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生まれる前の自分を見つける

般若心経は日本には千年以上も前からありました。ところが、般若心経の本当の意味を正しく悟った人は、日本にはいないのです。一人もいないと言えるでしょう。それは空が分からないからです。

宗教家の人は空が分からないのです。宗教には空がありません。宗教では空が説けないのです。宗教ではないということを教えているのが般若心経です。色即是空、空即是色をよく考えますと分かるのですが、宗教はこの世の人間のご利益を説いているのです。

現代の文明は肉体的に生きている人間を人間だと考えているのです。この人間は死んでしまう人間です。死んでしまうに決まっている人間が集まって文明を造っているのです。こういう文明を信じている人は必ず死ぬのです。

 必ず死ぬことが分かっていながら、その命をやめようとしない。自殺するというのは命をやめることではなくて、生存している命を否定することになるのです。

 生存している命と精神的な命とは違うのです。人間は生活してはいますけれど、実は生きてはいないのです。これが般若心経の言いたい所なのです。

 般若心経は日本に来てから千年以上になりますけれど、本当の般若心経が説かれたことがないのです。人間が生きていることが空だということを、思想的にいう人はいます。思想的に理解する人はいますけれど、これを自分の命とすることができないのです。命として生きることができないのです。

 五蘊皆空、色即是空がいくら分かっても、空を自分の命にすることができなければ、結局、心経読みの心経知らずになってしまうのです。

 空が自分の命において実感できる所までいかなければ、般若心経の本当の精神を捉えているとは言えないのです。これを実行した人が日本にはいないのです。

 現在生きている自分を空じてしまうと、すべてなくなってしまうのです。生きている自分を空じてしまうと、自分自身が消えてしまうのです。これが怖いのです。これが怖いので、寺で仏教を教えている人たちは、自分を空じることができないのです。従って、般若心経を教えてもらっている人も空が分からないし、空を実行できないのです。

 皆様の中には二人の自分がいるのです。二人の人格がいるのです。目に見える自分と、目に見えない自分と、二人の人格がいるのです。

 目に見えている自分は人間である自分です。目に見えない自分は魂であって、魂の自分は目に見えない自分です。見ることができない自分です。有難い自分と恐ろしい自分と両方いるのです。

 死んでしまうに決まっている自分から考えますと、死なない自分は有難い自分と思えるのです。

 皆様はこの世を去ったとして、一体どこへ行くのでしょうか。これが分からないのです。目に見えない自分をしっかり持っていないから、そういうことになるのです。

 般若心経が空をしきりに言うのは、色は間違っていると言いたいからです。色というのは物質、または現象を言うのです。目に見えるものです。目に見える自分と、空である目に見えない自分が、皆様の中にいるのです。

 目に見える自分のことは分かっていますが、目に見えない自分が分からないために、死んでからどうなるかが分からないのです。

 仏教では死んでからどうなるのかが絶対に分かりません。西方極楽浄土という言葉が阿弥陀経にありますけれど、これが本当にあるのではないのです。

 西方極楽浄土の実物は仏教にはないのです。観無量寿経という経典に極楽のことを書いていますが、これは実物ではありません。

 仏教は死んでから行きたい世界を、希望的観測に従って書いているのです。そういう世界があったらいいなあということを書いているのです。これは人間の想像による産物なのです。本当のものではありません。

 仏教に般若波羅蜜多という思想はありますが、般若波羅蜜多という事実はありません。仏法には即ち釈尊の考えの中には、波羅蜜多ということがあったようです。しかし、今の日本の仏教には波羅蜜多は全くありません。

 彼岸へ渡るということが今の寺院仏教には絶対にないのです。今の仏教のお坊さんが仏教を人々に売り込むために、彼岸へ渡るという理屈を言っているだけです。

 本当の波羅蜜多というのは、衣を着て金襴のお袈裟をかけていたのでは、絶対に分かりません。仏教という宗教を認めてしまうと、向こう岸へ渡れなくなってしまうのです。これが痛し痒しになるのです。

 般若波羅蜜多は本当のことです。本当というのは仏教ではないという意味です。仏法として本当のことです。

 仏教と仏法とは全然違います。仏教は皆様を食いものにする宗教です。仏教は日本人を食いものにしているのです。長い間日本人を食いものにしていたのであって、本当の命を皆様に与えていたのではなかったのです。

 仏典の中には本具の自性という言葉があります。これは言葉としてはありますが、実体としてそれが分からないのです。これは生まれる前の自分のことです。

 本具の自性というのは、生まれる前の自分のことです。生まれる前の自分というのは、皆様の中に目に見えない自分としてあるのです。生まれる前の自分は生まれる前のことですから、死ぬことはありません。人間はこの世に生まれたから死ぬことになったのです。

 生まれなければ死ぬはずはありません。生まれる前の命のことを永遠の命というのです。永遠の命というのは、生まれる前の命のことをいうのです。これが皆様の中にあるのです。これを本具の自性というのです。

 これが分かれば死ななくてもいいのです。ところが、現在の文明はこれが分からないようにしているのです。これが分からないように教育してしまったのです。

 人間が人間を教育しますと、魂が死んでしまうのです。教育によって仕事をする人間ができます。科学や法律を学ぶ人間ができるのですが、こういう人間は死んでしまうのです。現世に役に立つ人間、現世の生活に一生懸命になっている人間は、死んでしまうに決まっている人間であって、皆様の中にはもう一人、死なない人間がいるのです。

 仏教では本具の自性という言葉を使っていますけれど、本具の自性の本当の実体を見せることができないのです。これをはっきり証明することができないのです。ここが宗教の悪い点です。

 宗教は教えであって事実ではありません。宗教ではない般若心経とは、教えではない般若心経ということです。事実である般若心経ということです。

 目に見える自分と、目に見えない自分とが皆様の中に一つになっているということです。生まれる前の皆様が、目に見えない自分になって自分の中にいるのです。目に見えない自分が、目に見える自分の中に入っているのです。このように二重構造になっているのです。

 目に見えない地球と目に見える地球とが、一つの地球の中にあるのです。目に見えない地球のことを、聖書は神の国と言っているのです。

 本具の自性という言葉を仏教では使います。思想的には永遠の命と言いますけれど、それを実感していないのです。実感していないから、皆様に永遠の命の実物を与えることができないのです。

 仏教のお坊さんは永遠の命の実物を持っていなくても説明ができるのです。キリスト教の牧師さんが永遠の生命の実物を持っていなくても、説明くらいはできるのです。そういう話を聞いて分かるかと言いますと、分からないのです。

 宗教の話を聞いて、宗教の外へ出てしまうのです。そうすると、宗教ではない自分を見つけることができるのです。親鸞はそれを実行したのです。

 親鸞は三十三才まで比叡山で勉強していました。三十才の時に法然の話を聞いて、その弟子になったのです。それから六十三才までの間、浄土真宗を教えていたのです。そうして六十三才になって浄土真宗をやめてしまって、都へ帰り、九十才まで乞食みたいなことをしていたようです。

 三十三才までの親鸞と、六十三才までの親鸞と、九十才までの親鸞と、三人の親鸞がいるのです。本当の親鸞は浄土真宗をやめてしまった親鸞ではないかと思われるのです。今浄土真宗で説いている親鸞は、三十三才から六十三才までの親鸞であって、六十三才から九十才までの親鸞は、浄土真宗の親鸞ではないのです。

 これは歎異抄を読んだら分かります。こういう訳でありまして、宗教を卒業してしまうと、初めて本当のことが分かるのです。しかし、親鸞の場合は浄土真宗をやめたけれども、本当の永遠の命が分かったかと言いますと、分からなかったのです。

 死なない命は自分の中にあるに違いない。これは分かっていたようですが、それをどのようにして見つけたらいいのか。それをどのように人々に伝えたらいいのか。その時の親鸞には聖書がなかったので分からなかったのです。

 キリスト教ではない聖書を読みますと、初めて人間が死ぬべきものではないことが分かるのです。仏教経典の中には死ぬべきではない命がはっきり書いてありません。仏性という言い方で書いていますが、仏性である人間がどういうものであるかをはっきり説明していないのです。

 釈尊が言ったのは一切空です。現在生きている人間は空だと言っているのです。空である人間がなぜいるのかについては釈尊も分からなかったようです。

 イエス・キリストが復活した。死を破ったことによって、人間が死ぬべきものではないことが証明されたのです。人間が死ぬべきものではないことがはっきりしたのです。これが西暦紀元の元年になっているのです。

 今年は二○一五年ですが、イエス・キリストが復活してから二千年にもなるのに、未だに日本人は死なない命が分かっていないのです。

 仏教もキリスト教も死なない命が分かっていないのです。

 日本に般若心経が伝わってから、本当に般若波羅蜜多を説いた人は一人もいないのです。彼岸はこういうものだということを言って、自分で実際に向こう岸へ行った人は、一人もいないのです。

 私はこれを実行しています。できるので実行しているのです。西洋文明と東洋文明と二つあると思うから間違っているのです。仏教とキリスト教と二つあると思うのが間違っているのです。こういう常識を捨ててしまうのです。文明的な常識を捨ててしまって考えて頂いたら分かるのです。

 宗教は文明構造の中の一翼でありまして、政治経済、教育、法律、宗教は文明構造の中の一つをいうのです。宗教は現世に生きている人間に宗教の教義を教えるのが目的です。永遠の命の実物を与えることを目的にしていないのです。

 だから、宗教をいくら勉強しても永遠の命は分かりません。宗教思想は分かります。しかし、命は分からないのです。

 宗教は現世に生きている人間を相手にしているのです。しかし、皆様が現世を去ってしまいますと、宗教は一切役に立ちません。寺で言っていること、教会で言っていることは、現世の人間にアピールしているのです。

 ところが、皆様はやがて現世を去ってしまわなければならないことになるのです。現世を去ってしまいますと、キリスト教も仏教も一切当てになりません。

 現世を去っても役に立つものは何かと言いますと、死を破って復活したということです。この事実だけしか役に立たないのです。

 宗教は現世に生きている人間に教えを説いているのです。命を説いていません。宗教には命がないのです。思想を教えるだけです。

 般若心経の説明書をたくさんの人が書いていますけれど、これは現世の人間の思想を書いているのです。そういうものはなるべく読まない方がいいでしょう。読んでもプラスにならないからです。

 皆様は五十年、六十年の間この世に生きていて、命が分かったのでしょうか。これを考えて頂きたいのです。この世に生きていても、命は一切分かりません。肉体人間としてただ生活を経験しているだけでありまして、肉体人間というのはこの世に生きている人間です。ところが、魂は永遠から永遠に生きているのです。

 一万七千六百巻と言われる膨大な大乗仏教の中に、魂という文字は一字もないのです。だから、仏教では霊魂の説明ができないのです。仏教には永遠の生命がないからできないのです。

 仏教には思想はありますが、命がないのです。宗教であるか、宗教でないかの違いは、命があるかないかの違いになるのです。

 般若心経は五蘊皆空を第一番に説いていますが、五蘊というのは、人間のあらゆる常識、知識をいうのです。人間の精神状態は全部間違っていると言っているのです。

 皆様は現世に生きておいでになると、肉体的に生きている自分のことしか頭にありません。肉体的に生きている自分だけしか考えていないのです。だから、魂が全く分からないのです。

 仏教は魂のことを説明しません。説明できないからです。釈尊は現世に肉体的に生きている人間は空だと言い切ったのです。ところが、日本の仏教は一切空だと言い切っていないのです。一切空だと言い切ってしまいますと、商売にならないからです。

 宗教はすべて商売です。大きな寺を建てたり、仏像を置いたりすると相当なお金がいりますので、自然に商売になってしまうのです。お金がなければ仏教は成立致しません。そこでやむを得ず商売になってしまうのです。

 これは良いか悪いかの問題ではなくて、現世において教えを説こうとすれば、結局商売になってしまうのです。

 大学も商売です。大きな学校を建てて学生を集めるとしたら、商売になってしまうのです。そこで、日本人は般若心経の五蘊皆空、色即是空をどうしても勉強しなければならないのです。

 皆様は花を見たら美しいと思われます。美しいというのは生まれる前の皆様の魂によって見ているのです。ところが、見ている人間の目の感覚は、現世に生きている人間の意識です。美しいという感覚は魂の感覚ですが、見ている意識は人間の意識になっているのです。

 男は女を姦淫の念によって見ているのです。なぜこうなるのかと言いますと、女はいないのです。女がいると思うから性欲によって見てしまうのです。

 本当の愛とは何か。太陽が地球を愛している。太陽の力とエネルギーが地球に放射されている。これは太陽が地球を抱いているのです。これが愛です。この愛が女になって現われているのです。

 女という人間がいるのではありません。太陽系宇宙に存在している愛を形で現わすと女になるのです。

 日本人は聖書を知らないのです。本当の聖書の読み方を知らないので、太陽と地球の関係ということが分からないのです。

 皆様は生まれる前に、花が美しいということを経験していたのです。だから、現世で花を見て美しいと思えるのです。

 皆様は花が美しいということを、誰かに教えてもらったでしょうか。学校では花が美しいと教えていないのです。美しさを人間は教えることはできません。

 皆様は子供の頃に、美しさというものを誰かに教えてもらったのでしょうか。花を見て美しいというのは人間の直感です。直感というのは、生まれる前の感覚をいうのです。これによって見たり聞いたりしているのです。

 皆様は命の勉強をしていません。このままで死んだらどうなるのでしょうか。死んだらどうしますか。このことをよく考えて頂きたいのです。

 宗教では命のことは分かりません。宗教は肉体的に生きている人間の教えです。この世に生きることだけを教えているのです。この世を去ったらどうするのでしょうか。

 皆様の霊魂は生まれる前に経験していたのです。生まれる前の感覚が、五官という形で働いているのです。だから、おいしいということが分かるのです。女性が美しいと思えるのは生まれる前の感覚です。人間の五官の働きは生まれる前の感覚で、おいしい、美しいというのは生まれる前のことを感じているのです。現世に生きている人間の意識ではないのです。これをよく考えて頂きたいのです。

 現在のキリスト教は、キリスト教の教義に基づいて聖書を見ているのです。キリスト教は教義を教えているのです。本当の聖書を教えているのではありません。

 聖書は神の言葉ですが、キリスト教の人々も聖書は神の言葉であると言っています。これは宗教的な角度からそう言っているのです。

 「人は神にかたどりて造られた」と書いています(創世記1・26)。現在の人間は神にかたどりて造られていながら、神が分かっていないのです。キリスト教でも神が分かっていません。

 神とは何かと言いますと、皆様が生きているということが神です。皆様の目が見えること、心臓が動いていることが神です。キリスト教ではこの神が分からないのです。 

 キリスト教は聖書を読んでいながら、神の実物を知らないのです。神の実物が分からないのです。「天にいますわれらの父よ、御名が崇められますように」と祈っていながら(マタイによる福音書6・9)、天にいますということが分からないのです。御名を崇めるとはどうすることなのか。これが分からないのです。

 人間は過去、現在、未来を考えなければ生きていけないような精神構造になっているのです。これが実は皆様の生命構造になっているのです。精神構造と生命構造は同じものなのです。

 人間はただこの世を去るだけではありません。現世に生きている人間は死んでしまいますが、霊魂は死んでしまったら終わりではないのです。

 皆様は五十年、六十年の間、この世に生きてきました。その記憶があるのです。皆様の記憶は現世に生きている常識の記憶ばかりですが、これが死んでからも残るのです。

 イエスは言っています。

 「目は体のあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどんなであろう」(マタイによる福音書6・22、23)。

 内の光というのは、皆様の中にある先天性のことです。持って生まれた知恵です。先天性の命です。これによって、味わったり、音や光を感じているのです。性と食をしているのです。

 人間は先天性がなければ生きていけないのです。先天性は肉体を持つ前の機能ですから、肉体がなくなっても消えてしまわないのです。

 皆様の中に目に見える自分と、目に見えない自分があると言いましたが、目に見えない自分は先天性の自分です。五官の感覚が先天性です。これが死なない自分です。

 肉体はなくなりますが、皆様の記憶はなくならないのです。これが裁きの対象になるのです。

 時間を知っている。空間を知っている。食物の味が分かる。これが人間の霊魂の働きです。この霊魂の目を開くことが必要です。

 皆様が持って生まれた命が霊魂の本体であって、これが肉体がなくなっても残っていくのです。霊魂不滅と言いますように、霊魂はなくならないのです。

 まず般若心経によって五蘊皆空を知って頂きたいのです。そうして、究竟涅槃によって、現世に生きている自分の気持ちを否定してしまうのです。

 仏教は現世を解脱することが目的です。究竟涅槃を体得することによって、現世を解脱することはできますけれど、死んでからどうなるのかについては、一切説いていないのです。ですから、皆様は霊魂の勉強をして頂きたいのです。

 皆様は過去、現在、未来を考えて生活しています。これが皆様の精神構造ですが、皆様の生命構造も同様です。生まれる前の人生と、現在の人生と、現世を去った後の来世があるのです。これが皆様の生命構造です。

 死んでからが必ずあるのです。だから、生活の問題よりも魂の問題を第一に考えて頂きたいのです。

 向こう岸とは何か。皆様が持って生まれた先天性が向こう岸です。これが仏性です。これが皆様の中にあるのです。

 まず皆様は自分が生きているという思いを解脱する必要があるのです。自分が生きているということの向こう側があるのです。

 皆様の中に先天性というすばらしいものがあるのです。赤いものを見たら赤く見える。甘いものを食べたら甘いと感じる。これが皆様の霊魂の働きです。これが皆様の命の実体です。

 これが今の人間には全然分からないのです。人間の知識、常識のために分からなくなっているのです。そこで般若心経の五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃を体得して頂きたいのです。

 生きているということが光になるのです。イエスはこのことを、「目は体のあかりである」と言っているのです。「あなたの目が澄んでいれば全身が明るいだろう」と言っているのです。

 皆様は自分の常識で生きていますが、これは生活の知恵です。生活の知恵は生活に関することになるのです。皆様はやがてこの世を去ることになりますので、魂の光を勉強しなければならないのです。

 皆様の中に先天性の機能があります。先天性の機能によってできた記憶が先天性の記憶であって、これが死んでからの命になる。これが永遠の命です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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