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  • 管理人 chayamichi

般若心経と聖書に学ぶ

 人間は死にたくないと念願していながら、死なねばならない命を自分の命と思い込んでいるのです。自分自身の愚かさにどうして発憤しようとしないのでしょうか。これが分からないのです。

 人間の霊魂は自分の力だけでは、死んでしまう命から解放されることができないのです。自分自身で立ち上がることはできないのです。

 そのためには、どうしてもボランイティアがいるのです。私は非常に不完全ですけれど、ボランティアの役割をかってでているのです。日本でも世界でも、こういうボランティアをする人がいないからです。

 これは何も珍しいことではありません。既に釈尊が発案しているのです。イエス・キリストがそれを実践しているのです。

 今の人間は文化に対する根本的な理念が間違っているのです。これに気付いて頂きたいのです。

 皆様は死にたくないと思っていながら、また、死なねばならないと思っているのです。これは皆様の精神状態が束縛されているということです。

 死なねばならないということが分かっていながら、このことから抜け出すことができないのです。これは皆様の精神状態が束縛されているとしか言いようがないのです。

 今の人間は宗教に束縛されているのです。また、専門学によって束縛されているのです。皆様の常識、知識は両方共束縛されているのです。

 釈尊が一切空と考えた。五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃と喝破したのですが、今の人間は般若心経を読んでいながらこれが信じられないのです。

 日本人以外の民族は、般若心経をほとんど問題にしていません。知っているかもしれませんが、ほとんど問題にしていないのです。

 日本人は般若心経を大変愛していますが、般若心経の内容を信じてはいないのです。般若心経を信じていたら、五蘊皆空に共感できますし、場合によっては五蘊皆空を実践することができるのです。ところが、日本人は般若心経を愛していながら信じていないのです。こういうばかなことを日本人はしているのです。

 仏教はそれをいいことにして、般若心経をお金儲けの道具にしているのです。奈良の薬師寺はそれを堂々と実践しているのです。

 般若心経を写経して千円をつけて薬師寺に送ればご利益があると言って、六百万人の人から六十億円集めたのです。だから、日本の仏教は非常に不純なものになっているのです。

 仏教は仏法という真理を離れて宗教化しているのです。釈尊が説いたのは仏法であって、仏教ではありません。ところが、日本のお祖師さんたちが、釈尊の思想を自分なりに解釈して、宗教を造ってしまったのです。これが日本の文化の基礎になっているのです。

 専門学はユダヤ人が造ったのです。日本の宗教はお祖師さんが造ったのです。こういうものが日本の文化として認められているのです。日本人の文化に対する根本理念が間違っているのです。

 現在の大学で教えている文化の概念の基本が間違っているのです。どのように間違っているのかということを簡単に申しますと、文化は、一つは民族の伝統です。もう一つは情報です。この二つのもので文化ができているのです。これを信じている人間は、人間は自分自身の愚かさから脱出することができないのです。

 人間は愚かなものです。非常に愚かなものです。人間としての私は非常に愚かであることを痛感しています。例えば、メガネをかけていながらメガネを探していたり、持っているものを持っていないと思って探すのです。ばかなことをしているのです。

 皆様は魂という形において死なない命を持っているのですが、それを全く忘れている。そこで、死ななければならないと思うのです。

 魂はザ・リビングです。ザ・リビングは命のルーツそのものです。皆様は命のルーツに従って生きていながら、それが分からないのです。

 数年前のことでした。私はメガネをかけていながら、メガネがないと一生懸命に探していたのです。妻からあなたはメガネをかけていますと言われて、初めて気が付いたのです。

 皆様は既に死なない命を持っていますが、それが分からないのです。自分が持っている死なない命が分からないのです。そこで、死んでしまうことになるのです。

 般若心経を現在読んでいながら、般若心経が信じられないことと同じことです。ばかなことをしているのです。

 邪魔をしているのが宗教です。また、伝統です。情報です。宗教に何があるのでしょうか。あるのは理屈ばかりです。

 理屈というのは情報です。例えば、親鸞が本当の命、魂が親鸞自身に分かっていたら、セックスについてあれほどばかげた錯覚に陥らなかったでしょう。

 親鸞は自分を非常に業(ごう)が深い人間だと考えたのです。セックスにとりつかれた業の深い人間だと考えたのです。彼は歎異鈔で「いかなる行も及び難き、地獄一定の身である」と言っているのです。彼は人間のカルマを取り違えていたのです。

 親鸞の時代にはイエスが全然分からなかったのですから、彼がカルマを取り違えたのも、無理ではなかったと言えなくはないのです。もし親鸞が釈尊のような勇気を持っていたなら、彼は自分自身の業から抜け出すことができたかもしれないのです。そして、五蘊皆空が分かったはずです。

 親鸞は般若心経を知っていたに決まっているのです。知っていながら信じていなかったのです。日蓮もそうでした。法然も、道元も空海も、最澄も仏教のお始祖さんと言われるそうそうたる人々が、般若心経を知っていながら信じていなかったのです。ばかなことをしていたのです。

 一切空という釈尊の悟りが日本にはないのです。般若心経がまともに取り扱われていないからです。

 皆様も般若心経をまともに取り扱っていないのです。皆様が般若心経を愛しているなら、もう一歩踏み込んで信じてください。親鸞ができなかったことをして頂きたいのです。空海ができなかったことをして頂きたいのです。

 現在では聖書が日本にあるのです。イエスがどのように生きていて、何をしたのか。殺されてどうなったのかが分かるのです。今の皆様は、空海の時代や親鸞の時代よりもはるかに自分から解放されやすいのです。

 皆様は自分自身の人生観や世界観で、自分を縛っているのです。文明が皆様の霊魂を束縛しているのです。

 文明は人間の伝統によって造られています。伝統が間違っているのです。釈尊やイエスは、人間の伝統と情報を根本から覆したのです。

 この二人だけは人間の文化の外に立っていたのです。人間の文化概念を踏みつけていたのです。人間自身を踏み越えていたのです。人間存在そのものを乗り越えていったのです。

 人間はカルマによって縛られている。人間自身の業(ごう)によって束縛されている。これは現代人としてやむを得ないことですが、人間の愚かさをやむを得ないと言って呑み込んだいたら、人間は必ず死んでしまいます。

 死ぬということは、皆様の人生が三文の価値もなかったことになるのです。何十年間か生きていたことが、何の役にも立っていなかったという事実があるのです。これをはっきり認めて頂きたいのです。

 自分自身を出てしまうのです。自分が生きているという気持ちを乗り越えてしまうのです。これが般若心経が言いたい所です。

 死にたくないと思っていながら、死なねばならないという気持ちに掴まえられている。これは愚かと言うか、悲劇と言うか、何とも言えないばかなことです。

 人間は要するにいくじがないのです。勇気がないのです。だから、自分自身を乗り越えることができないのです。

 自分が生きていると思い込んでいるのですが、自分が生きているという事実はありません。魂が生きているのです。人間が生きているのではありません。人間は死んでいくに決まっているのです。

 皆様の常識、知識が皆様を殺してしまうのです。文明、文化が皆様の魂を殺してしまうのです。これは私の意見ではありません。般若心経の意見です。キリスト教ではない聖書の意見です。

 親鸞にもう少し正直で、率直な見解があったなら、自分自身が生きていることに対して、また、男女間の性の問題について明確な結論を持つことができたはずです。ところが、親鸞はやはり日本社会の伝統を破ることができなかったのです。

 親鸞は人間の文化、情報を乗り越えることができなかったのです。彼は自分自身の命を乗り越えて、その外に出ることができなかったのです。

 親鸞は「いかなる行も及び難き地獄一定の我」という我を認めていたのです。これは釈尊の一切空を考えると、非常にレベルの低い見当違いの考えであったと言えるのです。

 親鸞はとても正直な人ですが、私は親鸞に同意できません。浄土真宗の流れは親鸞を越えるものではないのです。親鸞の感覚の中をぐるぐる巡っているだけです。

 人間は死んではならないのです。死んでしまうということは負けることです。自分のカルマ、自分の業に負けてしまうから死ぬのです。

 せっかくこの世に生を受けながら、魂としての本当の値打ちを知ることができない人、命としてのルーツを捉えることができなかった人は、現世に生きていた命をむだ使いしたことになるのです。その結果、自分の霊魂の尊さを全然分からないままで、この世を去ることになるのです。

 この世を去ることは、とても厳しい裁きに直面することになるのです。

 私たちの人格はとてもすばらしく、高等な、高尚な、悠遠な絶対性、無限性を持っているのです。このような人格を与えられていながら、自分自身の人格の本体を捉えることができないということは、情けないことです。これが人間の為体です。

 宗教ではこういう率直なことを言いません。もっと婉曲におべっかをして、皆様にへつらうのです。それは皆様のポケットマネーを狙っているからです。

 宗教は商売です。皆様はもっと正直になって頂きたいのです。もっと大胆になって頂きたいのです。率直に考えて頂きたいのです。

 般若心経の色即是空ということは、勇気を要する思想です。目に見えるものを空だと考えるとしたら、それを受け取るために勇気を要します。しかし、これは本当です。

 目に見えているものは空です。こんなことは現在の専門学でも説明ができるのです。理論物理学の原理から考えても分かるのです。

 物理運動は存在するが、物質は存在しないのです。こんなことは今の中学生でも知っていることです。

 色即是空というのは、非常に簡単な単純な思想ですが、これを真面目に考えるという素朴な気持ちさえあれば、皆様は死ぬべき命を乗り越えて、死なない命、絶対の生命を捉えることは十分にできるのです。

 優越感とは何かと言いますと、自分が生きているという所からくるのです。ところが、自分が生きているという事実はないのです。

 自分が生きているという考え方は、自分の人生を主観的に捉えているからです。生きているのは自分である。自分の命があると考えているのです。これが自尊心の根底です。自尊心が優越感となっているのです。

 自分が生きているという考え方が間違っています。人間は自分が生まれたいと思ったのではないのです。人間自身の命は人間が造ったものではない。

 親は子供の肉体を育てることはできますが、子供の精神とか魂を造れないのです。魂という点から言いますと、親と子供とは何の関係もないのです。

 命には淵源があります。命の本源は死なないものです。しかし人間は死ぬと考えている。死ぬのはなぜか。私たちは命の本源を持っていながら、それに気が付かないのです。そこで、死んでいくのです。

 人間は命のルーツをそのまま生きているのではなくて、命の現われを経験しているのです。現われとルーツは違います。

 皆様が命のルーツを捉えることができれば、死なない命が分かるのです。

 般若心経は空と言っています。五蘊皆空とか色即是空の空です。空というのは、人間の常識が見当違いであり、間違っていると言っているのです。

 空は空っぽではありません。目に見えているものではないもの、人間の気持ちで言い現わせないものを空と言うのです。

 般若心経の空という思想は、現代の世界全体の文化概念から言っても、最も優れたものです。すばらしいものです。

 白人社会には空がありません。ですから、白人文明はしどろもどろになっているのです。命の根源、命のルーツを見つけてみようという気持ちを持つことが大切だと思います。

 本当のことを知るためには、自分自身を空じなければならないのです。今の人間にとって、自分を空じるということは大変なことのように思えるのです。

 今の人間が持っている命は必ず死んでしまう命ですから、この命は空じてしまうことによって、自分の命を成仏させることができるのです。もし空じてしまわないなら、自分の命を取られることになるのです。

 誰に取られるのか。自分が生きていると考えている自分の業(ごう)のために、自分の命が取られてしまうのです。自分の業に勝とうと思えば、自分の命を空じるしかないのです。空じるというのは、何も首を吊って死ぬことではありません。自分の考えが根本的に間違っていることに同意するのです。これだけでいいのです。

 間違っていることを間違っていると考えることは当たり前のことです。当たり前のことをすればいいのです。

 皆様は今まで何十年間かこの世に生きてきましたが、死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思い込んでいますと、親鸞と同じように地獄一定の人間になってしまいます。これがいけないのです。

 人間はただ死ぬだけならいいのですが、死んでから地獄一定が待っているのです。

 人間は一回死にます。一回死ぬだけならいいのですが、死んでから地獄へ行くのです。そうして、もう一度死ぬのです。日本人はもう一度死ぬことが全然分かっていないのです。

 そして、二回目の死があるのです。二回目の死が恐ろしいのです。これは宗教では分かりません。親鸞も分からなかったのです。生きている間に自分の命を空じてしまえば死ななくなるのです。

 生きているうちに命のルーツを掴まえた人は、死なない命の本体が分かりますから、死なないことになるのです。これが本当の悟りというものです。

 本当の悟りというのは自分を空じることです。死ぬべき命を自分で精神的に捨ててしまうのです。

 死ぬべき命というのは、自分の妄念で固まっている命です。自分の思想によって凝り固まっている命です。自分の思想が自分の命になっているのです。これが五蘊です。

 現在生きている人間は五蘊の塊になっているのです。常識と知識の塊です。皆様の五十年の人生、六十年の人生は自分の思いの塊であって、これを自分の人生だと思っていますと、肝心要の霊魂の命が分からないままで生きていることになるのです。

 自分の霊魂の命が分からないままで生きていますと、お気の毒ですが、死なねばならないことになるのです。そこで、自分の思いを空じる必要があるのです。

 自分の考え方が間違っていたことを、素直に、素朴に認識するのです。

 般若心経に色受想行識という言葉があります。色というのは、目で見ているものがそのまま存在しているという、人間の妄念を指しているのです。これが唯物主義の考え方です。

 目で見ているものがそのまま存在するというのが、人間のあらゆる精神構造に影響を及ぼしているのです。物の受け取り方、また、考え方、行いのあり方、学問とか常識のあり方に影響を及ぼしているのです。これが受想行識です。

 目で見ているとおりのものがあると考えることが、人間のすべての迷いの土台になっているのです。

 無眼界乃至無意識界という言葉がありますが、目で見ている世界もない。精神で考えているものもないということを言っているのです。

 目で見ている世界があると思うことが、人間の伝統的な迷いです。人間は目で見ている世界があると考えて生きてきました。釈尊はこれが間違っていると言ったのです。

 目で見ている世界があると思っていることに、根本的な間違いがあることに、釈尊は気が付いたのです。それは「明けの明星」を見たことによって分かったのです。これが釈尊の悟りの原理です。

 人間は見たとおりの世界があると思っている。これが五蘊です。五蘊は皆空です。このことをよくご承知頂きたいのです。

 人間は霊魂を完成させるために生まれてきたのです。人間完成を実行することが、人生の唯一の目的です。

 現世に生きることが目的ではありません。現世に生きていることを、アウフヘーベンするのです。弁証法的に揚棄するのです。そうすると、今生きている命ではないもう一つの命を見つけることができるのです。

 テーゼとアンチテーゼをアウフヘーベンしますと、ジンテーゼになるのです。そうすると、完成された命を発見することができるのです。

 今の人間は未完成の状態で生きていますので、この命を完成する状態に持ち込むのです。これが人生の目的です。

 イエスの復活というのは、人間が完成するための目的です。弁証法的原理の完成がイエスの復活です。イエスの肉体が死なない肉体に揚棄されてしまったのです。

 イエスが復活した時の肉体は、現在の医学で考えるような肉体ではないのです。死なない肉体です。不滅のボディーを現実的に示して見せたのです。これがイエスの復活です。

 人間完成の具体的な証明は、イエスの復活しかありません。釈尊は悟りを開いたのですが、復活はしなかったのです。自分の命を空じると言ったのですが、自分の命が完全であるとは言わなかったのです。

 釈尊が悟った空というのは、現在存在している人間の肉体的な形を断固として否定したのです。イエスは、人間が生きてるのは非常に幼稚なものであって、完成されると肉体が死なないボディーに復活すると言ったのです。新しく生まれ変わることを、自分自身の復活によって証明したのです。

 釈尊の認識は、肉体を持っている人間に対する断固たる処置です。イエスの復活は、人間完成の最も具体的な証明になるのです。信ずべきものはこの二つしかないのです。

 釈尊の心境をよく考えて頂きたいのです。釈尊は王国の皇太子でしたが、その位を捨てたのです。とても美人であった奥さんを捨てたのです。子供も捨てて出家したのです。

 魂の新しい目を開くことが必要です。魂の目を開くことが、霊魂の本体を見極めようという勇気になるのです。

 神はまず肉体的な意味における恋愛関係を与えるのです。誰でも初恋の経験を与えられるのです。初恋の経験がない人はありません。初恋の経験は百人が百人、千人が千人持っていると思いますが、なぜ恋が重大かと言いますと、この経験がない人には神が分からないからです。

 男性が女性に恋するというのは本当の恋ではないのです。これはテストケースです。

 性というのは命の性(さが)のことです。人という命の性(さが)と、神という命の性(さが)と二つの性があるのです。宇宙に命の性が二つあるのです。

 人が人であること、神が神であることが本当の性です。男が男であること、女が女であることが、性という言葉が使えないこともないのですが、これは人間の意識の内容における性の問題です。人間の常識による性の問題です。

 人間の霊魂の本性から考えますと、男も女も同じ性です。男から見て女は完全な異性ではありません。肉体的な異性ですが、完全な異性ではないのです。

 エバという女は、アダムのあばら骨の一つを取って造られたのですから、女は男の一部です。ですから、男も女も同性になるのです。

 霊の本質から考えて、完全な異性は神になるのです。人間は死なねばならない条件を持っています。神は絶対に死なない条件を持っています。

 本当の恋というのは、人間の霊魂が本当の命に憧れるのです。死なない命に憧れるのです。これが本当の恋です。

 これが女性の恋に現われているのです。女性が男性に憧れる場合は、慕う形になって現われるのです。これが本当の恋です。

 人間の魂は元来女性として造られているのです。絶対性を持っていないのです。女が女だけで子供を産むことができないように、人間は人間だけで自分の命を新しくすることはできません。

 女に男が必要であるように、人間に必要なものは神です。これが分からないために、皆死んでしまうのです。

 皆様は宗教を求めているのではないでしょう。本当に頼りにできるもの、本当の命、本当の知恵、本当の光を求めているのです。

 現在の人間は恋をするために生まれてきたのです。人間的にも霊魂的にも、恋をすることが最高の目的です。

 宗教を信じるとか、頭から水をかぶるとか、座禅を組むとかいうことは、ぎこちない意味での恋愛行動になるのです。

 そういうものではなく、もっと柔軟な感覚、もっと従順な感覚、素朴な感覚で考えれば分かるのです。難しいと考えてはいけないのです。

 皆様の魂は恋をするために生まれてきたのです。永遠の命に恋をするのです。これは当たり前のことです。

 死ぬべき命を与えられたのは、死なない命に恋をするためです。現在の人間の宗教、文化は人間の伝統と情報に縛られているのです。

 皆様は文明意識によって縛られているのです。皆様の魂は束縛されているのです。自分の職業とか、自分の経験とか、社会的な伝統とかによって、皆様の魂はがんじがらめに束縛されているのです。

 この束縛を切断するのです。五蘊皆空という天下の宝刀によって、一刀両断に切って捨てたらいいのです。今までの経験とか知識はただの五蘊です。このことを般若心経によって、はっきり見極めて頂きたいのです。

 これは私の思想ではありません。宗教ではない般若心経の考えなのです。

 新約聖書はイエスの復活よって、新しい命、死なない命の実体を、そのまま皆様に提供しているのです。

 般若心経が提示するものと、新約聖書が提供するものに、恋愛感情を持って頂きたいのです。信仰とか悟りというと難しいのですが、恋愛と言ったら分かるでしょう。恋愛の経験がない人は一人もいないと思いますので、勇気を持って魂の恋ということを考えて頂きたいのです。

 これが上等の恋ですから、こういう恋をして頂きたいと思います。

 皆様は今まで数十年間現世の生活をしてきたので、人生観や価値観を持っているに決まっているのです。

 皆様の人生観や価値観というのは、今までの自分自身の経験内容を、自分の人生観や世界観としているのです。

 自分がどれほど修行をしても、どれほど努力して勉強しても、自分が生きているという立場からのものは、絶対的なものではないのです。

 人間に人間の世界観があるのは当たり前です。自分なりの悟り、また、自分なりの信念があるのは当たり前です。そういうものでは人間完成には役に立たないことをご承知頂きたいのです。

 私は皆様を宗教団体に引っ張り込もうとしているのではありません。宗教から出ることをお勧めしているのです。

 今の人間はすべて死んでいくことが分かっていながら、死んでいく命に執着しているのです。死んでいく命に執着している人は、今までの何十年間かの自分自身の人生観、自分自身の価値観に立てこもっているのです。

 こういう命を守っていたいと言う人は自由ですけれど、その人は必ず死んでしまいます。皆様の世界観や人生観は、自分の考えですからだめです。

 自分の考えでいくら分かったように考えても、それは自分の気持ちであって、こういう考えでは恋愛は成立しないのです。

 魂は実は皆様のものではないのです。自分の人生は自分のものではありません。命は自分のものではないのです。こういうことを冷静に考えて頂きたいのです。

 分かったと思っても、分からないと思っても、皆様の人生観は皆様の魂を完全に救うことができないのです。

 生きているということは絶対です。人間が生きているという絶対性は、神としか言いようがないのです。自分でいくら哲学書を読んだり、宗教書を読んだりしても、人間の文化概念の情報にすぎないのです。

 自分自身の命の目が開かなければならないのです。魂は自分から出たものではないのです。これが魂の目を開くことの基礎になるのです。

 自分の経験に立てこもろうとしないで頂きたいのです。自分の経験を軽んじるような気持ちを持って頂きたいのです。

 私はすべて人間が行き着く所を申し上げているのです。もし皆様が命は自分のものだと考えるとしたら、皆様の魂は死んでしまうに決まっているのです。

 単純に物事を考えて頂きたいのです。恋愛には単純な勇気がいるのです。こういう気持ちで神に接して頂きたいのです。

 自分自身の意識から出てしまって、自分以外の意識になることを成仏と言うのです。成仏することによって神が分かってくるのです。

 成仏しなければ神を信じることは絶対にできません。今まで生きてきた自分の気持ちで、神を掴まえてみようと考えてもだめです。私もそれで大変苦労をしました。

 今までの経験の範囲で神という絶対を掴まえようとしても、無理なことです。神は皆様の経験よりも大きいのです。地球が存在することよりも大きいのです。

 神は絶対です。絶対を掴まえようと思ったら、自分自身が空になるしかないのです。これが条件になるのです。そうしたら、自分が考えなくてもいいのです。

 自分が考えて、自分が理解して、自分が何とかしなければならないと考えるのは、宗教観念です。それは理念や観念であって、理念や観念では神を掴まえることはできないのです。

 空になるのです。成仏するのです。自分がだめだとはっきり自分を見切ってしまうのです。自分で自分の世界観や価値観を見切ってしまうのです。そうでないと、皆様は結局死ぬことになるのです。

 私は嫌なことを言って皆様をいじめているのではありません。現世での世界観や信念を持っていたら、皆様は必ず死んでしまうということを申し上げているのです。死んだら成仏することはできません。

 死んだ人間のことを仏さんと言いますが、死んだ人間はやむを得ず仏にされてしまったのです。これではだめです。やむを得ず仏にされてしまったのですから、成仏はしません。

 成仏というのは、自分から進んで仏になることです。これを実行して頂きたいのです。目の黒いうちなら、皆様は自分の命を命のルーツに押し付けることができるのです。

 宇宙存在の実体は命のルーツの存在です。神は命のルーツの根源の人格的な表現です。

 太陽が輝いていることが神です。皆様の心臓が動いていることが神です。太陽が輝いている、地球が自転公転していることの原理、原則が神です。これが絶対です。

 皆様の人格は、この絶対を十分に受け止めるだけの能力があるのです。そして、それを十分に消化することができるだけの能力を与えられているのです。

 ところが、皆様は自分自身の数十年間の人生経験を基礎にして、自分の人格の本体に反抗しているのです。自分の意志によって反抗しているのです。これを罪というのです。

 これがカルマです。人間はこういうカルマの虜になっていますから、これを踏み越える勇気を持って頂きたいのです。

 そのために一番必要なものは、率直さ、単純さです。単純で率直であれば勇気が湧いてくるのです。これを実行して頂きたいのです。

 皆様が今までの人生観、世界観を持っているのは自由ですが、こういう信念は必ず死んでしまう信念です。これはこの世では通用しますが、この世を去ってしまえば一切通用しません。

 仏とは何か。「仏とは誰が言いにけん 玉の緒の 糸のもつれのほとけなりけり」という道歌があります。

 人間の思想はこんがらがって、むちゃくちゃにもつれているのです。これをほといていくのです。これが仏です。自分の思想のもつれは、自分自身を空じることによって、その一切を断滅することができるのです。

 ところが、死ぬべき自分を断滅したとしても、なお自分自身の命の実体は分かりません。何のためにこの世に生まれてきたのか。人間は何十年間もこの世に生きて、何をしていたのか。

 心臓が動いていること、脳波が働いていることは何なのか。脳波が働いることは観念ではありません。いくら学問を勉強しても、脳波の働きの実体は分かりません。

 まず皆様は悟ることです。自分の考えを空じるのです。自分の思想を捨ててしまうことです。主観的に自分思想を捨てるのです。

 命ということは存在ということです。地球が存在するのです。自分自身が存在することの実体を見極めるのです。人間は何のために生きているのか。人間の文明は何のためにあるのか。地球がなぜあるのか。

 存在することを考えてください。太陽が存在するのです。これが皆様の心臓が動いている原理と同じです。このエネルギーは何なのか。物理的に言えば周波数ということですが、これは何なのか。

 皆様が見ている花の形、花の色、花の香りも周波数です。周波数の実体は何なのか。これが今の科学では分からないのです。これが命の本体です。

 キリスト教ではない神の聖書によって言えば、周波数の実体が言(ロゴス)です。「初めに言があった。言は神と共にあり、言は即ち神であった」とあります(ヨハネによる福音書1・1)。

 言が皆様の命になって働いているのです。形に見える。色に見えるのです。色も形も命も香りも、皆ロゴスの働きです。これが皆様の命、人格の実体です。

 自分が存在するということは何か。白隠禅師と同じ程度の悟りを開いて、自分自身を本当に空じることができるとしても、なお人間の主観です。

 鈴木大拙が、禅の悟りは人間の主観であると言っていますが、そのとおりです。

 皆様の目が見えるのも、また、私の目が見えるのも同じ命です。私の心臓が動いているのも、皆様の心臓が動いているのも同じ力です。一つの命、一つ力によって生きているのです。

 人類は一つの命、一つの力で生きているのです。ところが、百人が座禅を組めば百の悟りが現われる。千人が座禅を組めば千人の悟りが現われる。これが臨済宗の禅です。

 臨済宗は一つの悟りを強制しません。Aさんの悟り、Bさんの悟り、Cさんの悟りを認めることが臨済宗の通例です。そうでなければ禅は成立しません。アメリカ人の座禅も、フランス人の座禅もその程度のものなのです。

 命は一つです。なぜ地球があるのか。なぜ命があるのか。なぜ太陽が輝いているのか。私が見ている太陽も、皆様が見ている太陽も同じ太陽です。

 目の前に花がありますが、私がこの花の香りをかいでも、皆様がこの花の香りをかいでも同じ香りです。

 人間の命は一つのものです。私は皆様に悟りをお勧めしているのではありません。悟ることによって命に到達することをお勧めしているのです。

 悟りは前段の条件です。般若心経を学ぶことは前段の条件であって、後段の条件は、イエスが死を破ったことを学ぶことです。

 イエスは人間の歴史を具体的に造り替えてしまったのです。イエスが死を破るまでは、すべての人間は死んでしまうに決まっていたのです。

 イエスが死を破ったことによって、人間は死なないものになったのです。ところが、皆様はこの事実を信用していないだけのことです。

 この事実を信用することも信用しないことも自由です。もし皆様がイエスが死を破ったという事実を信用されないなら、皆様は死んでしまうだけです。

 自分の主観を大切に考えるか、歴史的事実を大切だと考えるかです。自分の主観的な観念よりも、客観的な事実の方がはるかに大きいのです。これをよく考えて頂きたいのです。

 人間は自分の思想によって生きているのではありません。天然自然の命によって生きているのです。このことを悟って頂きたいのです。

 いくら座禅をして悟ってもだめです。釈尊の悟りではないからです。今の臨済宗には釈尊の悟りはありません。

 臨済の悟りは臨済の悟りです。妙心の悟りは妙心の悟りです。山田無文老師の悟りは山田無文老師の悟りでした。全世界の客観性を道破、喝破するだけの大きさではなかったのです。

 人間は主観的に自分が空であることを悟ると同時に、客観的に地球が存在する原理を知らなければいけないのです。

 もし地球が存在しなければ、皆様の命は存在するはずがないのです。地球が存在するということと、命が存在することを学ばなければならないのです。

 地球が存在することと、命が存在することは同じことです。この命を掴まえて頂きたいのです。これは理屈ではありませんし、宗教ではないのです。

 皆様は現在永遠の命を持っているのです。持っていながら、日本伝来の宗教観念に捉われているのです。世間の習慣に捉われているのです。自分の立場に立っているのです。

 人間は自分の主観に捉えられているのです。悟りとか信心とか、信念と言っても自分の主観です。そこで、般若心経がいう五蘊皆空を実行して頂きたいのです。

 人間が悟ったと思うことが五蘊です。これが危ないのです。悟ったと自分で思っているのです。命は自分のものだと考えている。ここに臨済の根本的な誤謬があるのです。

 宗教の迷いから出てしまうのです。宗教から出なければ、人間の迷いから出ることができないのです。文化文明の間違いから出ることができないのです。

 臨済も曹洞も、人間文化の一つです。だから、大きな寺を建てて威張っていられるのです。禅宗は人間の文化文明に迎合しているのです。だから、仏教という宗教が成立しているのです。

 私が言うことは現在の文明では成立しないのです。現在の文明を認めるなら必ず死んでいくのです。必ず死ぬのです。

 イエスはなぜ復活したのかと言いますと、現在の文明を越えてしまったからです。現在の人間の思想を越えてしまったのです。そこに、永遠の生命の実体があるのです。

 イエスが復活したのは歴史的事実です。これは伝説や概念、観念ではないのです。歴史の事実です。だから、イエスの復活によって、人間は死ぬべきものではなくなったのです。新しい歴史が始まったのです。これが西暦紀元です。

 西暦紀元は人間が死ななくなった歴史の紀元です。既にイエスが死を破って復活してから、二○一九年にもなるのです。だから、現世の人間の経験を信じないで頂きたい。

 弘法大師が言ったこと、白隠禅師、日蓮、空海、親鸞、道元が言ったことを信じないで頂きたいのです。

 白隠禅師はイエスを知らなかったのです。弘法大師、日蓮、親鸞も道元もイエスを知らなかったのです。

 釈尊はイエスを知っていたのです。「一見明星」というすばらしいことによって、復活のイエスを道破していたのです。こういうことをはっきりいう人は日本にはいません。世界にもいないでしょう。こういう事は、仏典と聖書を詳しく勉強したら分かるのです。

 今の人間は必ず死んでいきます。イエスの復活を経験しない以上、皆様は死ぬに決まっているのです。

 日本人は神を知らない民族です。神が全然分からないのです。神という絶対は何であるのか、分からないのです。だから、固有名詞の人間、自我意識の人間が、生きているままで聖書を考えようとしているのです。主観的な意識があるままの状態で、自分が生きているという気持ちを持ったままの状態で、聖書を勉強しようとしているのです。だから、本当のイエスが分からないのです。

 臨在の悟りは自分が悟るのです。宗教の悟りは自分が悟るのであって、天地宇宙の悟りではないのです。

 イエスは天地宇宙の命を掴まえたのです。純粋な客観的命を掴まえたのです。

 皆様の目の働きは何か。例えば、花を見る時の皆様の目の働きは純粋経験です。花を見るとか、花の香りをかぐとか、果物を味わう、タイやマグロの刺身を食べるというのは、純粋経験というのです。

 純粋経験というのは人間の生まれながらの持ち前のことです。先天的な経験です。ア・プリオリの経験です。

 人間はア・プリオリの経験に基づいて花を見ているのです。これが純粋経験です。純粋経験は人間の常識や知識に関係がないのです。

 純粋経験が皆様の五官の中にあるのです。皆様の五官は匂いを直感できる機能です。高そうなお鮨の写真を見たら、思わずおいしそうだなあと思って口の中で唾液が出るのです。ウナギ屋さんの近くに行くと、ウナギを焼いている蒲焼の匂いがします。やはり唾液が出るのです。

 これは皆様のア・プリオリの感覚であって、これが本当の人を示しているのです。これが客観的な命です。砂糖をなめて甘いと思う。これが純粋経験です。

 砂糖をなめて甘く感じること、塩をなめて辛く感じることは宗教ではありません。宇宙の実体です。皆様の五官は宇宙の実体を悟ることができるのです。

 これが客観的な命です。現在皆様の五官が働いています。この命のあり方を正確に捉えさえすれば、神が分かるのです。そうすると、生まれながらの命が分かってくるのです。

 皆様は生まれた時は、赤ちゃんとしてすばらしい顔をしていたのです。赤ちゃんの時の顔と、今の皆様の顔を比べてみてください。そうすると、大人というのはどれほど染みたれた存在かが分かるでしょう。どれほど汚れた存在かが分かるでしょう。

 皆様がこの世に生まれた時に、死なない命を持って生まれてきたのです。ところが、現世において物心がついて、世間から色々なことを教えられたのです。学校へ行って色々なことを教えられた。そのために、人間は愚かになったのです。

 現世で生活するためには、それも必要でしょう。しかし、皆様の命は現世で生きることが目的ではないのです。永遠に生きることが目的です。これを皆様の霊魂はよく知っているはずです。

 皆様の中にある客観的な命、純粋経験をすることができる命、花を見ることができる命、魚の味わいが分かる命を皆様は持っているのですから、この命に帰って頂きたいのです。

 常識的な命を解脱して、生まれながらの命、死なない命に帰って頂きたいのです。

 釈尊の一見明星と新約聖書が成立したこと、イエスがキリストであることと重大な関係があるのです。これは世界的な宗教家、学者も知らないのです。

 神は日本に不思議なことをしているのです。東洋文明の真髄と西洋文明の基本原理を一つにして、本当の命のあり方をはっきり見ることができる原理を、日本民族に与えようとしているのです。私は神の手先として、これを皆様に示そうとしているのです。

 今の地球は不完全なものです。いつ地震が起こるか分からないのです。こういう地球に皆様は生きているのですから、もう少し大きな思想を持って頂きたいのです。

 今の地球は未完成です。今の人間も未完成です。未完成の地球に未完成の人間が住んでいるのです。これを本当のものと考えてはいけないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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