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  • 管理人 chayamichi

カルマ

 日本人の場合、学問、哲学、宗教などはすべて生活が基礎になっているのです。これから出ようとしないのです。

 聖書を読もうとしないことが日本人の根本的な欠点です。韓国の人の方がよほどましです。韓国のキリスト教会へは何千人も人が集まりますが、日本のキリスト教会には、わずか数十人しか集まらないのです。

 日本人はカルマが分からないのです。生まれてきたことがカルマだと言いますが、自分の中にカルマがどのように働いているのかが認識できないのです。

 カルマとは業(ごう)です。宗教では業と霊魂がどういう関係になっているのかが分からないのです。

 皆様は日本民族特有の底の浅さをまず認識して頂きたいのです。天皇制の実体が分からないのもそのためです。

 日本人は天皇制を生活の角度からしか見ていないのです。だから、天皇制という奇妙な制度の本質が何であるのかが分からないのです。

 アメリカ人もイギリス人も、日本の天皇制には皆一目を置いているのです。天皇陛下にお目にかかると、不思議な感動を覚えるのですが、日本人にはその意味が分からないのです。

 ある人が、天皇陛下は人間であって、我々とは変わらないと言っていたのです。この人が友人に勧められて皇居のお正月の一般参賀に行ったのです。天皇陛下を「天ちゃん」と言っていた人が、天皇陛下を見た途端に電気に打たれたようになって直立不動をして、真剣に「天皇陛下ばんざい」と叫んでいたというのです。

 こういう心理状態は一体何でしょうか。天皇というのは不思議な存在です。現世における人間の命と、永遠の命とを繋ぐような存在になっているのです。これが日本人には分からないのです。聖書を見ないから分からないのです。

 ある映画俳優が二千円の入場料を取って、死後のことについての講演会をしていましたが、全くのお伽話を語っているのです。守護霊があると言っているのです。

 日本の新興宗教は、盛んに守護霊を持ち出して人々を集めています。守護霊というものはありますけれど、全く皆様の命の足しにはなりません。

 新興宗教の言い分、また、既成宗教の言い分は、地球がある間は通用しますけれど、地球がなくなったら全く通用しなくなるのです。

 皆様は国がある間とか、地球がある間という小さいスケールで考えないで、永遠という場に立って考えて頂きたいのです。

 こういう考え方が日本にはないのです。空海は現世主義者でした。親鸞も同様です。道元は現世から逃れようという気持ちがありましたが、空海や親鸞はこの世に人間がいること、天地万物があることを固く信じていたのです。

 太陽系とはどういうものか。太陽と地球との関係がなぜ合理的にできているのか。これは科学では分からないのです。

 科学は太陽系宇宙が存在していることの説明はしますが、なぜそうなっているのかということの説明ができないのです。

 日本の天皇制についても同様です。天皇は有難いと言いますが、なぜ有難いのかということの説明ができないです。

 例えば、山が目の前にあるとします。これは何かという説明はできますが、なぜあるのかという説明ができないのです。森羅万象について、これは何か、what is this ?は説明できますが、なぜあるのか、why is this ?の説明ができないのです。

 皆様は顕在意識、いわゆる人間の常識、知識が非常に強すぎて、潜在意識がほとんど分かっていないのです。これが人間が死んでいく原因になっているのです。

 日本人の中で聖書を読んでいる人はめったにいません。聖書を読んでいても、親しみを感じないで、ショーウインド覗く程度の見方しかしていないのです。聖書を覗いてはいますけれど、読んでいないのです。

 皆様が現在生きているという事実を掴まえて、人間とは何かということを考えるのです。

 人間が現在生きているということは、生きているという形で見ていることになるのです。人間が現世に生まれたら死ぬまで勉強です。生まれてから死ぬまでの間、ずっと見続けているのです。毎日、毎日見ているのですが、その見方が間違っているのです。

 人間的な角度から見ている。死んでいく人間の角度から見ているのです。死んでいくに決まっている人間の角度から人生を見ている。だから、死んでしまうのです。これが当たり前だと思っているのです。皆様は死んでしまうに決まっている人間の角度から人生を見ている。

 ところが他方、やがて死んでいく自分を考えると、これではいけないと思えるのです。これではいけないと思っている自分と、死ぬのは当たり前だと考えている自分と二人いるのです。

 そこで困るのです。普通の常識で生きている人間は皆死んでしまうのです。人間は一日生きていたら罪を重ねていくのです。

 毎日生きているということは、毎日罪を造っているのです。どのように罪を造っているのか。

 生きていることに感謝している人がいますが、常識的な見方で感謝しているのです。

 日本人の中で比較的裕福な人で、何も心配はしていません。生活的にも信仰的にも結構な状態で、日々生かされていることに感謝していますという人がいます。

 こういう考え方は皆だめです。この世に生きているだけではなくて、死んだ後に霊魂のあり方がどうなるのかということを考えなければいけないのです。

 潜在意識である霊魂は、死んでもなくなりません。人間の常識、知識である顕在意識は、生きている間しか役に立たないのです。

 潜在意識と顕在意識をどのように調和させるかということです。結構な生き方をさせてもらっていますという人は、顕在意識で言っているのです。

 いくら現世で結構な生き方をしていても、命を学んでいなかったらだめです。こういう人は毎日罪を造っているのです。

 罪の実体は何かと言いますと、記憶に関係があるのです。一日生きていたら、一日記憶を積んでいるのです。これが全部罪になるのです。人間の記憶は恐ろしい罪になるのです。

 自分が生きているという記憶です。これが恐ろしい罪になるのです。

 今の日本人の一番悪い所は、生きている間だけが人生だと考えてるのです。昔の日本人は後生を非常に大切に考えたのです。今は後生という考えがなくなっているのです。

 後生を考えない今の人間でも、死んだ後にも何かがあるらしいということが分かるのです。ところが、割り切れていないのです。

 死んだらはっきり終わりだということが、証明できたらいいのですが、証明できないのです。現在の学問や宗教は、人間が死んだ後のことを全然説明できないのです。

 神霊科学でも説明できないのです。死んだら人間の肉体から霊魂が出ていくのです。魂はエネルギーです。これはある程度写真に撮れるのです。

 皆様が今生きているということが、霊魂です。これが本当の霊です。死んでから、人間の体からエネルギーが抜けていくのです。

 人間が今考えることができるというのは、エネルギーによるのです。霊魂はそのような働きをする根底の存在です。

 皆様が生きているということが、魂です。これは神の子です。なぜ神の子というのかというと、神が親になるからです。形がある状態で現われることが子です。神は形がない状態で存在しているのです。

 形がない神が、形がある状態で現われているということを、今皆様は経験しているのです。これが神の子です。

 人間の目に見えない世界、耳で聞けない膨大な波長の領域があるのです。人間は地球現象の可視的範囲、可聴的範囲しか見ていないのです。

 霊の世界は目に見えないもの、写真では撮れないものです。こういうものの勉強をする必要があるのです。

 皆様が現在生きているというのは、霊魂の勉強をするためです。皆様は鼻から息を出し入れしていることは分かりますが、なぜそうなっているのかということが分からないのです。これを神と言うのです。

 神が私たちの生理機能の根源であり、私たちの存在の当体になるのです。ですから、私たちの存在の当体を掴まえたらいいのです。

 顕在意識は死んでしまったら役に立ちません。役に立たないだけならいいのですが、それが記憶の本体になっているのです。皆様の記憶は全部肉です。嘘です。

 人間の考えは、永遠という角度から見たら、全部嘘です。これをどのように始末したいいのか。そうして、生きている間に永遠の世界へ入ることを考えなければいけないのです。

 皆様は肉の記憶を持ったままで永遠の世界の話を聞いても分かりません。記憶を始末する方法と、永遠の世界を知る方法と、両方の勉強をする必要があるのです。これは難しいことかもしれませんが、しなければならないことです。

 ですから、まず聖書を正しく読みたいという気持ちを持って頂きたいのです。聖書だけしか永遠の命を掴まえる方法はありません。

 皆様の常識、知識は現世に生きている間は通用します。顕在意識は皆様の記憶の原点になっているのです。皆様の記憶は顕在意識によって成立しているのです。これが皆様の霊魂を地獄へ引っ張っていくのです。

 人間の五官の働きは全世界の人間の共通感覚です。世界中の人間は甘いものは甘いと感じ、辛いものを辛いと感じるのです。私は世界一周旅行を二回して、このことをつくづく体験しました。

 固有名詞の人間ではなくて、万人共通の命、人格があるのです。この命、人格は一つしかないのです。これが人間です。この共通人格の中へ入って行くか行かないかが問題です。

 固有名詞の立場からだけしか考えられないとしたら、その人は自分の業(ごう)の虜になっているのです。固有名詞というのが業です。固有名詞の自分から離れられないと思っている人は、業の虜になっているのです。こういう人は死ぬしかしょうがないのです。

 分かりたいと思う人は誰でも分かるのです。これが女性の感覚の本質です。自分は分からないとか、自分のことは放っといてほしいというのは、男の感覚です。受けれようとする女性と、受け入れさそうとする男と、二種類の人間がいるのです。

 受け入れさそうとする男はどこまでも自主的です。自分の立場から能動的に行動しようとするのです。これは間違っているのです。

 人間は一人しかいないのです。一種類しかいないのです。これは受け入れようとする人間を意味するのです。

 人間は甘いものを甘いと感じる。辛いものを辛いと感じるという人間しかいません。この人間が生きているのです。

 人間は一人しかいないから医学が成立するのです。もし百人の人間が皆生理機能が違っていたら、薬は一人ひとり皆違うものを開発しなければならないのです。一種類の人間に対する新薬を開発するのに、膨大な費用がかかりますので、もし人間の生理機能が一人ひとり皆違っていたら、一人ひとりに膨大な費用がかかって、医学は成立しないことになるのです。

 私は世界一周旅行を二回して、信号システムが世界中共通であることを実感しました。どこの国でも、赤は止まれ、青は進めでした。日本と同じ信号システムでした。

 これは世界中の人間の視覚が同じことを意味しているのです。もし赤いものを見て青く感じる人がいたら、たちまち交通事故が多発することになるのです。世界中の人間の視覚が同じだから、世界中同じ信号システムが通用しているのです。

 いつも感じることですが、人々はレストランに入ってメニューを見て注文します。出てきた料理を食べて、レジでお金を払って出ていきます。私はこのことをとても不思議に思っているのです。

 まずメニューを見て注文することです。メニューに並んでいる料理は単なる写真だけです。ところが、料理には味、香り、栄養という絶対に目で見ることができない奥深いものがあるのです。写真を見ただけでなぜ注文する料理を決定できるのかということです。

 もし十人の人が一度に入ってきて、ハンバーグ定食を頼んだとしますと、皆、出てきた同じ料理を食べて満足するのです。

 これはとても不思議なことです。写真だけで注文する料理を決定できること、そして十人の人が同じハンバーグ定食を食べて満足しているということです。これはまぎれもなく十人が皆同じ五官の感覚を持っていることを意味しているのです。

 もし一人ひとりの味覚が違っていたらどうなるでしょうか。甘いものを辛いと感じ、辛いものを酸っぱいと感じる人がいたら、レストランはまず一人ひとりの味覚の状態を検査しなければならないのです。これだけでも相当の時間と相当の費用がかかるでしょう。検査が終わったら、その人の味覚に合った料理を作らなければならないのです。

 もし全世界の人間の味覚が一人ひとり違っていたら、あまりにも多額の経費がかかりすぎて、レストランの経営が成立しないのです。

 全世界の人間の味覚がほぼ同一であることを前提にしているから、レストランの経営が成立するのです。私は世界中で色々なものを食べましたが、大体、満足することができました。

 医学とか、法律、科学ができるのは、共通する人間存在があることを証明しているのです。人類全体に共通する人格、命があるのです。これは人間は一人しかいないことを意味しているのです。

 人間には肉体的に、現象的に現われている部分と、目には見えない理性、良心、五官、生理機能、心理機能、人格があるのです。

 人間という格好で現われている命と、隠れている理性、良心、五官、人格としての人間があるのです。隠れているものがあるから現われているものがあるのです。これを理解して頂きたいのです。

 隠れているものがなかったら、現われているものはないのです。人間の目に見えるものは現われているものです。隠れているものがあるから、現われているものがあるのです。

 それでは隠れているものとは何か。もし隠れているものがなかったら、人間はあるはずがないのです。人間どころか森羅万象も、地球もあるはずがないのです。

 地球になって現われている方が大きいと思えるかもしれませんが、人間の方が大きいのです。人間として現われているものの方が、ずっと値打ちが高いのです。地球として現われている方が、値打ちが低いのです。

 聖書は隠れているものの元を霊なるものと言っています。現われているものを肉というのです。こういう考え方が日本人には存在していないのです。

 皆様の親にも、目に見える親と、目に見えな親があるのです。目に見える親は、霊魂から考えますと他人です。ところが、肉体から考えますと、正に親は親なのです。

 人間の肉体は親から受けたのです。ところが、肉体は本当の人間ではないのです。本当の人間は魂です。生きているという事がらが人間の本質です。これが魂です。

 いくら肉体が健康でも精神異常者であったら、正当な人間扱いができないのです。極度の精神異常者の場合には、選挙権、労働権、財産継承権は成立しないかもしれないのです。

 最近の日本人の寿命が伸びています。日本人の平均寿命は世界一、二位ですが、認知症の人が急速に増加しているのです。

 いくら日本人の寿命が伸びたと言っても、認知症の年寄りが増えたのでは困るのです。人間の寿命をやたらに伸ばしても、呆け老人が増えたのでは困るのです。

 肉体的に生きている人間はいます。これは現象的にいる人間です。現象的な存在は本当の存在ではないのです。

 般若心経は色即是空と言っています。目に見える存在は本当の存在ではないのです。

 本当の存在とは何かと言いますと、目に見える形を現わしている力です。これを掴まえたら死なないのです。ここまでしなければ勉強している値打ちがないのです。

 人間として現われているものと、それを現わしている実体とがあるのです。その実体は物理的なものだけではなくて、心理的な実体があるのです。

 神は物理的な面と心理的な面の両方に共通するのです。今私たちは神の物理的な面を経験しています。これを通して心理的な面の中へ入っていくのです。

 聖書に次のようにあります。

 「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、従って、見えるものは現われているものから出てきたのではないことを、悟るのである」(へブル人への手紙3・11)。

 見えているものは、現われているものから出てきたのではないとあるのです。例えば、子供がいるとします。目に見えている子供は、現われているものから出てきたのではないと言っているのです。

 人間は目に見えている子供は、現われている親から出てきたものであると考えているのです。これを肉の思いと言います。

 肉体的にだけ言えばそう言えるのですが、人間が生きているというのは肉体だけではないのです。肉体を動かしている命が肉体に宿っているから、生きているのです。もし肉体に命が宿っていなかったら人間とは言えないのです。

 これは死骸になるのです。死骸は人間とは言えない。

 死骸をいつまでも置いていたらいけないのです。早く火葬場へ持って行って焼いてしまわなければならない。もし人間なら焼くなんてとんでもないことになるのです。

 これは聖書だけの考えではありません。法律でもそう言っているのです。肉体だけを人間だと認めていないのです。人間の正常な精神があって、感情も常識もあって、世間並の人間として言動する力がある者を人間と言っているのです。

 考える力がなくなるとか、正常な言動ができなくなれば、人間としての権利を主張できないことになるのです。

 肉体が人間ではないのです。これは分かり切ったことですが、しかし、なかなか分からないのです。生きているということが人間です。

 生きているのは何か。目に見えている人間は、生きているということから現われてきたのです。生きているということは目に見えないことです。

 見えるものは現われているものから出てきたのではない。見えている人間は、現われているものから出てきたのではないのです。親という目に見えているものから出てきたのではないのです。

 ところが、人間は親がなければ子供はできないと考えているのです。肉体的にだけ考えたらそういうことになるでしょう。子供の肉体は親から出てきたのに違いないのですが、生きているということは親から出てきたのではないのです。生理機能と心理機能、五官が正常に働いていることが、生きていることの実体ですが、これは親から出てきたのではないのです。

 誰から出てきたのか。それを神というのです。生きているということは神から出てきたのです。これを掴まえる必要があるのです。そうすると、命が分かるのです。

 生活と言いますが、生が生活の本体です。生は目に見えないものです。これは現われているものではないのです。現われていないものです。

 皆様が生きている状態を客観的に見ていくと、霊になっているのです。皆さんは何とかして死なない命を知りたいと思っているのです。死なない命があるとしたら、死なない命を掴まえたいと思っているのです。これは自分自身の気持ちとは違うのです。これは皆様の命の気持ちです。

 皆様を生かしている命が皆様の内に働いていて、これが死なない命を求めているのです。

 死んでしまうのは自我意識です。死なない命を掴まえるためには自我意識を捨てなければならない。ところが、自我意識を捨てたら何もかも全部なくなると思えるのです。

 自我意識を捨てても自分の心臓が止まる訳ではないのです。自分の命が自分の命のものではないのなら、それを神に返したらいいのです。これをしたらとても楽になれるのです。

 命は自分のものではないのです。これを自分のものであると考えて、自分が握り込んでいるのです。人間にはこれが大変な重荷になるのです。

 命は生きているということです。これは自分のものではないのです。目に見えない力が自分を生かしているのです。目に見えない力は自分とは違うのです。だから、自分が生きているという気持ちを神に返しても、自分を生かしている力がなくなる訳ではないのです。このことをよく考えて頂きたいのです。

 命は自分のものではないのです。だから、自分のものとして扱っていても、やがて取られてしまうのです。取られるに決まっているとしたら、それを使っていた時の気持ちが業になっているのです。これが記憶になっているのです。

 人間は毎日、毎日、自分の利害得失、毀誉褒貶を考えているのです。自分のものではない命を、自分のものとして考えている自分の記憶を造っているのです。

 そこでまず、命が自分のものであるという気持ちをやめるかやめないかが問題です。命が自分のものであるという気持ちをやめるとします。そうすると、不思議なことが起きるのです。

 命は自分のものだと思っている間は、神と喧嘩しているのです。神は命を人に貸しているのです。ところが、人間は借りたつもりはありません。人間は命はもらったものだと思っているのです。ところが、命をもらうということを、人間ができるはずがないのです。勝手に使っているだけです。

 もし命が自分のものであるのなら、死にたくないと思ったら永遠に死ななくてもいいはずです。命が自分のものではない証拠に、取られるのです。だから、命は自分のものではないのです。

 今まで自分の命だと思って抱き込んでいたのは、借り物を自分のものだと思っていたことになるのです。これは背任横領になるのです。

 貸してもらったものを自分のものだと思っていると、横領していることになるのです。命を横領していることを記憶は知っているのです。人間の霊魂は命は借り物だということを知っているのです。

 命は天のものです。命の本質は天命であって、自分のものではないのです。それを自分のものだと思い込んでいると、横領していることになるのです。

 これを人間の良心は知っているのです。知っているので、これではいけないと考えるのです。

 宗教信者は命は自分のものだと思い込んでいるのです。命は自分のものであり、自分は死んでから天国へ行こうと考えるのです。死んでからなお命を横領しようと考えているのです。死んでから極楽へ行ける命があるとしたら、死んでからもなお命を横領しようとしているのです。

 生きている間に早く自分を始末しておかないと、死んでから大変なことになるのです。

 平明に、冷静に考えてもらいたいのですが、生きている間は貸してもらっている命が働いているのです。命が働いている間に、命は借り物だということに気が付いて、借り物らしく扱おうという気持ちをまず持って頂きたいのです。

 命は誰に借りたのか。日本的に言いますと、お天とうさんに借りたとしか言いようがないのです。

 お天とうさんというのが、聖書でいう神です。これは日本人が拝んでいる神ではないのです。明治神宮は明治天皇を祀っていますが、これは本当の神ではないのです。

 お天とうさんが神です。お天とうさんに自分の命を返すとしますと、お天とうさんの立場で生きることになるのです。お天とうさんの立場で命を使うことになるのです。これを信仰というのです。そうすると、記憶の内容が変わってくるのです。

 今まで命は自分のものだと思っていた時の記憶と、自分の命をお天とうさんに返してしまって、お天とうさんの命で生きることになりますと、記憶の内容が変わってくるのです。記憶の内容さえ変われば命の本質が変わるのです。これだけのことです。

 そうすると、とこしえの命を生きることになるのです。自分の命で生きないで、神の命を神の心で生きるのです。

 人間が命の本質を掴まえるために、懇切丁寧な機能を与えているのです。これが五官です。これがとこしえの命を掴まえるための機能です。

 現在大学で教えている専門学はすべて情報です。なぜなら、専門学は仮定を設けているからです。仮定を設けなければ理論が成り立たないのです。

 物理運動の原理を捉えようと思えば、時間があることを考えなければならないのです。時間がなければ物理運動は成立しないからです。

 アインシュタインは時間があると考えたのです。時間と空間がどのように関係しているのか。空間がどのように時間に接触しているのか。時間の中へ空間が入り込むと、空間がどのように変化するのか。時間に関係なく、ただ空間だけがある場合と、時間と空間とを一緒に考える場合にはどうなるのか。

 時間と空間が相関することによって変化が生じると、アインシュタインは言っているのです。

 時間があること、空間があることを仮定しなければ、相対性理論は成立しないのです。時間があることを仮定すること、また、空間があることを仮定することが情報です。人間が考えた思想です。

 ところが、今の科学では、時間があるということの証明ができないのです。

 時間が何処にどうしてあるのかということを説明できないのです。なぜなら、時間はないからです。時間は何処にもないのです。人間の概念によって発生しているのです。人間の概念から発生したものはすべて情報です。

 専門学はユダヤ人が考えた情報です。例えば、目の前にユリの花があるとします。これは情報ではないのです。

 ユリの花を見て美しいと思う。美しいと思うことが命への入口になるのです。悟るとか、信じるというのは、この入口に入っていくことです。これは情報ではないのです。

 皆様が生きているというのは、情報ではないのです。生きているという事実を経験しているのです。

 生きているということをどうして経験するのかと言いますと、五官の働きによってしか経験できないのです。

 これについて聖書は次のように書いています。

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について❘

 このいのちが現われたので、この永遠のいのちを私たちは見て、その証をし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今や私たちに現われたのである❘

 すなわち、私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、私たちの交わりにあずかるようになるためである。私たちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」(ヨハネの第一の手紙1・1~3)。

 私たちの交わりというのは、父なる神と、子なる神であるキリストとの交わりをいうのです。この中へヨハネが入っているのです。

 父と子の交わりの中にヨハネが入っているから、私たちの交わりと言っているのです。私もこの中に入っているのです。私の魂は神と交わっているのです。神に繋がっているのです。

 私たちが生きているという事がらが霊です。英語ではコンディションと言います。私たちが生きているというコンディションが霊です。コンディションは状態です。状態が霊です。

 生きているということがなぜ霊なのかと言いますと、霊なる神と繋がっていることが生きていることだからです。

 目で見ているのは神の言を見ているのです。手で触っていることが神の言に触っているのです。

 皆様は現在目で見ていますが、ある物が見えるでしょう。あるということが大変なことです。あるというのは存在ということです。これを皆様は見ているのです。

 存在というテーマは難しくて、ドイツ観念論では説明ができないのです。ソクラテスも、アリストテレスも存在について色々な角度から説明しようと思っていますが、完全に説明していないのです。

 物が存在していることは分かりますが、存在の説明ができないのです。存在しているという事がらの説明ができないのです。これが神です。

 存在しているという事がらが神です。これは神の非常に不完全な説明にすぎないのですが、今はこういう言い方にしておきます。

 目に見えるものは実際に見えるのです。これは情報ではないのです。現実に私たちは見ているのです。見ていることは分かりますが見ているものがなぜあるのか。あるということはどういうことなのか。この説明が学問ではできないのです。

 ユリの花を見ているのは、専門学では説明ができないような難しいことを現実にしているのです。ユリの花を見て美しいと思う。これは情報ではないのです。学問でもないのです。命を見ているのです。これが悟るとか信じるとかいうことの入口です。

 五官という入口から魂の中へ入っていくのです。見たり、聞いたり、食べたりを、皆様は毎日、毎日経験しているのです。経験していながら何をしているのか分からないのです。

 悟っていないからです。なぜ悟っていないのかと言いますと、神の御霊を崇めることをしないからです。

 見ているというのは何をしていることか。目で見ているということは何をしているのか。ある能力が働かなければ、見ているという実感が働かないのです。

 人間の目が働く能力と、また、花が咲いているという客観的な事実とを結びつけるような働きがあるのです。これが霊の働きです。

 これは物理的な働きでもありますが、心理的なものでもあるのです。物理的に言えば電気の働きになるのです。

 電気は物理的にも心理的にもどちらにも働くのです。物と心の両方に電気が働いているのです。

 花を見たらきれいだと思えるでしょう。きれいだと思えるとはどういうことか。

 人間はただ生きているだけではない。生きていることに対してある特別の解釈をしているのです。おいしいというのはそのことです。花を見てきれいだと思うことは霊魂の働きです。魂に刺激しているのです。

 きれいと思うのは、花によって魂が刺激されているのです。

 神を掴まえることを難しいと思ったらいけないのです。五官はいつも神を掴まえているのです。よく見て手で触るということは年中しているのです。これは初めからあった命の言に触れているのです。これは死なないい命です。

 皆様は死なない命を年中見て触っているのです。おいしい味というのは、死なない命の味です。男が女の手を触るとする。また、女が男の手を触るとする。これで命が分かるのです。

 目で見るということは、難しいのですが、それが死なない命を見ているということです。男女間の接触は命が一番よく分かるのです。よく見て手で触るからです。

 好き合っている男女が触れ合うと、電気を感じるのです。電気というのは霊気です。霊気は命です。

 男女が触れ合って電気を感じるというのは、現世のことではないのです。地のことではない、天のことです。愛する者同士が手で触ることが天のことです。天を経験しているのです。分かっている人にはその値打ちがすぐに分かるのです。分からない人には分からないのです。

 皆様の五官は神を知るための機能です。聖書を勉強したら神が分かりますが、聖書がなくても神が分かるのです。

 聖書を信じる方が確実で間違いがありませんが、聖書を信じなければ神が分からないのではないのです。日本人はもっと謙虚な気持ちになれば、神が分かるのです。

 聖書を知らなくても般若心経を正しく学ぶことによって、聖書の真髄に入っていくことができるのです。聖書なしに聖書を学ぶことは可能です。こういうことを世界中誰もしていませんが、それを私はしているのです。

 神とは何か。皆様が生きていることが神です。皆様が生きていることの中に、神を経験しているという実感がなければならないのです。五官がそれを実感しているのです。

 食べるとか、触るということが、とこしえの命に繋がっているのです。これはおいしいと思うことが天のことです。地のこととは違うのです。

 天国へ行くというのは、生きているうちに行くのです。これは天だということを知って食べるのです。そうすると、天にいるという実感が持てるのです。

 神と皆様の霊魂とは、親子というよりもっと密接です。夫婦というよりももっと密接な関係です。

 きれい、おいしいと思うことが、神と触れ合っているのです。「目でよく見て、手でつらつら触れ」と聖書は言っているのです。こんな分かった話はないのです。

 目で見て、手で触るという味が福音です。おいしいことが福音です。神ご自身を伝える知らせる良い便りです。

 人間の五官が活動しているということが天です。これを心得て食べる。飲むのです。男女の営みも同様です。

 人間が生きているのは、天を経験しているのです。地ではないのです。この世に生きているということが、天を経験していることです。

 現実は神の中で神と一緒に生きているのです。これが分かったら死なないのです。

 神に惚れているか惚れていないかです。神に惚れたら神が分かります。惚れなかったら神は分からないのです。

 神と人間の霊魂の関係は、愛の繋がりです。神が分からないというのは、神に惚れていないからです。

 神に対して極めて素朴な好意を持つのです。これが神に惚れることになるのです。

 人間の場合には素朴な好意を持つくらいではだめです。神には素朴な好意を持つだけでいいのです。

 砂糖をなめたら甘いと感じます。塩をなめたら辛いと感じます。これが神に触れていることです。だから、信じようと思わなくてもいいのです。

 信じよう、信じようと思うから、宗教観念になるのです。宗教へ行ったら、偽物の神や仏を教えられ、たくさんのお金を取られるのです。

 舌は信じなくても砂糖は甘いと感じるのです。皆様の舌は皆様を絶対に裏切りません。絶対に裏切らない感覚的な本能で、神を掴まえるのです。

 神を好きになるということだけが条件です。これだけでいいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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