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現世から神の国へ

人々は花を見て喜んだり、鳥が鳴いたり、飛んでいるのを見て喜んだりしていますが、これは何をしているのかを考えようとしない。だから死んでしまうのです。

花を見てきれいだと思えることは、その人の心の中に生まれる前の命が備っているのです。

花を見て美しいと思うのは、そう思える理由があるからです。魂は仮の姿で、この世に現われているという意味です。鳥や花を見て嬉しいと感じるのは、本当の嬉しさの影を見ているのです。

本当の嬉しさは、魂がこの世に出るまでに経験してきたことです。この世に出て、花が咲いていること、鳥が飛んでいるのを見て、生まれる前に経験していた嬉しさを、もう一度復習しているのです。これを嬉しいというのです。

 嬉しいというのは、嬉しいような気持ちを経験したということです。魂というのは、御霊が現世で試みに経験している状態を言うのです。

 現世で嬉しいとか楽しいとか言っているのは、仮の経験であって、嬉しい、楽しいことの本当の意味が分かった人は、永遠の楽しさを掴まえることができるのです。嬉しい、楽しい、おいしいと言っていながら、その原理が分からないままで死んでしまいますと、魂の裁きにあわなければならないのです。むしろ、嬉しい、楽しい、おいしいことを経験しなかった方が良かったのです。この原理を知るか知らないかは、大変な違いになります。

 花を見てなぜ美しいと思うのか、その原因は神にあるのです。生まれる前に魂は神と一緒にいた。神と一緒にいた時の感覚を現世で味わっているのです。だから美しい、楽しい、おいしいという気持ちを神に対して告知しなければならないのです。これを実行しない者は、魂は伸びないのです。

 人間が現世に生まれてきたのは、業(ごう)です。地球があるのは神の業です。現世で神の業に巡り合うのです。人間が現世に生まれてきたことは業ですが、現世に生まれてこなければ、美しさを経験できないのです。

 神が花を咲かせ、鳥を飛ばしているのです。それを見て、嬉しく思うのです。なぜ嬉しい気持ちがしたかということを、まず知る必要があるのです。そして、どういう気持ちで生活すればいいのかを考える必要があるのです。

 本当に神が分かるか分からないかは、第一に天分があるかどうかです。第二に素朴さが必要です。第三に根気があるかどうかです。天分がない人は非常に難しいのです。女性のあり方が人間の魂を代表しています。男性が女性に学ぶというのは、女性が持っている素朴さに学ぶという意味です。

 女性は美しいものを見たら素直に感動します。これは神が人に与えている恋愛的な感覚です。男性は理屈で割り切ろうと考えるのです。理屈で考えている間は神が分かりません。神と人の魂の関係は、愛の関係です。論理は後から付いてきます。

 愛とは生まれる前の魂のセンスが目を開くことです。生まれる前の前世と、生まれた後の現世と、死んだ後の来世(後生)を貫いているのが魂です。愛とは、生まれる前に神と一緒にいた感覚に、気が付くことです。

 現世での人間の恋愛でも、実は生まれる前の状態に気が付いているのです。

 女性が造られたのは生まれる前のことです。前世で男性が女性を見て、好きだと言っていたのです。現世で女性が好きになる男性は、前世の感覚を思い出しているのです。

 男女の関係は、この世に生まれてから教えられたものではありません。親が子供に異性の愛し方を教えたのではありません。これは生まれる前から知っているのです。

 三才から四才の女の子が、お嫁さんになると言っているのです。そのように生まれる前から男女の問題を知っているのです。現世では人間的に知っていますが、生まれる前には、霊的に知っていたのです。魂的に知っていたものが、現世で人間的に気付き始めたのです。

 恋愛は元来生まれる前のものですから、死んだ後まで継続するような恋愛をしなければならないのです。これが本当の恋愛です。

 本当の恋愛は現世だけで愛する、愛されることとは違うのです。本当の愛は、親子とか夫婦に限らない。現世の法律には関係ないのです。本当の恋愛感情が分かってくると、現世に生きている状態がそのまま続いていくのです。こういう感覚を味わうのが本当の恋愛です。

 生まれる前は肉体がない状態で、男女が知っていた。現世では肉体がある状態で知り合うのです。本当の恋愛が分かってくると、後生にまで通じるものだということが分かって来るのです。こういうことを意識できる恋愛でなかったら、本当のものではないのです。こういう恋愛をしている人はめったにいません。現世でこういう恋愛ができる人は、よほど幸福な人です。皆様は本当の恋愛を御存知ないのです。

 だから神が分からないのです。現世で花や鳥や美しい景色、美しい人を見て、何となく嬉しいと思う。

 男女が恋愛をするのには原因があるのです。生まれる前に経験をしていて、現世でもう一度恋愛をしているのです。これが死んだ後にまで延長されるという可能性、必要があるのです。よくよく考えてみると、肉体があるという思いが間違っているのです。恋愛は間違っていません。肉体があるという思いが間違っているのです。

 肉体はありません。愛を経験するために肉体という方便があるだけです。肉体を持って恋愛を感じるのは、実は肉体の感覚ではありません。霊魂の感覚です。それを肉体の感覚だと思い込んでいるのです

 肉体はあるに決まっているという気持ちを持つ必要はありません。無理にこの気持ちを捨てようとしても捨てられませんが、肉体があると思うのは、実は嘘だということは、よくよく考えてみれば分かるはずです。

 皆様は肉体が確かにあると考えていますが、ただ鼻から息を出し入れしているだけです。息が止まったら、肉体はいっぺんに消える方向にいくのです。肉体とはただ息をしているだけです。息をしているから血液の循環がありますし、肺、心臓が働いているのです。息が止まればすぐに死んでしまいます。

 生きているという事実がある間は、肉体はあります。生きているという事実がなくなれば、肉体はすぐにだめになります。ですから、肉体があるのではなくて、生きているという事実があるのです。呼吸機能、生理機能が働いているのです。機能と肉体とは違います。生理機能が肉体に現われていますが、機能は肉体ができる前からあったのです。肉体があるから生きているのではありません。機能が正常に働いているから、肉体があるのです。生きていることが肉体的に働いているだけです。

 美しい花を見てきれいだと思う。おいしいものを食べておいしいと思う。これは肉体の感覚ではなくて、生まれる前の感覚です。肉体を持っているから、美しいとかおいしいと思うのではないのです。

 肉体を与えられてこの世に出なければ、花が美しいとは思えませんが、美しいと感じる機能は、肉体が与えられる以前に備えられたものです。それは肉体の感覚ではなくて、魂の感覚なのです。生まれる前の感覚です。同様に、男性が女性を見て美しいと思えるのは、魂の感覚です。それを肉体の感覚だと思うからいけないのです。

 ところが、世間並みの男性が女性を見て美しいと思うのは、皆霊の感覚かというと、そうではないのです。情欲を抱いて女性を見れば、性欲になるのです。情欲を抱いて女性を見ることは、大いにあり得るのです。

 肉体を持っているから全部肉体の感覚かと言うと、そうではありません。そこで、御霊を崇めるということが必要になってくるのです。

 御霊とは何か。大自然に展開している天然のエネルギーが御霊です。生理機能、心理機能のすべては、このエネルギーによって動いています。このエネルギーなしには、人間は絶対に生きていけません。だから、御霊を崇めるのは当たり前です。その前に必要なことは、まず洗礼を受けることです。そして御霊を受けることです。

 この二つのことをしなければならないのです。水のバプテスマと、聖霊のバプテスマ、この二つをきちっと受けなければいけないのです。

 水のバプテスマを受けないで、聖霊のバプテスマを受けることは絶対にないとは言えませんが、極めて少ないのです。皆様は洗礼と聖霊の二つを受けなければなりません。水と霊とによって新しく生まれるのです。

 肉体がある間は肉の思いはなくなりません。肉の思いはあってもいいのです。肉の思いを持っているままで、御霊を崇めればいいのです。そうすると、肉の思いが消えてしまうのです。そういう方法があるのです。

 肉の思いがなくなってしまわなければ、御霊が崇められないという考えが間違っています。肉の思いをなくそうと思ったら、何百年あってもできないでしょう。御霊を崇めることさえすれば、肉の思いが体にしがみついていてもかまわないのです。神に目を向ければいいのです。神を信じることを実行すれば、肉の思いがあっても、ないこととして扱われるのです。

 女性が女性であるままの状態でこの世を去ってしまいますと、火の池へ行かなければならないのです。女性は男性の中へ帰らなければいけないのです。夫であっても、夫でなくてもかまいません。これは現世の道徳や法律には関係がないのです。

 女性が男性に帰るとはどうすることか。肉体関係を持つことではありません。精神的な問題です。女性が男性に恋愛感情を持てば、その男性に入ったことになるのです。

 女性が男性の中に帰ることが女性の本当の姿です。「二人の者、会いて一体になれ」というのは(創世記2・24)、前世で神に言われた言葉です。現世でも、結婚式でこの言葉を使いますけれど、本来は前世のエデンの園の言葉であって、現世の言葉ではないのです。

 大きい気持ちを持つのです。生まれる前の命、今の命、この世を去ってからの命を考えなければならないのです。

 大体、今の命はどうでもいいのです。神を知るためには、現世に出てこなければいけなかった。神が分かればそれだけでいいのです。この世に少しも執着を持つ必要はないのです。

 この世は仮の世であって本物ではありません。人間の魂の本体は御霊ですが、御霊が試みに現世に顔を出しているだけなのです。これが現世での生活です。

 女性は信頼できる男性の中に帰る必要があります。どうしたらいいのかと言いますと、恋愛感情を持てばいいのです。恋愛感情を持てるということは、その人の中に入っているということです。その人の言う言葉をそのまま受け取って、その人格の中に入ってしまえばいいのです。

 夫でなくてもいいのです。信頼できる男性の中に帰るのです。これは魂の問題ですから、道徳や法律には関係ありません。イエスに対してそうした女性が多くいました。現在でもそうしたらいいのです。神の前に通用するような恋愛をしたらいいのです。

 今世界中の人間で誰も気付いていないことは、霊のことを霊で解釈するというパウロの言葉です。イエスの言葉にもそういう意味があります。山上の垂訓(マタイによる福音書五章から七章)はほとんどそういう内容です。

 霊的に見るということが分からないのです。霊的に見るというのは、物事の本質を見る、神の側から見るということです。

 霊的に見るとどうなるのかと言いますと、人間の精神が霊になってしまうのです。素朴な感覚で神を見るという習慣をつけますと、精神がだんだん向上していくのです。精神の正体が世界中の人間に全然分かっていないのです。精神が一番重要なことです。精神だけが天使を使うことができる。精神以外のものは、皆天使の下にいるのです。神は精神だけを上へ引き上げようとしているのです。精神を上へ上げていこうと思えば、聖書の言うとおりにしていけばいいのです。自分の思いに捉われないで、神の言葉と御霊の導きに従えばいいのです。

 とにかく人間の精神を高めていくことが、本当の教育です。精神を高めていくと魂が救われるのです。魂の中心が精神ですから、現世を去ってから役に立つのです。

 生きている間に精神をどのように鍛えたらいいのか。どのように訓練したらいいかです。

 現世に生まれてくる前に、男性はハートを取られてしまった。男性の中から肝心要の魂の中心的なものを抜かれてしまった(創世記2・21~23)。なぜ抜かれたのかと言いますと、アダムが情熱的ではなかったからです。頭がいくら聡明でも、情熱的でない人は聖書がなかなか分かりません。

 聖書を勉強するというのは、男性的な聡明さと感情的な熱情の両方がなければだめです。それがない人は、聖書の言葉を学んでいても、それに喜びを感じる感覚がなかなか湧かないのです。情熱的でない人は、感情を高揚させるような訓練をする必要があるのです。歌を歌うとか絵画を見るとか、そして、花を見たらいいのです。

 男性はアダムのような欠点があるのです。神から見るとぼやーっとしているように見えるのです。ぼやーっとしているのは情熱がないからです。聖書が分かっても、情熱的でない人は喜びが感じられません。

 自分の性格は自分の精神で変えられるのです。変わらないと諦めてはいけないのです。初恋のような感覚が、神に対して持てるようになるといいのです。魂を自覚しないで人間である自分を見ていると、神との繋がり、神が愛しているという神の愛が分からないのです。自分自身が魂であることを自覚しようという気持ちを、いつも持っているのです。人間であることをやめて、魂である状態にできるだけなるのです。これは難しいように思われますが、そうではないのです。

 生きていることが魂です。生きている状態は取り越し苦労をしません。苦しんだり、悩んだりするのは、自分という人間です。魂はそういうことをしません。

 魂は生かされているという受け身の状態です。受け身の状態は取り越し苦労をしません。取り越し苦労をするのは人間です。

 生かされているという自分に立とうとするのです。そうすると魂の自分になるのです。これをしますと、引っ込み思案は自然になくなってしまいます。引っ込み思案をするのは、自分という人間です。生かされているということが魂ですから、魂という立場に立ちますと、自分なりの癖が出てこないのです。話をする時には素朴になり、気持ちを軽くして言うことができるのです。

 初恋の経験は非常に良い経験です。これは魂の経験であって、人間の経験ではありません。この経験を活用するのです。

 日本人は聖書の価値が全く分からない民族です。聖書に親しみを感じないし、読もうとしません。従って、魂が分からないのです。人間が生かされている状態を霊的に理解することができないのです。現世に生まれてきたのは、生かされている状態を霊的に見るためです。この訓練をするために生まれてきたのです。人間として考えないで、できるだけ魂として考えようとするのです。魂として考えるとはどうしたらいいのか。なかなか分かりにくいでしょう。それを神に聞く気持ちを持つのです。魂として生きたいと思いますが、どうしたらいいでしょうかと神に聞くのです。

 神とは何か。生きていることが神です。皆様は生きている神といつも一緒にいるのです。生きているということは、神と一緒にいることです。

 その神に聞くのです。御霊を崇めるとはどうしたらいいのか。魂で生きるとはどうしたらいいのでしょうかと、神に聞くのです。分からないことは何でも聞くのです。そうしたら、教えてもらえるのです。

 日本民族は先天的に聖書を敬遠しようとしています。その欠点を承知して、その欠点を直そうという気持ちを持つのです。聖書を好きになろうとするのです。世間並みの日本人は皆聖書から逃れようとしているのです。この点、西欧人は有難いのです。分かっても分からなくても、聖書は有難いと思い込んでいますから、楽です。日本人とは正反対です。日本人は質が悪い民族ですが、そういう人の中から聖書を学ぶよう仕向けられたのですから、できるだけ聖書を好きになろうという気持ち、人々から聖書気違いと言われるような、積極的な情熱を持つことです。そうするとだんだん開かれてきます。

 現世に生きている間は本当の命ではありません。本当の命ではないことが分かりますと、本当に生きることができるのです。現世に生きていることが自分の命だと思っている間は、本当に生きることができません。自分の利害得失をいつも考えていますから、本当の聖書の勉強はできません。

 神の国とは何か。例えば、世間並みに花を見ている場合、この世の人間が花を見ているのです。ところが、魂の感覚で花を見るようになりますと、花を見ていることが神の国になるのです。人間が見ていると、この世のできごとになるのです。

 イエスが生きていて、飲んだり食べたりしていたのは神の国ですが、弟子が飲み食いしていたのは、人間の世界です。同じことを同時にしていても、生きている気持ちによって世界が違うのです。

 神の国が少し分かったくらいでは、なかなか入りきってしまうことはできませんが、そのうちに神の国に入りきってしまうようになるでしょう。そうなりますと、現世に生きていることはどうでもよくなるのです。現世に生きていることが、そのまま神の国になっているからです。

 現世にいることがそのまま神の国にいるように感じられることになりますと、楽になります。ここまでいくためには、分かったような分からないようなことの繰り返しをすることになるでしょう。出たり入ったりが続くのです。これは人によってだいぶ違います。いずれにしても素朴になることが一番必要です。思想的に勉強することも、素朴になるために勉強するのです。何も分からない状態で素朴になれと言っても無理です。

 女性は比較的しやすいでしょう。しかし、思想的にいくら分かっても、命になったのではありません。思想はやはり思想です。命にならなければだめです。聖書が思想的に理解できたというだけでは、やはり宗教になるのです。

 宗教は思想的な理解だけです。命ではありません。仏教でも同様です。仏典を思想的にだけ理解しているのです。自分が仏になっていないのです。

 仏教の場合は無理もありません。神の約束がありませんから、仏になりたくてもなれないのです。命の実体である聖霊を受けることがありません。聖書の場合にはそれがあるのです。聖霊を受けることになりますと、聖霊によって導かれることになりますので、聖書の言葉が命になるのです。

 パウロは霊のことを説明するのに、霊の思いを持ってすると言っていますが、これは宗教ではできないことです。生きているのは、人間ではない。魂が生きているのです。魂が生きている状態が霊です。食べる場合でも、人間が食べることと、魂が食べることとは、世界が全然違います。他人から見れば同じように見えますが、本人の気持ちは全然違うのです。

 肉体は固定的にはありません。瞬間的にだけあるのです。瞬間、瞬間が継続的にあるのです。これが肉ですが、実は霊なることです。肉も霊で見ると、霊になってしまうのです。肉体的な行動は一つもありません。人間の行動は全部霊です。それを霊で見ないから全部肉になってしまうのです。霊の目で見るのと、肉の目で見るのとでは、人間の生き方が全然違ってしまうのです。肉、霊という言い方は、聖書になじみがない人には難解な言葉ですが、肉というのは人間が見た見方です。人間から見ると現象が実体のように見えますが、これが肉の見方です。

 霊というのは神から見た見方で、神から見ると現象は実存していない。ただ瞬間、瞬間の連続した映像があるだけです。電子の運動が現象に見えるだけのことです。霊がある。肉がある。これは全く別物だと考えるのは間違っています。霊は肉となり、肉は霊となる。霊も肉も見ているものは同じです。肉の思いで見ると肉になり、霊の思いで見ると全部霊になるのです。霊の思いで見ると神の国に入ることができます。

 洗礼とはどういうことかと言いますと、水で体を洗うと生まれる前の状態に返ってしまうのです。地球ができる前の状態に返ってしまいます。水の中に溶けてしまうのです。元の水に返ってしまいますから、罪が許されるのです。肉体を持ったままではだめです。元の水に返ってしまうと、肉体はあっても霊と同じように扱ってもらえるのです。

 聖書を思想的に勉強することは、最初はそれでもいいのですが、それを乗り越えて、魂で勉強するようにしてください。そうすると本当の聖書の勉強ができるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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