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  • 管理人 chayamichi

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 生きていることに矛盾があるのです。生きていることの矛盾が深く分かれば分かるほど、聖書が深く分かるのです。

 皆様は人生の矛盾の感じ方が浅いから、本当の聖書が分からないのです。本当の聖書が分からない原因はここにあるのです。

 この世が間違っていることは分かっているでしょう。それもいくらか分かっている程度であって、この世の間違いの本当の深さ、広さが分かっていないのです。文明の間違いの広さ、深さが分かっていない。従って、自分の人生観の間違いがまだよく分かっていないのです。

 皆様は自分の人生観が間違っているとは思っているでしょうけれど、ピンからキリまで間違っているとは思っていませんから、聖書の見方が甘いのです。これが皆様の欠点です。

 現在の皆様の気持ちのままだと、必ず死ぬことになるでしょう。なぜ皆様の聖書の勉強の仕方が甘いのかと言いますと、自分自身の欠陥に対する感覚が甘いのです。物を知らないということがまだ分かっていないのです。自分の霊魂が全く分かっていないのです。こんな状態で死んだら必ず地獄へ行くことになるでしょう。

 個我意識が自分の意識です。個我という意識で生きていることが、神に対する敵対行為です。一人ひとりの人間がいるという気持ちで生きていることが、神に対する敵対になっているのです。

 現在の人間の思想は悪魔の思想です。これが分からないから、イエスのことを聞いても聞いても分からないのです。

 マイナスが分からないからプラスが分からないのです。マイナスが分からない人が、プラスのことを聞いても分からないのは当たり前です。もっと自分の人生の矛盾を考えると、聖書が深く分かるのです。

 今の若者は学校へ行ったから悪くなったのです。学校教育は霊魂を殺してしまう制度です。教育制度はユダヤ人が造った制度であって、日本人はユダヤに頭を撫でられているのです。

 学校教育が人間の霊魂を殺してしまったのです。政治、経済は根本から間違っているのです。政治、経済の中にいなければ生活ができませんから、その中にいるのはいいのですが、それに同調してはいけないのです。

 政治、経済はこの世ですから、この世に同調していたら神の国は絶対に分かりません。ですから、現在の皆様の思想を持ったままの状態では、いくら聖書の勉強をしても神の国に入れないでしょう。

 もっと自分自身の霊魂がひどいことになっていることに気が付くことです。ユダヤ人や白人文明が皆様の霊魂を殺しているということに気が付くことです。

 プライドを持っていることが悪いのです。個我のプライドは絶対悪いのです。個我は神の前に通用しないのです。

 個性は人間の肉性のことです。個性を完成すれば人間の霊魂は完全に死んでしまうのです。現在の世は末の世でありまして、人間全体の魂を殺してしまう世です。だから、人間文明は神に踏み潰される時が来るのです。現在はその直前です。

 人間の悪さ、文明の悪さを本当に知れば、とこしえの命を掴まえることができるのです。人間の悪さを知らないままの状態では、とこしえの命は分かりません。

 個我は人間が勝手に造っているものであって、神はそれを認めていません。ところが、肉の世では個性の完成が現代教育の目標になっています。個性が完成されると人間は完全に救われなくなるのです。悪魔の弟子になってしまうからです。

 文明のいうことを聞けば悪魔は大喜びするのです。これが白人文明の悪さですが、これを操っているのがユダヤ人です。

 過去世が前世であって、生まれるまでの世の中です。生まれるまでに過去世を通ってきているのです。これが創世記の二章、三章に出ているのです。

 私たちは生まれるまでにその世界を経験してきたのです。その時に霊で生きていたのです。霊で生きていた時に人間の五官があったのです。ですから、五官の働きは霊の感覚です。

 人間が見たり聞いたりしていることは霊の働きであって、人間の霊魂の感覚的な働きです。これが五官です。

 例えば、塩の味、砂糖の味というのは、現世でできたものとは違うのです。これは前世でできたのです。過去世に砂糖や塩があったのです。エデンの園に塩や砂糖があったのではありません。過去世が砂糖の味、塩の味になって現われているのです。

 エデンがあったということが、砂糖の味、塩の味に現われているのです。なぜそう言えるのかと言いますと、人間の霊魂が過去世を経験しているからです。経験しているとなぜ言えるのかと言いますと、人間は生まれながらにして男は女のことを知っているのです。女もまた男のことを知っているのです。

 そうすると、男は女のことをいつ習ってきたのか。親が教えたことがないのに知っている。これは前世で習ったに決まっているのです。そうでなければ、生まれながらにして男が女のことを知っているはずがないのです。

 前世でそういう訓練を受けてきたのです。だから、男は女のことが自然に分かるのです。

 過去世がなかったらそういうことがあるはずがないのです。男が女を知っているという知り方は、非常に詳しく確実に知っているのです。間違った知り方をしていないのです。百人が百人共、千人が千人共、非常に詳しく知っているのです。

 そういう知り方は経験しなければ知らない知り方です。こういうことは結局前世があったという証拠になるのです。

 人間の本能性というのは永遠性のものでありまして、過去世、現世、来世と続いているのです。このあり方を人生というのです。現世に生きている間だけが人生ではないのです。

 よく三百年前に何処かに生きていたとか、五百年前に何処かに生きていたという人がいますけれど、そういうものは迷信です。

 こういうことは全くの迷信です。過去にこの世に生きていたのではない。違った世に生きていたのです。アダムが生きていたエデンに生きていたのです。その時には全人格で生きていたのです。個別人格ではなくて、全人格で生きていたのです。

 全人で生きていたのです。全人と個人とは違うのです。全人という状態で皆平等の経験をしていたのです。

 アダムの経験は人類すべての経験になっているのです。こういことを日本人は全然知りませんから、こういうことから勉強しなければならないのです。

 人間の本能は前世で植えられたのです。砂糖の味とは何か。大自然の味です。塩とか砂糖というのは大自然の味です。

 天然自然は地球ができてからできたものではありません。地球ができる前に天然自然があったのです。天然自然があったから地球ができたのです。

 砂糖や塩は地球ができる前にあったのです。地球の物理現象ができる前の前世が、地球現象になって現われているのです。過去が現在に現われているのです。

 砂糖の味とか塩の味は現世ができる前からあったのです。甘い辛いというのは地球ができる前からのもので、地球ができた時に砂糖や塩はあったのです。

 砂糖や塩の味が皆様の舌で味わえるのです。皆様の舌は何を味わているのかと言いますと、前世を味わっているのです。これが分からない人は聖書は分かりません。

 皆様の舌で砂糖をなめて甘いと思うのは、前世を味わっているのです。現世とは違うのです。女を知っているのは前世の女を知っているのです。現世の女とは違います。今男が女を知るというのは、前世の知恵を現世で利用しているのです。

 利用しているという点から言えば現世でしているのです。人間の五官の働きはすべてそういうものです。

 前世で経験したことを現世で実演しているのです。だから、人間はまだ食べたことがないものを目の前に出されても大体味が分かるのです。

 私はかつて世界一周旅行を二回しました。アジア、中近東、ヨーロッパ、アフリカ、南米、北米の国々を回って、色々な国の色々なものを食べました。食べられないものはありませんでした。

 見ただけで大体の味が分かるというのは、現世の前、前世があったからです。前世があることをよく考えて頂きたいのです。これは男と女の関係を見れば一番よく分かるのです。男は女のことをいつ知ったのか。現世で男が女を知る前に、女とはこういうものだいうことを知っています。

 これは創世記二章で、アダムがエバのことを女とはこういうものだということが分かったからです。創世記の二章は前世のことです。前世で知ったことが現世で実験されているのです。

 女を抱くという発想は前世で習ったのです。日本人はこういうことを全く知りません。小さな子供でも男女のことは知っているのです。前世で習ったからです。

 アダムが最初に女を見た時にエバと名付けたのです。エバとは子を産むものという意味です。すべてのものの母であり、子を産むものでもあった。女は抱かれるものと名付けたのはこの時です。

 女が抱かれるものであるというのは、前世で決められたのです。だから、現世では女は抱かれるものということになっているのです。これは前世の因縁です。前世の因縁が現世の女になっているのです。前世が分からないと聖書をいくら勉強してもだめです。

 砂糖の味、塩の味、ミカンの味、リンゴの味、マグロの味、タイの味、牛肉の味、豚の味など、すべての食物の味は前世で造られたのです。前世の味を現世で味わっているのです。

 人間の命は前世の命です。それを現世で経験しているのです。

 前世の失敗が現世の失敗になっているのです。人間は前世で罪を犯したのです。神に反抗したのです。前世の失敗が現世で肉の思いになって現われているのです。

 そこで、人間は現世に生きている間に、肉の思いを捨ててしまえば、前世での失敗が許されるのです。肉の思いができたのは前世です。前世でできた肉の思いを捨ててしまうと、罪を犯す前のきれいな状態になるのです。そこで、神の国に帰れるのです。

 前世と現世と来世の三つがあります。この三つがあることを神の国というのです。三世が神の国です。神の国が三世に渡っているのです。

 神の国を勉強しようと思ったら三世を弁えないとできません。現在人間が生きているのは、前世の経験をそのまましているだけのことです。前世の失敗を現世でやり直すのです。これを神の国に入ると言っているのです。

 前世の失敗を現世でやり直すのです。そうすると、神の国に入れるのです。地獄がなくなってしまうのです。こういう聖書の見方ができるのは、今のところ私たちだけです。キリスト教はこういう見方ができないのです。神の国が分からないからできないのです。

 前世、現世、来世の三世を神の国というのです。三世に渡って見る見方を神の国というのです。神の国の角度から人間の霊魂を見ると、すべてが分かるのです。

 神の国に入って聖書を見るのです。これが聖書を見る秘訣です。現世だけで聖書を見ていてはいけません。神の国に入らずに聖書を見ていると、いくら読んでも分からないのです。

 砂糖をなめて甘いと感じることが神の国を感じているのです。人間の五官の働きは神の国を受け取っているのです。目の働きは神の国を見ているのです。

 目で見ているということを正確に認識しようとしたら、神の国に入らなければいけないのです。そうしないと、目で見るという能力の本質が分からないのです。

 神の国に入らなければ、命の本質は絶対に分かりません。神の国に入って、神の国から発言する人を預言者というのです。これは誰でもできることです。できて当たり前です。できない方がおかしいのです。

 イエスは神の国へ入れと誰にでも言っています。言っているのは入れるからです。誰でも預言者になって当たり前です。

 預言者は特別に偉い人ではありません。誰でも預言者になれるのです。こういう物の見方ができると、人々に光を与えることができるのです。人の魂を救うことができるのです。

 現在の学校教育を造ったのは白人です。白人主義の考えです。白人主義は現世だけしか考えないのです。前世を考えないのです。神の国が分からないのです。神の国に入れと書いてある聖書を読んでいるけれど、神の国に入ることがどうすることか分からないのです。

 キリスト教では、神の国に入るということの具体的な説明は一切しません。できないのです。三世というスケールで物を見ることができないからです。大きな角度で見ると、人間の五官というものは現世だけのものではなくて、前世があったこと、また、来世があることが分かるのです。

 欧米人の物の考え方を造っているのはユダヤ人です。ユダヤ人の世界観が間違っているのです。ユダヤ人の思想が白人の思想を造り、白人の思想が日本人の思想を造っているのです。

 この間違いを裏返していくのです。皆様の五官が正しく働くようにして頂きたい。皆様の五官は前世からの本質を持っているのです。

 肉体は現世だけのものですが、五官は肉体ができる前からあったのです。五官は肉体に宿っているのです。五官は魂です。魂は肉体に宿っているのであって、肉体を脱ぎ捨てても魂は死なないのです。死ぬことができないのです。だから、現世に生きている間に神の国に入っていなければ、魂はひどい目に会うのです。

 見たり聞いたり食べたりしているのは、五官の本質によるのです。これは前世からの働きです。これが来世に繋がっていくのです。

 肉体は死にますが、霊魂は死にません。だから、どうしても聖書の勉強をしなければならないのです。難しいと思えても、絶対にしなければならないのです。これをしなければ必ず地獄へ行くことになるのです。

 神は日本から預言者を起こそうとしているのです(ヨハネの黙示録7・2)。皆様はそれに該当する人になって頂きたい。全世界を救う人になって頂きたいのです。

 現世に生きている人間は命のことを全く知りません。生活のことだけしか知らないのです。生活のことで盲目になっているのです。これは学校教育のためでしょう。学校教育のために霊魂が盲目になっている。こういう人を救ってあげて頂きたい。自分が分かったと言って満足しないで、人を救うためにもっと勉強して頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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