架の本当の見方です。

 買い取られた人は、神の国に入れるに決まっています。自分の体で神の栄光を現わすというのは、神に生かされているということを、実感するということです。神に生かされているということが実感できるだけで、神に栄光を返すことは十分にできるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:3回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

天然が自然になって現われています。天然は霊です。それが自然という形になっている。景色の本質は霊です。聖書はこれを神の国と言っています。 天然の本質が自然になって現われている。この状態を神の国と言います。人間の命がそうなっていますから、そのように生きればいいのです。無形の天然が有形の自然になっている。これがイエスがいう神の国です。 イエスは神の国を見せるために生活したのです。それは難しいことではない

人間はなぜ死んだのか

現在の日本の社会では、本当の女性を教えてくれる人はいません。本当の女を自覚している女性も珍しいのです。 聖書にある女性と現世の女性とは違います。聖書にある女性は、「これこそ、ついに私の骨の骨」と言われている女性です(創世記2・23)。これが現在では肉の肉になってしまっているのです。 肉の肉の女性は性欲の対象にはなりますが、恋愛の対象にはならないのです。本当の意味で恋愛ができる女性は、女性自身が女で

肉の思いは死である

新約聖書のローマ人への手紙に、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安とである」という言葉があります(8・5、6)。まずここから始めて頂きたいのです。 肉(人間の思い)に従いながら、聖書を学んでいてもだめです。現世に生きている肉体人間を自分であると考えながら、固有名詞の自分を信じ、宗教を信じている状態で聖書を勉強してもだめです。キ

bottom of page