top of page
検索
  • 管理人 chayamichi

人間の尊厳性

 人間は自分の意志によって生まれたのではないのです。従って、人生を自分の気持ちだけで暮らしていていいということにはならないのです。

 これは非常に簡単なことですが、この簡単なことが自我意識に妨げられて、誰も皆誤解しているのです。

 人間は自分の意志によって生まれてきたのではないですから、人生は自分の持ち物ではないのです。自分自身の持ち物ではないとしたら、人生を自分の欲望に従って、勝手に生きていたらいいというものではないのです。

 道元禅師が「受け難き人身を受け、会い難き仏法に会う」と言っています。人間としてこの世に生まれてきたこと自体が天意によるものであって、人意によるものではないのです。

 人間の文明は人意によって構成されているのです。天意とは何であるのか。天意を弁えて人間文明の基本的な構想が立てられなければならないのですが、残念ながら、ルネッサンス以降の文明は、人間の欲望と、人間の自尊心と、人間の自惚れが中心になって文明が構成されているのです。

 文明は英語ではシビリゼーション(civilization)と言いますが、これは市民生活とか、公民の生活ということです。人間が現世的に生活することが文明の目的のようになっているのです。

 現在の学問、社会構成でも政治の目的はもちろんのことですが、すべて現在の人間は生活一辺倒の考え方で生きているのです。

 人間は死んでいくのです。死ぬということをまともに考えますと、人間としての責任を果たさないままで、ただ生を楽しんでいるということは、人生の本質を暴虐した生き方になるのです。自分の人生を自分で侮辱したことになるのです。

 基本的人権と言いますが、基本的というのは何処から来たのでしょうか。人間とは何であるかということを十分に究明しないで基本的人権と言っている。これが間違っているのです。

 国連憲章に人間の尊厳という言葉があります。ドイツ憲法の第一項に、「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、保護することがすべての国家権力の義務である」とあります。

 チリの憲法第一条には、「人間は自由で平等であり、尊厳と権利を保障される存在として生まれた」とあります。

 人間の尊厳というのは一体何であろうか。人間とは何であるのか。このことが分からないままで人間の尊厳と言いましても、それは甚だ曖昧なことになるのです。

 政治家が政治的な概念で人間の尊厳と言っていますが、政治的な概念で人間の尊厳ということが分かるはずがないのです。

 人間は生活一辺倒で、現世でおもしろおかしく生きたらいいというのです。

 人間とは何かということを捉えないままで、人間の尊厳という言葉をやたらに使っている。これは人間を冒涜した考えだと言わなければならないのです。

 尊厳の尊とは尊いという意味です。人間の存在がなぜ尊いのか。人間存在の尊さは人間自身が造り出したものではないのです。

 人間は自分が生まれたいと思って生まれたのではありません。従って、人間の尊さを自分が造り出したと考えるのなら、これは全く根も葉もない嘘偽りです。そういうことは絶対にあり得ないのです。

 ところが、人間は誰もが人間は尊いものだと考えている。人間は尊いには違いないのですが、人間の尊さの根源を確かめないままでただ尊いと言っているのは、ただの自惚れにすぎないのです。尊さの原理を弁えないままで、人間が一廉尊いもののように考えている。だから、人間は死後において、その税金を強制的に徴収されることになるのです。これが霊魂の審判ということです。

 人間に与えられている理性と良心を弁えないままで、ただ性欲と食欲に満足して生きている。

 人間の命は自分自身のものではありませんから、死ななければならない時は、死ななければならないのです。

 人間は生かしてもらっているのです。生かしてもらっているのですから、自分が生きているという大きな顔をするのは間違っているのです。

 尊厳の厳というのは、いかめしいとか、おごそかなという意味です。厳格な人という場合の厳は、きびしさを意味するのです。

 人間のおごそかさ、きびしさを人間が本当に感じるのならいいのです。人間は何のために生きているのか。漠然として生を楽しむため、自分の欲望を満足させるために生きていると考えることは、人間の尊厳性を無視して生きていることです。

 人間はただ生を楽しむために生きているのではないのです。人間としてこの世に生まれてきた目的を完遂するために生きているのです。

 人間が現世に生まれてきた目的は、仏教的に言いますと、成仏するためです。人間として自分の魂を完成することです。これが成仏です。

 人間は自分自身を完成しなければならないのです。自己完成という責任があるのです。これが尊厳の厳です。

 そのように、人間は自分自身を厳しく考えなければならないのです。もし基本的人権と言いたければ、基本的人責ということを十分に考えなければならないのです。

 人責というのは、人間としての責任ということです。人間としての基本的な責任、自己完成の責任、人間完成の責任、成仏の責任を考えなければならないのです。

 この責任を考えないで、ただ漠然と生きているということは、甚だしい間違いです。傲慢な考え方です。権利と義務の両方を考えるのが人間の当たり前のあり方ですが、人権を尊ぶ人間が人責を真面目に考えようとしない。これは人生を軽んじている見方になるのです。人生を翻弄する見方になるのです。

 人間がこの世に生まれてきたということは、大変厄介なことです。生を楽しむためではない。マイホームを楽しむためではないのです。脂汗を流さなければならない程、責任が重いことです。

 人間は理性と良心というすばらしい精神機能を与えられているのです。これは万物の霊長独特の機能です。霊長機能を与えられている人間は、霊長責任を全うしなければならないのです。

 飛ぶ能力を持っている鳥は飛ばなければならない。これは当たり前のことです。ただ生きていただけでは責任を全うすることはできない。責任を全うしないでただ生きていたということは、死後における責任追求に当面しなければならないことになるのです。

 人間は肉体的に死ぬのです。肉体的に死ぬということを真面目に考えて頂きたいのです。基本的人権がある、生きる権利があるといくら偉そうに言っても、死ぬ時は死ぬのです。自分の寿命を勝手に伸ばすことはできないのです。

 自分の生年月日を変更することはできないし、生まれた国、自分の両親を変更することもできないのです。人間は絶対的な条件の下に、人生を神から与えられているのです。造化の主から与えられているのです。

 人生は本質的に与件です。これが人生の本質です。ところが、人間は自分で生きているという錯覚を持っている。この錯覚に基づいて宗教という妙なものができているのです。

 宗教は人間が勝手に生きていると思っているからできているのです。そうして、死んだら極楽、天国へ行けると思っているのです。そういう資格を一体誰が与えたのでしょうか。

 イエスは言っています。

 「この民に行って言え、

 あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。

 見るには見るが、決して認めない。

 この民の心は鈍くなり、

 その耳は閉じている。

 それは、彼らが目で見ず、

 耳で聞かず、

 心で悟らず、悔い改めて、

 いやされることがないためである」(使徒行伝28・26、27)。

 おまえたちの今の心で神を信じることは絶対にできないと言っているのです。キリスト教会へ行っている人々は、イエス様を信じていたら死んだら天国へ行けると考えている。これはイエスの思想とは全然違うのです。全く違うのです。

 私は聖書はキリスト教ではないとはっきり断言します。また、般若心経も宗教ではないのです。仏教ではなくて仏法です。仏法と仏教とは違います。神の福音とキリスト教とは全然違うのです。だから、私は宗教ではない般若心経と聖書を提唱しているのです。

 私たちは人間としてこの世に生まれた以上、その責任を全うしなければならないのです。これは人間としての義務です。自分の魂に対する責任、義務です。これは人生のノルマです。

 人生にはノルマがあるのです。ノルマを果たさずに死んでしまえば、必ず後から強制執行されるのです。これが地獄の刑罰です。

 人権を振り回して、人生とは何かを考えないままで生きていたら、それに対する責任を追求されるのは当然のことです。

 人間面をしてこの世に生きていたことに対する税金を必ず取り立てられるのです。だから、私たちは目の黒いうちに自己を完成しなければならないのです。その責任を感じて頂きたいのです。そうしたら、死ぬことがなくなるのです。

 人間はなぜ死ぬのか。考え違いをしているから死ぬのです。見方、考え方が間違っているから死ぬのです。正しい見方、考え方をしたら死なないのが当たり前です。

 大体、命という言葉は死なないことを意味するのです。死なないから命というのです。死ぬに決まっているものは命とは言えないのです。

 現在の人間は生きてはいるけれど、命の実体を知らないのです。死なない命を知らないのです。生きてはいるけれど、命の本物を知らないのです。だから、死んでいくのです。

 こういう人間が人権を振り回している。これはばかが刃物を振り回しているのと同じことになるのです。

 現在の人間の常識、知識は現象を実体だと考えているのです。これが人間の現象意識です。ところが、現象は実体ではないのです。

 生あるものは必ず死ぬ。形あるものは必ず毀れるのです。形あるものは必ず毀れるのですから、現象は実体ではないのです。

 物質現象は非常に不完全なものです。人間自身も不完全なものです。不完全な人間が不完全な地球に生きている。ところが、人間は完全なものだと勝手に自惚れているのです。人間はこういう間違いをしているのです。

 こういう間違いに気付いて、平明に、公平に見るのです。そのためには、般若心経の五蘊皆空という考え方をしっかり捉える必要があるのです。

 般若心経は単なる思想ではありません。釈尊の悟りを述べているのです。悟りと思想とどう違うのかを簡単に言いますと、釈尊自身の中にある仏性に従って悟りを開いたのです。そこで、般若心経の冒頭には観自在菩薩という言葉があるのです。

 釈尊は自分が悟ったとは言わないで、観自在菩薩が悟ったのだと言っているのです。つまり、人間の悟りではなくて、観音さんの悟りであると言っているのです。

 自分自身の中にある仏性によって悟りを開くのです。この仏性は皆様の中にも当然あるのです。これが皆様の魂の本心です。潜在意識、または深層意識ともいうものです。

 魂の本心に従って直感することになれば、常識で考えているものとは違った人生が見えてくるのです。潜在意識によって自分自身の人生を考えますと、今の人間の人生が空であること、死なねばならない人間であることがはっきり分かるのです。

 このことを率直に認めますと、般若心経の大思想である色即是空という思想に近づくことができるのです。

 皆様の腹の底に潜在している皆様の本心が顕在として現われてくるのです。これを悟りというのです。

 色即是空と般若心経にありますが、これが自分の常識になることです。五蘊皆空という悟りが、そのまま自分の生活習慣になってしまうことです。これが本当の悟りです。

 今の仏教徒にそういう悟りはありません。今の仏教はすべて商売をしているのです。キリスト教も商売をしているのです。

 新約聖書には、イエス・キリストの信仰でなければ救わないとはっきり書いているのです。人間が神を信じるのではない。イエス・キリストの信仰を持てと言っているのです。

 イエスは神の信仰を持てと言っています。Have faith in God.と言っています。神において信じるのです。神の信仰を持つのです。これを日本語の聖書では、神を信じよと訳しているのです。訳し方が間違っているのです。宗教家が聖書を訳していますから、訳し方が間違っているのです。こういう間違いが仏典にもあるのです。

 これは本当に困ったことです。私たちは般若心経と聖書を宗教の専門家に任せておかないで、私たち自身の率直な本心に従って見るべきだと考えているのです。宗教的な見方に捉われないで、素直な、単純な考えで見るべきだと考えているのです。そうして、この世に生を受けたことの責任を全うしなければならないと思うのです。

 般若心経に色即是空とありますけれど、これは物質が存在するのではない、運動が存在していると言っているのです。原子の中にある原子核の回りを電子が一秒間に一億四千五百万回という想像を絶する速さで回っているのです。電子の運動がなければ原子が存在しない。原子が存在しなければ物質は存在しないのです。

 従って物質があるのではない。原子の運動があるのだということが、色即是空ということをはっきり証明しているのです。

 今から二千五百年前に、釈尊は色即是空と喝破しました。物質は存在しないと言っているのです。

 もうだいぶ前に亡くなられましたインド仏教学者の中村元氏が、色即是空を物質的現象には実体がないと訳しています。こういう訳し方をするから分からなくなるのです。

 私が訳しますと、物質的現象は実体ではないとなるのです。こう訳したらいいのです。物質的現象は実体ではなく、運動であるとなるのです。

 物質は存在しないのです。従って、唯物史観は根本から成立しないのです。

 物質が存在しないということを、自然科学は断定しているのです。物質が存在しないということが証明されたので、原子爆弾が製造されたのです。また、原子力発電が行われているのです。

 もし物質が存在しないということが嘘であるのなら、原子爆弾は製造されないはずです。原子力発電が行われないはずです。原子爆弾が製造されていることが、物質が存在しないことを証明しているのです。

 従って、色即是空は単なる思想ではありません。本当のことです。これは宗教的な概念ではないのです。

 そこで、皆様の生活を根本から立て直すためには、断固として宗教革命が必要です。仏教という概念、キリスト教という概念が全世界に瀰漫していますが、この概念を否定して新しい本当の真理を追求する必要があるのです。

 釈尊が考えたこと、イエスが考えたような粘り強い考えを持って頂きたいのです。人間の考えは皆間違っていると断定する勇気を持って頂きたいのです。

 そうしたら、皆様は死ななくなるのです。今の人間の一番大きい弱点は、死ぬということです。

 死ぬことに対して、今の学問も、教育、宗教、政治も全く無力です。今の人間の学問全体、文明は死に対して考える力を全く持っていないのです。

 今の文明は本当の文明ではないという理由は、死の解決ができないからです。

 人間にとって一番大きい問題は死の問題です。生きるか死ぬかが一番大きいテーマです。これに対してはっきりした説明ができない学問は、信じるに足りないものになってくるのです。

 「肉の思いは死である」とパウロは言っています(ローマ人への手紙8・6)。

 人間の常識、知識が肉の思いです。肉の思いが死です。私たちが常識、知識の間違いを十分に知りさえすれば、私たちは死ななくなるのです。

 イエスは、「生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」と言っているのです(ヨハネによる福音書11・26)。こういうこと、また、イエスの復活を勉強しますと、人間が死ぬというのはただの迷信だということが分かるのです。

 本当の命が分かれば、皆様の現在の生活のあり方が根本から変わってしまうのです。

 人間は死ぬために生きているのではありません。生まれてきたままの根性で、生まれてきたままの考えで漠然と生きていますと、必ず死んでいきます。

 般若心経に色即是空とあります。現象は実体ではないと言っているのです。ところが、現象が実体ではないことが分かっても、実体とは何であるかを教えてくれないのです。

 従って、本当のことを知るためには、聖書を勉強しなければならないことになるのです。

 般若心経を勉強するだけですべてのことが分かるのでしたら、わざわざ聖書を勉強する必要がないのです。色即是空の空の実体とは何なのか。

 現象は実体ではない。それでは実体は何であるのか。こういうことを勉強しなければならないのです。

 イエスは復活によって死を破ったのです。それによって、実体とは何かを示しているのです。これが神の命です。

 新約聖書は非常にレベルが高いのです。神の国を現わしているのです。従って、日本人が初めから新約聖書を読んでもだめです。

 この点について、今のキリスト教は皆考え違いをしているのです。今の人間の常識を持ったままで聖書を信じようと考えている。また、信じたつもりでいるのですけれど、それは皆間違っているのです。

 新約聖書は神の国という非常に高い命題を取り上げているのですが、五蘊皆空をはっきり踏まえて、色即是空という前提に立って神の国を見なければ、本当のことが分からないのです。

 そこで、般若心経は前編である、聖書は後編であるということが言えるのです。

 ユダヤ人は新約聖書の前提がありました。これがモーセの掟です。白人全般にはソクラテスという前提がありました。アラブ、アフリカの人々にはマホメットが与えられました。東洋人には釈尊が与えられているのです。

 神の国を掴まえるためには、前段階としての踏み台がどうしても必要になるのです。東洋人は五蘊皆空をはっきり掴まえないままで聖書を信じたら、偽善者になるに決まっているのです。

 これが、現在のキリスト教の間違いです。そこで、私たちは般若心経と聖書の両方を学ぶことによって、日本人は日本人らしく、聖書の真髄を捉えていきたいと思っているのです。

 人間完成とは何か。人間は何のために生きているのかということを考えれば、人間完成は勝手に分かるのです。現世にいる人間が救われる、幸せになるというのは、宗教の理屈です。死んでから極楽へ行くという考えも宗教の観念です。

 現世の人間が常識や知識を持ったままでで救われたいと考えるのです。人間の常識や知識が人間を殺すのです。

 今、皆様が生きているということがどういうことなのかをよく考えますと、宗教が人間を救うのではないということが、よく分かるのです。

 今、時間が流れています。時の流れは何処から来ているのでしょうか。こういうことをはっきり経験するために、人間は生きているのです。

 人間は仕事をするために生きているのではない。マイホームを造るために生きているのではない。生きるということがどういう意味なのかをはっきりさせるために、それを見極めるために、この世にやって来たのです。

 これを見極めれば死ななくなるのです。なぜなら、皆様の命は宇宙の大生命が皆様個々の命になっているからです。

 人間は個人個人に一人前の命があるのではありません。命はたった一つ、宇宙に一つあるだけです。宇宙に一つある命が個々の人間に現われているのです。また、万物に現われているのです。

 動物、植物に現われている命、鳥や虫に現われている命、空気が流れているのも、雲が流れているのも皆宇宙の命によるのです。

 宇宙の大生命が皆様の命として働いているのです。人間にある生理現象は、宇宙の生理現象です。宇宙の働きが人間の生理として働いているのです。

 現在皆様は宇宙の命を持っているのです。この命は死なない命です。宇宙の命が消えてしまうことはあり得ないのです。

 皆様が現在生きているという状態を本当に見極めさえすれば、皆様は死ななくなるのです。そのために、一番手っ取り早い方法は、イエスの復活を学ぶことです。これが一番早い方法です。

 聖書の言葉を捉えることです。聖書の言葉が皆様の命になることです。これが聖霊を受けることになるのです。

 キリスト教の勉強はキリスト教の教義ばかりの勉強になります。教義と真理とは違います。真理の御霊によって聖書を勉強して頂ければ、イエスの復活の命がはっきり分かるのです。

 現在、皆様は命を持っていますから、その命をしっかり掴まえて頂きたいのです。

 今のキリスト教で、神の御名(the name of God)、イエスの御名(the name of Jesus)をはっきり説いている教会はありません。イエスの御名が救いです。

 聖書に、「彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」とあります(ヨハネによる福音書1・12)。イエスを受け入れるということは、イエスの名を信じることです。これが今のキリスト教ではできないのです。イエスを受け入れるということは、イエスの名前を受け入れることです。

 名は体を現わすという言葉はありますが、イエスの名前はイエスの実体を現わしているのです。イエスの実体というのは、イエスが五官、生理機能、心理機能を持って生きていたということです。これと私たちの状態とは全く同じです。

 イエスが生きていた条件と、私たちが生きている条件とが全く同じであることを認めるのです。これがイエスを受け入れることです。

 固有名詞の人間はいない。自我意識と現象意識を持った人間はいない。イエスが私たちの格好をして生きている。これを認めることがイエスを受け入れることです。

 キリスト教ではイエス様を信じれば救われると言います。これは宗教教義を述べているのです。イエスの名前の実体ではないのです。神の実体ではないのです。キリスト教では神の実体もイエスの実体も分からないのです。だから、だめだと言っているのです。

 神の実物が分かれば、人間は死なないに決まっているのです。神の名、イエスの名を知って頂きたいのです。

 神の名とイエスの名が分かれば、間違いなく永遠の生命が分かるのです。しかもこれは、現在皆様が持っているのです。

 皆様は現在永遠の生命を持っていますけれど、妄念によって分からなくなっているのです。

 人間は自分が勉強して、自分が救われて、自分が天国へ行きたいと思っています。自分というのは実はいないのです。

 人間は魂において、人生を経験するために地球に生まれたのです。神によって地球上に生まれさせられたのです。

 それは、生きているということを経験するために生まれてきたのです。自分という人格がなければ経験できません。そこで、人間の魂に人格が与えられて、自分という意識を与えられたのです。これは一人称の人称人格です。

 私というのは人称人格です。人称人格の私がないと経験の当体にはならないのです。経験するという以上、経験する当体が必要です。そこで、私という意識を与えられていますけれど、本来この宇宙ではっきり自分と言えるものは神だけです。

 神以外に自分と言える者は一人もいないのです。従って、人間の自分という考えは自主人格であってはいけないのです。なぜなら、人間は自分で生まれたいと思って生まれたのではないし、また、自分の力で勝手に生きている訳ではないのです。

 人間は空気を自分で造っているのではないし、水を自分で造っているのでもない。他人がいなければ商売ができる訳でもないのです。会社がなければ給料がもらえることもないのです。

 人間は自分一人で生きていくという甲斐性がないのです。自分一人で生きていくという力がないのです。人間は空気や太陽光線がなければ生きていけないのです。

 人間は自分の力で生きるという独立的存在は不可能なことです。ところが、人間は自我意識によって生きている。この自我意識という概念が根本から間違っているのです。経験の当体としての自分という意識があるのです。

 今日生きていくために、今日という日を経験するために、経験する人格が必要です。これが人称人格としての自分です。

 英語でいうアイ(I)がこれを意味するのです。自我というのはエゴ(ego)です。アイとエゴとは違うのです。

 アイは天地自然に従って生きている自分です。エゴは天地自然を無視して、自分独自に勝手に生きているのです。アイとエゴは全く違うのです。

 人間存在は天地自然に従って、おのずから生きている。みずから生きているのではないのです。人間はおのずから生かされているのです。

 おのずから生かされている私は、自主的人格ではなくて、他主的人格です。このことをイエスが証明したのです。

 イエスの名というのは他主的人格の名前です。

 自分が生きている、自分が天国へ行く、自分が救われるという考えが迷いです。自我意識は迷いです。自分のやり方でやってみたいというのは、頑なな考えであって、神に対立する思想なのです。

 自分とはっきり言えるのは神だけです。人間には自分とはっきり言える資格はないのです。

 人間は自分の意志で生まれてきたのではありませんから、自分があるはずがないのです。従って、自分が自分のために生きているという気持ちが間違っているのです。

 人間は自分のために生きているのではありません。実は皆様は知らず知らずのうちに、神のために生きているのです。このことをイエスは証明しているのです。「天にいますわが父の御旨を行う者だけが、天国に入る」というイエスの言葉は(マタイによる福音書7・21)、これを言っているのです。

 自分が天国に入るのではないのです。父の御心を行う魂が天国に入るのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:1回0件のコメント

最新記事

すべて表示

死とは何か

人間がこの世に生まれてきますと、当然責任がついて回ることになるのです。 人間の魂は宇宙人格の反映でありまして、神の機能が分派したものです。これが人間の魂です。人間は理性と良心という霊長機能、霊長能力を与えられて、現世に生まれてきたのです。 私たちは霊長機能を用いて、万物の霊長という資格において生きているのですが、万物の霊長という実質を持っているのかと言いますと、そうではないのです。 例えば、虎が一

般若心経と聖書に学ぶ

人間は死にたくないと念願していながら、死なねばならない命を自分の命と思い込んでいるのです。自分自身の愚かさにどうして発憤しようとしないのでしょうか。これが分からないのです。 人間の霊魂は自分の力だけでは、死んでしまう命から解放されることができないのです。自分自身で立ち上がることはできないのです。 そのためには、どうしてもボランイティアがいるのです。私は非常に不完全ですけれど、ボランティアの役割をか

奇妙不思議な惑星

論語の顔淵第十二の五に、「死生命あり、富貴天にあり」とあります。 この命とは命令という意味ではないかと思われるのです。天的な規律、規正、則を意味するようです。 人間が死ぬとしても、生きるにしても大宇宙の則によるのです。則に従って人間は生まれ、死んでいくのです。 死生命ありとは、人間はそれだけの使命があるのです。人間には人間としての使命がなければならないのです。 人間は何のために生きているのか。何の

bottom of page