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  • 管理人chaya

般若ハラミタ


 般若心経は、般若ハラミタと言っていますが、彼岸がどういうものか、全然説明していません。彼岸へ行ったとはどこへ行ったのか。向こう岸へ行ったというでしょう。向こう岸とはどこにあるのか。釈尊自身にも説明できないのです。

 なぜかと言いますと、釈尊が見た一見明星は、やがて来るべき新しい国を見ているのです。しかし、釈尊は現実にそれをつかまえたわけでも、そこに生きたわけでもないのです。

 そこで、釈尊の思想であるかどうか分からない、仏国浄土という思想ができてくるのです。釈尊は明星を見たが、明星の実体について全然説明していません。できなかったのです。

 宇宙は、厳然として明星を見せるのです。それきり、何の説明もしないのです。神とはそういうものなのです。

 イエスが死から甦ったことは、人間に新しい歴史が存在するに決まっていること、新しい歴史がこの地球に実現するに決まっていることを、示しているのです。

 旧約聖書でダビデは、神の真実がこの世でありありと現われるのでなかったら、神を信じないと言っているのです。神の恵み、愛、永遠の命がこの世で実際に証明されるのでなかったら、神なんか信じないと言っているのです。

 イエス・キリストはダビデの末裔であって、ダビデの思想を受け継いでいるのです。そこで、イエスが復活したことは、実は、人間完成の実体が示されたことになるのです。今の肉体ではない、もう一つの体があること、今の肉体を脱ぎ捨てて、もう一つのボディーを受け取ることが、本当の人間完成だと聖書は断言しているのです。

 これが、イエス・キリストの復活というテーマであって、人間のあらゆる学問の精髄を傾けて研究すべきテーマなのです。どうして彼は復活したのか。復活した彼の肉体はどういうものであったのか。やがて、この地球上にどういう関係を持つようになるのか。この地球はどうなるのか。人間社会はどうなるのかということです。

 これを知ることが最高の学なのです。これ以上の学はありません。これが本当の般若ハラミタになるのです。釈尊はこれをねらっていたのです。やがてこの地球上に現われるべき新しい歴史、新しい人間の命のあり方を、明星によって看破したのです。

 もし、釈尊の一見明星という悟りがなかったら、実は、新約聖書の根底が成り立たないとさえも言えるかもしれないのです。こういう見方は今まで世界になかったのですが、釈尊の悟りを延長するとそうなるのです。

 釈尊の般若ハラミタは、決して空論ではない。しかし、釈尊の時は未来に現われる歴史が分からなかったのです。だから、どう説明していいか分からなかった。弥勒というように言われていますけれど、これが皆宗教になってしまっているのです。

 イエスの復活が現実に生きている人間に、どのような具体的なかかわりがあるのか。イエスの復活という問題が、もしこの地球上において実際生活で経験できないようなことなら、聖書など信じる必要がないのです。

 従って、般若ハラミタはあるに決まっているのです。彼の土へ渡ることは絶対にあるのです。

 やがて、文明は自滅していきます。自壊的に崩壊します。今の文明は人間がつくった文明ですから、永遠に存在するはずがないのです。

 しかし、人間が生きているという事実は無くならないのです。これは、イエス・キリストの復活によって、すでに証明されているのです。もう結果が見えているのです。これが、新約聖書の本体です。

 イエス・キリストの復活の他に命はありません。だから、その命の中へ入ってしまえばいいのです。それだけのことです。これが、彼岸へ渡る方法です。

 この命の中へ入ろうとする人は、なかなかいないのです。日本人の場合、大変難しいのです。日本人は、民族の伝統として聖書と関係がないのです。いわゆる異邦人なのです。異邦人は旧約時代には獣扱いをされていたのです。

 今、人間が生きている命は、すでに復活の命になってしまっているのです。彼岸は来てしまっているのです。これを、キリスト紀元というのです。キリスト紀元というのは、神の国が実現してしまっている時を意味するのです。迷っている人間には分からないだけのことです。

 イエス・キリストの復活が、学の対象になるべきなのですが、ユダヤ人がそれを妨害しているのです。専門学を並べて文句を言っているのです。イエス・キリストの復活は、歴史の完成、地球の物理的な完成を意味するものであって、これこそ唯一の学の対象になるべきものなのです。

 般若心経は、神の国の実体を述べていないのです。ただ入口があることばかりを言っているだけであって、般若ハラミタの実体の説明、彼岸の実質の説明は一切していません。だから、般若心経だけではだめなのです。揚帝揚帝 般羅揚帝ということはおかしいのです。是大神呪 是大明呪 是無等等呪も、般若心経だけで考えますと、おかしいのです。般若心経が最高のものだと言っていますが、もう一つ最高のものがあるのです。イエス・キリストの復活という事実です。これは、般若ハラミタよりももっと大きいのです。

 今までの宗教観念や文明の感覚、学問に対する感覚という小さな考えをやめるのです。それよりもっと大きいものをつかまえるのです。

1.般若心経に従い、聖書を学ぶ

 パウロは次のように言っています。「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安である」(ローマ人への手紙8・5、6)。

 肉(人間の常識、知識)に従いながら、聖書を学んでいても学べないことはありません。

 現世に生きている肉体人間を自分であると考え、固有名詞の自分を信じている状態で、聖書を学ぶことはできます。現在のキリスト教の人々は、それをしているのですが、皆宗教になってしまうのです。

 それはできないことではありませんが、しても無意味です。神の前には無価値です。聖書を学ぶということは、霊(物事の本質)に従って学ばなければ本当のものにはならないのです。

 霊に従って学ぶということは、なかなかできません。そこで、般若心経によって、五蘊皆空の原理を学ぶこと、色即是空の原理を学ぶことです。

 般若心経に対しても純真な気持ちを持って学んでいけば、自分自身を空じることができるでしょう。柔軟な気持ちを持たなければ、霊に従うことはできません。これが、般若心経と聖書の両方を学ぶという意味なのです。

 般若心経に従って、まず肉体的に生きている常識的な自分を解脱するのです。常識的な自分を解脱しなければ、聖書をいくら学んでも、ただ観念の遊戯になるだけです。これではだめです。何の役にもなりません。

 色即是空という言葉をいくら理屈で知っていても、本当に生活で実行できなければ、聖書を学ぶことが無意味になるのです。

 皆様はキリスト教はもちろん、般若心経もご存じではありませんので、自分自身の肉の思いをどのように空じたらいいのかが分からないのです。肉の思いを滅却する要領がさっぱり分からない。分からないから、学校で受けた教育をそのまま信じている状態で、聖書を勉強しているのです。だから、いくら信じてもだめです。まともな信仰は絶対に持てません。キリスト教で三十年勉強しても、五十年勉強しても、まともな信仰にはなりません。

 そこで、般若心経に基づいて、人間の常識、知識を捨ててしまうのです。五蘊皆空を体得するのです。

 人間が肉体的に生きていることがカルマ(業)であることを、はっきり認めることです。肉体的に生きていることがカルマです。カルマを鵜呑みにしたままの状態で、神の真理を考えてもだめです。

 聖書はカルマという言葉を使っていませんが、罪と言っています。人間は皆罪を犯したので、神の栄光を受けることができないと言っています。常識で生きていることが罪を犯しているのです。心にもないおべっかを言ったり、駆け引きをすることが罪になるのです。

 人間が普通に生きていて、普通に商売をすることが、聖書によれば罪です。だから、神の栄光をまともに受けることができません。自分自身の魂の経験の中へ、神の福音の実体を取り入れることができないのです。

 皆様方が現在までの状態で、常識的な考えを持ったままで、聖書を勉強してもだめです。原罪という常識が皆様の頭にこびりついている以上、聖書の勉強が空転しているのです。思想的には分かっていますが、意識的には分からないのですから、本当の信仰にはならないのです。だから、命にはなりません。

 肉の思いとは何か。肉体的に生きている自分を認める場合は、肉に従って生きることになるのです。霊(本質・本体)に従って生きようと思えば、肉体的に生きている自分を認めないという場に立つのです。強引にそうするのです。

 例えば、今まで甘いものが好きであった人は、甘いものが好きであったという自分から別れてしまうのです。男性的な性欲を考えていた自分と、別れてしまうのです。

 今までの皆様は死ぬに決まっています。しかも、常識的でなければ聖書が学べないくらいに、人間の霊魂は腐ってしまっているのです。

 現在では、文明が腐っている。完全に腐っているので、こんな人間の常識状態では聖書が信じられるはずがないのです。

 聖書の値段を正しく皆様に紹介すれば、こういうことになるのです。肉の思いは死である。肉体的に生きていて自分を認めるという思想を持ったままで聖書を信じることになりますと、いくら勉強しても永遠の命にはなりません。

 言葉で言えば非常に難しいことになりますけれど、肉体的に生きていると考えていることが、騙されているだけのことです。だから、肉体的に生きているという自分の気持ちが騙されているということに気づけばいいのです。

 例えば、砂糖を舐めれば、甘いと感じます。これは肉の思いとは違います。霊です。霊の思いです。皆様の味覚は生まれる前の味覚が、皆様の舌にある。これで甘いと感じているのです。これが霊です。

 生まれた後のことは肉の思いです。生まれる前は肉の思いではありません。砂糖を舐めて甘いと思うことが、肉の思いではないとすると、生まれる前の感覚が皆様の舌にあることになります。これにお気づきになりますと、皆様の生活は生まれた後の生活ではなくて、生まれる前の前世の感覚であることが分かるでしょう。生まれる前の感覚が、そのまま現在働いている。これが霊の思いです。前世の感覚です。

 人間の感覚は味覚だけではありません。視覚も聴覚も、触覚、嗅覚も、皆前世の感覚です。霊です。

 触っていることが前世の感覚です。霊です。それを肉体の感覚だと思うから、間違ってしまうのです。

 私たちの両親が間違っていた。兄弟が間違っていた。親戚の人たちが間違っていた。社会一般の人々が間違っていたのです。そういう間違いを、生まれてから今日まで、ずっと植えつけられてきたのです。

 皆様は生まれる前に、五官というすばらしい霊の感覚を与えられていました。これが現在のリビングの実体です。

 ですから、皆様のリビングの実体はとこしえの命です。それを肉の思いで受け取るから、肉になってしまうのです。

 メロンを食べておいしいと思う。肉体的な自分が食べておいしいと思うから、肉の思いになってしまうのです。受け止め方が悪いのです。

 現世の常識が悪いのです。甘い、おいしいと感じる感覚が悪いのではない。感覚に関する感じ方が悪いのです。だから、五蘊皆空です。人間の感じ方、考え方は全部間違っているのです。

 人間の行動の一つ一つが悪いのではなくて、行動に対する思いが間違っている。そこで思いを替えるのです。

 パウロは、心を替えて新しくなれと言っています。人間の思いの霊(あり方)を新しくする。生まれた後の感覚ではなくて、生まれる前の感覚で生活をしなければいけないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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