top of page
検索
  • miwa

本具の自性

宗教ではない般若心経という命題をご覧になったらお分かりになると思いますが、般若波羅蜜多というのは彼岸に渡る明智のことです。上智のことです。現世にいる人間の知恵ではないのです。

般若波羅蜜多ということが、皆様がこの世に生まれてきた目的です。この場合の皆様という言い方は、ユダヤ人以外の一般人を指しているのです。皆様はこの世に生まれてきたのですが、目的を持たずに生まれてきたのです。目的を持たずに生まれてきたのですから、何のために生きているのか分からないのです。

国は国、民族は民族のしきたりがあります。それぞれ教えということを言ってはいますけれど、民族の教えとかしきたりということが、人間のただの情報です。本質的に言いますと、人間の情報でしかないのです。

 しかも、この情報は死んでいった人間が造り上げた情報です。死んでいった人間によって考えられた概念です。この概念が情報になっているのです。

 仏教とか儒教とか神道とか、色々な宗教が日本にありますけれど、皆概念にすぎないのです。

 仏教の実体、実質は何であるのかと言いますと、実は分からないのです。般若波羅蜜多という言い方をしますと、実は仏教の実体を否認してしまっているようなことになるのです。

 般若波羅蜜多というのは、彼岸へ渡る知恵のことでありまして、この世の知恵ではないのです。波羅蜜多というのは現世のこととは違うのです。現世を後ろにして彼岸へ渡ることが般若という知恵、上智です。

 ところが、現世にいる人間が般若波羅蜜多を勉強しているのです。これは愚かなことです。現世に生きているままの人間が勉強していることが間違っているのです。

 もちろん、初めは現世にいる人間が勉強するのは当たり前です。現世にいる人間が彼岸へ渡ろうと考えて般若心経を勉強することは結構ですが、いくら勉強しても勉強しても、彼岸に渡らずに勉強している。三十年も五十年も勉強しても、彼岸に渡らずにしているのが現状です。だから般若波羅蜜多という言葉が全く分からないのです。

 人間は彼岸へ渡る知恵を神から与えられていながら、彼岸へ渡らずに現世で頑張っている。これはなかなか見事なものです。般若心経を勉強し始めてから、三十年も四十年もの間、現世で頑張っているというのは、なかなか見事なものです。これはかなり耐久力があると言わなければならないのです。そうして、写経したりして後生案楽になりたいと考えている。こういう愚かなことを日本人はしているのです。

 こういうことになる原因は何かと言いますと、人間と魂が別だということが全然分かっていないのです。現在の日本で人間と魂とをはっきり分けて説明ができる人は一人もいないでしょう。

 大体、大乗仏教には魂という考え方がないのです。一万七千六百巻という膨大な大乗経典の中に、魂という言葉が一字もないのです。これはおかしいことです。般若波羅蜜多と言いながら、彼岸へ誰が行くのかということが分からないのです。

 向こう岸へ行くのは誰かが分からないのです。分からないままで仏典を勉強しているのです。

 般若心経には観自在菩薩と最初から書いているのです。魂というのは観自在の原形になるのです。または観世音の原形になるのです。

 魂が正確に捉えられたら観自在になるのです。ところが、日本人の頭には、魂という言葉が正確に理解されていないのです。武士の魂とか、大和魂とか農民魂という言葉はありますが、こういう言葉で騙されているのです。

 結局、魂が分からないのです。魂が分からないので、観世音すること、観自在することの意味が分からないのです。

 人間は目で見ていると思っています。見ているのではなくて、光線が物に当たって反射して、目の網膜に映っているのです。この状態を魂と言うのです。字を書いている能力、生態の原理、五官の働きの実体が魂です。

 こういうことが分からないままで、いくら般若心経を読んでもだめです。分かるはずがないのです。ところが、日本の仏教では分かったようなことを言っているのです。日本の仏教のお坊さんで本当の空が分かっている人は一人もいません。もし本当に空が分かっていたら、伽藍仏教が成立するはずがないのです。仏教商売ができるはずがないのです。仏教という営業が成り立つはずがないのです。

 仏教という営業が成り立っていることが、魂が分かっていない、空が分かっていないことを証明しているのです。

 空というのは宗教ではありません。信心ということが空です。日本の仏教で考えている信心というのでは、観自在が成立しないのです。信じるということが五蘊です。日本の仏教が五蘊です。キリスト教も五蘊です。聖書も般若心経も、本気になって勉強していないのです。

 そこで、私たちがこういうことを言わなければならない余地ができてくるのです。余計なおせっかいと言われるかもしれませんが、こういうことを言わなければならないのです。

 皆様が生きているということが魂です。英語で言いますと、living soulになるのです。これが人間存在の質体になるのです。人間の実質の状態です。質体という言葉は使わないかもしれませんが、人間の実質、実体です。これが魂です。

 人間というのは市役所の戸籍謄本に登録されているものです。固有名詞、自我意識で生きているものです。やがて死んでいくに決まっているのが人間です。肉体という形態を持っているのです。魂は理性と良心という心理機能を持ち、五官を与えられた人間の実質です。この区別がつかなければ、般若波羅蜜多といくら言ってもだめなのです。

 人間は必ず死ぬに決まっているのです。必ず死ぬのです。人間はただの形態です。生あるものは必ず死ぬ。形があるものは必ず壊れるのです。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、ひとたび生を享け、滅せぬもののあるべきか」と幸若舞という曲舞「敦盛」の一節があります。

 皆様は夢幻の内に生きているのです。これを自分だと思っているために、皆様の精神状態はいつも夢幻の内にあるのです。

 世界の軍備縮小の話がまとまらないのも、選挙で血眼になって走り回るのも、無理がない話です。現在の人間の心理状態では、核兵器廃絶は絶対にできないのです。

 何らかの形で人間の意志を転換することができなければ、超大国間の相互不信は絶対に消えないのです。従って、軍縮とか核兵器廃絶という方がおかしいのです。

 そういうことを話し合うよりも、人間と魂とどちらが実体なのかを考えたらいいのです。人間という場に立っている間は、お互いに騙しあい、警戒しあいながら付き合っているのです。夫婦でも、兄弟でも、親子でもそうです。

 現世の人間は不信と不安がいっぱいの状態で生きているのです。実は肉体人間はいないのです。魂が実体です。魂が分からないから人間を自分だと思い込んでいるのです。

 魂は質体であって、その本質は命です。生きている事がらが魂です。その本質は命です。魂で生きている人の精神状態は平安です。安心です。

 長年般若心経と聖書を真剣に勉強している人でも、頭で分かっても、ハートの状態が本当に魂になり切っているかというと、なかなか難しいのです。

 こういうことは一回か二回分かってもだめです。毎日毎日新しく確認して、これを自分自身の魂に言い続ける必要があるのです。この世にいる間は、猛烈な戦いを継続していなければいけないのです。人間はいない、魂が実体だと言い続けなければならないのです。

 猛烈な戦いをしているなら平安はないと思われるかもしれませんが、平安があるから闘えるのです。平安がない人は闘えないのです。

 魂が本体だということが分かっているだけで、非常に大きい平安があるのです。私はこの平安を持ち続けるために、持って生まれた業(ごう)と毎日闘っているのです。

 この闘いは勝つに決まっている闘いです。だからどんなに戦いが激しくても、やる気になってできるのです。

 皆様の本質が魂だと言いましたが、皆様が生きている状態をよくよく見て頂きたいのです。生きているとはどういうことなのか。例えば、お茶を飲めばお茶の味が分かります。味が分かるというのはどいうことでしょうか。これが魂の働きです。皆様はお茶の味を誰かに教えられたことがあるのでしょうか。

 お茶の作り方は習われたでしょう。お湯を沸かしてそれを急須に入れて、そこへお茶の葉を入れるということは習われたでしょう。しかし、味というものについては習っていないのです。皆様が生まれた時に、既に味覚を持っていたのです。

 例えば、生まれたばかりの赤ん坊は、母親の乳首に吸い付いて吸うのです。おっぱいの味を知っているからおいしそうに飲むのです。哺乳瓶においしくない飲料を入れて与えても、すぐに吐き出してしまうのです。

 赤ん坊は母親のお乳をおいしそうに飲むのです。これはおっぱいの味を知っているから、おいしそうに飲むのです。赤ん坊はおっぱいの味を誰から教えられたのでしょうか。母親が教えた訳でもないのに、おっぱいの味を知っているのです。これを魂というのです。

 皆様の五官の本質が魂です。皆様が生きているということは、魂が生きているのです。人間が生きているのではないのです。食べるとか、見るとか、聞くとかいうのはどういうことか。例えば味というのは目に見えないことを信じているのです。不可視世界のことを信じているのです。

 味というのは不可視世界のものです。また、香りというものも同様です。皆様は目に見えない世界を経験しているのです。これを霊というのです。これが本当の霊です。霊媒の霊とは違います。心霊科学でいう霊は巫女の口寄せの霊であって、味や香りと全然違うのです。

 霊媒の霊、心霊科学の霊、新興宗教がいう霊は、人間の妄念が生み出した妄想です。今の日本では新興宗教がたくさん流行っています。守護の霊ということをしきりに言うのですけれど、これは皆安物の霊です。

 例え守護の霊があったとしても、命は分からないのです。守護の霊を二十知っていても、三十知っていても、皆様の命の実体は全然分からないのです。守護の霊を信じれば信じるほど、本当の霊が分からなくなるのです。彼岸へ渡れなくなるのです。

 彼岸へ渡れないように仕向けているのが、新興宗教です。

 不可視世界のことが本当の霊でありまして、これは新興宗教の霊とは違うのです。

 この霊が皆様の命の本質です。この命の本質に目が開かれることが必要です。これを観自在菩薩と言うのです。または観世音菩薩と言うのです。

 彼岸とはどういう所か。この世ではない向こう岸です。人間が生きている場所ではないのです。人間が生きていない所です。これが向こう岸です。

 人間が生きている状態にありながら、向こう岸へ渡ってしまうのです。今日彼岸へ渡っても、今日という日と、明日という日とは時が違いますから、今日彼岸へ渡ったら、明日もう一度渡る必要があるのです。明後日また渡る必要があるのです。この世に生きている間、毎日彼岸へ渡り続けていかなければいけないのです。

 命は毎日新しいのです。毎日新しい命を経験しているのですから、毎日新しい彼岸を経験するのでなかったらいけないのです。これを実行している人は、日本にはいませんし、世界にもいないのです。しかし、これはしなければならないことです。

 世界中で誰もする人がいなくても、私たちはそれをしなければならないのです。なぜかと言いますと、皆様がこの世に生まれたのは、彼岸を見つけて彼岸に入るためなのです。

 彼岸を見つけない状態、彼岸に入らない状態で、人間として生きていても何にもならないのです。

 皆様は四十年、五十年の間、この世に生きていたのですが、皆様の命の本質には何のメリットもなかったのです。ただ生きていただけなのです。ただこの世の常識を学んだだけなのです。何のプラスもなかったのです。

 今まで生きていた自分は、人間として生きていたのです。人間として生きていたのは、魂の上に乗っていただけです。魂の上に乗って、ふんぞり返っているのが人間です。これが後天性の人間です。

 後天性の人間というのは、常識と知識で生きているのです。常識、知識は人間の思いです。思いというのは迷いのことです。

 皆様は生きていると思っているでしょう。現世に生まれてきて、生きていると思っているのは、ただ思っているだけです。従って現世で生きていると思っていても、人間の思いは根本的に迷いそのものです。

 魂は思いではありません。魂が生きているというのは生きているという事がらです。これが霊です。これは誰に習わなくても、生まれた時から生きているのです。

 生まれてしばらくしますと、物心がつきます。物心とは何かというと偽りの人格です。物心がつくと人間はばかになるのです。迷い出すのです。迷い出した結果、矛盾の世界に生きるのです。こういうことをご理解頂きたいのです。

 皆様が現在生きているという気持ちを端的に申しましたので、これをまずご承知頂きたいのです。この状態で生きていながら、いくら般若心経を読んでも分かるはずがないのです。迷っている状態にあるのですから、本当のことが分かるはずがないのです。

 この状態では神を信じることは絶対にできません。キリスト教の神なら信じられますが、こんなものはキリスト教が造った神です。

 キリスト教の宗教主義が神を造っているのです。今の人間が信じられるように造っているのです。「天にまします我らの父よ」とキリスト教の人々は祈っていますけれど、天とは何かが分からないのです。ましますとはどうう状態なのか。我らの父とは何か。この一つ一つが分かっていないのに、天にまします我らの父よと祈っているのです。これは聖書をばかにしているのです。

 キリスト教も仏教も、現世の人間に分かるように嘘ばかりを造って信じさせているのです。これが宗教主義というものです。これを解脱して魂の方へ移行するのです。これはなかなかできないことですが、これが分かりますと、般若波羅蜜多の意味が分かってくるのです。

 人間は現世に生きていても何もならないのです。九十年生きようが、百年生きようが、何にもならないのです。何にもならないどころか、罪を造っているだけです。業(ごう)を積んでいるのです。嘘を言ったり、ごまかしたり、焼きもちを焼いたりしているのです。人を憎んだりしない日があるのでしょうか。この世ではこういうことをしなければ生きていけないのです。こういう世の中です。世の中の大人が悪いのです。

 デカルトは精神と物質は別だと言っていますが、こういう考えが全く間違っているのです。霊が分かれば精神と物質が一つであることが簡単に分かるのです。

 皆様がこの世にお生まれになったのは、この世に生きるためではありません。皆様がこの世に生まれておいでになったのは、人間と魂を見分けるためです。命とは何かということを知るために生まれて来たのです。

 このことを日本的に言いますと、観世音というのです。世音というのはこの世の有様です。この世の有様を見ることによって、この世がいんちきなものであることがはっきり分かった人は、いんちきではない状態に移ったらいいのです。

 皆様はこの世に生まれた時には、霊魂そのものだったのです。ところが物心がついて人間になってしまったのです。これが間違っているのです。

 大人の歪んだ気持ちを放下することができるのです。これを脱ぎ捨てることはできるのです。そうすると、皆様は元の魂に帰ることができるのです。

 皆様の五官の本質はそのまま魂の本性です。これを情緒というのです。本当の情緒に対して目を開くことができますと、初めて魂ということが分かってくるのです。そうすると、現世にびくびくと生きている必要がなくなるのです。

 今の人間は戦々恐々として生きているのです。癌、心臓病、脳梗塞にならないか、いつか地震が起きるのではないか、会社が倒産しないか、不景気にならないか、老後の年金や介護はどうなるのか、いつ死ぬかもしれないとびくびくして生きているのです。安心して生きておれないのです。

 魂がはっきり分かれば、坦々として知るべきことを知り、言うべきことが言える人間になるのです。そういう人間になれるのです。これが観自在です。

 観自在すること、観世音することが人生の目的です。これをするために、私たちは生まれてきたのです。般若波羅蜜多をするために生まれてきたのです。

 般若波羅密多が人生の目的です。私たちはこの世に生きるために生まれてきたのではありません。皆様はこの世に生きることに対して熱心でありすぎたのです。だから、この世に生きることが自分の目的のようにお考えになっているのですが、これは間違いです。

 命さえ分かれば、この世で生きていけるに決まっているのです。本当のことが分かれば生きていけるに決まっているのです。本当のことが分かったら、あえて生きていかなくてもいいのです。

 私たちは現世に生きるために生まれたのではないのです。般若波羅蜜多するために生まれたのです。命そのものを知るために生まれてきたのです。

 一人の人間の中に本質と異質、嘘と誠が同居しているのです。人間は二重人格になっているのです。

 この世に生きている以上は二重人格もやむを得ないことかもしれません。私でも子供さんを見たらかわいいお子さんですねと言いますが、嘘の場合もあるのです。かわいくなくてもかわいいですねと言わなければならないのです。

 この程度の嘘なら言ってもいいでしょう。これがお世辞というものです。こういうことはあまりに几帳面に、神経質に考えることはありません。

 この世に生きる、この世で生活するために生まれたのではないのに、生活するために何十年間かの人生を棒に振っていますと、その結果として、皆様の魂は非常に厳しい裁きを受けなければならないのです。これは当たり前のことです。魂としての本質を持っていながらそれを認めようとしなかった人間に責任があるのです。だから、裁かれることになるのです。

 現在の地球ができたのは、できた理由があるのです。これは宗教ではない聖書という角度から見なければ分からないのです。

 大宇宙の中心は命です。星がまたたいているのも、地球が自転公転しているのも命の現われですが、命というのは機能的なものだけではなくて、人格的なものでもあるのです。これを聖書は神と言っているのです。

 神というものの実体は、物が存在することの実体をいうのです。これを聖書はザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)と言います。神の名というのは物が存在することをいうのです。これが神の人格の本性です。

 神の人格の本性には意志があるのです。宇宙の命には意志(will)があるのです。人間にも自由意志があるのです。人間の意志はそのまま神の意志に通じるようにできているのです。

 皆様が人間であるという気持ちを解脱するような気持ちで、冷静に、平明に五官の本源で物事を捉えようと考えますと、意志が純真な形で働き始めるのです。そうすると、神の意志と皆様の意志が相通じるようになるのです。

 こういう角度から地球の文明を見ていきますと、二十一世紀の中頃まで進行するとは思えないのです。もっと早く崩壊する恐れがあるのです。

 今の文明はあまりにも歪みすぎています。あまりにも汚れすぎているのです。もう少し歪んでいきますと、文明それ自体が自壊することになるのです。自滅することになるのです。

 ここにユダヤ人問題という非常に深い秘密があるのです。ユダヤ文明は自壊作用によって崩壊するのです。ユダヤ文明が崩壊しますと、世界の秩序は根底から変化してしまうのです。

 子供の教育はどうしたらいいかということですが、教育の基本問題について考えますと、子供が悪いのは大人が悪いのです。子供は大人よりも上等なものです。欲望という点から考えましても、大人のような性欲、物質欲はほとんどありません。子供にも物欲はありますが、大人ほど強いものではありません。大人と子供とでは精神構造のスケールが違うのです。

 原則を申し上げますと、叱るとか教えるということも結構ですけれど、子供の状態をじっとご覧になってみますと、子供は大人が持ていないような純真さ、素朴さ、正直さがあるのです。これを誉めてあげることです。そうして、純真さがどれくらい大切なのか、素朴ということがどれくらい大切かを教えてあげたらいいのです。

 正直が尊いことだということを、子供に自覚してもらうのです。そうしたら勝手に子供は正直になるのです。

 大体、大人は不正直です。なぜかと言いますと、大人は思春期に方向を間違えたのです。これは重大なことなのです。現在の人間文明がこのように腐った原因は、思春期について正当な考えを持っていないからです。

 セックスについての大人の考えは根本から間違っているのです。魂が分からないのです。魂ということからセックスをどのように考えたらいいのか。人間の本質はどういうものかということです。

 本能という言葉を今の学者は考え違いをしています。本能は欲望ではなくて人間自身の本来性をいうのです。

 大乗仏典に本具の自性という言葉があります。本具というのは生まれる前の命が持っていた本来性のことです。魂の本来性を本具と言うのです。自性とは命の実物、実体を言います。

 皆様が赤いものを見て赤く感じること、花を見てきれいだと感じることが本具の自性です。何でもないことです。

 花を見てきれいだと感じることが、実は人間が生まれる前の本当の情緒です。これが未に皆様の中に働いているのです。

 情操教育も結構ですが、これをもっともっと深く考えますと、情緒に触れることになるのです。情操というのは人間の常識で考えた情緒でありまして、常識が間違っているのです。常識はすべて大人の考えです。

 大人はセックスを考え違いしているのです。間違った考えで経験しているのです。私は大人のセックスの考えがぴんからきりまで全部間違っていると言うのではありませんけれど、非常に重要な部分で間違えていると思っているのです。

 大人の根性が汚いのです。嘘を平気で言うのです。すべて大人の考えは欲望中心です。欲望の中心はセックスです。大人の欲望の中心はセックスです。

 人間の性欲が名誉欲、財産欲、物欲、宗教欲に広がっているのです。宗教を信じて極楽往生したいというのも、性欲からきているのです。こういう大人の考えが間違っているのです。

 まず大人は自分の悪さを考えて頂きたいのです。なぜ間違ってしまったのかと言いますと、魂のことを全く考えずに、人間として生きてきたからです。皆様は人間として生きていたからおかしくなってしまったのです。

 子供さんを教育される場合には、大人の言い分を通そうと思わないで、むしろ子供の無邪気さ、純真さに目をつけて頂きたいのです。

 今の子供さんは素直ではないかもしれません。私はぴんからきりまで子供を煽てているのではありません。悪いことは悪いとして叱ることはあるのです。良い所は良いとしっかり誉めてあげるのです。大人のように権謀術数をたくましくしないで頂きたい。駆け引きとかペテンをしないで頂きたいのです。

 子供の純真さをじっとご覧になるのです。子供が何かを食べて「これはおいしいね」と言ったら、その素朴さを誉めてあげるのです。

 おいしいと言える気持ちが魂の本質でありまして、人間の純真さがそこに現われているのです。人間人格の根底を教えてあげると、子供は驚くほど変わるのです。そういう可能性があるのです。

 今の学校教育はだめです。日教組がマルクスの思想を信じ込んでいるからです。ユダヤ人の間違った思想を信じ込んでいるとろくなことはないのです。

 ユダヤ人がすべて悪いと言うのではありません。現在の世界の中心になっているのは、ほとんどユダヤ思想です。現在の学校教育は非常にユダヤ的になっているのです。

 日本は明治初期に、文明開化と言って欧米の近代的技術、制度、風俗、習慣を積極的に受け入れたのです。その結果、日本本来の教育とは全く違うものになってしまったのです。私は文明開化以前の教育がすべて良かったとは言いませんが、そこには今では考えられない良さもあったのです。少なくとも今のような教育の混乱、学級崩壊、いじめ、自殺はなかったのです。

 良い悪いを教える前に、子供の純真さをできるだけ認めてあげるようにするべきなのです。そうして、正直にしなければならないという考えを持つ子供に仕立て上げたらいいのです。

 また、ご両親も子供の頃の純真さに帰って頂きたいのです。大人のやり方を子供に習わせるよりも、子供のやり方を大人が習った方がずっと良い家庭になるのです。

 ユダヤ人問題というのは日本人には少々難しい問題です。全世界の人間の歴史には流れがありまして、地球上の風の流れもある方向に流れているのです。西から東に流れているのです。

 歴史の流れにも自ら一つの方向があるのです。歴史の流れの中心の構造をなすものが、ユダヤ民族です。日本人はユダヤ人のことを知らないから、国体のことも分からないのです。

 日本の国体は右翼で考えているようなものではありません。とても大きいものです。大したものです。世界的な角度から見ないと説明ができないほど大したものです。これが現在の日本人に全然分かっていないのです。このこともユダヤ人問題についての勉強が不足していることが大きい原因になっているのです。

 ユダヤ人は全世界の長男になるのです。長男が悪いから困った状態になっているのです。核兵器の問題で困っているのは、この典型的な例です。核兵器を製造したのはユダヤ人です。こういうものを考えるのはユダヤ人に決まっているのです。マルクスもレーニンももちろんユダヤ人です。

 ユダヤ人の悪い人のことを言いましたが、すばらしい政治家もいるのです。ですから、ユダヤ人が悪いと言うよりも、現在のリーダーシップを取っている若干のユダヤ人の考え方が悪いのです。

 そういう人々が唯物主義、即物主義でありまして、現世主義一本槍です。なぜユダヤ人が中心になったのかと言いますと、地球ができた原因にあるのです。地球ができたということは雄大な宇宙計画によるのです。太陽系宇宙に関する計画でありまして、地球は不思議な惑星です。火星や金星には陸地はありますけれど、生物は全然存在していないのです。火星、金星には蟻一匹、ハエ一匹もいないのです。土はありますけれど、生物現象は全くないのです。

 ところが、地球をご覧ください。森羅万象で満ち満ちているのです。バイキンからクジラに到るまで、生き物で満ちているのです。地球には無機物はありません。全部有機物です。地球そのものが有機体です。地球から生まれたものは全部有機体なのです。

 地球そのものが巨大な生物です。地球は惑星ではなくて生物なのです。このような奇妙な惑星がどうして存在するのか。これは宇宙の特殊現象です。太陽系にだけこのような特殊現象がなぜあるのかということです。こういうことを考えていきますと、初めてユダヤ人の正体が分かるのです。

 神には神の計画がありまして、これを神の約束と言うのです。この約束がユダヤ人の祖先であるユダヤ人に与えられました。これによってユダヤ人が全世界の長男として神によって設定されたのです。

 なぜアブラハムに約束が与えられたのか。とにかく世界歴史というものは、皆様が御存知であってもなくても、ユダヤ人を中心にしなければ動かないのです。日本が中心にはなれないのです。

 世界にはアジア人種と白人と黒人とがいます。アジア人が長男です。白人は三男でして中心ではないのです。黒人は次男です。現在は白人が世界の中心になっていますけれど、これは白人社会の中にいるユダヤ人が活躍しているのです。

 ユダヤ人は東に来なくて西へ行ったのです。ヨーロッパやアメリカに入り込んだ人が、世界のリーダーシップをとっているのです。

 人間文明が始まってから大体、六千年になると言われていますが、六千年の人間の歴史の流れをたどっていきますと、アジアが中心であり、アジア人の中のユダヤ人が中心になっていることが分かるのです。

 ユダヤはアジアの極西です。日本はアジアの極東です。両者には不思議な因縁があるのです。

 世界歴史は生き物です。人間が造ったものではないのです。歴史を英語ではヒストリー(history)と言います。ヒストリーとはヒズストーリー(his story)のことです。彼の物語を意味しているのです。彼とは神のことです。神の物語が歴史の流れでありまして、天地創造の原理である神が、このような流れを地球に造っているのです。この神の約束を受け止めた民族をユダヤ人と言うのです。

 ユダヤ人は生まれた時から神の約束という目的を持っているのです。そこで人生目的はユダヤ人だけにあるのです。

 ところが、現在のユダヤ人は神の約束の意味を、完全に間違えて受け取っているのです。神の約束を間違えて受け取ったということが、現代文明の惨憺たる状態になって現われているのです。

 現在の世界歴史は全く惨憺たる状態なのです。日本はまだ恵まれている方です。この日本から私たちのような人間が現われたということも、また神の処置です。

 日本は全世界に対して本当の世界観を提起すべきです。永遠の生命を捉えることができる世界観を、日本が全世界に向かって発進すべきです。それによって全世界の人々を指導すべきなのです。

 ユダヤ人は厄介な民族です。ユダヤ人が間違えていますので、その側杖をくらって、他の民族が大迷惑をしているのです。

 ルネッサンスの立役者になったのがユダヤ人です。近代文明、現代文明を広めたのはユダヤ人です。これには良い面もありますが、悪い面が非常に多いのです。

 ユダヤ人の流れを知らなくては、人間歴史を読み取ることはできません。日本は物造りという面で世界が注目していますが、世界観の基本に対して、世界が重大な関心を持つ時が来ると思います。

 とにかく、皆様の物の考え方が小さすぎるのです。自分自身の利害得失という小さい問題に係わらないで、世界歴史の流れを見るようにお考え頂きたいのです。

 人間は存在していません。魂があるだけです。その証拠に全世界の人間は一つの理性で生きているのです。白人と黒人とが結婚できるのです。日本語を各国語に自由に翻訳できるのです。

 理性は世界に一つしかないのです。良心も一つです。命は一つ、信仰は一つです。人間は煎じ詰めると一人の人格に集約されることになるのです。自分がいる、他人がいる、何十億の人間がいるという考え方が間違っているのです。ユダヤ人が個人という考えを世界中に広めたので、人類は個人がいると思い込んでしまったのです。

 皆様は現在、五官の本能性に従って生きているのです。五官の本能性の意味がよく分かれば、死なない命が分かるに決まっているのです。

 イエスが死を破りました。死を破って復活したのです。イエスが死を破ったということは、イエスの世界観が普通の人間の世界観ではなかったからです。

 イエスは霊魂の本質を弁えていたのです。ところが、皆様は人間として生きているのです。人間として生きている人は必ず死んでしまいます。

 皆様の潜在意識が魂の意識ですが、皆様の潜在意識の中には死なない命が既にあるに決まっているからです。皆様はご自分の潜在意識を率直に見るという気持ちにさえなれば、死なない命が分かるのです。

 キリスト教ではない聖書をそのまま勉強したらいいのです。宗教ではない聖書をストレートに勉強すると、本当のイエスが分かるのです。

 皆様の潜在意識とイエスの顕在意識とは同じものです。皆様の常識、知識が間違っているのです。

 人間は苦しい時に神頼みをします。震度八の大地震が起きたら、人間は思わず、「神よ、助けたまえ」と叫ぶでしょう。これは潜在意識からほとばしり出る生命の実感です。これが叶わぬ時の神頼みになっているのです。

 これが人間の本音です。本音で物事を考えて頂きたいのです。人間の本音が本当の人間の本質です。

 世間の人間は本音を知らないのです。建前だけで生きているのです。だから死んでしまうことになるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:7回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

天然が自然になって現われています。天然は霊です。それが自然という形になっている。景色の本質は霊です。聖書はこれを神の国と言っています。 天然の本質が自然になって現われている。この状態を神の国と言います。人間の命がそうなっていますから、そのように生きればいいのです。無形の天然が有形の自然になっている。これがイエスがいう神の国です。 イエスは神の国を見せるために生活したのです。それは難しいことではない

人間はなぜ死んだのか

現在の日本の社会では、本当の女性を教えてくれる人はいません。本当の女を自覚している女性も珍しいのです。 聖書にある女性と現世の女性とは違います。聖書にある女性は、「これこそ、ついに私の骨の骨」と言われている女性です(創世記2・23)。これが現在では肉の肉になってしまっているのです。 肉の肉の女性は性欲の対象にはなりますが、恋愛の対象にはならないのです。本当の意味で恋愛ができる女性は、女性自身が女で

肉の思いは死である

新約聖書のローマ人への手紙に、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安とである」という言葉があります(8・5、6)。まずここから始めて頂きたいのです。 肉(人間の思い)に従いながら、聖書を学んでいてもだめです。現世に生きている肉体人間を自分であると考えながら、固有名詞の自分を信じ、宗教を信じている状態で聖書を勉強してもだめです。キ

bottom of page