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  • 管理人chaya

命の認識

 現在の地球は、未完成です。人間も未完成なのです。これは、それほど難しい問題ではないのです。

 夜と昼がありますが、夜とは闇が地球にわだかまっている事実を示しています。昼とは光の力が働いていることです。この二つの力が働かなければ、地球では物が成立しないのです。

 今の地球は、いつ地震が起こるか分からない。これは、地球が未完成であることの証拠です。

 人間が死ぬということだけではなくて、台風がある、砂漠がある、いわゆる天変地異がいつ起こるか分からない。そういう状態はすべて闇の力が働いているからです。

 なぜこういう状態になっているかと言いますと、物理的に存在することは、弁証的に変化する原則を持っているからです。マルクスやヘーゲルは、一つの定義、定則を説明しているだけなのです。

 死ぬに決まっている人間は、未完成の人間なのです。地球自身も未完成です。アメリカやロシアにある一万七千発という原水爆を一度に爆発させますと、地球が消滅するのです。人間の力だけでも地球を滅することができるのですから、ましてや、大自然の力が本気になって働けば、地球は一瞬のうちに消えてしまいます。

 現在の人間は未完成です。男性も未完成です。本当の男性とは違うのです。だから、現在の人間が、最高の人間だと考えることが間違っているのです。

 ユダヤ人は、現在の人間が最高の人間だと考えているのです。完全な人間だと考えているのです。人間がこれ以上進歩しないように、ユダヤ人がおさえているのです。これが、欧米文明が根本的に間違っている点なのです。

 欧米文明は白人が考えた文明とは違います。ユダヤ人が考えた文明に、白人が踊らされているだけなのです。

 人間は、お互いに不信を抱かざるを得ないのです。このことは、人間が未完成であることをはっきり証明しているのです。こんな政治、経済、法律が完全なものと言えるのでしょうか。こういう不完全なものを、学問とか常識で鵜呑みにしようとしているのです。

 人間は現在、進化の途上にあるのです。地球は、進化の途上にあるのです。人間全体、地球全体を進化させなければならない責任は、人間にあるのです。

 これは、イエスという人の生き方を学べば分かるのです。イエスが死を破ったことは、地球が完成するという明白な証拠を提出したのです。イエスが死を破ったのは、歴史的事実です。宗教とは関係がない事実なのです。

 人間が死ななくなってから、二〇〇九年にもなるのです。ところが、イエスが死を破ったことがどうしても人間に分からない。二〇〇九年とは何かというと、人間が死ななくなってからの年号なのです。これが分かればいいのです。

 ところが、人間は世間の中に沈んでいる。人間の常識の中に沈みこんでいる。だから、本当のイエスが、全く見えなくなっているのです。この状態から、離脱しなければならないのです。

 般若心経は、人間の常識、知識を、五蘊皆空とはっきり言っているのです。まず、般若心経をまともに信じる気持ちになることです。そうでなければ、聖書をまともに信じることはできません。

 聖書は神の言葉です。神の言葉を信じる前に、人間の霊魂が神の言葉を理解するような能力性を培養しなければならないのであって、今までの人間の常識から解脱することが、どうしても必要なのです。

 利害得失の世界、常識の世界から出てしまうのです。今、一番必要なのは命の認識なのです。

 目が花を見てきれいだと思えるのは、霊魂が本当の命を持っていることの証明になるのです。魂が本当の命を持っていなければ、美しさが分かるはずがないのです。

 景色を見て美しいと思う。一体、景色とは何でしょうか。実は、人の命の本体が景色になって見えているのです。花を見て美しいと思う。同じことが富士山にも現われているのです。

 今の地球は、弁証法的に働いている世界です。そこで、人間の常識、知識を弁証法的に考えるのです。常識をテーゼだとすれば、イエスの考え方はアンチテーゼになるのです。この二つを合わせると、闘って、ジンテーゼになります。これが人間完成の標準なのです。

 イエスが死を破ったことは、肉体的、また、精神的に、最高のジンテーゼになるのです。イエスが復活したことは弁証法的実体において、人間が完成されることの歴史的事実なのです。

 人間の命は、弁証法的でなければ存在しないのです。だから、イエスの復活をアンチテーゼとして、私たちの命と復活の命を二つ並べて考えるのです。そうすると、私たちの命が今考えている命ではない、もう一つの命であることが分かるのです。この命が、この世に生まれる前の命であることが分かるのです。生まれる前の命ですから、死ぬこともないのです。

 今の状態では、人間は死ななければなりません。死ねば、基本的人権は一切通用しないのです。基本的人権はユダヤ人の寝言なのです。生きる権利がある。就職する権利がある。結婚する権利があると主張しても、心臓が止まれば、終りです。基本的人権は一瞬にして、空言になるのです。こういうものを信じていると、必ず死ななければならないのです。死んでしまうことは、業を果たさずに、自分の責任をはっきり自覚しないままで、この世を去ることなのです。

 現在の人間の人生観、世界観が間違っているのです。今から百年程前の日本人は、色即是空ということを考えていたのです。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」ということを誰でも知っていたのです。

 現在では、諸行無常の意味でさえも、本当に知っている人は非常に少なくなっているのです。しかも、それを理解した上に生活で実行している人は、めったにいないのです。

 諸行無常はただの空念仏ではないのです。今生きている人間の生態的実体なのです。

 肉体的生命にとらわれないで、生きているという事がらをよく見ればいいのです。生きている状態を客観的に見るのです。主観的に自分を見ないで、客観的に見るのです。それだけでいいのです。生きている自分から離れて、生かされている自分を見るだけのことなのです。

 万徳円満釈迦牟尼如来とか、イエス・キリスト様というから分からなくなってしまうのです。人の命の中に、釈迦牟尼如来も、イエス・キリストも全部入っているのです。これをつかまえたらいいのです。

 人間は、死なない命をつかまえる資格も権利もあるのです。理性や良心は死なない命を受け取る十分な力を持っているのです。

 花を見ればきれいだということが分かるのですから、その分かり方をよく理解すれば、イエスが死を破ったという事実を、自分の事実に置き換えることは十分にできるのです。

 その前に釈迦が言った、人間が生きていることが空だということをつかまえなければいけないのです。生きていることは空なのです。空でない人生とは、イエスが死を破ったという格好で、すでに現われているのです。空である命と、空でない命を仕分けして見ることができさえすれば、誰でもイエスと同じ命をつかまえることができるのです。

1.命をどのように見たらいいのか

 命をどのように見るかということですが、魂という角度から見るか、この世に生きている人間の角度で見るかです。

 般若心経は、観自在菩薩が般若ハラミタを了承したと言っています。般若ハラミタをつかまえた人格をさしているのです。だから、普通の人間の常識を持っている人間とは違うのです。

 人間には、この世に生きている人間と、般若ハラミタを心得ている人間と、二通りの人間がいるのです。このどちらを自分にしたいかということです。

 諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つを三法印と言いまして、この三つがよく分かりますと、専門家のお坊さんになる資格があるのです。宗派によって少し違う所もありますが、昔は坊主のことを法印と言ったのです。法印とは、この三つのことを知ることをいうのです。

 一番最初の諸行無常は、分かりやすいことなのです。行とは、すべてのことが存在することです。例えば、建物が存在することが行なのです。なぜ、行くという字を使っているかと言いますと、時間が流れているのです。時間が流れているように、物はすべて流れていると考えるのです。

 これは科学の理論から考えてもそう言えるのです。時間がなければ空間がない。時間と空間の両方は一つの状態です。時間が流れていることが、そのまま空間が流れていることになるのです。これが諸行ということなのです。

 常は一つの状態です。あり方が決まっていることを常と言います。無常とは、決まったあり方があるのではないということです。

 時間と空間はいつも流れている。事情境遇もいつも動いているのです。体の状態もいつも変化している。だから、諸行無常という考え方は、自分の肉体を見ればすぐに分かるのです。

 観自在菩薩は、普通の人間ではないのです。ところが、日本人は普通の人間として、般若心経を読もうとしている。観自在菩薩と普通の人間とでは、意見が違うのです。だから、五蘊皆空が分からないのです。

 そこで、般若心経を本当に信じるとすれば、観自在菩薩に接近することができるのです。本当に般若心経を信じたいと考えるなら、少々分かりにくい所があっても、のみこんでしまうくらいの度胸がいるのです。

 頭で分かっていても、生活でそれを実行するのでなかったら、本当に分かっているとは言えないのです。生活で実行できる程度までその人の魂が進歩しないと、神を信じることはできないのです。

 神とは、生きているそのことなのです。これは、非常に一方的な断定的な言い方に聞こえるでしょうが、神なのです。これは、存在と言えますし、また、命とも言えます。命と言っても、存在と言っても、神と言っても、天と言っても、皆同じなのです。

 それを、私たちは経験しているのです。目が見えることはよく分かります。毎日、目を使っていますから分かるけれど、それが神だとは考えていない。だから、神を経験していても、神を信じていないことになるのです。それが、日本人の基礎的な矛盾になっているのです。

 生きていながら、生きている事実が何であるか分からないのです。これが分かれば、死なない命が分かってくるのです。生きているという事実に、適合しているかいないかを考えるのです。

 自分の考えの間違いを認めることが、般若心経の最も歓迎することです。これが、般若心経の目的なのです。

 今、人間が生きている命は死ぬに決まっている命なのです。死ぬに決まっている命を、自分の命だと思っていることが間違っているのです。それを、五蘊皆空という言い方で教えているのです。

 今の人間が生きている命は、カルマとしてこの世に出てきた命であって、カルマとしての命は本当の命ではないのです。だから、今生きている命は間違っているのです。これは、人間としてこの世に出た以上、やむを得ない運命なのです。死ぬに決まっていることが分かっていながら、その命を捨てようとしない。捨てるというのは、何も首をつることではない、自殺することではない、命に対する見方を変えることなのです。

2.神とは何か

 宗教でいう神様が全部嘘というのではありませんが、宗教が造った神様はその宗教でしか通用しません。

 キリスト教で造った神様は、聖書の神とは全然違います。宗教観念で造った神です。それを神様、イエス様と言っているのです。

 宗教が造った神様は、髭が生えて、冠をかむっています。衣冠束帯の神ができるのです。

 神はそういうものではありません。神の実体は何かと言いますと、皆様の心臓が現在動いているそのことです。

 皆様の心臓が動いているというそのことがら、地球が自転、公転していることがらが神です。だから、神様といちいち口に出して拝まなくてもいいのです。

 命ということが神ということです。神が分かれば、命が分かるに決まっています。命と神は同じものです。宇宙の大生命が神そのものです。宇宙人格の実体が神です。

 日本人がお天道さんと言っているのは、直感的に神のことを言っているのです。お天道さんが皆様の心臓を動かしているのです。そういう意味で、宗教の神様をお信じにならないで、皆様方の命である神を直感して頂きたいのです。

3.常識と本心は違う

 現在皆様は常識で生きておいでになります。常識はいわゆる顕在意識です。顕在意識は現世に生きているという感覚で考えることです。

 現世に生きているという感覚で考える時には、無意識に現在生きている命を命だと思い込んでいるのです。

 常識でお考えになる時、肉体的に生きているということが、たった一つの命だと思い込んでおいでになるでしょう。これは人間としては当然のことです。肉体意識によって常識で考えれば、現世に生きている人間が命だと思えるのは当然です。

 これは死んでしまうに決まっている命です。例えば頬をつねると痛いと感じます。これは肉体的に生きている人間の感覚です。肉体的に生きているという条件での命です。

 この命は死ぬに決まっている命です。死ぬに決まっている命ですから、死なねばならないと誰もが思っているのです。肉体的に生きていることを基礎にして考えれば、常識的に死ななければならないと考えるは当然です。

 ところが、本心では死にたくないのです。常識的には死ななければならないと思いながら、本心は死にたくないと考えている。ここに人間の命の根本的な矛盾があるのです。

 死ななければならないという考え方で、死にたくないという気持ちを、割り切ろうとしても割り切れないのです。

 そこで、今までの自分の考え方を、空じることが必要になってくるのです。

 常識は般若心経で言えば五蘊です。常識にこだわっていますと、魂の声が分かりません。人間の本心、仏教的に言えば本願とか本望と言いますが、これを無視してしまうことになるのです。

 死にたくないというのが本当の魂の声です。魂の声に従うべきか、常識に従うべきか、どちらかに決めなければならないのです。

 現在、肉体的に生きている人間は死ぬに決まっています。この命を自分のものだと考えるか、これを乗り越えて死なない命を掴まえたいと思うか、どちらを取るかです。

 本心に忠実になって頂きたい。本心にできるだけ素朴に、正直になってお考えになれば、死にたくないという本心はあるに決まっているのです。

 死にたくないという本心を本当に勉強しようと思えば、死ななければならないという常識をかたずけなければならないのです。

 死ななければならないという常識は、人間が肉体的に生きている思いから発生するのです。ところが、肉体的に生きているというのは人間の概念であって、人間の命の本体は肉体的に生きているという条件によって、限定されてしまうものではないのです。

 イエスが死を破ったという事実があるのです。これは歴史的事実です。イエスが復活したその記念に日曜日があります。しかもこの日曜日は一ヶ月に四回、一年に五十回もあるのです。日曜日に休むというのは、仕事を休んだり、遊ぶためにあるのではない。イエスの復活の事実を静かに考えるためにあるのです。日曜日を休んでいる人は、自分はイエスの復活を知らない、イエスの復活に関係がないとは言えないのです。

 現在全世界で、イエスの復活の事実をはっきり記した新約聖書が数多く売られているのです。新約聖書が、毎年、世界中のベストセラーになっているのです。

 こういう事実が歴史的にあるのです。人間は死ななければならないものではありません。イエスが死を破ったことによって、人間は死ななければならないという考えが、歴史的に見事に否定されたのです。これが西暦紀元です。

 人間が死ななくても良い状態におかれてから、二〇〇九年にもなるのです。ところが、日本人は不幸にして、聖書を素朴に素直に読むことができません。だから、死なない命があるはずがないと初めから思っているのです。

 こういう日本人の考えを入れ替えればいいのです。いわゆる五蘊皆空であって、自分自身の考え方、つまり目で見ている世界、意識している世界が忘念だということがお分かりになれば、もう一つの考え方が発生するのです。

 今までの常識や知識によって、皆様の霊魂が束縛されてしまわないことが、一番必要です。常識を信じることをやめて、率直に皆様の本心を見ていけばいいのです。

 常識は現在生きている間だけしか通用しません。生きている間だけしか通用しない常識を棚上げにして、イエスが死を破ったという事実を受け入れてください。

 イエスが死を破ったという事実は、すべての人が死を破ることができるということを、明白に示しているのです。

4.死にたくないのになぜ死ぬのか

 人間は絶対に死ななければならないということを知っていながら、絶対に死にたくないと考えています。死にたくないと考えていながら、死ななければならないと考えている。これはどういうことでしょうか。これをよくよく考えて頂きたいのです。これは絶対矛盾の自己同一ですが、ここに深い意味があるのです。

 死にたくないということを誰でも思っていながら、また、死ななければならないと考えている。これが何を意味するかと言いますと、死ななければならないと考える自分と、死にたくないと念願する自分の二人の人格が、一人の人間の中に住み込んでいることになるのです。

 この人格構造が良く理解できないために、死にたくない、死にたくないと思いながら、みすみす死んでいくことになるのです。

 死にたくないと本当に思うなら、死にたくないという人格だけにしたらいいのです。精神を一体化したらいいのです。非常に簡単なことです。実際にこれを生きて死なないということを証明したのがイエスです。イエスの復活が見事にこれを実証しているのです。

 もし本当に死にたくないのなら、イエスの真似をしたらいいのです。イエスが生きた生き方をもらってしまえばいいのです。

 日本の大乗仏教には色々な教説がありますけれど、要約して言えば、成仏が集約的な見本になっています。

 禅宗では一切空と言います。そう言いながら、本堂には仏像を祭っています。一切空と言うのなら仏像を拝むのはおかしいのです。何も祭る必要はありません。日本の禅にはこういう所に、もやもやしたものがあるのです。だから日本の禅は本物ではありません。むしろ、他力本願の浄土真宗のようなものの方がすっきりしているのです。

 一向宗の門徒一揆が日本の戦国時代にありました。徳川家康も門徒一揆にはさんざんてこずって、閉口しているのです。

 門徒という、いわゆる他力本願の考え方は、実は日本の仏教を代表しているような思想です。真言宗も、結局は仏を拝んでいるのです。禅宗も仏を拝んでいるのです。

 仏を拝まない仏教は日本にはありません。仏を拝むというのは、他力本願に通じるのですが、仏を拝むというのがおかしいのです。

 念仏を申せば、何とかなると思っている。ところが仏教では、本当の念仏を知らないのです。本当の念仏を知らずに念仏を唱えている。

 成仏ということは仏になることです。仏になるということは、きれいさっぱり自分がなくなってしまうことなのです。誰でもお亡くなりになった時の顔は、非常に柔和な顔になっているのです。成仏したような顔になるのです。そうなるに決まっているのです。そうなればいいのです。

 皆様もお亡くなりになれば、別人のような顔になっているでしょう。死にたくない、死ななければならないと思っているのは、死ななければならない命で生きているからです。だから死にたくないと思うのです。これは矛盾しているようですが、一貫しているのです。

 死んでしまうと、その人の命が無くなってしまうのです。般若心経でいう究竟涅槃になってしまうのです。遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃とありますが、こうなってしまうのです。

 そうすると人間が生きているという灯、命の灯が消えてしまいます。これが成仏ですが、そうなってから神を求めてもだめです。

 人間のあらゆる意味での思想の本質、命の本質、生活形態の本質は円相です。これが活性化の原形です。円相の下が死で、上が生です。死ぬことが成仏することです。成仏すれば仏になります。

 キリスト教で本当の神が分からないのは、仏が分からないからです。キリスト教の信仰には仏がありません。仏がないから神が分からないのは当たり前です。

 仏というのは人間が死んでしまうことです。これをイエスは、「己を捨てて、己が十字架を負え」と言っているのです。これは仏になれということなのです。

 ところが、キリスト教では己を捨てることが分からないのです。むしろ、却って自分が救われたいと思うのです。これが間違っているのです。

 浄土真宗でもそのことが言えるのです。他力本願の念仏は、念仏しながら仏になっていないのです。念仏申すというのは、自分が仏になることを意味するのです。仏にならなかったら、いくら念仏申しても何にもならないのです。

 仏説阿弥陀を読んでみますと、阿弥陀如来の名号の由来をよく心にとめて念仏申すなら、臨終の時に仏が迎えに来てくれると言っているのです。

 これは本当ですが譬です。阿弥陀経は宗教です。阿弥陀経の文句は嘘ではありません。嘘ではありませんが、これは抽象的な真実です。抽象的な真実は嘘ではありませんが、実物ではないのです。抽象概念の真実は嘘ではありませんが、本物ではないのです。これをよくご承知して頂きたいのです。

 仏典と聖書とどこが違うかと言いますと、聖書にはイエスというご飯を食べた人間がいたのです。鼻から息を出し入れしている人間が、現実にいたのです。小便をしたイエスがいたのです。

 阿弥陀如来は抽象人格であって、ご飯を食べていた人格ではないのです。そこで、仏教をいくら勉強しても、抽象概念から出ることはできません。

 聖書は実物の人間、現世に生きている人間を問題にしているのです。ところが、現世に生きていたイエスが神になってしまったのです。死を破って復活したことによって、神になってしまった。そうなると、もう分からないのです。神になったということの実体の説明が、今のキリスト教では全くできないのです。

 従って、キリスト教はだめなのです。仏教もだめです。すべて人間が行き着く所は死です。これ以外に行く所はないのです。

 一切空というのは、命の実体を掴まえたことにはなりません。遠離一切顛倒夢想というのは、成仏したということで、命を掴まえたことにはならないのです。

 涅槃とは人間が消えてしまうことです。人間が消えてしまいますと、成仏するのです。

 成仏するというのは死んでしまうことです。死んでしまったら命が分かるかと言いますと、分かりません。死んでしまっただけではだめなのです。

 生きているうちに、ナムアミダブツと言っていなければだめだと、阿弥陀経は説いているのです。阿弥陀とは無限という意味です。皆様の脳細胞の中には、無限が入っているのです。皆様の理性は無限を求めている。皆様の良心は無限の善を求めている。理性は無限の真実、絶対の真理を求め、良心は絶対の善を求めているのです。善も真理も同じことなのです。

 皆様の理性と良心は、円相の外、彼岸を求めているのです。どんな哲学でも、どんな宗教でも、円相の壁を破ることは絶対にできません。

 文明、人間の生活は円相の中をうろうろしているだけです。これが人生でありまして、生きているうちに死にたくないと願うだけではなくて、死ななくてもすむような方法の一端を掴まえるのです。念仏するというのはその方法です。

 念仏は人間の本質が命であり、光であること、これが禅の本質であると言いたいのです。新約聖書ヨハネの福音書の一章一節に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言に命があった。そして、この命は人の光であった」とあります。つまり、阿弥陀経の本質が書いてあるのです。

 世界には本当の真理は一つしかありません。人間の本質は命と光です。これ以外にはありません。人間の常識は、ただ円相の中をぐるぐる回っているだけです。これが人間の思想の状態です。

 ところが、皆様が生きておいでになるという事実があります。脳細胞が働いている、脳波が活動しているのです。脳波がストップしてしまえば、心臓が動いていてもだめです。人権は一切通用しないのです。

 人間は円相の中をうろうろしているのです。ところが、皆様には命があります。脳波が働いています。脳波というものは、光の源泉と同じ性質を持っているのです。

 脳波は仏教的に言いますと、無量寿如来です。理性の働きが無量光如来です。精神の働きと言ってもいいのです。人間には精神力的な働きと、生理機能の働きと両方があるのです。精神機能がいわゆる光であり、脳波の働きは無量寿如来、光ですが、その原料は神の言葉です。

 阿弥陀如来は、人間の本体が命と光であるということが分かった人格を言います。命と光は宇宙の初めから存在する法です。法はダルマですが、ダルマと言は同じものです。

 ダルマには歴史的な裏づけがありません。聖書の言は歴史的に裏づけがあります。ここが違うのです。神の言は歴史があります。宗教の概念には歴史がないのです。そこが違うのです。

 言が分かると、死なない自分が分かるのです。人間はなぜ死ななければならないのか。常識で生きているからです。常識的に生きている自分を見ずに、客観的に生かされている状態を見ればいいのです。

5.観自在とは

 自在の自は初めという意味です。これを聖書で言いますと、初めに神が天と地を造ったという言葉が創世記の一章一節にありますが、これが初めです。

 初めはすでに時間が始まっていることを言いますが、自在の自は初めの前のことです。時間の制定がなかった時を自というのです。

 自在とは初めからあったものです。初めからあったものを見たとは、神を見たという意味です。神の実物を見たのです。

 観自在が人間の本源です。人間だけでなくて、万物は神から出て、神によって生きて、神に帰るのです。これをパウロはローマ人への手紙の十二章で述べています。

 人間は万物を代表する存在でありまして、自在を弁えなければいけないのです。ところが、現在の人間は現世に生きていることだけが仕事になっている。これは自在ではないのです。現世の人生は仮定の人生です。暫定的な命でありまして、現世でいくら長生きしても、九十年から百年くらいです。百才まで生きて何になるかと言いますと、死んでしまうだけです。

 現在の人間が何のために生きているのかと言いますと、ただ死ぬために生きているのです。

 人間は欲望の満足のために生きている。そして死んでしまうのです。神に帰らないで、虚無に帰っていくのです。虚無に帰ると、発言権が全くなくなってしまうのです。

 皆様の心臓が止まっても皆様の記憶は消えません。人間の本体は魂です。魂の本性は理性と良心です。理性と良心の本体は精神です。精神が人間の本体ですので、皆様が現世で色々経験されたことは、精神的な記憶として累積していきます。魂に刻みこまれていくのです。

 肉体は電気炉で燃やせば灰になってしまいます。記憶は灰にはならないのです。これが問題です。死んでしまえばそれまでと言って、すましておけないのです。自分が責任を取らなければならないのです。

 現世に生きているのは、仮の人生を生きているだけです。それを皆様はよくご承知のはずです。仮ということはご承知ではないかもしれませんが、死ななければならないことはよくご承知でしょう。

 死ななければならないということは、本当の命を持っているのではないということを、はっきり示しているのです。

 そこで、肉体の命がある間に、目の黒いうちに、本当の命がどこにあるか、自分のルーツがどこにあるかを見つけなければならないのです。

 これはやろうとすれば誰でもできるのです。自分のルーツを捜し求めることが、人間の責任であり義務です。自分自身が何十年もこの世に生きていることに対する責任です。これをせずに、権利だけを主張していきますと、この世を去ってから責任を追求されることになります。

 般若心経は五蘊皆空と言っています。これは人間の考えは皆間違っているという意味です。自分自身の判断は、ルーツを掴まえていない判断ですから、皆間違ってしまうのです。

 ルーツを掴まえないで、人間の生活感覚を自分の基本にしていますと、バカを見ることになるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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はじめに

従来から、般若心経は仏教の経典であり、聖書はキリスト教の教典であると考えられ、各々全く別のジャンルに属するもので、両者に共通点は全くないと考えられてきました。 ところが、釈尊の悟りにいたる境涯を詳しく調べていきますと、驚くべきことに、そこに新約聖書の根底と切っても切れない関係があることが判明したのです。 言い伝えによりますと、釈尊はヒマラヤ山の南のふもとを流れるローヒニー河のほとりの釈迦族の皇太子

般若心経と聖書をまっすぐに読む

般若心経と聖書をまっすぐに読めば、死なない命は簡単に分かるのです。ところが、般若心経と聖書を、宗教の角度から読んでいきますと、いくら読んでも分からないのです。般若心経と聖書を、まっすぐに読むとはどうすることかと言いますと、自分が生きている姿を、そのまま客観的に見るのです。そういう気持ちで、般若心経を読む、聖書を読むのです。これが大切なのです。 1.般若心経に読まれる 自分が生きているという見方で、

般若ハラミタ

般若心経は、般若ハラミタと言っていますが、彼岸がどういうものか、全然説明していません。彼岸へ行ったとはどこへ行ったのか。向こう岸へ行ったというでしょう。向こう岸とはどこにあるのか。釈尊自身にも説明できないのです。 なぜかと言いますと、釈尊が見た一見明星は、やがて来るべき新しい国を見ているのです。しかし、釈尊は現実にそれをつかまえたわけでも、そこに生きたわけでもないのです。 そこで、釈尊の思想である

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