人間が死んでいくというほどばかばかしいことはありません。人間はなぜ死ぬのか。考え方が間違っているから死んでいくのです。勝手に死んでいくのです。
命に対する考え方が間違っている。だから、死んでいくのです。ただこれだけのことです。
自分の命のことを考えようとして、宗教とか学問とかいうことを勉強するためにますます分からなくなるのです。これは全くばかなことをしているのです。
皆様は生まれたいと思って生まれたのではありません。自分で生まれたいと思って生まれたのではないのですから、何かを信じなければならないとか、何かを勉強しなければならないとかいうことがあるべきはずがないのです。
生まれたままの命をそのまま率直に、素直に見るだけのことです。これが人間にはできないのです。できないようにされてしまっているのです。
皆様の考え方の根本が、文明によって歪められてしまっているのです。これに気が付きさえすればいいのです。文明、教育、常識によって、皆様の考え方が根本的に歪められてしまっているのです。だから、死ななければならないことになってしまったのです。
人間はなぜ死ぬのか。命に対する考え方が素直でないから死ぬのです。宗教を勉強するとか、学問を勉強するとかいうことは、自分の本心に対して素直ではないのです。こういう考え方が間違っているのです。
生まれてきたままの自分を率直に、素直に見れば死ななくなるのです。般若心経はこれを言っているのです。
般若心経の空というのは、人間の学問、宗教、常識に捉われないで、素直に考えなさいと言っているのです。空というのはそれをいうのです。
空というのはただ素直になることです。これができないのです。ご年配の方から考えますと、素直になることが難しいことかもしれません。
皆様が何十年もの間、頭の中に詰め込んだ間違った世の中の考え方を捨ててしまえばいいだけのことです。
命を真っ直ぐに見るのです。これだけで本当の命が分かるのです。般若心経はこれを言っているのです。
最も般若心経は素直になれと言っているのであって、命とは何かということを教えているのではないのです。般若心経の中心は空であって、究竟涅槃を言っているのです。
究竟涅槃ということは命を掴まえることではないのです。今までの人間の考え方を解脱することを言ってるのです。自分の考え違いを捨てること、これが涅槃です。
まず涅槃を突き止めることが第一です。自分の思いを捨てるのです。教育とか宗教とか常識を捨てるのです。
宗教や教育、常識が皆様を殺しているのです。これに日本人は全然気が付いていないのです。
宗教信心ほど人間の根性をねじ曲げてしまうものはありません。宗教信心が一番悪いのです。
イエスが死を破ったのです。日曜日がありますが、これはイエスの復活記念日です。イエスはどうして死を破ったのか。結論的なことを言いますと、イエスは宗教、教育、常識を信じなかったからです。宗教を信じなかっただけのことです。学問を信じなかったのです。それだけのことです。
宗教や学問を信じなければ、イエスと同じ考えを持つのは何でもないのです。従って、死を破るということも何でもないのです。
皆様に冷静に考えて頂きたいのですが、キリスト紀元である西暦紀元では、人間が死ななくてもよい時代なのです。ところが、文明というおかしい理屈が、死ななければならないようにしてしまったのです。
皆様は死ななくてもよいという歴史的な条件を与えられていながら、学問という考え方、常識という考え方によって死なねばならないように仕向けられているのです。これをばかばかしいと思わないのでしょうか。
死にたいと思う方はそうしたらよろしいのです。死ぬということはただ息が切れるということとは違うのです。息が切れて目が見えなくなると後が恐いのです。
生きているうちに素直でなかったことの責任を必ず追求されるのです。これが恐いのです。皆様の魂はそれを知っているのです。
日本でこういうことについてまともに相談相手になってくれる人がいないのです。一人もいないのです。私は宗教活動をしているのではありません。それでは何をしているのかと言いますと、霊魂に関するボランティアをしているのです。
病人に対するボランティアとか、老人に対するボランティア、災害の時のボランティアはありますけれど、今の日本には霊魂に対するボランティアがいないのです。私はそれを実行しているのです。
私がいうことは宗教ではありません。教育でもないのです。人間の命をあるがままに見ているだけです。
般若心経には理屈は一つもありません。人間が空だと言っているのです。人間の考えは皆間違っている。人間の思いは皆間違っていると言っているのです。
人間は思いが間違っているから死んでしまうのです。思い方が間違っているから死んでしまうことになるのです。だから、思い方さえ変えさえすればいいのです。今までの思いを捨ててしまうことをしたら、皆様に死なない命があることが明白に分かるのです。
今までの皆様の常識、伝統、習慣、宗教観念が迷いです。皆様はこの世に生まれたいと思って生まれたのではありません。従って、皆様は自分で自分の魂に責任を持たなければならないはずがないのです。
皆様の命は皆様のものではないのです。だから、自分の魂について自分が責任を持たねばならないという考え方が間違っているのです。こういう考えは宗教観念です。
この世に生まれてきたという事実を真っ直ぐに見たらいいだけのことです。これが五蘊皆空ということです。
五蘊というのは、色、受、想、行、識です。これは人間の常識、知識の一切空を指しているのです。人間の常識、知識の一切が五蘊です。
例えば、皆様は自分が今生きていると考えています。これが五蘊です。皆様は今命の経験をしているのですが、これは本当に生きていることではないのです。
本当に生きているというのは命の実体をはっきり掴まえて命の実体を生きるのです。これが生きているということです。
イエスはこれを実行したのです。イエスは宗教を信じたのではない。もちろん学問を勉強したのでもない。生きているという命の実質を真正面から見ただけのことです。だから、死を破ったのです。
イエス以外に死を破った人はいないのです。さすがの釈尊でも死んでいるのです。この釈尊が五蘊皆空と言っているのです。人間の考えは皆間違っていると言いました。
釈尊は三十歳くらいまではこの世の生活をしていたのです。その間に迷ったり苦しんだりしていたのですが、その業(ごう)があったのです。その業をどうしたらなくすことができるか、どうしたらその業を果たせるのかということを、はっきり見い出す前に悟ったのです。
何を悟ったのかと言いますと、自分が今まで生きていたことが空であるということを悟ったのです。これが釈尊の悟りです。
ところが、自分が空だと悟っただけでは中途半端です。命を受け取らなければいけないのです。しかし、釈尊はどのように命を受け取ればいいのかについては一言も言っていないのです
自分が今生きていることをどのように受け止めればいいのかということについては、一言も言っていないのです。
釈尊は悟りを主張したのです。しかし、命のことは説明しようとしていないのです。ところが、釈尊の弟子たちが唯識論とか、俱舎論とか勝手な理屈を並べたのです。十二因縁とか四諦八正道とか、唯識三年、俱舎八年とか色々な理屈を言っているのです。
般若心経は十二因縁と四諦八正道をはっきり否定しているのです。無無明亦無無明尽、無老死尽無苦集滅道と、十二因縁、四諦八正道を否定しているのです。
般若心経は堂々と仏教を否定しているのです。般若心経は大胆不敵に、仏教の唯識論の中心概念を捨ててしまっているのです。さすがに般若心経だと思うのです。
四諦八正道という考え方が妄念です。宗教は一切妄念です。道徳も学問も妄念です。私たちに必要なものは生まれてきたということだけです。
生まれてきたという事実を、真正面から素直に素朴に見るのです。これがイエスが実行したすばらしい業績です。素直になるということは皆様にとっては難しいことかもしれませんが、死なない方法はこれしかないのですからして頂きたいのです。
マホメットも孔子も間違っていたのです。ソクラテスも老子も間違っていたのです。死を破るということは本当の命を掴まえているという証拠であって、死んだ人間は皆間違っていたのです。これはだめです。
命の真髄を捉えていなかったから死んだのです。皆様は宗教を勉強しようとか、何かの悟りを得ようとする必要はありません。
この世に生まれてきたという事実をもう一度見直すだけでいいのです。そうしたら、死なない命が分かるのです。これは必ずできるのです。イエスがしたことは必ず皆様にもできるのです。
人間は死ぬものだ。死ななければならないものだというのが、世間の通例です。そういう通例的な考えを皆様も持っていますから、わざわざ死ななければならない命と言わなければならないことになるのです。
本当は人間の命は死ぬべきものではないのです。生まれてきたのがそのまま死なない命だという言い方だけでは、今生きている命でいいのではないかということになります。
命という点からだけ申しますと、今皆様の命に対する認識が死ななければならないことになっているのです。肉体的に生きているという条件で、自分の命を見ているのです。従って、死ななければならないという気持ちが湧いてくるのです。こういう考え方が間違っているのです。
今皆様が生きている命は自分の命ではないのです。自分が生まれたいと思って生まれたのなら、自分の命があると言えるかもしれません。この場合でも自分の力でこの世に生きるということはできないのです。両親に産んでもらわなければこの世に出ることはできません。従って、生まれた命は自分のものではないということになるはずです。
皆様は生まれたいという意志を全然持っていなかったのです。従って、皆様の命というものが始まったのは、皆様の意志には関係がないのです。
生きているのは自分の命だという考え方が五蘊です。この考え方が間違っているのです。命が間違っているのではありません。命に対する考え方が間違っているのです。
私自身は今生きている命が自分のものではないことが、はっきり分かっているのです。従って、自分が死ぬということがないのです。生きているのは自分ではありませんから、このことを皆様の前で堂々と申し上げることができるのです。もし私が自分の命があると思っている状態でこういうことを申し上げたら、私の発言が大言壮語、嘘つき野郎になるのです。
私は今生きている命が自分の命ではないことがはっきり分かっているのです。イエスが生きていた命と同じであることがはっきり分かっているのです。
イエスが自分の命を真っ直ぐに見て死を破ったのです。幸いにしてイエスが掴まえた命と同じ命を私も経験することができたのです。
肉体人間は現世のみに生存していますけれど、魂は生まれる前と現世と来世全体に及んでいるのです。こういうことが今の人間に分からなくなっているのです。
仏教で解脱とやかましく言っていますが、これは現世に生きていることから解脱せよとしきりに言っているのです。
解脱しなさいとしきりにいうのですが、どのように解脱したらいいのか。現世から解脱するというのは、何を悟ったらいいのか。これが仏教では分からないのです。
悟ると言いますけれど、何を悟ることが本当の悟りなのか。これが決定的にはっきり決まっていないのです。これが禅宗の非常に悪い点です。
釈尊の悟りは今の禅宗の悟りとは違うのです。釈尊の悟りは今の仏教にはありません。釈尊の悟りと同じような悟りは、現在の日本の仏教にはありません。
日本にあるのは仏教の悟りです。釈尊は仏法の悟りを開いているのです。仏法と仏教とは全然物が違うのです。
皆様が仏教をいくら信じても、釈尊の悟りは絶対に分かりません。仏さんは分かってもお釈迦さんは分からないのです。
日本には他力本願の仏教はありますが、本当の阿弥陀如来が分かっていないのです。大無量寿経や仏説阿弥陀経に書いている本当の阿弥陀如来が分かっていないのです。今のお坊さんは本当の阿弥陀如来の説明ができないのです。
他力本願という仏教を信じているから分からなくなっているのです。悪いのは宗教です。お釈迦さんが悪いのではありません。
宗教というのはどんなものでもすべて営業です。営業以外の宗教はありません。ローマカトリックは営業の大本山です。宗教の代表がローマカトリックです。
私は宗教の悪口をいうのが目的でお話しているのではありません。宗教ではない本当の命の掴まえ方を申し上げているのでありまして、宗教をこき下ろすことが私の目的ではありませんから、あまり宗教の悪口を言いたくないのです。
今の人間は死んでいくことについて真面目に考えていないのです。これに腹が立ったのです。世間の大人は死んでいかなければならないことを承知していながら、金儲けに一生懸命になっている。現世の家族に一生懸命になっている。家を建てる、保険をかける。貯金をする。財産をつくる。そうして、死んでいくのです。
政治や経済、宗教と言っていながら死んでいくのです。死んでいくような社会を人間が造っているのです。それに私は我慢ができなかったのです。
人間は死ぬべきものではないのです。死なない命が何処かにあるはずだと思ったのです。死にたくないという気持ちが人間にあるはずですから、死なない命があるに決まっているのです。
何処かに死なない命があるから、人間は死にたくないと思うのです。
人間は不可能なことに対して希望が起きないのです。例えば、鳥のように空を飛びたいという希望が、飛行機になって実現したのです。月に行ってみたいという希望が、アメリカのアポロ宇宙船によって実現したのです。
そのように、人間が希望するのは、その可能性があるからそう考えるのです。人間は死にたくない、死にたくないと非常に強く願っているのです。それは、死なない命が何処かに必ずあるに違いないことを証明しているのです。
人間には生まれる前の過去世と、現世と、死んでから後の来世があるのです。今、皆様が生きているのは現世ですが、現世に生まれるための原因があるに決まっているのです。現世に生まれるための原因がなければ、現世に生まれてくるはずがないのです。
生まれる前の命が今の命になって現われているのです。今、私たちは肉体的に生きていますが、肉体が命ではないのです。
肉体的にこの世を去ることはあります。なぜなら、肉体は消耗品だからです。肉体には耐用年数がありますから使えなくなるのです。
霊とは何か。人間が生きていることが霊です。目が見えること、心臓が動いていることが霊です。
死んでも目が見えたという事がら、生きていたという事がらが続いていくのです。このことが分からずにこの世去ってしまいますと行く所がなくなるのです。そこで困るのです。自分が行く所が分からなくなるからです。
死ということが分からないままの状態でこの世を去っていきますと、恐いことになるのです。
肉体は死んだら墓に入りますが、霊は墓に入らないのです。霊がこの世を去って何処へ行くかを生きている間に勉強しておく必要があるのです。
人間には妄念があります。人間の妄念は何処からきているのかと言いますと、自分が生きているという所からきているのです。
自分が生きているという考え方が人間の妄念の源になっているのです。人間は誰でも自分の命があると思っていますが、実は自分の命はありません。
私たちは自分が生まれたいと思ったのではありませんから、自分の命はないのです。人間は命を貸し与えられているのです。貸し与えられている命を自分のものだというように思い込んでいることが、人間の無明煩悩の根底になっているのです。これが人間が死んでいくことの原因です。
自分が生きている。命は自分のものだと考えている。これは他人から預かっているものを、自分のものだというように思い込んでしまっているのです。これは預かったものを横領していることになるのです。背任横領していることになるのです。
人間は命を預けられていながら、それを自分のものとしてこき使っているのです。自分がしたいように勝手に生きているのです。自分の意志によって生まれたものなら、自分の意志によって生きるのは当然のことです。
ところが、人間は自分の意志によって生まれたのではないのですから、自分の意志によって生きることは根本的に間違っているのです。
命を私たちに預けた者が、どういう意味で命を私たちに預けたのかということを勉強する必要があるのです。
こういうことは私たちの魂によく聞いてみたら分かることです。宗教や学問を勉強しなくてもいいのです。
例えば、皆様がきれいな花を見てきれいだと思う。なぜ花を見てきれいだと思うのかということをじっと考えますと、自分の霊魂の意味が分かってくるのです。
おいしいものを食べたらおいしいと思います。なぜおいしいものを食べたらおいしいと思うのか。それを食べてなぜ喜ぶのかということです。
おいしいとか、きれいだとか、すばらしいということを喜ぶのが人間の霊魂の建前です。このような建前をなぜ霊魂が持っているのか。
こういうことを素直に考えてみれば、皆様は自分の中に死なない命があることが分かるはずです。私はそれを見つけたのです。
イエスは正確に命を発見したのです。イエスが命を見つけたのですが、それが正確であることが証明されて、その証明の印にイエスは死を破ったのです。
死を破った人の命の見つけ方を私たちが真似をしたら、私たちも命の正しい発見の仕方があるに決まっているのです。
般若心経に波羅蜜多とあります。これは彼岸へ渡るということです。彼岸は何処にあるのかと言いますと、皆様の中にあるのです。
五蘊が皆様の中にある彼岸を分からなくしているのです。皆様の中にある彼岸を見えなくしているのが五蘊です。五蘊を否定したら彼岸が分かるのです。
宗教とか教育、常識が五蘊になっている。このために皆様の中にある彼岸という命の本体が見えなくなっているのです。
イエスが死を破ったという事件が契機になって、人間は死ぬべきものではないということが歴史的に証明されたのです。これによってキリスト紀元が発生しているのです。
今年は西暦二○一九年ですが、これは地球上に死なない命を持った人間が誕生して、二○一九年経過したということです。
西暦紀元に生まれた人間は、死ななくなっているのが当たり前です。世界歴史の実体が、人間の命が死ぬべきものではないことを証明しているのです。
人間の命が死なない命であることを、世界の歴史が証明しているのです。このことをよくよく勉強して頂いたら、人間は死なないものであることがよく分かるのです。
これは宗教の勉強ではないのです。人間が生きているということを冷静に、平明に勉強するだけです。
人間の歴史はどのような世界観によって成立しているのか。人間の善悪利害の根本はどういう世界観によって成り立っているのかということを勉強するのです。
これは学問の勉強ではありません。自分の真実の勉強をするだけのことです。宗教ではない命の勉強をするのです。
勉強と言っても難しいことではない。素直に考えたらいいのです。素直に考えたら、誰にでも分かることです。ただ素直になったらいいのです。
まず五蘊皆空を知ることです。皆空を知ることです。これは素直になることです。素直になりさえすれば、イエスの命は誰にでも分かるのです。
難しい難しいと思わないで頂きたいのです。死ぬか生きるかの問題ですから、落ち着いて冷静に考えようという勇気を持って頂きたいのです。
皆様の中に彼岸があるのです。死なない命が皆様の中にあるのです。これを発見したらいいのです。
素直とは何であるのか。何かを信じると本当の素直さがなくなってしまうのです。
悟りを求めるとか、自分が幸せになるということを考えると、素直さがなくなってしまうのです。これがいけないのです。
宗教を信じたら宗教に騙されるのです。人間が善悪を信じると、善悪ということに騙されるのです。自分が信じていることによって自分が騙されるのです。良いことをしているつもりで、実は悪いことをしているのです。
命は自分のものではないという非常に素朴な第一の原理をよく考えて頂きたいのです。自分が生まれたいと思って生まれたのではないのです。従って、命は自分のものではないという簡単なことに気付いて頂きたいのです。そうすると、彼岸が分かってくるのです。
皆様が自分の命がある、自分が生きていると考えても何にもなりません。皆様が今まで生きていたのは、皆様の命の本質から考えますと、何の役にも立ちません。
役に立たないだけならいいのですが、毎日、毎日生きていることを通して、罪を造っているのです。自尊心がある。人を疑う気持ちがある。何のために生きているのかという魂の喜びがないのです。
自尊心とか、自分の欲望、不平不満で生きている。一日生きていれば一日、必ず罪を造っているのです。
現世に人間が生きていたら、必ず罪を造るに決まっているのです。人間が生きているということが犯罪行為になっていくのです。これが恐いのです。だから、自分が生きているとか、自分の生活のために生きるとか、自分が幸せになりたいという妄念を捨てるのです。そうして、命の真実を求めようとするのです。これが本当の生き方です。
自分の利害得失を考えないで、自分の命の真実は何であろうかということを、尋ねるような気持ちになって頂きたいのです。そうしたら、イエスが持っていた命が必ず分かるのです。
般若心経の般若というのは上智です。これは普通の人間の常識ではありません。また、叡智でもないのです。仏教では阿頼耶識と言っていますが、皆様の目が見えること、耳が聞こえることが上智の本質です。
皆様は何気なく見ていますが、目で見ていることの本体が上智です。
皆様は自分の力で目を造ったのではありません。目は天から与えられたのです。天から与えられたのですから、天の心を弁えて見なければいけないのです。目で見ていながら天の心を知らないで見てしまうと、天の心に反することになるのです。
例えば、花を天の心で見ますと、花が咲いていることの意味が分ってくるのです。花の命が咲いてる世界が見えてくるのです。
ところが、自分の常識で目を使っていますと、花は見えますけれど、花が咲いている命の世界が見えないのです。これが上智と上智ではないものとの違いです。
最初から上智を持とうとしてもできません。まず考えて頂きたいことは五蘊皆空です。五蘊皆空が本当だという所まで考えて頂きたいのです。
人間の常識、知識は五蘊でありまして、五蘊で考えて五蘊で生きていますと、何にもならないのです。
今の日本人の大人の考え方は、日本の為に何にもなりません。何にもならないだけならいいのですが、毎日罪を造っているのです。
その結果、死んでからお先真っ暗になるのです。お先真っ暗の気持ちで生きるのが、世間並の人生です。これをやめるのです。
自分の霊の行き先がはっきり分からないということは、自分の命についての考え方が間違っているというように考えて頂きたいのです。
難しいという考えを持たないで、幼稚園の子供のような単純な考えになって頂きたいのです。幼稚園の子供ような気持ちになると上智が分かってくるのです。
大人の利害得失の気持ちを捨てたらいいのです。人が自分の気持ちを理解してくれなくても、悪口を言われても、そういうことに一切捉われないことです。
自分がこの世で成功しようとか、儲けようと全然考えないことです。
人間はこの世に生きるために生まれてきたのではないのです。死なない命を見つけるために生まれてきたのです。死なない命を見つけて、神の国に入るために生まれてきたのです。
般若波羅蜜多、向こう岸へ渡ること、彼岸へ渡ることが人生の目的です。
この世に生きていても何にもなりません。皆様は六十年、七十年この世に生きていました。このことによって何が分かったのでしょうか。ただ罪を造っただけです。魂に対して何のプラスもなかったのです。
これは生きているということが間違っていたのです。人間がこの世に生まれてきたことが業(ごう)です。生まれてきたことが業ですから、業を捨ててしまわなければ本当の命を見ることができないのです。
そのためには、幼稚園の子供のようになることです。大人のような考えを捨てるのです。これが第一に必要なことです。これが天に対する謙遜です。
自分に命を与えてくれたものに対して謙虚な気持ちを持つことです。皆様にある命は自分の命ではありませんから、自分の命を自分が用いていると考えないで頂きたいのです。
自分の人生は自分のものだから、これについてあれこれ言われたくないというような気持ちが一番悪いのです。幼稚園の子供のような素直な気持ちになれば、般若波羅蜜多の上智は必ず掴まえられるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)