皆様は仕事をしているのですが、何にもならないような働き方をしている人が多いのです。例えば、政治家は政治をしているのですが、何のために政治をしているのかということを知らないで政治をしているのです。日本の政治家はそういう人ばかりです。
なぜそうなるのでしょうか。政治をしているということは、真面目に政治をしているのですから、働いているだけのことが残らなければならない。仕事をしていれば実際の効果がなければならないのです。効果がなければ何にもならないのです。
例えば、ある有能な人が有能な仕事をしているとします。ところが、仕事をしているだけでは何にもならないのです。仕事をして自分で働いて自分で食べているのです。これは立派な働きですけれども、これが間違っているのです。なぜ間違っているのでしょうか。
男が世の中で仕事をするのも、女の人が台所で仕事をするのも同じことです。ただ仕事をしている。そうして、死んでしまうのです。神が分からないからです。
地球を地球としているのが神です。地球をあらしめていることが神です。天地万物があるという状態を造り上げて、私たちの目の前に置いてあるものが神です。
神を認識しないままでいくら働いていても、その人の働きは全く何にもならないのです。空なることです。その人が一生懸命働いて生きても、結局その人の働きは何にもならないのです。
当てなしに働いていたからです。なぜそうなるのかです。ここの所をしっかり踏まえていないと、いくら聖書の勉強をしてもだめです。
ヨハネは言っています。
「私は水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らない方が、あなたがたの中に立っておられる」(ヨハネによる福音書1・26)。
水でバプテスマを授けることによって、知らない方が立っておられるのが分かる。また、知らない方が立っておられるのを見るために、バプテスマを授けるのです。
普通の人がバプテスマを受けるのは、その人が知らない人を見分けるために、バプテスマを授けるのです。
水でバプテスマを受けると、死ぬべき人間が死んでしまうのです。そして、死なない人間が残るのです。水でバプテスマを受けるということは、死ぬべき人間がなくなってしまうことになるのです。
バプテスマというのはなくなってしまうということです。水の中に没入するのです。水の中に没入すると、水のために肉の人間が消えてしまうのです。そうして、消えない人間が残るのです。消えてしまう人間はなくなってしまって、消えない人間が残るのです。
私は水でバプテスマを授けるが、それはあなたがたに死なない人間として残るためであると言っているのです。洗礼を受けるとこうなるのです。だから、洗礼は安直に受けさせるべきではないし、受けるべきものではないのです。
キリスト教の牧師さんはすぐに洗礼を受けさせると言いますが、洗礼は簡単に受けるものではないのです。洗礼を受ける信仰はめったにないのです。
洗礼を受けられる値打ちのある信仰はめったにないのです。
二十六節で、私は水でバプテスマを授けるけれど、皆様が知らないお方が、あなたがたの中に立っているとありますが、一体これは何を言っているのかということです。
水でバプテスマを授けるということ、知らないお方があなたがたの中に立っているとは、何を言っているのでしょうか。
万物は水によってできたとペテロが言っていますが(ペテロの第二の手紙3・5)、水というより水素原子と言った方がいいのです。
地球の九十五%は水素原子によってできているのです。水素原子を水ということもできるのです。万物は水から出て水によって成り立っているというのが聖書の主張です。科学的にもそうなっているのです。
水のバプテスマというものは、ノアの洪水の再現です。ノアの洪水によって万物が全部消滅してしまったのです。
神がノアの洪水を起こしたということは、万物を造る前の状態に返してしまったことと同じ意味になるのです。このことを日本人は全然知りません。ノアの洪水を普通にある洪水と考えてはいけないのです。
水は物理現象の根源です。神は万物の存在状態を水と呼んでいるのです。万物の根源的状態を水という言葉によって書いています。
洗礼を受けるということは、自分の肉体が地球上から消えてしまうというくらいの決心がいるのです。キリスト教に入門、入信する儀式とは違います。神と人との係わりの非常に重大な手続きです。
洗礼は非常に重大な意味を持っていますから、受ける方も受けさせる方も、慎重に考えなければいけないことです。皆様の肉体は聖書的に言えば水です。人間的に言えば肉体です。しかし、肉体は本質的に水です。
肉というのは本質的に言えば水です。水が目に見えるような形で肉になっているのです。
聖書を信じるということは、簡単にできることではありませんが、聖書を本当に信じたら永遠の命を与えられるのです。本当に死なない命の実体が分かるはずです。
本当に死なない命の実体を知っている人は、めったにいないのです。一人もいないとは言えませんが、めったにいないのです。本当に救われて神の前に出るという人は珍しいでしょう。キリスト教が言うように、死んでから天国へ行くという簡単なものとは違うのです。従って、宗教が言っていることは全部嘘です。
聖書に書いてあることは嘘ではないのです。聖書に書いてあるとおりの信仰を持とうと思えば、聖書に書いてあるとおりのことを信じなければならないのです。だから、聖書の勉強はしっかりしなければならないのです。
何回も言いますが、聖書に書いてあることを本当に理解できる人はめったにいません。聖書に書いてあることはそれくらい尊いものです。
聖書は尊いものです。従って、皆様の命はそういう尊いものです。聖書が尊いように、皆様の命も尊いのです。ところが、日本人はこの世に生きているのが命だと思っているのです。
人間は生きているのではない。ただ生活しているのです。生活していることと生きていることとは違います。生きているというのは、霊魂の実体をよく知って、神を理解している状態をいうのです。これが生きていることです。
神が本当に分かっている状態を生きているというのです。
人間が生きているのは神に生かされているのですが、これがなかなか理解できないのです。生かされているということが霊です。神の御霊によって生かされているのです。これがなかなか理解できないのです。
例えば、食物の味が分かるということは大変なことです。これは本当に驚嘆すべきことを経験しているのです。甘いものを食べて甘い味が分かるということが、神の国を経験しているのです。
赤いものを見て赤いことが分かるということが神の国です。色、味、形、香りは神の御霊が造ったものです。神の御霊が造ったものを人間が理解できるということは、人間の霊魂の本質にそれだけの力があるということです。
人間の霊魂の本質は神の御霊の働きを知るだけの力を持っているのです。だから、色の世界が分かる。味の世界が分かるのです。ところが、味が分かるけれども味の本質が分からないのです。
味は魂と関係があるのです。色、形、香りは魂と係わりがあるのです。味の本性が分かるということは、魂が分かっているのです。
味の本質は霊です。霊としての味が人間に全く分かっていないのです。肉でだけしか分かっていないのです。人間が考えている味は肉の味です。霊の味とは違います。
味わっていながら味の本質が分からない。だから、人間は地獄へ行くことになるのです。
生きているということは霊です。甘いものを食べたら甘いことが分かります。これは生きているのです。しかし、甘いことが自分の霊魂にどういう関係があるのかが分からない。だから、人間は甘いものを食べながら霊魂が盲目になっているのです。色々なものを食べて味わっていながら、それが全部無駄になっているのです。
人間は色々な味、色々な形、色々な香りを何十年もの間経験しているのですが、霊魂が死んでいるから何をしているのか全然分からないのです。色々なものを何十年も食べていながら、魂には何の効果もないのです。このまま死んだら必ず地獄へ行くことになるのです。地獄しか行く所がないのです。
肉体人間として生きていたのですから、魂には何の益もないのです。肉体人間は死んでしまいます。後に残るのは霊魂です。霊魂は何も分からない状態で黄泉に行きます。それから、地獄へ行くのです。これは本当に恐ろしいことです。
こういうことが聖書の本当の教えです。霊の教えです。
この世に生まれたのは肉体です。肉体的に生まれたのであって、霊魂が生まれたのではありません。霊魂は神の御霊によって生まれるのです。これを新に生まれるというのです。
イエスは「新に生まれて神の国に入れ」と言っています。肉体が生まれたのは誰でも経験しています。肉体が生まれた者は、魂的にもう一度生まれなければいけないのです。
「水と霊とによって新に生まれて神の国に入れ」とイエスが言っています。これをしなければいけないのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)