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般若心経と聖書をまっすぐに読む


 般若心経と聖書をまっすぐに読めば、死なない命は簡単に分かるのです。ところが、般若心経と聖書を、宗教の角度から読んでいきますと、いくら読んでも分からないのです。般若心経と聖書を、まっすぐに読むとはどうすることかと言いますと、自分が生きている姿を、そのまま客観的に見るのです。そういう気持ちで、般若心経を読む、聖書を読むのです。これが大切なのです。

1.般若心経に読まれる

 自分が生きているという見方で、般若心経や聖書を読んでいきますと、自然に宗教になってしまうのです。自分が般若心経を読むのではなくて、般若心経に、自分が読まれるようにするのです。般若心経の字句を土台にして、自分の気持ちを考えるようにするのです。

 自分の気持ちを土台にして、般若心経を見ないで、般若心経を基本にして、自分の気持ちを調べてみるのです。自分が般若心経を読むのではなくて、般若心経に読まれるような、素直な気持ちで読むことが必要なのです。

 般若心経の五蘊皆空という思想は、現代文明に類例がないと言えるほどの、非常にすばらしい文化思想の基本になっているのです。ところが、現代の日本人は、ヨーロッパ文明にかぶれてしまっている。完全に西欧文明にひきずり回されているために、般若心経が全く分からなくなっているのです。

 日本人は般若心経を非常に愛し、尊重する気持ちを持っていながら、般若心経の内容が分からなくなっている。まじめに、素朴に、般若心経を読むことができなくなっている。般若心経をまともに読む気持ちのない者が、聖書をいくら読んでも、分かるはずがないのです。

 聖書を書いたのは人間ですが、神の思想によって書かれているのです。神の思想は、般若心経をまともに読む気持ちがなければ、分からないのです。そこで、般若心経と聖書は、非常に重要な関係があるのです。

 人間が生活している気持ちは、根本から、皆間違っていることを認識しないままの状態で、神が分かるはずがないのです。神が分からない者が、神の言葉である聖書が、信じられるはずがないのです。

 キリスト教の信じ方は、西欧人が聖書を信じている信じ方なのです。西欧社会は、命をまっすぐに見ることができない社会です。この世に生活することを中心に考えている。学問も、宗教も、芸術も、すべて、人間が生活することを基本にしてしか、物事が考えられないという、非常に悪い癖を持っている。その癖が、今の日本人にそっくり映ってしまっている。だから、今の日本人は生活ということを考えないで、般若心経が読めなくなっているのです。

 現在、人間が生きている命は、必ず死ぬのです。八十年、九十年と生きてきた命は、必ずなくなるのです。この世に生きている間は、自分の常識、理屈が通用します。人間は記憶に基づいて生きているのです。記憶というのは、現在生きている間しか通用しないのです。

 ところが、人の霊魂がこの世に生きている間は、ほんのしばらくです。この世を去ってから、魂は永遠の営みに入るのです。

 もう少し詳しく言いますと、人の魂の本質は、五官の感覚です。ところが、五官の用い方が間違っているのです。この世に生きている常識だけで、五官を使っている。そういう五官の使い方をしていますと、この世を去ってから、その人の霊魂は、盲になったままの状態で、後生という非常に大切な命のあり方の中へ、入っていくことになるのです。

 人間の生涯は、生まれる前の前生と、現在生きている現生と、死んでからの後生の三つに分かれているのです。時間に対する人間の観念が、過去、現在、未来の三つのあり方で見ているということは、人間の命が、過去、現在、未来の三つのあり方で存在しているからなのです。

 人間は、自分の命のあり方に従って、時間を見る本能が与えられている。本能性というのは、人間の命の本質性のことなのです。人間の命の本質が、現世の人間の命の本能に現われている。ところが、本能のあり方が、現代文明によって、殺されてしまっているのです。現代文明が、魂を殺しているのです。これに気がつかないままの状態で、この世を去ってしまいますと、霊魂ははっきり審判されます。

 人の霊魂が、審判されなければならないことは、良心がよく知っています。人間は良心によって、現在の生き方が、決して完全ではないことを、よく知っているのです。

 そのように、良心の働きは人間の本能なのです。理性と良心の働きは、五官の働きと同じように、魂の本能なのです。命の本能なのです。

 命の本能によって、人は死なない命があることを、うすうす知っているのです。ところが、文明にひきずり回されて、世間並の物の考え方をしなければならないように、思い込まされている。人間の魂は、文明にひきずり回されてはいけないのです。

 魂は、文明のためにあるのではありません。文明が、人間の魂のためにあるべきなのです。

 ところが、西欧主義の現代文明は、魂のことを考えないで生活のことしか考えていない。その結果、人間の思想状態は根本から間違ってしまっているのです。

 学校教育という名によって、人間の霊魂はめちゃくちゃにされてしまっているのです。社会常識という名によって、人間の霊魂は盲にされているのです。こういうものによって、人間の霊魂は殺されてしまっているのです。

 政府は、その責任をとってくれません。自分の霊魂の責任は、自分が負うしかないのです。

 女の人は男の人と結婚します。結婚をして男が女の霊魂の責任を負ってくれるかというと、全然負ってくれないのです。男は生活すること、お金儲けに一生懸命になっていて、妻の霊魂を考えている男は一人もいないのです。大体、一家の主人は、家族全体の霊魂の責任を負わねばならない義務があるのですが、それを考えている主人は一人もいないのです。

 現代の人間の常識は、死んでから一切通用しません。教育も一切通用しません。

 現在、人間が生きている命は、やがてなくなってしまうのです。そうすると、お先真暗です。お先真暗のままで、永遠に生きていかねばならないのです。

 人間の魂は、死んでしまえば消えてしまうものとは違います。何十年間かこの世に生きてきた記憶は、電気ガマの中に入れて焼いても灰にはなりません。間違った記憶を抱いたままで、死んでしまうのです。これは、全く恐ろしいことなのです。

 現世に生きている間は、人間本位の理屈が通用しますけれど、この世を去ってしまえば、人間は絶対者の前に出なければならないのです。

 神と言っても、仏と言っても、いずれにしても、人の命を司る絶対者がいるのです。

 命は、自分が造ったものではありません。自分が造ったものではないけれど、人に命が与えられています。そうしますと、人に命を提供している絶対者がいるに決まっているのです。

 絶対者は神と言っても、仏と言っても、お天とうさんと言ってもいいのですが、命は人間が造ったものではありません。

 人の命の本能性は、絶対者によって造られたものです。この絶対者が、今の日本人には分からなくなっている。全く困ったものです。人間の考え方が、根底から間違ってしまっているのです。死と命についての考え方が、間違っているのです。

 人間は死にたくないと思いながら、死んでいかねばならない。なぜ、そういうことになるのだろうか。これは、死にたくないという自分の本心が、分からないままでいるからです。これは、何でもないことです。死にたくないという本心の意味が分かれば、人間は死ななくなるのです。つまり、本心によって生きないで、この世の物心で生きている。これが間違っているのです。

2.本心と常識

 本心と常識は、全然別物です。人間は常識がなければ生きていけないと思っている。電車に乗る時、バスに乗る時、常識がなければ乗れません。生活常識は、生活のために必要な常識なのです。命のためとは違うのです。

 ところが、自分の常識だけで、命のことまで考えようとしている。これは根本的な間違いなのです。

 現代文明は、生活だけを考えている。肉体的なことだけを考えている。これが物心です。人間はこの世に生まれて、物心の缶詰みたいになっている。二歳、三歳頃から物心がつきはじめて、何十年もの長い間、物心、常識一点ばりで生きてきたのです。その結果、命が分からなくなっているのです。

 死にたくないという気持ちをよく知っていながら、死ななければならないと考えている。

 死ななければならないと思うのは、常識の方です。肉体的に生きている者は、死なねばならないと常識的に考えているのです。

 肉体は一種の消耗品です。ところが、本心を保つための肉体のことだけを考えさせられていて、これが自分のすべてだという考え違いをしているのです。常識は肉体を保つためにだけあるのです。

 本心とは何の関係もない肉体を保つだけの常識が、精神のすべてだと考えている。これは、現代教育の基本的な間違いです。現代文明の恐るべき錯覚なのです。これは、元を正せば、ユダヤ人の思想からきているのです。

 ユダヤ人のことが、日本人には全く分かっていません。ユダヤ人が、世界の経済をリードしているとか、思想的にリードしていると言っている人はいますけれど、人間の命に関して、ユダヤ人がどういう間違いをしているかが全然分かっていないのです。

 経済や政治の問題は、常識の問題なのです。これは、大したことではないのです。

 人間が本当に考えなければならないことは、死にたくない人間が死なねばならないという、根本的な矛盾です。どうしてこういうことが起こるのかということです。

 死にたくないのなら、そういう考え方が文明においてなされなければならないはずですが、死にたくないと思っていながら死なねばならない生活を送っている。これは、命が分かっていないからなのです。

 生きていることは、命を経験していることなのです。ところが、命について、学問も、宗教も、教えてくれないのです。これは世の中が悪いのではなくて、文明が持っている性格が間違っているのです。

 そのために人間は、文明の性格の犠牲になって、死にたくないのに死なねばならない状態におかれているのです。文明が根本的に間違っているのです。

 般若心経は、人間のあらゆる思い、考え方が、根本的に「空」だと言っているのです。般若心経の思想は、現在の世界文化の中で最も優れた思想なのです。現在の人間が、現在の精神状態で生きていることは、全く空しいことだと言っているのです。現代文明の感覚で常識的に生きていることになりますと、一生が無駄に終わってしまうのです。

 こういう仕事をした、ああいう仕事をしたという気持ちはあるでしょう。それは、生活のために仕事をしただけのことなのです。

 国家に対して、相当の功績のある仕事をした人でもだめです。この世がやがてなくなってしまうからです。

 この世は、偽りの感覚に立っている、浮き雲の社会です。五蘊皆空の社会です。般若心経で言いますと、人間の考えは根本から間違っているのです。

 間違った思想に基づいて、社会構造ができている。国家組織も、社会構造も、根本が間違っているのです。やがて、国家も、社会も、崩壊してしまうでしょう。

 存在の根源が分かっていないのです。人間は、現在、地球の上に生きています。しかし、地球の存在原理が分かっていない。これは、人間の肉体が存在する根本原理が、分かっていないということなのです。

 現代の文明は、人間の魂を盲にしてしまっている。教育だといって、勝手に騒いでいるのです。大学を出て何になるのでしょうか。ただ仕事をするだけなのです。仕事はしなければなりません。それは、現世における人間生活の、つっかい棒になるだけなのです。ところが、そのつっかい棒は、現世に生きている間しか通用しないのです。

 人間の命は、この世に生きている間だけのものではないのです。死んでからがあります。人の霊魂は、死ねば消えてしまうものとは違うのです。この世に、八十年、九十年生きていたという記憶は、火葬場で灰にすることはできません。肉体は灰になりますが、記憶は灰にはならないのです。

 記憶という形で、人生は死んでからもずっと継続するのです。常識的に生活している人、常識だけしか考えない人は、死んでからどうなるかが全然分からないのです。

 宗教はひどいものです。仏教も、キリスト教も、新興宗教も、人間を騙してばかりいるのです。騙して、お金を取るのです。宗教は商売なのです。そういうことを無意識にしている。それが、立派なことのように考えているのです。

 立派なことのように考えなければ、宗教商売はできないのです。これは、宗教家が悪いのではなくて、そういうものに騙される人の方が悪いのかもしれません。

 現在、大学で教えている学問も、教会やお寺で説いている宗教も、全部嘘なのです。これを般若心経では、五蘊皆空、色即是空とはっきり言っているのです。ところが、般若心経を読んでいる日本人が、その言葉を真面目に考えていないのです。

 人間は、間違いばかりをしているのです。現在生きていることは、全部無駄です。結婚して子供を産んで、育ててきた。貯金をして、保険に入って、家を建てた。それだけなのです。それが、一体何になるのでしょうか。そんなことは、命に関係がないのです。これを、冷静に考えなければならないのです。

 命は何のためにあるのでしょうか。このまま死にますと、私たちの人生は全く無駄になります。

 人生が根本から失敗してしまうことになります。自分が、八十年、九十年間生きてきたことが無駄になっても仕方がない。世間並のことだから仕方がない。本人はそれで諦めがつくかもしれません。ところが、その人の霊魂はそれではすまないのです。

 霊魂は、命をわきまえる力を十分に持っているのです。精神の根本は、永遠の命を十分にわきまえる力を持っているのです。

 ところが、その力を磨くことをしないで、生活のために一生を棒にふってしまうのです。そして、その責任をとらされます。

 「天網恢恢、疎にして漏らさず」という言葉があります。八十年、九十年の人生を棒にふることは、その人の勝手でしょう。

 しかし、死んでしまうと、勝手ではすまないのです。命は自分のものとは違うのです。自分で生まれたいと思って生まれた来た人はいないでしょう。従って、生きていることを自分自身の勝手で消すことはいけないのです。人間は、天から預けられた命をバカにしているのです。バカにしている気持ちはないかもしれませんが、バカにした生活を送っているのです。

 生活のことは考えるが、命のことは考えなかった。そういう大失敗が霊魂の結論になってしまうのです。その結論に対して、魂は責任を取らされるのです。これはやむを得ないのです。

 人の精神は、永遠の命を見極めるだけの力が十分にあります。そういうことに、心を使わなかったという失敗が、その人の責任になるのです。

3.目的を持たない現代文明

 文明という形の生活が始まってから、大体六千年ほどになります。歴史が記録され始めてから、六千年位と言われています。

 六千年と言えば、相当長いと考えられています。人の一生が八十年、九十年ですから、その八十倍近い年数になるのです。

 ところが、おかしなことに、何のために人間が生きているかが、全然分かっていないのです。

 何のために結婚するのか。社会が何のために存在するのか分からないのです。そういう頼りない文明なのです。「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉があります。これを作りかえますと、「人は世につれ、世は人につれ」ということになるのです。

 人間はこの世がありますから、ただ無批判に従っているだけのことです。この世、現代文明は目的を持っていない。だから、やがて潰れるに決まっているのです。目的を持っていないものが永続するはずがないのです。ましてや、完成するはずがないのです。人間は、世につれという状態で、文明を信頼して生きていますと、文明と一緒に死んでしまうのです。

 現在、人間が生きている命は、必ず死ぬに決まっている命です。どんな学問を勉強しても、何を悟っても、何を信じてもだめなのです。この世に生まれてきた人間は、死ぬに決まっている命しかないのです。

 ところが、死にたくないという非常に切実な本心が、人間にはあるのです。

 この本心に従って、物を考えればいいのですけれど、人間は本心に従って考えないで、常識に従って考えるという悪い癖があるのです。

 だから、死にたくないと思いながら、死なねばならないと考えている、諦めている、観念しているという矛盾した状態にあるのです。

 一体、人間の命は何のためにあるのかということです。今の人間は、命の本質を全然知らないのです。

 生活のことは、色々と学校等で教えてくれますが、学校教育は、人間を社会的に生活させることが目的なのです。つまり、社会の役に立つ人間を造ることが目的なのです。生活をいくらしても、社会のためにいくら役に立っても、その人は必ず死にます。社会が潰れるのですから、潰れるに決まっている社会のために、自分の生涯を棒にふるのはおかしいのです。

 生活はもちろん必要です。生きるためには、生活しなければならないのです。しかし、ただ生活しているだけでは何にもならないのです。

 つまり、命を保つため、さしあたり、現在生きている生理的生命を保つために働いているのです。

 生理的生命を保つというのは、生理的生命の本体である生命そのものを勉強しようという形、命そのものをつかまえようという目的を持ちながら生活すれば、生活することの意味がはっきり現われてくるのです。

 そうすると、命の問題も生活の問題も、両方共全うすることができることになるのです。

 日本人は、生活のことしか考えていないのです。そういう人は必ず死ぬのです。

 生まれてから今まで生きてきた命は、必ず死ぬ命だったのです。死ぬに決まっている命の道を、まっすぐに歩いてきたのです。死の道を歩いてきたのです。

 現代文明はこの世で人間を踊らせていますが、目的を一切与えないのです。

 六千年もの間、人間が生きていながら、未だに何のために生きているのか、その目的が分かっていないのは、まともな学問が存在していないからです。

 本当の学とはどういうことかと言いますと、命を捉えることなのです。

 命とは何であるか、地球ができる前に宇宙に完全な命があったのです。

 物理的な世界が発生するまでに、完全な命が非常に素朴なままで存在していた。ところが、現象世界が現われてから、それが隠れてしまったのです。現象世界が現われたことは、命が隠れたことなのです。だから、現象世界にすがっていますと、永遠の命が分からないままで、この世を去らなければならないことになります。

 人間の理性的な能力はすばらしいものです。世間の評判を言ったり、人の行いを褒めたり、けなしたりします。人の悪口を言う場合、褒める場合、その言い方はなかなか鋭いものがあります。神のような明哲さをもって他人を批判するのです。

 それは、その人の能力の中に神の意識が宿っていることを意味するのであって、人間の営みの状態をよくみれば、永遠の命が分かるようになっているのです。

 地球ができる前、万物ができる前に、完全な命が完全な形で存在していた。ところが、宇宙に死の法則が発生したために、有形的な地球が現われなければならなくなったのです。万物があるのは、地球だけの特別の現象であって、銀河系宇宙におけるハプニングなのです。突発事件なのです。

 花が咲く、果物ができる、魚が大きくなるのは、地球だけしかないのです。地球にだけ、森羅万象の生命状態があるのです。これは、地球に生まれた人間に、生命の本質をわきまえることができるように仕組まれているから、地球に生命状態があふれているのです。

 ところが、人間はただ生活しているだけです。生命状態は全然分かりません。

 毎年、毎年、できたお米を食べています。魚を食べたり、肉を食べたりしています。そのように色々なものを食べてはいるけれど、命が全く分かっていない。

 ただ肉体的に生きている状態が、そのまま鵜呑みにされているのです。なぜ、こういう状態になってしまったのか。

 六千年も生きていながら、何のために生きているのか分からないというバカな状態に、人間がなぜ落ち込んでしまったのかというと、ユダヤ人が間違ったからなのです。

4.国のボスであるユダヤ人

 生物が生きていれば、必ず中心になるボスがいるに決まっているのです。猿には猿のボス、鳥には鳥のボスというように、生物の中心がいるに決まっているのです。人間社会にもボスがいます。村には村のボス、国には国のボスがいます。これは当たり前のことです。

 全世界になりますと、現在、二百位の国がありますが、これには国のボスがいるのです。

 現代文明にもボスがいます。それがユダヤ人なのです。このボスが、歴史のあり方を自然に決めるようになっているのです。ボスが全体の進む方向を設定することになるのです。

 ユダヤ人という中心民族が勉強していないのです。命のことを考えないで、生活のことだけを考えるようになったのです。その結果、世界中の人間がユダヤ人の生活思想にひきずられて、現在の文明状態になってしまったのです。

 近世文明になりますと、これが顕著になっているのです。古代の文明、中世の文明には、まだ人間が生きている状態で自然の生物的状態のあり方が見られたのですが、ルネッサンスによって全く変えられてしまったのです。

 個々の人間が生きているという状態の上に、権利が不必要に強調された結果、いわゆる啓蒙時代が現われて、近世文明、現代文明に移行してしまったのです。そのために、人間は命が分からなくなってしまった。近世文明、現代文明は生活一辺倒になっているのです。生活のことしか考えない人間になっているのです。

 現代人は、般若心経とか、聖書の題目は分かっています。しかし、内容が全然分かっていない。

 般若心経は、現在人間が生きている状態が根本から間違っていることを、はっきり指摘しているのです。

 現在の日本には釈尊の本当の思想はないのです。仏教はあります。日蓮の仏教、親鸞の仏教はあります。しかし、釈尊そのものの悟りは、日本には全くないのです。

 仏法がないのです。仏教をつくった親鸞とか、道元とかいう人たちが、釈尊の悟りをややこしい方向へ引っ張っていったのです。これが宗教なのです。文明は命の源を押し曲げて、生活に便利な方へ引っ張っていったのです。

 現代学は、人間の肉性に対する覚醒剤、ヒロポンなのです。だから、現代学を学べば学ぶ程、霊魂に対して正常な感覚は無くなってしまうのです。ヒロポンを打てば打つほど、頭がおかしくなるのです。

 ユダヤ人は、命の本質を勉強しなければならないはずですが、それができなくなってしまったので、生活の方にだけ目を向けようと考えた。これが、近世のユダヤ人の世界的な政策なのです。

 これは、ルネッサンスによって始まったのであって、専門学をつくったのはユダヤ人学者です。専門学を学べば学ぶほど、命が分からなくなるのです。

 国家が何のためにあるのか。人間の命は何のためにあるのか。生活とはどういうものなのか。これに対する正しい認識は全然ありません。

 世の中の役に立つ人間とは、生活の役に立つ人間のことなのですが、生活のことに熱心になればなるほど、命のことが分からなくなってしまうのです。生活のあり方が、根本から間違っているからなのです。

 生活はしなければならないのですけれど、命の本体を求めようとしながら、生活すればいいのです。命の本質を求めることを念頭において生活すれば、正しい生活のあり方が分かるのです。

 現在の政治、経済、専門学はすべて現世における生活のことしか考えないのです。社会のために役に立つ人間を造ることが、政治や学問の目的であって、人間そのものを本当に造ること、命をはっきり勉強する方向への学は、全く考えられていないのです。

 今から百年前、二百年前の、いわゆる近代文明が入ってくるまでの日本人には、般若心経が分かっている人がたくさんいたのです。色即是空ということぐらいはわきまえている人が、たくさんいたのです。

 現在の人間は、放っておけば皆死んでしまいます。死んでしまうに決まっている命を、自分のものだと考えないで、もう一つ、別の命があることを悟って頂きたいのです。

 例えば、花が咲いているのを見て美しいと考えます。美しいと考える時には、魂に命のひらめきが宿っているのです。美しいと考えただけで、命のひらめきが宿っているのです。

 おいしいと考えただけで、命のひらめきが宿っている。うれしいとか、楽しいという感覚は、すべて、人間本来の命、本当の命、死なない命にかかわりを持つ感覚になって、人の魂に響いてくるのです。だから、楽しい、うれしい、美しい、おいしいということに、じっと目を向けて命を考えればよいのです。

 例えば、芭蕉が俳句を作ったのは、物を見る時、俳味を感じたからでしょう。肉体的に生きている感覚ではなくて、もう一つの感覚を感じたようです。これが、芭蕉の俳句になっている。俳句がそのまま命ではありませんが、人が美しいとか、楽しいとかを感じる時、なぜ美しい、楽しいと感じるのかを、綿密に、冷静に、平明に考えれば命を見つけることができるのです。

 今、生きている命ではないもう一つの命を見つけることができるに決まっているのです。

 宗教では、こういうことを言いません。阿弥陀さんを信じるとか、神さんを信じるとか言うに決まっているのです。そんなことをしてもだめです。

 美しいと感じる人の霊魂の直感が、そのまま神につながっているのです。花を見て美しいと感じる人の霊魂の直感が、そのまま神につながっているのです。花を見て美しいと感じるその直感と、自分の命の本体とが、どういうかかわりになるかを勉強することが、本当の生き方なのです。こういうことをしっかり踏まえながら、商売でも、会社勤めでもすればいいのです。

 そうして、死ぬに決まっている命をやめればいいのです。そうすれば、今まで生きてきた生き方が間違っていたことが分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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はじめに

従来から、般若心経は仏教の経典であり、聖書はキリスト教の教典であると考えられ、各々全く別のジャンルに属するもので、両者に共通点は全くないと考えられてきました。 ところが、釈尊の悟りにいたる境涯を詳しく調べていきますと、驚くべきことに、そこに新約聖書の根底と切っても切れない関係があることが判明したのです。 言い伝えによりますと、釈尊はヒマラヤ山の南のふもとを流れるローヒニー河のほとりの釈迦族の皇太子

般若ハラミタ

般若心経は、般若ハラミタと言っていますが、彼岸がどういうものか、全然説明していません。彼岸へ行ったとはどこへ行ったのか。向こう岸へ行ったというでしょう。向こう岸とはどこにあるのか。釈尊自身にも説明できないのです。 なぜかと言いますと、釈尊が見た一見明星は、やがて来るべき新しい国を見ているのです。しかし、釈尊は現実にそれをつかまえたわけでも、そこに生きたわけでもないのです。 そこで、釈尊の思想である

命の認識

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