人間は衣食住のあり方において、神の子の栄光をそのまま生きることを許されているのです。神が人間の格好をして、この地上で生活するとしたら、今の人間がしているような生活態度をとるに決まっているのです。
人間の衣食住のあり方は、神が肉体をとったのと同じ状態に置かれているのです。人間が現世で生きているのは、神の子としての待遇を神から与えられているのです。これに気付かない人は、神の待遇を与えられていながら神を信じていないことになりますので、地獄へ放り込まれることになるのです。
イエスは次のように言っています。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、私の元に来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者であるから、私のくびきを負うて私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイによる福音書11・28~30)。
すべて重荷を負うものは私の元に来なさいとあります。これは私の所へ来なさいとか、私の弟子になりなさいということとは違います。私の元へ来なさいという訳は間違っているのです。我に来たれとはどういうことか。イエスそのものになれというのとは違っているのです。イエスそのものはイエス一人しかいないのですから、我に来たれというのは、イエスという存在に来なさいと言っているのです。
イエスの存在になら行くことができるのです。イエスの存在は神の御子としての存在ですからこれにはなれるのです。イエスの存在と同じ存在になれるのです。同じ存在になったからと言って、イエスそのものになった訳ではないのです。私に来なさいという私とは、イエスという人間が生きていた状態です。その状態の中へ入って行くのです。
二十九節を英訳で見ると、「お前たちは私のくびきを負いなさい。そして私に学びなさい」と言っているのです。先にくびきを負いなさいと言っているのです。
イエスのくびきを負うとはどういうことか。キリスト教はこういうことを分からないままに鵜呑みにしているのです。イエスのくびきを負うとはどういうことかを全然教えていないのです。
くびきは民族によって違います。日本のくびきは簡単なものですが、イスラエルのくびきは二頭並んで動かすのです。くびきは何処までもイエスのくびきであって、イエス以外の人間のくびきは存在しないのです。人間にはイエスのくびきがあるだけです。
イエス以外の人間は全部罪人であって、人間は自分の肉性を負っているのです。そして、肉の思いで生きているのです。原罪動物として生きているから、くびきにはなれないのです。自分自身が原罪動物ですから、原罪動物が原罪動物の生き方をするのは当たり前です。これはくびきとは言えないのです。
イエスは罪人ではなかったのです。言(ことば)が肉となっただけです。罪人の形をとってこの地上に下った。性根から罪人とは違うのです。だから、罪の下に売られてはいないのです。
イエス以外の普通の人間は罪の下に売られている。これが肉体人間の定めです。だから、一度死ぬに決まっている。死んでから地獄へ行くに決まっているのです。ところが有難いことに、イエスのくびきは言が肉になっただけですから、罪、死に関係がないのです。
皆様が固有名詞の自分をやめてしまったら、イエスのくびきになるのです。固有名詞の自分であることをやめてしまうのです。自分自身の利害得失を一切捨ててしまうのです。これをパウロが言っているのです。
皆様はキリストと共に甦ったのだから、古い人間は全然いないと言っているのです。罪人である人間はいないのです。私たちは原罪に関係がないのです。十字架によって死んだのですから、自分の名義の人生はなくなっているのです。
肉体人間として生かされていますから、罪人の形をとっていますが、実は罪人とは違うのです。だから、肉は一切ないのです。責任を負わなくてもいいのです。これが有難いのです。だからパウロは、「霊によって生きる私たちは、罰せられない」と言っているのです。
固有名詞の自分はいないのです。イエスが十字架にかかったことによって、罪人である人は一切いないのです。イエスの肉が十字架に付けられた時に、肉なるものは全部死んでしまったのです。今の人間はイエスが甦った時に全部甦ったのです。皆様はもう死なないのです。人が一度死ぬことと、死んで裁きを受けることはないのです。
皆様がイエスのくびきを負わないのなら死にますが、負うなら死なないのです。死に関係がないのです。従って、皆様自身の損も得もない。焼きもちを妬くこともないし、威張ることもないのです。新約の時代は旧約の時代とは全然違います。肉体人間はいないのです。肉体的に生きているが、これは言が肉となったのであって、肉体人間とは違います。肉の形をとっているだけです。
従って、皆様が今まで六十年生きてきた、七十年生きてきたという自分にきっぱり別れて頂きたいのです。奥さんと離縁せずに自分と離縁するのです。自分ときっぱり別れるのです。そうすると、気楽になるのです。
イエスのくびきを負うと魂が休憩するのです。肉体を持っている自分はいないのですから、自分の生活について、自分の健康について、一切責任を持たなくてもいいのです。
「生きていてわたしを信じる者はいつまでも死なない」とイエスが言っているのです(ヨハネによる福音書11・26)。イエスのくびきを負う者は死なないと言っているのです。
今の地球上に罪人は一人もいません。原罪動物はいないのです。それをいると思っているのが原罪です。固有名詞の人間がいると思っているのが原罪です。固有名詞の自分がいると思っている人は必ず暗くなるのです。自分の利害得失を考えるからです。あの人は得だ、自分は損だと考えるのです。利害は一切考えてはいけない。考える必要がないからです。
イエスを十字架に付けた時に、人間は全部イエスと共に死んでしまったのです。「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠れているのである」とパウロは言っています(コロサイ人への手紙3・3)。あんまり簡単に言い過ぎて分からないのです。
「あなたがたはキリストとともに甦らされた」のです(同3・1)。キリストと共に甦ったのですから、自分のことを一切煩う必要はないのです。だから、死なない人間として生きるのです。死ぬ人間をやめるのです。
イエスのくびきを負ってください。これは結構なくびきです。自分のくびきを負っていたら必ず死ぬからです。
日本流のくびきは一頭用のくびきです。私は日本人だから日本流のくびきを負うと言ってはいけないのです。ユダヤ流のくびきを負わなければいけないのです。
人間はイエスが死んだ時に一緒に死んだのです。イエスが生きた時に一緒に生きたのです。イエスのくびきさえ負えば、彼と一緒に死んで、彼と一緒に生きるのです。イエスと一緒に行動するのです。ただくびきを負うか負わないかだけなのです。
キリスト紀元(西暦紀元)は神の御心によってできた紀元であって、キリスト紀元ができたと同時に、イエスと共にすべての人が行動するように神が命令したのです。だから、キリスト紀元になっているのです。キリスト紀元が始まった以上、死ぬ人間、死ななければならない人間は一人もいないのです。
ところが、イエスのくびきを負わないから、「一度死に、死んだ後に裁かれる」となるのです(へブル人への手紙9・27)。これはユダヤ人に対して言われているのです。ユダヤ人はキリストを殺したために神から捨てられたので、一度死んで裁きを受けなければならないのです。ユダヤ人にはこういう運命があるのです。
有難いことに異邦人は死ななくてもよくなったのです。異邦人が死ななくなったのはユダヤ人が臍を曲げてくれたからです。
だから、イスラエル回復のために祈らなければならないのです。イスラエルにご恩返しをするのです。今度はユダヤ人が救われるのです。絶対、彼らは救われなければいけない。そうすると、神の約束が成就するからです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)