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  • 管理人 chayamichi

死人に生活を与えている

 神がアブラハムを良しとしたのは、アブラハムが神に平伏したからです。皆様は平伏していません。これがいけないのです。

 神が皆様を救わなければならない責任はありません。人間は全部死んでしまっているのです。その死人に生活が与えられているのです(ローマ人への手紙4・17)。現世で生きている人間は皆死んでいるということは、創世記の二章、三章に詳しく書いています。人間は前世で死んだのです。死んだから現世に生まれてきたのです。

 人間が生活しているということが死人である証拠です。聖書を正確に読めば、どんな気持ちで生きればいいのか分かるのです。

 神は皆様の魂だけを問題にしています。ところが、皆様は魂に生きることを実行していない。人間として生きているのです。

 御霊を受けていながら、魂として生きていない。人間として生きている。これがいけないのです。御霊を崇めることを実行すれば、魂で生きることがすぐに分かるのです。御霊を受けても魂で生きることを実行していない。だから、いつまでたっても進歩しないのです。

 神は人間を相手にしていません。霊魂だけを相手にしているのです。皆様は霊魂として生きないで人間として生きている。これではだめです。

 皆様は現在自分が死んでいることを会得していない。会得せずに日本人として生きている。だから、聖書をいくら勉強しても、皆様は宗教観念以上にはならないのです。いつまでも宗教観念です。自分が救われていると考えている。そういう悪い癖を捨てることです。

 とにかく皆様は神の前に歩んでいません。神はわが前に歩みて全かれと言っています。神の前に歩んでいれば、神はその人を問題にしています。

 皆様の霊魂は神の前に歩んでいます。ところが、固有名詞の人間は、神の前に歩んでいません。神の後ろを歩んでいます。これがいけないのです。

 イスラエルのために祈らせてもらえるということは、特別の哀れみです。特別の哀れみとしか言いようがないことです。

 せめて自分は救われなくてもいいからイスラエルを救ってくださいと言うべきです。自分はどうでもいいからイスラエルを顧みてくださいと祈ってください。

 自分はどうでもいいのです。とにかく自分の祈りは拙い祈りであって、お気に召す祈りとは言えないでしょう。御霊の御名によってお願いします。イスラエルをどうぞ救ってくださいと祈るのです。そうしたら、神はしぶしぶながら聞いてくださるでしょう。

 聖書に、「アブラハムは死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」とあります(ローマ人への手紙4・17)。

 英訳ではeven God, who giveth life to the dead, and calleth the things that are not, as though they were. となっています。

 死人を生かしという訳は、英訳では死人に生活を与えたとなっています。

 人間が肉の思いで生きているということが陰謀です。人間は肉の思いで生きていると、勝手にそう思っているだけです。そんなことは神が認めていないのです。

 神は死人に生活を与えているのであって、神が人間を認めている訳ではありません。認めている訳ではないが、生活を与えているのです。

 それはノアの祈りのためです。旧約的に言えば、ノアの祈りのおかげです。新約的に言えば、第三の天におけるイエスの祈りのおかげです。ノアとイエスの祈りのおかげで、人間に生活が与えられているのです。これが死人に生活を与えたということです。

 神は死人を生かしている。ところが、人間は自分で生きていると思っている。自分の力で生きている。自分が勝手に生きていると考えているのです。

 封建時代には殿様の考えが絶対でした。殿様の考えが自分の考えであって、殿様はああ考えるが自分はそう考えないということは封建時代にはなかったのです。

 これが忠臣蔵に出ているのです。この事件は江戸時代元禄十四年三月十四日に、江戸城内の松の廊下で、赤穂藩藩主浅野長矩が高家肝煎、吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発したものでした。

 加害者とされた浅野は切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不満とする大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士四十七人(いわゆる赤穂四十七士)は、元禄十五年十二月十四日に、本所吉良邸に討ち入り、吉良を殺して浪士たちは全員切腹したという事件です。

 吉良を殺した四十七士は腹を切って死ななければならないことは初めから分かっていた。こんなことは現代人から考えれば理解できないことでしょう。たった一人のために、四十七人が死ぬというのは納得できないというに違いないのです。

 今の日本では忠臣蔵のようなことは絶対にできません。できるはずがないのです。ところが、江戸時代の日本では、主人が恥ずかしめられたら家来が死ぬのが当たり前でした。そういう考え方が通用していたのです。

 浅野内匠頭(たくみのかみ)が切腹を命じられた。家来たちは死ぬべきだと考えた。せめて忠臣蔵の赤穂浪士たちのような考えを持たなければ、聖書は絶対に信じられません。極端に言えば、封建時代的な考えにならなければ神は分からないのです。

 人間がこの世で自由に暮らせる権利は全くないのです。ただ死人に生活を与えているのであって、神に生活を与えられているということに気が付いた者は救われるのです。そうすると、生活を与えている神の心が、そのまま自分の命になるからです。

 神に生活を与えられているということが分からない人はだめです。地獄の火の池で何万年も何億年も苦しんだ結果、私が本当に悪かったということが分かるのです。自分の立場で考えていたことが本当に間違っているということが分かるまで、苦しめられるのです。

 人間は被造物です。被造物は自分勝手に意見を述べる資格がないのです。

 バラの花を見てください。少しも意見を述べていません。神が咲けと言っているから咲いているのです。花の意見は少しもありません。神の御心がそのまま現われているのです。

 皆様の霊魂もそうあるべきです。人間がいけないのです。皆様の魂は素朴です。素直です。ところが、人間がいけないのです。

 神の国に行きたかったら自分の意見を一切捨てることです。自分の意見を全部捨てるのです。意見を述べる資格はないのです。

 魂は神を経験することはできますが、神に対抗して考える権利は初めからないのです。

 自分で考えることは一切だめです。自分の意見を述べる人は一切救われません。意見を述べてもいいのですが、火の池へ行くだけです。

 昔の人は自分が生きていることについて真面目に考えたのです。自分の業(ごう)を知っていたのです。業が果てなければ死ねない。業を果たさずに死んだらひどい目にあうと言っていたのです。業を果たさないと死ねないと考えたのです。

 人間がこの世に生まれたことが業です。自分がこの世に生まれてきたという思いが消えてしまわなったら、業が果てないのです。

 自分がこの世に生まれてきたこと、自分が生きていることが業ですから、これが果てなければだめです。

 生きているうちは人間に業があるのです。だから、難行苦行をしなければならないと考える。百姓は農業がいかにも苦しいように言いますけれど、そうでもないようです。田畑を造るというのは、難行苦行の代名詞のように言われています。額に汗してパンを食べるのと同じ意味です。どれだけ働いて難行苦行をすれば業が果てるかと言いますと、ホトトギスがそれを知っていると言っているのです。

 ホトトギスが鳴く声は遠くで聞くとなかなか風流に聞こえますが、近くで聞くと切迫を訴える叫びです。何を叫んでいるのか。古今集の歌人は、それを人間の業に対する痛烈な反省を迫っていると聞いたのです。

 おまえはそのままでいたら地獄へ行くぞ、必ず地獄へ行くぞと叫んでいるのです。人間の業を悟らせる鋭い叫びです。方丈記にはそのように書いているのです。

 昔の小作人は作った米の三分の二を年貢に取られ、三分の一をもらっていたのです。田畑を借りたのですからしょうがない。貸した方は三分の二を取っていた。これが小作契約です。今から考えるととんでもない契約のように思えますが、当時はそれが当たり前でした。その代わりに霊魂の眼を開くチャンスがあったのです。

 現在ではこのような小作契約はありません。アメリカにもヨーロッパにもありません。そのために、霊魂の眼を開くことができなくなってしまったのです。

 アメリカやヨーロッパではユダヤ人が人間の権利を認めて人間に自由を与えた。そして、イエスがキリストであることを考えさせないようにしているのです。原水爆を製造しながら、人権、人道主義を考えている。これがユダヤ文明のばからしさです。

 人間は自由であればあるほど、霊魂が不幸になるのです。自分が幸せになろうと考えたら絶対にだめです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」と、イエスははっきり言っているのです(マタイによる福音書16・25)。

 皆様は自分を救おうという気持ちがまだあるのです。もっと聞きたい、もっと聞きたいというのは、神の栄光を知るためではなくて、自分が救われたいためです。そういう根性を持っている人はだめです。

 自分で考えたらだめです。自分で考えたらせっかく救われているのに、それが分からなくなるのです。自分の考えを捨てたらいいのです。

 人間に人権とか自由は一切ありません。ノアの洪水の時に、人間は全部死んでしまったからです。ノアの家族だけが残ったのです。何のためかと言いますと、ノアの敬虔な祈りのおかげで、ノアの家族と箱舟の中にいた動物だけは残ったのです。

 ノアの信仰だけが残ったのです。ノアの信仰と同じ信仰をノアの子供が持っていたのではありません。ノアの敬虔な祈りのおかげでノアの家族だけは残ったのです。それもただ幻としてだけ認めてやろうと神が決心したのです。

 人間と獣、虫は肉体的な動物です。神は人間を動物として見たのです。ノアだけは神は人間として認めたのです。神が自分の相談相手にしたけれど、信仰によって神の前に出て来ない者は、人間として認めない。獣、虫けらと同じものとして見ることになったのです。本来人間は穀物しか食べてはいけないのです。

 神は次のように言っています。

 「私は全地のおもてにある種を持つすべての草と、種のある実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう」(創世記1・29)。ところが、人間が獣になったので、鳥でも牛でも豚でも何でも食べることになったのです。

 結局、今の人間は鳥、獣、虫けらと同じです。同類の仲間として認めてやろう。これが虹の契約です(創世記9・9~16)。

 最近の文明はユダヤ人の戯言(たわごと)です。戯言を神は黙って見ているのです。人間の罪が大きくなればなるほど、地獄の火が大きくなるのです。地獄の火が大きくなればなるほど、神の国、新天が大きくなるからです。

 マイナスの力が盛んになればなるほど、プラスの力も大きくなるのです。神はそれを知っていますから、人間の罪が大きくなるのを黙って見ているのです。学問や文明が盛んになるのを神は放置しているのです。

 マイナスのエネルギーが小さいと、新天になってからのプラスのエネルギーも小さくなるのです。

 神の国へ入りたいのなら、この世に生きないで、今生きている間に神の国に入らなければいけないのです。水と霊とによって新しく生まれて、神の国に入れというイエスの命令を実行するのです。

 女の人は徳川時代の気持ちにならなかったら、聖書の真意は分かりません。さんざん男に痛めつけられた女に、権利は一切なかったのです。殿様の意見が自分の意見であって、殿様が死んだら自分も死んだのです。これが当たり前でした。

 これを当たり前でなくしたのが、現在の学問の世界です。これが間違っているのです。人間の権利を認めて何になるのか。人間の王国になってどうするのか。全員火の池へ行くしかないのです。

 ホトトギスの叫びが人間の業(ごう)に対する忠告です。それは人間の業を厳しく戒めるような厳しい忠告であると、平安時代の人々は考えたのです。

 毎日、毎日、業を考えた。自分が生きているという業があることを考えたのです。自分の業が果てるか果てないか、まだ自分の業がある。こんなことでは地獄へ行く。肉の自分の気持ちを戒めていた。ホトトギスが人間の肉の思いを戒めていると考えた。これが日本文化の良さです。

 ホトトギスに自分の人生をお願いすると、方丈記に書いています。これは宗教ではありません。大自然のあり方、花が咲いている状態、ホトトギスが鳴いている声の中に、人間の肉の思いを戒めるものがあったのです。この考えをユダヤ人に知らせてあげたいのです。

 日本にはこういう文化があったのです。皆様はその子孫です。私たちはこういう日本文化の良さを、ユダヤ人に知らせてあげなければいけないのです。世界の人々に、日本にこういう文化があったことを紹介してあげなければいけないのです。これが原罪に対する謙虚な考えです。自然現象の中にある神の救い、神の声、御霊の警告を認めていたのです。これは偉いものです。

 肉で生きてるのは原罪の塊で生きているのです。肉の思いで生きていれば地獄へ行くに決まっているのです。神はそんな人間を長く生かしておきたくない。そこで、人間の年令を百二十年以内に限定したのです。それまでの人々は、アダムは九百三十歳、セツは九百十二歳、エノスは九百五歳、カイナンは九百十歳と、千年近く生きたのですが、人の悪が地にはびこり、心に思いはかることがすべて悪のみになったので、人間の年令を百二十歳以下に限定してしまったのです。

 ただアブラハムに祝福を与えたので、その子孫に対してできるだけ同じ祝福を与えてやろうと考えているのです。アブラハム、エノクの功徳によって、子孫に恵みを与えてやろうという気持ちが神にあるのです。

 私たちはそれが分かっているから神に祈っているのです。しかし、神がユダヤ人を認めているかというと、絶対にそうではない。ユダヤ人であってもユダヤ人でなくても、神は人間を一切認めていないのです。

 皆様が救ってもらえる権利があると思われるなら、キリスト教会へ行ったらいいのです。皆様のように聖書の知識を持った人はいませんから、大先輩として大歓迎してくれるでしょう。

 ノアの洪水によって、人間はすべて滅ぼされたのです。今いる人間は幻の人間です。虹の契約に基づく人間です。虹は幻です。虹が出た時に、私はおまえのことを考えてやろうと言っているのです。

 人間や鳥、獣、虫けらがいることを、神は幻としてしか考えていない。虹が出た時についでにおまえたちのことを思い出してやろうと言っているのです。

 今の人間を神が認めていないのですから、文明を造ってはいけないのです。文明を造るのは、人間が肉の思いで神に当てこすりをしているのです。空を飛んだり、潜水艦で海に潜ったりしている。

 神に助けてもらわなくても、人間は空ぐらい飛べると言っているのです。月へ人間が行った時に、アメリカの大統領は人類の勝利だと威張って見せたのです。

 ニーチェは神は死んだと言いました。神に教えられなくても、コンピューターくらいはできると言ったのです。

 人間の文明が盛んになればなるほど神をばかにするのです。人間が盛んになればなるほど地獄の火が強く燃えるのです。地獄の火がだんだん大きくなる。やがて、人間文明は終焉の時を迎えるでしょう。

 神は死人に生活を与えた。これは一体どういうことなのかをじっくり考える人間が出てきたら、その意味が分かるかもしれない。神はこれを期待しているのです。

 皆様は何十年もこの世で生活していますが、生活とは何かが全然分かっていない。おいしいこと、美しいこと、楽しいこと、悲しいこと、苦しいことを経験していますが、「しい」が分かれば救われるのです。

 自分さえ捨ててしまえばいいのです。条件はこれだけです。そうすれば救われるのです。

 神の前に人間はいません。ノアの洪水以後は人間はいないのです。四つの生き物、人間と鳥と獣と虫けらのこの四つの生き物を幻として認めているのです。幻として認めるということは、人間が何をしても気にしないということです。いちいち気にかけていたら、何回も洪水を起こさなければならないからです。

 ノアの洪水までは神は人間をまともに相手にしていたのです。まともに見ていたから、人間の生活を許しておけないので、神は洪水を起こしたのです。

 今の人間は実在しない。幻として存在するのです。獣と同類ですから人間をいちいち問題にしていません。

 人間が文明を造ることが間違っているのです。皆様が家庭を造ることが間違っているのです。マイホームがあることがとんでもない考え違いです。マイホームが人間の砦になっている。これにたてこもって神に抵抗しているのです。

 こういうばかな文明はやがて終わります。文明の本当の悪さが分かる人が出るまでは、神は文明を放っておきます。その欠点を本当に見つけて神の御心が分かりさえすれば、これ以上文明を存続する必要がないからです。

 私たちは重大な役割を与えられています。歴史を転換する役目を与えられているのです。文明の幕を引くのです。人間文明の幕を引いて、神の文明の幕を上げるのです。千年王国の幕が上がるのを神は待っているのです。

 神は死人に生活を与えている。生活を与えられている死人が、生活の中にリビング(living)を見ることができた者だけが救われるのです。ライフの中でリビングを見つけることができた者だけが救われるのです。これが末の時代のザ・シール・オブ・ザ・リビングゴッド(the seal of the living God)、生ける神の印です。

 「眠っている者よ、起きなさい。死人の中から立ち上がりなさい」と神は言っています(エペソ人への手紙5・14)。死人の中から出てきて、神が人間に生活を与えていることの秘密は何処にあるのかを見つけるかどうかです。

 生活の中にリビングがあるのです。見ていること、食べていることです。ここに救いがあるのです。ここに救いがある。おいしい、美しいということに救いがあるのです。これに気が付いた人だけに神の国を教えてやろうと言っているのです。

 死人に生活を与えた。これは表からの意味と裏からの意味と両方あるのです。

 神は死人に生活を与えている。これは不思議千万なことです。神から見れば人間が生きていることが幻です。詩篇には、「人間は影のようにさまよっている」と書いています(39・6)。

 人間の生活感覚は幻覚です。この世に生きていることは本当ではないのです。これを通して何が分かるのかを神がじっと見ているのです。

 人間に生活を許している。生活を通して何を見つけるのか、何を学ぶかを、神が観察しているのです。

 現在皆様は生きていると思っています。生活を与えられているから生きていると思っているのです。ところが、本当に生きているのではない。本当に生きているのなら命が分かっているはずです。生きているということは、命を経験していることです。

 現実に命を経験しているのでしたら、命とは何かが分からなければならないはずです。命の実感が分からなければならないはずです。ところが、それができない。それができないのは生きていないことになるのです。生きていないというのは死んでいることです。

 神は死人に生活を与えているのです。生活の中で命を見つけるかどうかを、神が検索しているのです。生活の中で命の実物を見つけることができる者が何人いるか。これを神はじっと見ているのです。ところが、これができる人はめったにいません。

 皆様は自分に与えられている生活の中で、命の実物を見つける以外にとこしえの命は何処にもありません。生活の中で命を見つけること、これをイエスは新に生まれて新しい命を見ると言っているのです。

 生活を与えられていることの中から命を見つける。これは神の国を見つけたのです。これが新しく生まれて神の国を見ることです。

 イエスは、「水と霊から新に生まれて、神の国へ入れ」と言っています(ヨハネによる福音書3・5)。これができた人だけが、キリストの一族として迎えられるのです。

 本当に求める人、真剣に求める人にそれが与えられるのですが、生活の中から命の本物を見つけられる人は、めったにいないのです。

 皆様は花を見るでしょう。その時に美しいと思うでしょう。美しいと思っていながら美しいとは何かを知らない。だから、死んでしまうのです。

 花を見て美しいということが分かったことは、キリストが分かったということです。美しいというのはキリストです。キリストの言葉です。キリストの入口です。キリストは地球計画です。この入口が美しいことです。

 美しいということが分かっていながら、それがどういうことか分からない。それを分かろうとしない。

 美しいというのは人間の魂にアピールしているのです。これは常識ではなく人間の潜在意識に関することです。美しいということを顕在意識で考えているからその意味が分からないのです。美しいと言いながら花より団子になってしまうのです。

 生活は神が許しているものです。神の命は生活の中にあるに決まっているのです。

 顕在意識は肉の思いです。神は肉の思いに生活を与えているのです。これがおかしいのです。肉の思いを持って、肉の思いで生きている者に生活を与えても仕方がない。これはノアがああいう祈りをしたので、ノアの祈りに免じて、特別にもう一度死んでしまった者に生活を与えたのです。

 しかし、ノアと同じようには扱えないのです。ノアの場合は、神の霊が彼と相撲を取っていたのです。ノア以外の人間は、神が人間に生活を与えてはいるけれど、神の御霊は一切相撲を取らないのです。旧約時代はそうでした。

 ところが、新約時代になってから、イエスが復活昇天した証拠に、私たちに御霊を与えたのです。そこで、私たちは御霊を受けることができるのです。

 イエスが復活して天へ行かなければ、御霊は絶対に降臨しないのです。新約聖書ができて、異邦人が読めるはずがないのです。

 御霊の導きによって聖書を読ませてもらえるということは、イエスが復活して第三の天へ行った証拠です。

 大体、イエス・キリストの復活、昇天、聖霊降臨ということは、異邦人が分かるはずがないことです。これが分かるということが、神の経綸が歴史的事実である証拠です。

 大学の学問を勉強した人には分からないでしょう。これはユダヤ人の害毒を受けているから分からないのです。

 私たちは冷静に、平明に考えると、美しいということは分かります。美しいということと商売をすることは次元が違うのです。

 芸術の次元とはどういうものか。なぜ芸術というセンスがあるのか。

 芸術は人間の潜在意識に呼びかけているのです。絵を描いて、歌を作って、人間の潜在意識に触れていくのです。万葉集、古今集にはそういう功徳があるのです。

 歌は人間の精神的な疲れを癒す効果があるのです。精神の疲れを癒すのです。精神の疲れを癒すとはどういうことか。人間の潜在意識に刺激を与えると顕在意識が沈黙するのです。

 人間がしていることを静かに考えると、福音的な価値があるのです。神が死人に生活を与えているというのは、生活している間に歌を聞いたり、おいしいものを食べたり、花を見たりしている。これによって霊魂が人間の本体であることに気が付く人間がいるかもしれない。そうして霊魂の救いとは何か。イエス・キリストの十字架という大事件と、復活、昇天という宇宙的な大事件について、深く理解する人間が一億人に一人くらい出るかもしれないと神が考えている。これが死人に生活を与えている理由です。

 皆様は本当に幸せな霊魂です。こういうことに深い興味を持っているからです。

 自分を捨てるということは、神に惚れることです。神に惚れさえすれば、自分を捨てることができるのです。神に惚れずに自分を捨てようと思ってもできないことです。神に惚れたらいいのです。

 死人に生活を与えて、生活の中にある命を見つけさせようとしているのです。

 どんな命があるのか。美しいという命です。おいしいという命です。楽しい、嬉しいという命です。これをパウロはキリストの言葉と言っています。

 パウロは、「良きおとずれを告げる者の足は、麗しい」と言っています(ローマ人への手紙10・15)。美しい、楽しい、おいしい、嬉しいと感じていることが、命に触れていることです。人間は無意識に命に触れているのです。これを掴まえるか掴まえないかによって、永遠の運命が決定するのです。

 皆様は現実に命というリビングを経験しているのです。生活の中に命があるに決まっているのです。命を毎日、毎日経験しています。ところが、その命を掴まえないで命をいつも捨てているのです。

 生活感覚しか掴まえていない。潜在意識を用いずに常識だけで考えている。良いとか悪いとか、損とか得とかを顕在意識だけで考えている。神が死人に生活を与えていることが、皆むなしくなっているのです。

 人間に森羅万象を与えて、色、形、味、香、栄養を与えていながら、全く命を掴まえようとしていない。人間は何という鈍感な生き物かと神は思っているでしょう。

 人間は生活を与えられているが、命を与えられていない。神は人間に生活を与えることはできるが、命を与えることはできない。なぜなら命は主観的に受け取らなければならないからです。

 神は外から戸を叩いています(ヨハネの黙示録3・20)。しかし、内から開かなければ入れないのです。神が何回ノックしても人間は内から開けないのです。

 生活を与えられているのは、命がそこにあるということです。命がなければ生活にならないのです。

 神が人間に生活を与えている。神が魂をリビングソールにしなければ生活を与えられない。人間はリビングソールになるしかないのです。

 ノアの洪水以後の人間はリビングソールではない。鳥や獣と同じものです。鳥や獣と同類ですから、リビングとは言えません。ところが、生活を与えられている。これは仮に生活を与えて、仮にリビングにしてやろうという神の計画です。

 ビールや酒の味が分かる。果物の味が分かる。牛肉や魚の味が分かるということは、神の命を掴まえることができることを示しているのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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