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  • 管理人 chayamichi

自分はいない、イエスが生きてる

 人間は米や野菜をどうして作るのか、石や鉄をどう扱えばいいのか、風が強い時にはどうしたらよいのか、暑い時、寒い時にはどう過ごしたらよいのかを、皆知っているのです。

 風も太陽も皆自分の中にあるのです。人間の中に太陽がなかったら、外にある太陽が分かるはずがないのです。

 人間は自分の中にあるものを外に見ているのです。とても美しい景色を見るとすばらしいと思います。なぜすばらしいと思えるのかと言いますと、それが自分の中にあるからです。

 万物が人間の中にあるのです。だから、万物全体を済度しないと、人間は成仏できないのです。

 「仏説大無量寿経」に阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に立てた四十八の誓願がありますが、第十八の誓願に、たとえ犬の子一匹でも悟りを開かないものがあったら、私自身が成仏できないと言っているのです。

 人間は自分が生きていると考えている。自分の命があると考えている。こういう人間は必ず地獄へ行くことになるのです。

 自分の命はない。万物の命が自分の命になっている。これが阿弥陀さんの考え方です。法蔵菩薩は阿弥陀さんの前提です。

 親鸞の著書「教行信証」の「行巻」の末尾の「正信念仏偈」に次のようにあります。

 「帰命無量寿如来 南無不可思議光 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」

 これは法蔵菩薩が悟った時の気持ちを言っているのです。仏教は東洋全体に広がっている釈尊の教えですが、この中には真理があるに決まっているのです。真理がなかったら広がっていかないのです。

 仏教も回教も、あらゆる宗教は、皆聖書から出ているのです。だから、聖書が分かれば皆分かるのです。そのようにできているのです。

 「在世自在王仏所」というのは、この世に自らいる時には、その人は王の位にいるのです。これが仏の悟り、法蔵比丘の悟りです。

 普通のお坊さんが阿弥陀如来になったのです。なぜなったのかと言いますと、天地万物を救わなければならない責任があると考えた。天地万物を救わなければならない責任を考えたことによって、おまえはもう人間ではない、仏になれと言われたのです。

 アブラムがアブラハムになったようなものです。仏教には歴史的な背景はありませんから真実ではないのですが、哲理的には本当のことを言っているのです。歴史的な背景がありませんから、仏教は概念ですけれども真理ではなのですが、真理としての概念です。これを信じても救われはしないのですが、聖書を読むためのすばらしい参考になるのです。

 どんな宗教でも哲学でも、参考になる点は取り入れたらいいのです。

 私たちが日本から現われたということは、悪魔にとって脅威でしょう。何でも参考にしてしまうからです。

 法蔵比丘は四十八の願を立てたことによって、阿弥陀如来になることを許されたのです。阿弥陀如来は初めからいる如来ではないのです。

 阿は無という意味です。弥陀は限りです。阿弥陀とは限りがないことです。無眼無窮の命を持っているということになるのです。これを帰命無量寿如来と言っているのです。

 人間が生きていると思ったらだめです。法蔵菩薩は天地万物に対して責任があると考えた。例えば、犬の子一匹でも悟りを開かない状態だったら、自分は成仏できないと考えたのです。そこで、お前さんは仏になっていると言われたのです。

 皆さんの中に犬がいるのです。ダニもノミもいるのです。だから、ダニをどうしたらいいのか、ノミをどうしたらいいのかを皆さんは知っているのです。それは、皆様の中にダニもノミもいるからです。これが人間存在です。

 神は人間を造ったと考えたらいけないのです。万物を造って、それを治めるために人間というピリオドを造ったのです。人間は神の創造のピリオドです。

 人間創造の中には万物が皆入っているのです。これが大無量寿経の原理です。

 大無量寿経と、阿弥陀経と、観無量寿経が三部経ですが、観無量寿経は極楽世界を細かく書いています。あまりにも有難いことばかり書いていますので、なかなか信用する人がいないようです。

 ところが、本当に神が分かり、永遠の命が分かると、地球の中に神の国があることが分かるのです。天国があるのです。これについてパウロは、「いつも喜べ、絶えず祈れ、すべてのことを感謝せよ」と言っています(テサロニケ第一の手紙5・16~18)。地球の中に極楽があるからです。

 皆様は天地の主(あるじ)と同じものでなければならないのです。自分は一人の人間だと思っているから地獄へ行くことになるのです。

 鳥を見ても、空の雲を見ても、木や花を見ても、それが何であるか分かるのです。自分の中になかったら分かるはずがないのです。

 人間はすべて自分の中にあるものを外に見ているのです。

 アダムはエバという女を初めて見た時に驚いたのです。「今や私の骨の骨、肉の肉」と驚嘆したのです(創世記2・23)。自分の中にあるものを外に見て驚いたのです。男と女との関係は皆そうなっているのです。

 天地万物も皆自分の中にあるのです。この感覚をキリストと言うのです。だから、皆様は聖書という物語の中に入ってしまわなければいけないのです。大無量寿経四十八願の中へ入ってしまわなかったらいけないのです。そうしないと、信仰にはならないのです。

 人間が生きていることは、そのままキリストが生きていることです。私たちが生きている本当の姿を、キリストが人間という格好で見せたのです。これが阿弥陀如来です。

 普通の人間が死人の中から甦ったことによってキリストになったのです。これは法蔵比丘という普通のお坊さんが阿弥陀如来になったのと同じことです。

 皆様も阿弥陀如来になるか、キリストにならなかったらだめです。自分が自分として生きていたのではだめです。自分の中に万物があることが分かっていないといけないのです。

 すべての人間とすべての万物がキリストの中にあったのです。キリストが十字架に付けられた結果、すべての人間も万物も皆死んでしまったのです。

 ところが、キリストが死を破って復活したので、すべての人間も皆生き返ったのです。

 今皆様は物を見て、物があると思えるでしょう。これはキリストが十字架にかかるまでの万物です。旧約時代の万物です。キリストが十字架にかかって復活した以後の万物は、霊の万物です。霊の木があり、霊の花が咲いているのです。今の万物は皆霊です。これが新約時代です。

 復活したのは人間だけではない。万物も復活したのです。キリストの十字架と復活によって、新天新地がもう到来しているのです。現在の物理的な地球が消滅した後の、完全無欠の霊なる永遠の地球が完成しているのです。イエス・キリストの復活がそれを証明しているのです。

 本当は阿弥陀如来があるのではない。キリストという人格を抽象概念的に言うと、阿弥陀如来になるというだけのことです。これは理想人格を概念として現わしたのであって、実在の仏ではないし、神でもないのです。

 阿弥陀如来は譬としてはありますが、本体は何処にもいないのです。だから、信じてもだめです。阿弥陀如来の実物は、復活したイエス・キリストです。

 イエスが十字架上で血を流したとありますが、これはすべての生き物を否定したのです。生き物の命を否定したので、生き物が死んでしまった。

 イエスが肉体を持って生きていたのは確かです。食べたり飲んだりしていたのです。ところが、イエスの肉体は水でした。イエスが生きていたということは血です。だから、イエスは水と血によって来た人と書いているのです(ヨハネの第一の手紙5・6)。

 肉体というのはないのです。水と血とがあるだけです。味は霊です。空なるものです。神を信じるというのは、空を信じることです。般若心経を愛している日本人は、神を信じることは空を信じることだと言ったら分かりやすいのです。

 仏典は聖書のキリスト教神学を仏典的に焼き直しているのです。大乗仏教というのは、キリスト教神学の焼き直しになるのです。

 ユダヤ人に関係がないのが仏教です。聖書にはユダヤ人がいるのです。

 万物が自分の中にあるということをよく考えてください。そうしたら、自分がいるということを考えなくなるのです。自分という格好で万物が生きていると思えば、自分に固執する考えがなくなるのです。

 人間は万物のあり方を知っているのです。動物をどのように育てたらいいのか、植物をどのように育てたらいいのかということを知っているのです。知っているのはそういうものが自分の中にあるからです。

 そういうことを教えられなくても知っているということは、生まれる前に人間の霊魂の中に万物が入っているからです。現世に生まれた時に、肉体的に現われていますけれど、肉体的に人間として現われたことが業(ごう)です。この業を乗り越えますと、死なない命に帰ることができるのです。

 人間の肉体は万物そのものを意味しているのです。人間の肉体は動物の体とは違うのです。馬は馬の性質だけを現わしているのです。人間の肉体は天地万物の要素をすべて含んでいるのです。

 例えば、金とか、銀、ダイヤモンドまで肉体にあるのです。地球の中にあるすべてのもの、鉱物、動物、植物のすべての要素が、人間の肉体になっているのです。これを聖書は地のちりと言っているのです。ちりというのはすべての要素が集まっているという意味です。これは上等なものです。

 ダイヤモンドの要素が人間の肉体の中に入っているのです。天地万物の要素が人間の中に入っているのです。人間の肉はないのです。だから、食べたらいけないのです。食べられないのです。ちりだから食べられないのです。

 ちりはあるように見えるが、ないのと同じです。万物の物質的存在が全部要約されているのです。これが人間の肉体です。

 人間の肉体があるのかというと、ないのです。万物の要素があるだけです。これを地のちりと言うのです。

 闇が淵のおもてにあったと聖書にあります(創世記1・2)。闇は自ら進んで淵のおもてを自分の住処にしたのです。神から離れて自分の所在を定めたのです。神から離れて自分の思いの中に閉じ込められてしまったのです。

 神から離れた自分の思いが、すべて幻覚なのです。肉の思いは正真正銘の幻覚です。人間自身がその幻覚を実感しているのです。

 自分の錯覚を自分の実体にしてしまうことが幻覚になるのです。人間はこの幻覚に基づいて生きているから、魂がそれに束縛されているのです。

 自分がその束縛から逃れることはできない。自分という人格が、その錯覚に同意する形で束縛されているから、自縄自縛の形になっているのです。その悪魔の幻覚をいよいよ固くするような形で、神の霊が水の表を覆っているのです。

 神の霊に覆われているので、闇の方からその実体が分からないのです。水の表にある神の霊が分からないのです。神が肉を造ったような形に見えるので、闇は却って自分の思いを強くしているようになっているのです。

 ユダヤ人が闇の立場に立っているのです。その肉の幻覚が自分がいると思う気持ちから、自然的に発生しているのです。

 自分がいると思うことが幻覚の図解であり、また、その目的でもあることになるのです。

 人間は神から離れてしまうと、幻覚の世界に入ってしまうのです。神の思想、神の思惑が信仰です。神の思惑から離れた途端に、人間はおかしくなるのです。その結果、物質があるように見えるのです。

御霊(みたま)を受けても、聖霊を受けても、なお物質があるように思えるのです。御霊を崇めることをしない者は、聖霊を受けていながら、なお肉の世界に生きているのです。御霊を受ける、聖霊を受けるということは、少々専門的になりますので、私の他の著書をご覧下さい。

 これを空破するためにはどうするか。御霊を受けていながら御霊を崇めることができないのはなぜか。御霊を受けた者は、御霊によって考えるという訓練を自分でしたらいいのです。

 その訓練をするにはどうするかと言いますと、御霊を受けたということは、神の約束の認め印を押してもらったのですから、自分は神の子であると確信して、今まで生きてきた自分の気持ちを信じなければいいのです。

 御霊を受けても、今までの自分の気持ちはあるのです。聖霊を受けても、今までの自分の肉の思いはあります。これはなくなってしまわないのです。

 肉の思いがなぜあるのかと言いますと、聖霊を受けてもなお肉の思いがあることが、人間の霊魂の訓練、進歩になるのです。

 聖霊を受けたという事実があっても、自分の気持ちを自分で信じていたら、神の国に入っていけないのです。そこでどうするかと言いますと、聖霊を受けた以上、自分は聖霊を受けたと確信して、今までの自分の思いをなるべく信じない工夫をするのです。

 今までの自分の思いをできるだけ捨てようと思うのです。これを信奉の工夫というのです。心の持ち方、心の使い方を工夫するのです。思い方を自分で工夫するのです。

 心の使い方を工夫することを、御霊を崇めるというのです。御霊を崇めるということは、自分の心を崇めないことです。自分の心を信じないことです。自分の思いはあってもこれを信じないのです。

 自分の思いが山ほどあっても、これを信じなければ自分の思いはないのと同じです。自分の思いを自分で殺すのです。自分の思いはあっても構わない。自分の思いを否定する工夫をするのです。

 今までの習慣で、自分の思いで物があるように思えるのです。これを信じなければ、その人の霊魂にとっては万物はないことになるのです。信じるか信じないかによって、その人の霊魂の状態が変わってくるのです。これを神は見ているのです。

 何処まで信奉の工夫をするか、自分の思いをどのように訓練するのかということによって、神の恵みを与えられることになるし、この人はだめだとなるのです。御霊を与えたけれども、それを崇めないから、神の恵みからはじいてしまおうということになるのです。

 救われるか救われないかは、御霊を受けた後における自分自身の信奉の工夫によるのです。

 私たちは自主人格を持っているのです。自分が工夫しなければいくら聖霊を受けた者でもだめです。受けた聖霊を一人前に育てるか育てないかはその人の心構えによるのです。これが大切なのです。

 これが自分一人でできるようになるまでは、なかなかできません。難しいに違いありませんけれど、これをしなければ一人前にはなれません。

 受けた御霊を崇めるのです。御霊を崇めるというのは、自分の気持ちを捨てることです。今までの肉の思いはあるに決まっていますけれど、それを信じないのです。

 肉の思いをどんどん捨てるのです。変な気持ちとか、ねたみ根性とか、疑心とか、迷い心が出てくるに決まっているのです。人間の根性は疑いや迷いの巣窟みたいなものです。迷いや疑いの巣窟の真ん中で御霊を受けているのですから、御霊を受けた後も迷いや疑いがあるのは決まっているのですが、そういう気持ちを一切問題にしないのです。

 イエスの荒野の試みの所をよく読んでみますと、イエスがどれほど自分の気持ちと闘っていたのかということが分かるのです(マタイによる福音書4・1~11)。

 イエスでも試みられていたのです。試みを受けたけれども、自分の気持ちをどんどん捨てたのです。悪魔の言い分の上を行ったのです。そこでとうとう悪魔は負けたのです。

 人間には肉の思いはいくらでもあるのです。肉の思いの塊の中で御霊を受けたのですから、御霊を受けたからと言って、肉の思いはなくなることはないのです。

 受けた御霊を崇めて自分の気持ちを信じないのです。これを訓練するのです。

 信奉の工夫をするのです。御霊を受けただけではだめです。パウロは自分の肉の思いといつも闘っていると言っているのです。パウロほどの人物でも、自分の肉といつも闘っていたのです。

 神は人間に聖霊を与えたのです。聖霊を与えられた人間は、聖霊によって自分の肉を叩かなければいけないのです。叩き続けなければいけないのです。

 闇は淵のおもてに座り込んだから、神が肉(現象世界)を造ったように見えるのです。ところが、神は肉(現象世界)を全然造っていないのです。

 淵のおもてに座り込んでいる方から見ると、神はわしの思いどおりに肉(現象世界)を造ったと思っているのです。

 悪魔から見ると物質があると思えるのです。悪魔は自分の思ったような現象世界を神が造ったので、これで満足だと思っているのです。満足しているからこの世の王になって威張っているのです。

 ユダヤ人が現象世界があると思っているのです。ユダヤ人は肉の思いで地球を見ているし、肉の思いで聖書を見ているのです。ユダヤ人はこれしかできないのです。ユダヤ人はまんまと悪魔に騙されているのです。

 なぜユダヤ人が悪魔に騙されたのかと言いますと、神が物質を造ったと思っているからです。ユダヤ人は、「我々が信じている神は万物の造り主だ」と言っているのです。また、「地球を造った神を我々は信じている」と言っているのです。「異邦人は地球を造った神が何処にいるか分からないだろう。我々は知っている」と言っているのです。

 ユダヤ人は万物があると思っているのです。これがマルクスの唯物史観に現われているのです。

 結局、生きている間に自分の気持ちをどう使うかということです。永遠の生命を掴まえられるか、御霊を受けていながら、永遠の生命を掴まえられないことになるのか。自分の気持ちの使い方ひとつです。信奉の工夫だけです。

 男は女を食べてしまわなければいけないのです。女は食べてもらおうという気持ちになればいいのですが、なかなかそうならないのです。

 男の信奉の工夫と女の信奉の工夫とは違うのです。女の信奉の工夫は、自分が今置かれている事情境遇の中へ溶けてしまうことです。自分の家庭がある人はその中へ溶けてしまうのです。家庭がない人は事情境遇の中に溶けてしまうのです。

 男は女の態度に習って、神の中に溶けてしまうのです。男と女とは責任が違うのです。神は男を一人前にするために女を与えたのです。男を一人前にすることが神の目的だからです。

 女は自分に与えられている境遇に溶けて消えてしまうことです。一切、疑いや迷いを持たないのです。これが骨の骨の良い所です。

 こういう女の態度が男の模範になるのです。男の光になるために女はいるのです。男の厄介にだけなっていたらいけないのです。女はこれができて当たり前です。

 男はこの世で生きているという必要がないのです。神の国に生きるためにいるのです。神に溶けてしまって神に生きることが男の責任です。

 人間がこの世に生きていたら、物があるように見えるのが当たり前です。それは人間の肉の思いで見えるのであって、肉の思いで生きていたら死んでしまうのです。

 そこで、物があるように見えるという気持ちを捨ててしまうのです。そうすると、だんだん御霊が教えてくれるのです。物があるのではなくて、物があるという気分があるのです。

 パンを食べるとパンがあるように思えます。パンを食べているという気分だけがあるのです。お腹がすいたという気分があるのです。

 人間が生かされているのは気持ちだけです。食べたいという気持ちがあるのです。喉が渇いたという気持ちがあるのです。気持ちだけで生きているのです。これを霊というのです。

 神は物を造ったのではない。物によって色々な気持ちを人間に与えているだけです。神と一緒に考えたら分かるのです。神から離れてしまうと分からなくなるのです。

 神から離れて自分が生きていると思うと、物があるように見えるのです。神によって生きていたら、物がないことが分かるのです。

 イエスはそれに成功したのです。「私の言葉によってあなたがたは既に清くなっている」と言っているのです(ヨハネによる福音書15・3)。「汝ら恐るな、我既に世に勝てり」と言っているのです(同16・33)。

 イエスが世に勝ったのですから、私たちは勝たなくてもいいのです。イエスが勝ったことが、私たちが勝ったことになるのです。

 人間はこの世に勝てないに決まっているのです。自分の肉の思いに自分が勝つことは絶対にできません。

 どうして勝つのか。イエスが勝ったことを信じたらいいのです。イエスが世に勝ったことを信じると、私たちも勝てるのです。世に勝つ方法が分かるのです。

 肉はないのです。人間として肉体があるように思えるからあるのです。人間として考えることが間違っているのです。私たちが生きていることは霊魂であって、霊魂の角度から見ますと、肉体はないのです。これが分かると人間の本能をどのように用いたらいいかが分かってくるのです。

 本能は私たちの肉体ができる前に神が植えたのです。生まれる前に本能があったのですから、生まれる前の感覚で用いなければならないのです。これを生まれた後の感覚で用いるから間違ってくるのです。肉体がないという気持ちで生きるのです。

 私たちができなくても構わない。イエスがそれに成功したからそれを信じたらいいのです。イエスが成功したことが自分の成功だと信じたらいいのです。

 私たちが肉に勝とうと思ってもできないのです。イエスが勝ってしまっているから、その勝利をもらうのです。

 自分が勝とうと思うことはイエスを信じていないことになるのです。「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか」とあります(ヨハネの第一の手紙5・5)。

 イエスを信じて、イエスの命が自分の命であることを信じると、勝手に勝てるのです。自分が勝たなければならないと思ってはいけないのです。

 自分は勝てないのです。自分で勝とうと思っても絶対に勝てないのです。ユダヤ人がこの間違いをしているのです。モーセの掟を自分が実行しようと思っている。だからできないのです。

 私たちはイスラエル人でもないのに、神からこれほど懇切丁寧な指導を受けている。だから、できなければならないのです。できて当たり前です。これで失敗したらよほどまぬけな人か、神の言うことに従わなかったかです。

 自分の思いを信じないで、導かれていることを信じたらいいのです。自分がしようと思ったらだめです。

 女の人は正直で良いのですが、気が少し小さいからすぐに自分の思いで人を裁くのです。導かれていることを信じないで、自分の思いを信じようとするのです。これがいけないのです。

 人間が考えていることは皆幻覚です。幻覚を実感しているのです。現世に生まれて、現世に生きている自分を自分だと思っているのです。これは自分ではない。死んでしまう自分であって、神が造った自分ではないのです。

 幻覚ではない自分は何かと言いますと、イエスが主であることを信じている自分です。これが本当の自分です。

 幻覚を信じているとその人は死んでしまうのです。自分が生きていることは、イエスが生きていることだと考えてしまうのです。

 自分が生きているのではない。イエスが私という格好で生きている。こう思うことがイエス・キリストの花嫁の心がけになるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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