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  • 管理人 chayamichi

存在と命

 仏教、キリスト教、イスラム教というものは、千数百年の間、世界に根を下ろして落ち着いているのです。これはそれなりの理由があるのです。

 新興宗教的な考えには警戒して頂きたいのです。これは本質的にオカルトです。守護霊がどうとか、死後の霊がどうとかいうのです。現世の利益を説いているのです。

 これは永遠的な意味での価値は全くないのです。私がお話ししたいのはもちろん新興宗教ではありません。既成宗教の概念さえも乗り越えていくのです。

 イスラム教とか、仏教、キリスト教というものが、半永久的に存在するという根本の問題を取り上げているのです。世界的なあらゆる宗教の根本を申し上げているのです。

 宗教というものがなぜあるのか。人間はどういうものなのかという実体をお話したいのです。

 皆様は今現在生きていますが、今の命というのは偶然にできたものではないのです。

 地球が現在できています。学者は地球は四十五億年前にできたと言っています。地球が現在の地球でなければならないという基本的な条件があったのです。太陽系宇宙の中にそういう条件があったのです。

 地球が森羅万象を生み出すような因縁があったのです。因縁がなければ地球ができるはずがありません。そうなるべき原因があったのです。

 地球があって森羅万象ができているのですが、地球という妙な惑星が宇宙に浮かんでいることについて、皆様は根本的な疑いを持たないのでしょうか。

 鳥が飛んでる、花が咲いているという地球が、なぜ宇宙に必要なのでしょうか。花笑い鳥歌うということがなぜ銀河系宇宙にあるのでしょうか。

 今の人間はこれを考えようとしないのです。全世界七十六億人の人間は、地球があることを不思議と思わないのです。だから、命ということが全然分からないのです。何をしているのかと言いたいのです。

 やがて地球上に人間が一人も住まなくなるでしょう。もっと先のことを考えたら地球そのものが消えてしまうでしょう。そうなるに決まっているのです。

 命あるものは必ず死する。形あるものは必ず毀れるのです。だから、必ず地球も消える時が来るのです。

 釈尊に前世譚がありまして、釈尊が生まれる前に、飢えた虎に自分の体を食べさせたというのです。これがそのまま彼の人格になって、天上天下唯我独尊ということになったというのです。

 人間には前世譚があるのです。人間が生まれる原因がなければ生まれてきたという結果は発生しないのです。

 これは地球にも言えるのです。森羅万象はどうしてできたのか。桜の花は何処にもなかったのです。地球ができた後に森羅万象が繁茂しているのです。

 こんなものは本来宇宙には必要がないのです。宇宙の星は星雲状態が当たり前です。アンドロメダ星雲とか、かに星雲、オリオン星雲など色々な星雲がありますが、皆ガス体です。濃厚であるか希薄かの違いはありますが、ガス体であるのが宇宙の星雲状態です。

 ガス体の星雲ができたり消えたり、消えたりできたりを繰り返しているのです。

 こういう宇宙の中で、地球に植物、動物が存在するのがおかしいのです。

 こういう雄大な思想で考える人は、今の日本には一人もいないようです。

 日本のお祖師さんと言われる人々、例えば、親鸞もそういう考え方をしなかったのです。道元も弘法大師も、釈尊でさえも私のような考えをしなかったのです。

 釈尊は悟ったのです。悟ったのですが、地球がなぜできたのかということを説明できなかったのです。また、人間がなぜ存在するのかという説明もしていないのです。そういうことは、法華経、維摩経にも、大般若経にも大無量寿経にも書いていないのです。

 天地創造の由来を考える人が今の日本にはいないのです。皆様の人生観は人間が現世に生まれてからの人生観です。だから、人間がなぜ存在するのかということが、全然説明ができないままの状態で生きているのです。これをまずやめて頂きたいのです。

 私が言うことは絶対を話しているのです。絶対ということは聞いてもいいし、聞かなくてもいいこととは違うのです。絶対というのは聞かなければならないことです。

 皆様が納得できるかできないかではないのです。自分が納得できるかできないかということは、自分を基礎にして考えているからです。

 自分を基礎にして考えるということが、スケールが小さいのです。せめて地球を基礎にして考えて頂きたいのです。そうすると、命ということが分かるのです。

 こういう私の話を聞いて素直に受け入れることができる人は、生まれる前から救われていた人です。生まれる前から救われていない人は、私の話を聞いても分かりませんし、聞こうという気持ちにもなれないでしょう。

 この世に生まれる前に、皆様は神の内においてすばらしい経験をしていたのです。生まれる前に選ばれていたのです。

 生まれる前に選ばれているという自覚を持てる人は、私が話すことが分かるでしょう。こういう人はめったにいないでしょう。

 この世の行いが良いか悪いかということはどうでもいいことなのです。頭が良いか悪いかということは小さなことです。

 命の本源を知ろうと思ったら、心を極端に大きく持って頂きたいのです。命は永遠の昔からあるのです。そして、永遠の後まであるのです。この命に皆様が繋がっているかどうかが問題です。

 皆様が私の話は分からないと言われるのは当たり前です。皆様は現世の常識を基礎にして考えていますから、分からないのが当然です。

 私も頭が悪い人間です。頭が悪いという点では決して皆様に引けを取らないのです。ただ私は神を信じているのです。

 私が生まれたのは、神から来たのであることがよく分かっているのです。神を信じたから分かったのです。

 皆様が神から生まれたことに同意できる方は、私と一緒に勉強されたらいいでしょう。同意できない方は残念ながら私と一緒に勉強しても無駄になるのです。

 「万物は神から出で、神によって成り、神に帰するのである」とあります(ローマ人への手紙11・36)。これを英訳では「For of God, and through God, and unto God」となっています。

 人間は神から来たのです。これがFor of Godです。現在神によって生きている。これがthrough Godです。そして神に帰るのです。これがunot Godです。

 人間の人生はこれしか考えようがないのです。親鸞が良いとか、道元が良いとかいくら言ってもしょうがないのです。親鸞には親鸞の考えがあったでしょう。

 親鸞は永遠の生命を全く説いていないのです。親鸞が良いと思う人は、親鸞を信じたらいいのです。

 親鸞は死んでしまったのです。本当の命が分かっていなかったから死んだのです。本当の命が分かった人間は死にません。私は本当の命が分かったから死にません。

 死ぬというのは神から離れることをいうのです。神という絶対真理から離れることを死ぬというのです。

 私は肉体的にはだめになります。使えなくなりますが、魂は神と一つになっていますから死なないのです。神から離れようがないのです。

 皆様の思想は現在のところは神と一つになっていないから危ないのです。本当に危ないのです。今晩でも心臓が止まったらそれでおしまいです。

 自分が分かるとか分からないという小さなことを問題にしないで、もっと素直になって頂きたいのです。

 今皆様には生きているという事実があるのです。この事実に立って考えたらいいのです。自分が分かるとか分からないというのはどうでもいいのです。

 生きているということは事実です。生きているということはザ・リビングです。the living ということで考えるのです。

 生きているということは事実ですから、信じる必要がないのです。信じる必要がないことにしっかり両足を付けて考えて頂きたいのです。そうすると、私が言うことがどんどんと分かるでしょう。

 固有名詞の自分に立って考えていますと、なかなか分かりにくいのです。

 人間に前生譚があると言いましたが、これと輪廻転生とどのような関係があるのか。輪廻転生が全くの妄想であるという考えは本当ですが、真面目な意味での輪廻転生という考え方はあるのです。

 本当の真理というのは、黒も本当であり、白も本当であるということがはっきり説けることをいうのです。

 私が輪廻転生が嘘だというのは、高橋信二さんとか桐山靖雄さんなどが説いている説が嘘だと言っているのです。

 人間歴史が始まって六千年と言われていますが、六千年の間に人間が輪廻転生しているという考え方は全く愚の骨頂です。

 私は人間文明が始まる以前のことを言っているのです。二○一九年現在で世界の人口は七十六億人ですが、七十六億人の人間が発生しなければならない原因があったのです。

 人間は三百年前に生まれたとか、五百年前に生きていたと高橋信二さんは言っていますが、こんなものは全くの迷信です。こういうことが信じられる人は、始めから命が分からない人間です。こういう人は地獄へ行くに決まっているのです。新興宗教に感心している人間は、スケールが小さい人間ですから、良いとか悪いとか論じる必要がないのです。

 釈尊は一切空と言いました。般若心経は五蘊皆空、色即是空と言っています。これは宗教ではないのです。

 皆様は宗教ではないものを勉強して頂きたいのです。宗教は良くても悪くても人間の常識の産物です。

 仏教に入纏垂手(にってんすいしゅ)という言葉があります。一度天に入ってしまってから、手を下へ下げて常識並に言うのです。これは可能です。

 ところが、これをすると膨大な時間を要するのです。何百年も何千年もかかるから、とても皆様の一生では不可能です。

入纏垂手(にってんすいしゅ)を考えないで、むしろ超俗的な、超学的な考えになって頂きたいのです。謙遜な気持ちを持って頂きたいのです。

 謙遜ということは空っぽになることです。色々と理屈を持っていたら謙遜とは言えないのです。

 聖書に、「今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである」とあります(ペテロの第一の手紙2・2)。

 イエス自身が自分のことを嬰児、ベビーと言っているのです。二十歳になっても、三十歳になっても自分のことをベビーと言っているのです。

 今の人間の一番困ることは、五十歳の人は五十年間この世に生きてきたと思っていることです。これが間違っているのです。

 五十年間生きてきたという事実はないのです。人間にとって一番大切なことは、今この瞬間に心臓が動いているということだけです。

 今自分が会社員であるとか、弁護士であるとか、バスの運転手であるとか、会社の社長であるとかはどうでもいいのです。

 今生きているということだけが本当の命です。昨日生きていたということも関係ない。社会的な地位、名誉という気持ちも捨ててしまうのです。今生きているということを掴まえるのです。

 今生きているということだけは信じる必要がない事実です。信じる必要がない事実が真理です。信じなければならないというものは、皆間違っているのです。こんなものは人間の観念の遊戯です。

 現実という言葉でさえも間違っているのです。現実はリアルですが、これがもう間違っているのです。現前ならいいのです。

 現実というのは今日という日が来て、日が暮れるまでを一日であると考える。日本という国があって、日本の社会があって、自分の家庭があって、自分の職業があると考える。これが現実です。これが嘘です。

 家庭があろうがなかろうが、商売があろうがなかろうが、命には何の足しにもなりません。

 本当に信じるられるものだけ信じて頂きたいのです。それは、今心臓が動いているということです。これが現前です。現前は待ったなし、駆け引きなしです。嘘も誠も、利害得失も何もないのです。

 人間の一切の思想から出てしまった事実が生きているということです。

 困ったことに、皆様はこの世で苦労していたので、五十年間生きてきた、六十年間生きてきたという記憶を信じているのです。この記憶が間違っているのです。

 そういうことを一切忘れて、今この瞬間に生きているという具体的事実だけを掴まえて頂きたいのです。

 今生きているということだけが本当です。なぜかと言いますと、昨日の地球は今はなくなっているのです。

 皆様は昨日地球があったと考えていますが、昨日の地球は何処にあるのでしょうか。昨日の地球も昨日の自分も、昨日の家庭もないのです。昨日の妻があったと思っているがそんなものはないのです。

 昨日の自分があると考えるのが常識です。昨日の地球も、昨日の自分も何処を捜してもないのです。ただ人間の記憶の中にだけあるのです。

 人間の記憶は、ありもしないものを記憶という形で保存しているのです。これが人間の迷いです。

 昨日の地球さえもないのなら、五十年間自分が生きていたという事実は何処にあるのでしょうか。

 私は七十年間生きてきたということを問題にしていないのです。そんなものは嘘だと思っているのです。

 存在と命がはっきり分かったらいいのです。宗教も哲学も、人間の学問も、人間の文化概念も、存在と命を全く見落としているのです。

 存在についての考えが間違っているのです。これは西洋哲学も東洋哲学も全く分かっていないのです。釈尊も言及していないのです。

 釈尊は人間の考えは全部空だと言っているのです。なぜ空なのか言いますと、存在と命が分からないからです。

 存在は命です。命は存在です。私は皆様を説得しようとは思いません。五十年、六十年という皆様の記憶は恐るべきものがあるのです。この記憶に向かって説得しようとしてもだめでしょう。

 日本人はユダヤ人とよく似た所がありまして、真理に対しては非常に頑固です。中国人や韓国人の方がはるかに素直です。日本の政府は明治二十年頃までは聖書を読むことを禁止していたのです。

 存在と命が分からないというのは、人間として致命傷です。神や仏を信じて何になるのでしょうか。神仏は皆人間が造った概念であって、そんなものを信じてもだめです。

 存在と命が分からずに神仏を信じるのが間違っているのです。

 人間の常識は皆様のハートにこびりついているのです。皆様のハートにこびりついている常識、知識が肉の思いです。

 目が見えない人は手で触って確認するのです。これは茶碗だ、これはコーヒカップだと思うのです。

 手で触って確認するという観念が牢乎として頭にあるために、目が見えるようになってからでも、目で見ているだけでは信じられないのです。手で触ってみて初めてコーヒ茶碗だと言えるのです。

 手の感覚しか分からないのですから、目で見ていても信じられないのです。見えていながら手で触って納得するのです。

 これが皆様の意識状態です。皆様は現世で長い間生きていたために、自分の観念や概念、自分がこの世に生きているという感覚で見ることが皆様の命になっているのです。

 これは本当の命ではないのです。皆様が四十年、五十年とこの世に生きていたのは、この世に生きていた命であって、本当の命ではないのです。

 自分がいると考えていますけれど、命というのは自分で造ったものではないのです。命を自分で造れるはずがないのです。

 自分が生まれたいと思わないのに生まれたのですから、現在生きているのが自分の命だとどうして思えるのでしょうか。ただ人間の常識で自分の命があると思っているのです。この世の習慣でそう思っているだけのことです。

 自分が生きていると思っています。百人が百人、千人が千人共、この世の習慣で自分がいると思っているのです。命が自分のものだと言える明確な証拠は何処にもないのです。

 人間には神から自分という意識を与えられているのです。それは人間は神に形どりて造られているからです(創世記1・26)。

 人間が神に形どりて造られていなければ、神を認識することができないからです。神は神の常識で考えて皆様に見せているのです。

 神の常識で造ったものを神は皆様に見せているのです。人間はそのために地球に遣わされたのです。

 神が造ったものを見ると神が分かるのです。神が分かると死ななくなるのです。皆様は何のために生まれてきたのか。死なない命を見つけるために、この世に生まれてきたのです。この世に遣わされたのです。

 神を認識するためには、自分という意識が必要です。経験の当体として、認識の当体としての性格が与えられなければ認識することができないのです。

 犬や猫は認識する機能が与えられていませんから、生きていても自分が生きているということを認識することができないのです。

 皆様は自分が生きていることを認識することができます。それは自分という意識を与えられているからです。

 自分という意識を与えられていますが、それは自分という命ではないのです。ところが、今の人間は、自分という意識が自分の命だと思い込んでいるのです。まずこの間違いに気が付いて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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