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  • 管理人 chayamichi

悪魔は自滅した

 人間は働くために生まれてきたのではありません。また、現世に生きるために生まれてきたのではないのです。命を見つけるためです。死なない命、とこしえの命を見つけるために生まれてきたのです。

 人間には生きているという事実がありまず。生きているという事実がある以上、命を知らないでは通らないのです。生きていながら命が分からない者は、地獄しか行く所がないのです。

 生きているということは、明々白々に神と自分の魂とが繋がっているのですから、この繋がりがありながら神が信じられないというのは、恥ずかしいことです。

 皆様は神を信じていません。神に関する理論を信じているだけで、神を実感していないのです。神を信じるというのは、神をハートで実感することです。

 自分の魂のレベルをイエスの所へ持っていくのです。イエスを自分の魂のレベルにすることです。そうして、考えるのです。イエスと同じレベルにあるべきだという自覚を持つことです。

言(ことば)が肉体となったという条件は(ヨハネによる福音書1・14)、イエスも皆様も同じです。肉体があるのではない。言があるのです。

 言が肉体になったということは、言が肉体に化けたということです。化けようが化けまいが、言は言です。肉体は何処にもないのです。

 肉は形はあるが実体はないのです。それでは、形があるのかというと、形はただの感覚です。実体ではありません。これがはっきり分かると、天使が皆様に仕えるくらいの霊魂のランクに座らせられることになるのです。

 皆様は神の使命に対して責任者になるという自覚がありません。例えば、エゼキエル、ダニエル、イザヤ、ギデオンという歴代の人物と同じ自覚を持っていないということです。

 イスラエルの預言者と同じ自覚を持つのです。そうすれば、新約の預言者になれるのです。

 皆様はイスラエルの救いのために立てられた人材です。ヨハネの黙示録七章二節に、皆様のことが書いてあるのです。皆様は聖書に書いてある人物です。神の言葉である永遠不滅のヨハネの黙示録の七章にはっきり書いているのです。これを信じて頂きたいのです。

 イエスは言(ことば)なる神です。ヨハネは、「すべてのものは言によってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と言っています(ヨハネによる福音書1・3)。言であるイエスが十字架に付けられたので万物は消えたはずですが、森羅万象は依然として目の前に展開しています。春になれば青葉若葉で桜が咲き、夏にはさんさんと陽が照って、おいしいスイカができます。

 十字架によって神の言が否定されたので万物が消えているはずなのに、万物は依然として存在している。十字架は嘘だったのかという疑問が当然出てくるはずです。真面目に聖書を学んでいれば、こういう根本的な疑問が湧いてくるはずですが、こういう疑問を持たないということは、聖書を真面目に勉強していないことになるのです。

 十字架によってすべての人間が死んだはずなのに、一向に死んでいない。こういう分からないことがたくさんあるはずです。これは神に聞いたら分かるのです。

 私たちは全世界の人間を代表して、聖書の勉強をしなければならないのです。私たちを通して、御霊によりて全世界を指導しなければならないのです。

 現在の肉性文明は、ユダヤ人が神の実体を誤解しているために起こっているのです。霊なる神を肉なるもののように誤解しているために、このような文明現象が起こっているのです。そのために、ユダヤ人が世界各国において神の清き名を汚しているのです。

 言が肉になったという事実があるだけです。これは実体がないのです。機能を意味するのです。言が肉となって働いているということを意味するのです。これを魂というのです。これには実体がないのです。

 形があるように見えますが、形は働きのことです。働きが形のように見えるのです。

 身長が一メートル七十センチに見えますが、これは働きです。大きさではなく働きです。体重が七十キロというのも働きを意味するのです。

 肉体は生理現象であって、生理現象は働きを意味するのです。肉体という物質ではないのです。消化機能、排泄機能、呼吸機能という色々な機能が連関して働いているのです。

 言が肉となったというのは、言が肉に化けたということです。言はどこまでも主体です。言という主体が肉という客体になった。なったというのは、そのような現象が起きたということであって、言がなくなったのではないのです。言がなくなって肉になったというのではないのです。

 言が肉にチェンジしたのではない。変わってしまったのではないのです。ビケーム(became)です。あるのは言だけです。肉となった言があるのです。これを働きというのです。

 言は働きを意味するのです。物質というものはない。物理があるだけです。物理という働きが物質のように、また、物体のように見えるだけです。見えるというのは実体を意味しないのです。そのように、感覚されているということです。

 これは人間の肉体だけではありません。青葉、若葉が美しく見えること、花が咲いていることは、皆言が肉となっているのです。その事実を人間は見ているのです。人間の肉体も、植物も動物も鉱物も同じです。

 花が咲いているのは言です。私たちは花を見ているのではなくて、言を見ているのです。そういう感覚で見ることを、神を神として認めることになるのです。

 働きの根源はエネルギーです。人間と人間との関係もエネルギーの関係で成り立っているのです。商売という働きも人間関係のエネルギーです。

 エネルギーには心理的なエネルギーと物理的なエネルギーがありますが、人間関係は心理的なエネルギーによるのです。聖書を学ぶというのは心理的なエネルギーによるのです。

 信仰はエネルギーです。エネルギーですから、水がぶどう酒になったのです。紅海の水を裂いたのもエネルギーです。喉が渇いた時に水を飲むことも信仰によるのです。

 信仰とは何か。ストーブに火をつけたら暖かくなると思う。これが信仰です。スーパーマーケットへ行けば買いたい野菜や果物があると思う。電車に乗れば目的地へ到着すると思う。これが信仰です。

 パウロは言っています。「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(へブル人への手紙11・1)。

 人間の生活において信仰ではないものは一つもないのです。望む所を疑わない。見ていないものを確信するのです。

 コーヒー飲めば必ずコーヒーの味がすると思って飲む。果たしてコーヒーの味がするのです。電話で商品を注文をしたら、必ず商品がくると思う。果たして自分が注文したとおりの商品が到着するのです。

 人間がしていることはすべて信仰です。夜寝たら明日も必ず太陽が出ると確信する。だから、安心して寝られるのです。もし明日太陽が出なかったら安心して寝ることができないのです。

 そのように人間は毎日、毎日信仰を実験しているのです。これは言が肉になっている証拠です。肉体があるのではない。神の言が肉になっているのです。

 物理現象はすべてエネルギーの働きです。エネルギーの働きとは何か。これが神の御霊の働きです。

 こういうことを毎日黙想し実行していくと、だんだん実感が湧いてくる。これを信仰の訓練というのです。信仰は訓練しなかったらだめです。訓練しなかったら上手にならないのです。

 訓練をすれば、初めは下手でもだんだん上手になっていくのです。絵を描くことも、文章をつくることも、訓練したら上手になるのです。肉体人間はいない。自分の固有名詞の人間はいないということを考えるのです。そうすると、聖霊が助けてくださって実感になってくるのです。そして、霊に従いて生きることができるのです。

 まず理論的に学ぶことです。これを毎日、毎日実行するように訓練するのです。そうして、少しでも実感することができたら神に感謝したらいいのです。

 こういうことを堂々と言えるようになれば、信仰の証がその人の中にあるのですから、信仰の証によってその人は救われるのです。信仰によって証せられないようなら救われないのです。

 自分が魂だと分かった人は、リビングが生きていることが分かったということです。それでは、リビングとは何かということです。これが神です。リビングのことをエネルギーと言います。エネルギーがなかったら生きていられません。

 あらゆることがエネルギーの働きです。太陽が輝いていること、動物、植物が生きていること、人間が生きていることはすべてエネルギーによるのです。このエネルギーが神です。

 人間がいる所はすべて神ばかりです。神、神、神がいっぱいの所に人間が置かれている。これでも神が信じられないのは、どうかしているとしか言えないのです。

 人間はリビング・ソールです。リビングがエネルギーです。エネルギーは神です。ソールは神です。神が人間に化けているのです。自分は神だということに気が付けばよいのです。イエスはそれに気が付いた。

 これを共にいます神、インマヌエルの神というのです。私は父の内にいると言っている。我は父にいる。父は我にいる。これは当たり前のことを言っているのです。

 こんな当たり前のことがなぜ信じられないのかと言いたいのです。ユダヤ人はこれが分からなかった。分からないから世界中で神を汚して歩いているのです。

 神が分からないから、自然科学とか哲学とか、法律、経済と言っているのです。これは皆仮のものです。仮のことを本物のように言いふらしているのです。

 法律の実体は何か。エネルギーです。政治の実体もエネルギーです。経済の実体もエネルギーです。エネルギーの他に何があるのでしょうか。何もないのです。

 原理は父なる神を意味します。エネルギーは原則でもあり、また、原動力でもあるのです。原則も原動力も同じものです。

 存在という形になって現われる場合には、エネルギーが原理になるのです。心理構造になると、心の動き、考えるということ、思想になると、エネルギーではない別の言い方になりますが、その場合でもエネルギーと言えなくもないのです。

 例えば、信仰はエネルギーです。エネルギーは有形的なことばかりではなく無形的な場合もあるのです。これを聖書は霊と言います。スピリット(spirit)です。

 エネルギーの実体は何かと言いますと、神です。神の実体は何かというと、命です。命は神です。神はエネルギーです。命がエネルギーになって働いているだけです。

 生きているということは神を経験しているのです。現実に神を経験しているのです。簡単なことです。最も単純なことです。一番単純なことを神というのです。

 人間は形を見て形があると思っている。物に目方があると思っているのです。例えば、自分の肉体に体重があると思っています。五十キロ人は五十キロの体重があると思っているのです。本当に体重はあるのでしょうか。

 ロケットに乗って、地球の重力圏を脱して宇宙ステーションに行きますと、人間は皆浮いているのです。五十キロの人も百キロの人も皆浮いているのです。

 皆様はテレビの宇宙中継によって、このような光景を何回もご覧になったでしょう。もし人間に固有の体重があれば浮かぶはずがないのです。

 人間の肉体には目方がありません。目方は地球の引力に対する抵抗です。地球の引力に対する抵抗が目方になって現われているだけです。

 神を信じるというのは一番単純で一番簡単なことです。それを難しく考えすぎているから分からないのです。この原理さえ分かれば、聖書はどんどん分かるはずです。

 皆様は魂と神と命の原理がきちっと分かっていないから、聖書を読んでも自分の命にならないのです。

 聖書は神の論理を述べています。神の論理というのは、エネルギーの働きを論理構造にして見せているのです。エネルギーは物理構造として働く場合と、論理構造として働く場合と両方あるのです。御霊というのは心理的にも物理的にも通用することです。

 イスラエルが現在神に背いています。そして、私たちに神の国が教えられているということは、天地創造以前の神の計画にあったのです。私たちはそういう人材ですから、これをはっきり自覚して頂きたいのです。

 だから、固有名詞の人生を捨ててもらいたいのです。固有名詞の人生をいくら幸せにしてもだめです。死んでしまったらそれで終わりです。

 固有名詞の人間は死ぬに決まっているのですから、自分のことを一切忘れることです。自分が幸せになりたいとか、御霊を受けたいということを忘れてしまうのです。

 ただ神の御心が全世界に成就しますように、そして、特にイスラエルの上に成就しますようにということだけを願えばいいのです。これをすれば神に必ず祝せられますし、神の約束の中へ入っていけるのです。

 神の約束の中にどんどん入っていくのです。約束の中へ入っていくことが、聖書の中へ入っていくことになるのです。これがとこしえの命の中へ入っていくことです。

 肉体を持っている人間が真理を学ぶことは大変なことです。しかし、これをしなければ地獄へ行くしかないのです。難しくても分かりにくても、どうしてもしなければならないのです。

 ですから、自分の運命を諦めてしまうことです。女の人は幸福な結婚をしようという気持ちをやめてしまうことです。やめてしまえば神がしっかりした相手を見つけてくれるのです。

 自分が救われたいという思いを全部捨ててしまうのです。ただ神の計画が成りますように、神の計画が成就しますようにと願うのです。神の約束が速やかに成就しますようにと願うのです。そのためには、イスラエルの回復が絶対必要です。

 とにかくイスラエルを返したまえと祈るのです。神の計画だけに生きるのです。それに徹底するのです。全世界のキリスト教が間違っているとはっきりいうのです。

 神我らの味方なれば、誰か我らに敵せんやです。全世界のキリスト教を敵に回すということは、キリスト教を中心にして世界に展開されている白人文明を敵に回すことになるのです。人間文明が間違っている。これをいうことは、全世界を敵に回すことになるのです。

 たった一人で世界中を相手に喧嘩することになるのです。これはナザレのイエスと同じ考え方です。ナザレのイエスは世界中の人間を相手に喧嘩したのです。そして、見事に勝ったのです。

 世界中を相手にして一人で闘っても、必ず勝てるのです。人を頼りにしたら負けるかもしれないのですが、自分一人で闘う場合には誰も相手にしてくれません。そうすれば、神が助けるに決まっているのです。極めて大いなる限りなき重き栄光、大いなる無限の栄光がその人のものになるのです。自分の名誉とか自分の欲望を捨てても、全然損にはならないのです。

 アブラハムは十字架なしに神に義とされた。これには秘密があるのです。

 イエス・キリストの十字架とは何か。何がどうなったのか。十字架によって古い神の言がなくなってしまったのです。神の言によって万物が造られて、神の言によって万物が保たれているのです。

 パウロは言っています。

 「御子は見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれた方である。

 万物は天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、皆御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。

 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」(コロサイ人への手紙1・15~17)。

 イエス・キリストの十字架によって、神の言によって造られ、神の言によって保たれ、神の言のために造られた万物はなくなったのです。神の言によって造られた万物は、神の言が否定されたために、なくなったのです。

 なくなったとはどうなったかと言いますと、造られる前のエネルギーに還元したのです。元のエネルギーに帰ってしまったのです。

 ところが、イエス・キリストが復活したのです。イエス・キリストが復活したことによって、イエス・キリストの信仰が復活したのです。イエス・キリストの信仰というのは、万物を完成させる信仰です。これがメシアの自覚です。メシアの自覚によって、万物を完成させるという信仰が神によって義とされた。

 神の言はなくなったが、イエス・キリストの信仰が神に取り上げられることになった。これがイエス・キリストの復活です。

 イエス・キリストは復活によって、第三の天の神の右に座せられたのです。そこで、第三の天におけるキリストの祈りが、宇宙に作用することになったのです。彼の信仰と彼の祈りが、万物に作用することになった。神は私たちにこのことを教えておられるのです。そこで、万物が保たれているのです。

 ヨエルの預言に、「私の霊をすべての人に注ごう」とあります(使徒行伝2・17)。すべての人というのは英語ではall fleshとなっていますから、すべての肉と訳すべきです。

 すべての肉とは万物のことです。すべての万物に霊が注がれた。神の御霊が万物に注がれた結果、万物がエネルギーに還元されてしまったのです。

 イエスは生きている間に万物を従わせる信仰を持っていた。水をぶどう酒に変える信仰を持っていた。水の上を歩けるような信仰を持っていたのです。彼自身の肉体が存在しないことが分かっていたからです。

 ところが、イスラエルを回復させるためには、旧約時代の現象世界をそのままの状態で残しておかなければならないのです。全世界はイスラエルのためにあるのです。万物はイスラエルのためにあるのです。

 万物を完成するため、イスラエルを回復するため、教会を完成するため、新しいエルサレムを完成するために、万物という現象世界を残しておかなければならない。そのために、現象世界が保たれているのです。

 イスラエルが回復するまでは万物が消えたら困るのです。そこで、神は万物の完成のために、私たちがイスラエルの救いのために祈るという大芝居を打たしているのです。

 イスラエルのために祈るということは、地球が存在する根本目的のため、地球を完成するために祈っているのです。これは大変なことをしているのです。

 神は神の経綸のための切り札として、私たちを用いようとしているのです。ですから、喜んで固有名詞の自分を捨てて頂きたいのです。自分の利害得失を一切捨てることです。

 現在目に見えるものは、全部既成のエネルギーによって成り立っています。このエネルギーに勝つものは、イエス・キリストの信仰という新しいエネルギーです。これは復活によってできたエネルギーです。これが今新約の信仰として、私たちに与えられようとしているのです。私たちは天地万物を指導するためのエネルギーを与えられようとしているのです。これがイエス・キリストの信仰です。

 私たちはこのイエス・キリストの信仰によって、天地を従わせることができるのです。万物を己に従わせる力を持って、やがてイエス・キリストが来りたもうのです。天を裂きて来りたもうのです。この天を裂き来りたもうキリストの力が、今聖霊によって私たちに与えられようとしているのです。

 私たちは当然天地を従わせるべきであって、天地万物に命令すべきです。それは固有名詞の自分がするのではありません。肉の人間がそんなことができるはずがないのです。

 滓の自分がなくなって、ダイヤモンドが現われるのです。滓の自分は全部死んでしまう。そして、神の宝石になるのです。十二色の宝石になるのです。

 十二色の宝石はニューエルサレムの城壁になるのです。城壁の石垣が教会です。イスラエルが真ん中に住んで、神の教会がイスラエルを囲んでしまうのです。十二色の宝石によってニューエルサレムの壁垣ができているのです。これは私たちの霊的状態のシンボルです。

 パウロが言っています。

 「このように、あなたがたはキリストと共に甦らされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に座しておられるのである。

 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ人への手紙3・1、2)。

 「上にあることを思え、地のことを思うだにするな」と永井直治氏は訳しています。これを分かりやすく言いますと、地上のことを全く意識するな、問題にするな、考えるなということになるのです。一切取り上げるなというのです。

 上にあることを思え。そこでは、キリストが神の右に座しておられるのです。神は古き人を全く問題にしていないのです。

 神はキリストが十字架についたことによって、古き人、即ちアダムの罪によって原罪のままで生きている人間を一切認めていないのです。

 十字架によって罪を征伐した。肉を殺してしまったのです。神がイエス・キリストに対してなされた処置は、全人類に対してとった神の処置です。

 神は肉体的に生きている人間を全部殺してしまったのです。肉体的に生きている人間を神は求めていないのです。肉体的に生きている人間を神は認めていないということは、肉であるすべてのものを認めていないということです。人間を初めとして、肉的に存在しているもの、現象的に存在している動物、植物、鉱物の一切を認めていないということです。

 動物、植物は認めるが、人間は認めないということを神がするはずがないのです。人間は動物、植物を集約したものです。それを認めてないのですから、万物は皆存在していないはずです。

 神はイエスを十字架に付けたことによって、万物を認めないという原則をはっきり打ち出したのです。ところが、現在もなお万物があるのです。神は万物を認めないのですが、神の右に座している方が認めている。だから、現在もなお、万物が存在しているのです。神は仕方がないと思っているのです。

 イエスを十字架に付けたことによって、神は悪魔に完全勝利したのです。悪魔は完全に見当違いをしたのです。神は悪魔の願いをそのまま聞いた結果、肉が完全に滅びることになったのです。

 神は悪魔がイエスを十字架に付けるように訴えたので、それをそのまま取り上げたのです。悪魔はイエスに罪があると考えた。そこで、十字架に付けるように主張したのですが、実際にはイエスに罪はなかったのです。

 イエスに肉の思いがないのに、悪魔はイエスに肉の思いがあると考えた。このイエスを十字架にかけたことによって、すべての肉、悪魔自身が十字架に付けられたのです。悪魔が完全に否定された。悪魔自身が負けたのです。

 悪魔は何処へ尻を持って行ったらいいのか。悪魔は自分が思ったとおりにイエスを十字架に付けたのです。そうして、全地、全人が皆滅びたのです。一体誰が負けたのか。悪魔が負けたのです。悪魔は地団駄踏んで悔しがったのですが、後の祭りでどうしようもないのです。

 神は悪魔が言ったとおりにイエスを十字架に付けたのですが、その結果、悪魔が負けたのです。そして、自我意識と現象意識そのものが全部滅ぼされたのです。肉の思いがだめになったのです。原罪が消えたのです。悪魔が完全に敗北したからです。

 ところが、人間にまだ肉の思いが残っている。これは一体どういうことか。人間は依然として肉体的な自分がいると考えている。なぜか。人間の内にまだ悪魔の意識が働いているからです。

 まだ人間の内に常識、顕在意識が働いているのです。ところが、実質的には神が現象を一切否定したのです。

 神は悪魔の要請でイエスを十字架に付けたが、イエスに罪はなかった。そこで、悪魔自身の肉が十字架に付けられた。悪魔自身が十字架に付けられたのです。

 悪魔は自分で勝手に自滅したのです。従って、現在は悪魔に遠慮する必要は全くないのです。自分の内にある肉の思い、自分の思い、自我意識に少しも遠慮する必要はありません。

 自分の一生なんかどうにでもなれと言っても誰も文句を言わないのです。レメクの恫喝は全く通用しなくなったのです(創世記4・23、24)。悪魔は完全に自滅したのですから、悪魔の言い分、即ち自分の思いに全く耳を貸す必要はないのです。

 ところが、キリストなんか信じたらこの世でばかを見るとか、世間の信用を失うとか、家庭がうまくいかなくなると、自我意識(悪魔の思い)が言うのです。

 これは自滅した悪魔のたわごとです。そんなばかなことはないのです。夫婦とか親子、兄弟というのはこの世の人間の繋がりです。これは皆現象意識です。

 十字架以後、現象意識はもはや存在しないのです。一人ひとりが生かされているというリビングだけがあるのです。すばらしいリビングというものだけがあるのです。

 この世の人間関係、家族関係、夫婦関係、友人関係というのは、あるように見えるだけで、実は存在していないのです。このことをイエスが証明したのです。

 私たちが現象世界を信じるなら、イエス・キリストの復活を否定することになるのです。現世の夫婦、現世の家族を信じるなら、ニューエルサレムを否定することになるのです。

 やがてこの世を去るに決まっています。だから、現世にあるものは信じてはいけない。イエス・キリストの復活を信じるのです。

 「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスを甦らせたと信じるなら、あなたは救われる」とあります(ローマ人への手紙10・9)。

 今の人間のハートは死んでいるのです。現象世界を一生懸命に信じているために、ハートは死んでいるのと同じ状態ですから、神を信じることができないのです。

 神を信じるためには、本当に悔い改めて自分が本当に間違っていたということを明らかにしなければいけないのです。

 新約聖書の中に金持ちと乞食ラザロの記事があります(ルカによる福音書16・19~31)。乞食ラザロは物欲しそうな顔をしていなかったのです。金持ちが捨てたものを拾って食べていただけです。

 今の人間は物欲しそうな顔をしています。幸福になりたいとか、もっと聖書を知りたいとか、死んでから天国へ行きたいと考えています。そういう根性が全部なくなってしまわなければ、ラザロの心境にはなれません。ラザロは自分自身を完全に捨ててしまったのです。だから、この世にいる時から神の国に入っていたのです。金持ちは燃え尽きない火炎の苦しみに置かれたのです。

 人間は現世を取るか永遠の命を取るかどちらかです。両方を取る訳にはいかないのです。

 人間が現象世界に生きているというのは、ごくわずかな間です。やがてこの世から去っていかなければならないに決まっているのです。いくら力んでも二百年も三百年も生きることはできないのです。

 神は現象世界を認めていません。ところが、イエス・キリストが神の右に座せしめられて、祈っているのです。イスラエルを回復したまえ、イスラエルを返したまえと祈っているのです。

 神はイスラエルが回復しないままで、現世を消してしまう訳にはいかないのです。神はイスラエルに約束を与えた。神の約束が成就しなければならない。神の約束が成就するというのは、この世がある状態のままで神の国が現われなければならないのです。そうでなければ神の約束が無意味になるのです。このために、キリストは神の右に座せしめられているのです。

 そこで、神は現象世界を否認しているけれど、キリストが祈っているから消滅させる訳にはいかないのです。

 キリストの祈りによって、やがて千年王国という驚くべき永遠の平和が実現するでしょう。千年間の絶対平和です。地球の物理状態が変わってしまうのです。地球環境の状態が完全に変わってしまいます。海の状態、天候、気候の状態が全く変わってしまいます。

 その結果、地球に黄金世界が現われるのです。人間が願ってやまなかった理想の大平和が地球に実現するのです。その時、私たちがイスラエルを指導しなければならないのです。

 神がユダヤ人に与えた約束は完全に成就するのです。今私たちがイスラエルのために祈ることは、第三の天におけるキリストの祈りに協力することになるのです。

 私たちは宇宙を改造するための祈りに協力しているのです。これ以上の哲学、宗教は必要がありません。これを絶学の境というのです。これは絶対最高の原理です。人間はこれ以上のことを知る必要がありません。だから、これを信じなければならないのです。私たちの祈りは、第三の天におけるキリストの祈りに協力しているのです。神のイスラエルを救いたまえという祈りは、神ご自身、全能者の祈りです。私たちはこの祈りに合わせて祈らされているのです 。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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