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  • 管理人 chayamichi

すべての人は罪の下に閉じ込められている

 私たちが生きているということは、太陽系宇宙に現われている幄(あげばり)(現象世界)の実体を見ること、見ると同時にそれを通り抜けてしまうことが、一番大きいテーマになるのです。

 神は人間を罪の下に閉じ込めたのです。これはどういうことかと言いますと、現象世界に肉の思いを持たせて生かしているのです。

 現象世界で肉の思いを持っていれば、現象が実体であると思えるに決まっているのです。これを罪の下に閉じ込めたということです。

 閉じ込められた状態から脱出できるのかどうか。脱出できない者は、神の御心を弁えることができないし、神の処置を悟って、自分自身の命として用いることができなかった者です。

 人間は現象世界へ、肉の思いを持たせて放り出された。罪の下へ閉じ込められた。最悪の条件を与えられていながら、実はこれはカルマであって、罪の下へ閉じ込められたという言葉の本当の意味を考えると、この世界から脱出することができるのです。

 現象世界、現世は仮の世界、妄想の世界、執念の世界であって、実存するものではないのです。

 肉の思いは実体的な思いではないのです。肉の思いを持たされたことによって、肉体的に存在することが、実体的に存在すると思い込まされることになるのです。しかし、その肉の思いを捨てて霊の思いを持つことができた者だけが、神の元に帰ることができるのです。

 肉の思いから出ることができなかった者は、ノアの洪水の後における神の虹の契約を理解できなかった者です。神の契約の真意を理解できなかった者は、新天新地の新天へ入ることができないのです。

 虹の契約とは何か。聖書に次のようにあります。

 「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかったことが、いつも悪いことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『私が創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、そして、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔いる』と言われた」(創世記6・5~7)。

 神が創造した人間が全く肉になってしまって、神を呪い続ける存在になってしまった。そこで、洪水によって人間も地に這う生き物も、空の鳥も全部滅ぼしたのですが、ノアだけが神の心に適う生き方をしたので、箱舟を造り、ノアの一家と、箱舟に入った動物、空の鳥だけは絶滅を免れたのです(同7、8)。

 洪水が終わって箱舟から出たノアは、次のようなことをしたのです。

 「ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭の祭壇の上に捧げた。主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、『私はもはや二度と人のゆえに地を呪わない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。私はこのたびしたように、もう二度とすべての生きたものを滅ぼさない。地のある限り、種まきの時も、刈り入れの時も、暑さ、寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう』。

 神はノアおよび共にいる子らに言われた、『私はあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、私はそれと契約を立てよう。私があなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起こらないであろう』。

 さらに神は言われた、『これは私と、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、私が立てる契約のしるしである。

 すなわち、私は雲の中に、虹を置く。これが私と地との間の契約のしるしとなる。私が雲を地の上に起こす時、虹は雲の中に現われる。こうして、私は私とあなたがた、及びすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水は再びすべての肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。

 虹が雲の中に現われる時、私はこれを見て、神が地上にあるすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思い起こすであろう』。

 そして、神はノアに言われた、『これが私と地にあるすべての肉なるものとの間に、私が立てた契約のしるしである』」(同8・20~22、9・8~17)。

 神はノアとその家族、そしてあらゆる生き物に対して、二度と洪水によって滅ぼさないと言われた。それはノアの信仰を見て、信仰のみを神が見ると決心されたからです。

 そして、契約の印に雲の中に虹を置いたのです。これは何を意味するのかと言いますと、洪水によってすべてが滅ぼされて幻になってしまった。地球が虹になったことを意味しているのです。

 パウロは、「アブラハムは無から有を呼び出される神を信じた」と言っているのです(ローマ人への手紙4・17)。

 この箇所を英訳では、and calleth the things that are not, as though they wereと訳しています。これを日本語に直訳しますと、存在しないものをあたかもあったかのように神が呼んでいるとなるのです。

 つまり、全く存在しないものですが、人間の目で見るとあったように思えるし、あるように見えるものが現象世界です。即ち現象世界は全く虹にすぎないと言っているのです。

 新天新地は神の永遠の契約を基礎にしてできるのであって、それに真っ向から反対するのが肉の思いです。

 現実が存在する。現実の社会があるというのが肉の思いです。その思いを人間に与えておいて、その思いを空じることができるかどうか、肉の思いを解脱できるかどうかを、神はじっと見ているのです。

 それでは森羅万象とは何か。

 パウロは次のように述べています。

 「聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない』と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万人の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。

 しかし、信じたことのない者をどうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良き訪れを告げる者の足は』と書いてあるとおりである。

 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、誰が私たちから聞いたことを信じましたか』と言っている。

 従って、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。しかし、私は言う。彼らには聞こえなかったのであろうか。否、むしろ『その声は全地に響きわたり、その言葉は世界の果てにまで及んだ』」(ローマ人への手紙10・11~18)。

 現実の世界は実存するのではなくて、キリストの言葉の響きが全地にあまねき、その言葉が地の果てにまで及んでいるのです。響きと言葉があるだけです。実体はないのです。

 キリストの言葉が響きとして見られ、言葉として見ることができる者だけが、罪の束縛から解放されることになるのです。虹の契約の原理を弁えて、それに従って生きる人になるのです。

 虹の契約がイエスが水から上がった時の彼の心境であって、虹の契約が理解できても、それを自分の生活の則として取り上げることができない人は、すべて神の子としてふさわしくない者であることを証明しているのです。だから、その人は救われません。

 罪の下に閉じ込められて死んだ人は、罪の行く末にそのまま押し流されてしまうことになるのです。罪人の行く末というのは火の池です。

 ニューエルサレムと火の池が、将来の新しい地球の二つの要素です。ニューエルサレムに入れなかった者は、全部火の池に入ることになるのです。

 ニューエルサレムに入れる者は、現象世界において肉の思いを空じた(解脱した)人です。これは肉の人間から考えると、ほとんど喧嘩ごしとも言えるような激烈な闘いと情熱、忍耐と辛抱がいるのです。

 イエスは言っています。

 「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして、激しく襲う者たちが、それを奪い合っている」(マタイによる福音書11・12)。

 自分の命を捨てなければ本当の命を得ることができない。これは自爆テロ、神風特攻隊のような行為になるのです。このような自分を捨てるという激烈な気持ちがなければ、永遠の生命を得ることができないのです。

 ですから、自分を愛する気持ちとか、自分の気持ちにこだわるとか、自分の感情を問題にしているようでは、とても肉の思いから脱出することはできないのです。

 これは仏教の禅でもやかましく言っています。禅では解脱、解脱と言いますが、解脱した後の自分自身の体がどうなるのかということの説明ができないのです。

 仏教には解脱という思想はありますが、解脱という実体がないのです。

 釈尊は一切空であると考えた。なぜそう考えたのかと言いますと、彼はただそう考えただけではないのです。明けの明星を見たことによって、来るべき新しい世界を望むことができたのです。

 新しい世界を望むことができた感覚を、大円鏡智と言っています。これは形容詞であって、今の仏教にその実体はありません。

 大円鏡智、大きい鏡のような知恵というのは、神の経綸を見通して、来るべき新しい世界を心の鏡に映しとっている智恵をいうのです。形容詞としてはそういう言い方はできますが、本当は大円鏡智の実体は仏教にはないのです。

 形容詞は色々あります。例えば、観無量寿経には、無量寿の当体は極楽である、ニューエルサレムであると言っています。極楽というニューエルサレムがあると言っていますが、どういう理由でそれがあるのか。それができる原理と、今生きている自分とがどういう係わりがあるのか、どうしたらそこに入れるのかということを、論理的に説明できないのです。論理的に説明する原点がないのです。

 大円鏡智という言葉はあっても、自分の心が鏡になるような心構えを、自分の中に置くことができないのです。

 釈尊自身は明けの明星を見たのです。見たことによって、明けの明星の実体が分かったのです。これが釈尊の悟りの基礎になったのです。

 釈尊自身はこれでいいのですが、日本の仏教のお祖師さんは、これが分からない人ばかりです。明けの明星がさっぱり分からないのです。明けの明星が説明できる専門家は、日本にいないのです。一人もいません。説明できる専門家がいませんから、明けの明星が分かる弟子も一人もいないのです。

 神はこの日本で、私たちに明けの明星の実体を教えてくださったのです。聖書の勉強をしながら、仏教の勉強もしたので、この秘密が解明されたのです。

 仏典の思想の大体の流れは、釈尊が悟った後の色々の言説、行動を記録してはいますけれど、釈尊自身の真意が分からないのです。

 釈尊が一切空と切言した理由は何処にあるのか。明けの明星の実体は何であるのか。明星を捉えた後の釈尊という人物の生活感覚は何処にあるのか。空じたというけれど、それは一体どういうことなのか。

 無量寿如来という言葉は、釈尊が造ったのでありませんけれど、現世を離脱してしまうと、無量寿如来が自分にあることが分かるのです。

 人間は肉の思いを解脱しても、自分が生きているという実体が消える訳ではありません。そうすると、解脱した後に生きている実体は何なのか。

 肉の自分はいないと認識しても、心臓が止まる訳ではありません。その人が生きている気持ちはどういうものか。これを仏教では成仏と言います。成仏と言いますけれど、その内容は何を意味するのか。これがはっきり分からないのです。

 形容詞はたくさんあります。無量寿とか、無量光とか、如来とか、解脱とか、成道、成仏と色々な言い方がありますけれど、現世の世界をふまえてどうなるのか。現実に生きている自分の命をふまえた状態で生活するにはどうしたらいいのか分からないのです。

 無量寿如来と言いますけれど、無量寿如来を掴まえるには、自分の何処を掴まえたらいいのか分からないのです。

 帰命無量寿如来と言います。帰命というのは無量寿如来に対して、自分の命が帰ってしまうことです。自分の思いを全部無量寿如来の中へ入れてしまえと言っているのです。

 そうしたいでしょう。そうしたいという気持ちはあるが、無量寿如来の当体が掴めないために、無量寿如来の中へ帰命することができないのです。これが正信偈という経文の根本的な弱点です。

 帰命無量寿如来、南無不可思議光、法蔵菩薩因位時とあります。法蔵比丘が悟った時の境地を自分のものにしたいと思うけれど、できないのです。

 法蔵菩薩は釈尊のことです。法蔵菩薩は今はいないのです。釈尊は何を悟ったのか。どのように自分の命を見たのか。とにかく現世に生きている人間の命を解脱したことは確かです。それならどういう命を持ったのか。これが分からないのです。

 成仏という言葉はあっても、実体は一つもありません。仏教の中に成仏はないのです。仏教を解脱して、一万七千六百巻の経文を解脱して、聖書の中へ入って行かなければだめです。

 一切の虚構を解脱して、仏教を解脱しなければ聖書の中へ入ることができないのです。

 聖書の中というものが、今の世界にありません。ユダヤ教にもないし、キリスト教にもありません。ただ私たちのグループにだけあるのです。これは全く奇怪なことです。本物の聖書、本物の命はそれほど高いものです。めったに買えないものです。

 現在の自分から出てしまわなければいけないのです。今の自分が生きている状態が、罪の下に閉じ込められている状態ですから、これから出るためには、真剣にならなければいけないのです。

 どうしたら真剣になれるかと言いますと、釈尊が見たように明けの明星を見ることです。明けの明星を見れば、ああ、これが本当の世界かということがはっきり分かるのです。今まで生きていた自分の世界が、全く嘘の世界であったことが分かるのです。そうして、今まで生きていた自分、固有名詞の自分をはっきり捨ててしまうことができるのです。

 その響きは全地にあまねく、その言葉は地の果てにまで到るのです。響きと言葉を掴まえるしかないのです。

 その響きと言葉は現実の地球の中にありますが、肉の思いを持っている人には全く分かりません。

 花が咲いている美しさは霊なることです。葉は肉ですが、美しさは霊です。私たちは花が咲いている命を見なければいけないのです。咲いているのは命が発露しているのです。命が発露しているのを見るのです。

 自分自身が現実に生きているのは、花が咲いているのと同じです。昨日生きていた自分の命が、今日もあるのとは違うのです。三年前、五年前、この世に生まれてから今日までの何十年かの命があると思ったら、大間違いです。それは、葉がずっと葉のままであるのと同じことです。

 葉が花になるには、花になる瞬間を捉えることです。昨日生きていた自分、一昨日生きていた自分ではない自分が、今ここにいるのです。

 今ここにいると感じた時に、その人の魂に花が咲いているのです。これを掴まえるのです。今日咲いた花を明日も咲かす。明後日も咲かすのです。毎日咲かすのです。

 朝咲いた花を昼も咲かす。夜も咲かすのです。咲かし続けていくのです。これは難しいことかもしれませんが、神の助け手として、新天新地の新天に生き残っていこうと思えば、難しいと思っていたらだめです。

 帰命無量寿如来、南無不可思議光を実行するのです。朝も昼も、晩も実行するのです。自分に生きていたらだめです。正信偈の文句を、本当に毎日、毎日実行し続けるのです。念じ続けるのです。

 帰命無量寿如来を聖書で言い直しますと、イエスは主であるとなるのです。無量寿如来が自分の主になるのです。無量寿如来はイエス自身ですから、無量寿如来、即ちイエスは主であると言い続けるのです。

 これができるだけの根気が与えられた人は、救われるのです。できるだけの根気が与えられない人はだめです。根気は自分で造るものです。自分で造れば根気はできるのです。

 根気よくすれば根気は勝手にできるのです。信仰には根気が必要です。運、鈍、根と言いますが、根が一番必要です。

 鈍は誰にでもありますが、根は帰命無量寿如来をし続けることです。その根気が必要です。これがあるかないかです。

 本当に新天新地の新天に入ることができて、永遠の栄光、神の栄光を身に付けて、神のヘルパーとして神の相談にあずかることができる人間はめったにいません。それができない人は火の池に行くしかないのです。火の池へ行った人は、永遠に悲しみ歯がみするしかないのです。

 とにかく、生きているという瞬間瞬間が、神の言葉であることを信じればいいのです。自分が生きているのではない。神の言葉が生きているのです。

 自分がテレビを見ているのではない。神の言葉である者がテレビを見ているのです。お茶を一杯飲んでも、神の言葉である者がお茶を飲んでいるのです。命の言葉がお茶を飲んでいる。自分が飲んでいるのではないのです。

 いつでも朝から晩までずっと機嫌が良く、気持ちを開いてにこにこ笑って、ずっと神を生き続けるのです。これはなかなかできませんがやり続けるのです。やらないなら火の池行きになるだけです。

 人間は罪の下に閉じ込められているから、これくらいの気持ちがなかったら、閉じ込められているという神のやり方から抜け出すことはできないのです。

 肉体で生きているということがカルマです。これから抜け出そうと思えば、それなりの努力がいるのです。お茶を飲んだ時にお茶の味がする。これが永遠の命です。木の葉が美しいということが、永遠の命です。これを受け取ることは難しいことかもしれませんが、これをしなければ死んでしまいます。本当に新天新地の新天に入るということはめったにできないのです。私はめったにできないことを話しているのです。

 宗教信者は、罪深い私を救ってくださいと熱心に祈っていますが、これは虫のいい信仰です。帰命無量寿如来を全然考えないのです。イエスが主であると考えないのです。救われたい救われたいと祈ったままで、地獄行くとどうなるのでしょうか。

 現世を正直に生きている人でも、創世記の原理が開かれていなかったらだめです。この世が空であること、人間が生きていることが嘘であることが分からないとだめです。

 雲の中に虹が現われるのです。私たちの命を雲の中へ持って行かなければいけないのです。神は雲の中の虹を見せて、これが永遠の契約だと言っている。だから、神の国、神の御心の中へ入ってしまわなければ虹は見えません。

 神の御心の中へ入ってしまうためにどうしたらいいのか。花が咲いているということが、神の言葉が働いていることです。花が咲いていることが良き訪れを告げる足です。キリストの言葉です。良き訪れを告げる者の足は麗しいとありますが、麗しいということがキリストの言葉です。

 花が咲いている麗しさ、夕陽の麗しさが、キリストの言葉です。麗しいということをそのまま自分の命の中心に放り込んでしまうのです。自分の思いを見ないで、花が咲いているという事実の中に自分が入ってしまうのです。

 夕焼けの雲がすばらしい輝きをしている。その中へ入ってしまうのです。これしかないのです。

 これがキリストの言葉の中へ入ってしまうことになるのです。そうすると、初めて神の御心が分かるのです。雲の中にある虹が見えてくるのです。

 雲は神の権威です。虹は神の御心です。神の権威が神の御心によって現象世界を造っているだけであって、現世はないのです。

 神の権威、神の栄光、神の契約が、千々万々の万物になって現われている。花が咲いているのではない。神の御心が咲いているのです。これが分かったらこの中へ入るのです。これしかないのです。

 自分が生きていること、目が見えること、鼻から息を出し入れしていることが、すべて御心です。

 キリストの言葉を聞いたらその言葉が信仰になるのです。信仰は聞くにより、聞くはキリストの言葉によるとあります。花が咲いているときれいだと思う、すばらしいと思います。これがキリストの言葉です。

 女性のボディーラインがすばらしいということが、キリストの言葉です。これが分かると初めて信仰が分かるのです。キリストのすばらしさが分かったということが信仰です。

 花が咲いているのがきれいだと思ったことが信仰ですから、花が咲いている世界へ入ってしまうのです。女性がすばらしいという女性の色気の中へ入ってしまうのです。

 言葉でいうと、花が咲いている世界の中へ入るという言い方になりますけれど、これは人間の側からの言い方になります。 

 神の方から言いますと、わざわざ花を咲かせているというのは、その中へ霊魂を入れたいから咲かせているのです。入りたいと思わなくても、花が咲いているということ自体が、神が待っていてくれるのです。

 入りたいという人間の気持ちと、神が入るのを歓迎しているという気持ちが一致したらいいのです。

 良き訪れを伝えるために花が咲いているのですから、その花を見て、ここに良き訪れがあると考えて、その花の中へ入って行くのです。

 私たちが現在生きていることが、そのまま花が咲いていることなのです。新約時代というのは全部花です。花が開いているのです。

 私たちが生かされていることの有難さを考えて頂きたいのです。美しい景色が見られる。おいしいものが食べられる。刺身が食べられる。ステーキが食べられる。メロンやリンゴ、柿、梨、みかんが食べられるのです。美しい花が見えるのです。生かされていることは有難いことです。

 生きていることは有難いことです。私たちが生きていることがそのまま花が咲いている状態になっているのです。花が咲いているのを見て、自分が現実に生かされていることが花のとおりだと思って、自分を忘れて無量寿如来に帰命したらいいのです。

 花が咲いている美しい世界が、そのまま自分が生かされている世界を示している。私たちは、今生まれる前の死なない世界にいるのです。死がない世界にいるのです。これをそのまま素直に受け取ればいいのです。

 イエスが主であるという一点に入って行けばいいのです。自分が生きていると思うから、難しい難しいと言わなければならないのです。

 男が女を愛するという気持ちをはっきり持つ時に、自分自身が愛されている状態になれるのです。男は愛する者、女は愛される者になるのです。愛を現世で経験するのです。愛する者としての男、愛される者としての女、愛という係わりをはっきり認識して、これがそのまま神の国であることを認識するのです。

 現世で愛し合っていてもだめです。神の国を認識して、愛する愛される状態を経験するのです。

 食べ物でも、景色を見る場合でも同じです。神の国を認識して食べたり見たりするのです。

 そのように、現実の世界に存在することは、皆神の言葉であり、言葉の響きです。神の言葉の声です。そういうものを見たり聞いたりしているのです。

 現実に生きているということは、キリストの言葉の中に置かれていることです。生きていることがキリストの言葉であることが分かれば、キリストが信じられるのです。

 ところが、生きていることがキリストの言葉であると悟ることを、悪魔が絶対に禁止しているのです。私たちが客観的に生きていることを、分からないように仕向けている。これが現代文明です。

 人間が生きている。基本的人権がある。人間は偉い者だと言っている。これが偽キリストの世界です。ノアの洪水の直前の状態になっているのです。

 ノアの洪水の後の、虹の契約が分からないと、イエスがどういう人であったのか分からないのです。イエスが洗礼を受けて、水から上がった時に、彼の肉体が見えなかったということが分からないのです。

 私たちもイエスが水から上がった時のように、自分自身の肉体が消えてしまって、見えないものとして生きるのです。自分の肉体が消えてしまって、見えないものと考えられる人は、キリストの中へ入っているのです。

 私は自分がいないということを実感しています。これを口でどんどん言うようにしています。そのように、自分を幼子の状態に置くのです。幼子のようになったらいいのです。無邪気になったらいいのです。

 男は大人であるから悪いのです。今までの経験を全部忘れて淡々として、聖書の言葉を信じたらいいのです。イエスが主であると思うのです。

 聖書に、「その響きは全地にあまねく、その言葉は地の果てにまでいたる」と書いています。現象世界は神の言葉、神の響きで一杯詰まっているのです。それを自分の命にしてしまうのです。そうすると、信仰が与えられるのです。信仰が与えられたら、その信仰に基づいて生きたらいいのです。そうすると、罪の下に閉じ込められた自分と何の関係もない者になるのです。

 大体、新約時代に生まれた人間は罪と関係がないのです。キリストが復活した後に生まれた人間ですから、この世に生まれた人間と関係がないのです。初めから神の国に生まれているのです。

 ところが、日本人という愚かな民族は、現世に生まれてきて聖書を信ずることを敬遠しているのです。ばかな民族です。

 ことに文明社会は徹底的に愚かになっているのです。人間は肉体的に生きていると思い込んでいるのです。そう考えている人は必ず死ぬのです。現代文明に順応している人は必ず死にます。死ぬしかないのです。

 キリストの言葉を聞いた状態で自分のハートを用いれば、そこに信仰が湧いてくるのです。

 今生きているのは自分ではありません。本当を言いますと、今生きているのはイエスです。イエス様は本当の私だと言い変えたらいいのです。イエスとは命の本物です。本物の命はイエスです。これが帰命無量寿如来です。復活した無量寿如来を信じればいいのです。

 自分が生きているという思いが一番悪いのです。子供のようになったらいいのです。

 神は天に幄(あげばり)を設けたのです。手で造らない、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋というのがそれです(へブル人への手紙9・11)。

 富士山の景色は富士の景色ではない。天の幕屋です。女の人がいるということが、天の幕屋です。

 現世に生きているという事実はありません。私たちが生きている所が天です。大阪にいても、東京にいてもそこが天です。

 神は太陽を中心にして、幕屋を設けたのです。これが太陽系宇宙です。幕屋というのはtabervacleであって、イスラエルに民族が放浪中に聖堂として用いた神殿、仮屋です。本格的な建築物ではないのです。

 太陽系宇宙が幄です。幄が神の国です。今皆様が生きているのが神の国ですから、その中に入ったらいいのです。

 太陽系宇宙が神の幄です。この意味が本当に教えられているのは、私たちのグループだけです。

 神はまず太陽を中心にして地球を造ったのです。これを私たちに見せているのです。太陽が地球を愛し続けている。地球は太陽に愛され続けていることによって、地球は孕み続けているのです。米がとれるのも、麦や野菜が採れるのも、牛や豚が太るのも、皆地球が孕んでいるのです。

 地球は無限に産んでいるのです。太陽の愛を地球に伝達している機能があるからです。これが地のちりです。地のちりが太陽のエネルギーを中和しているのです。地球を愛するのにちょうど都合のよい温度にしているのです。そこで、地球は太陽によって愛されて、無限に産んでいるのです。

 地球が命の集団になっている。生命の集団になっている。ここに人間が住んでいながら分からない。しかも、地のちりは人間です。自分が太陽エネルギーを中和しているちりです。こういうことが理解できることが新約時代の本質です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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