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自我意識と現象意識の実体

「我父におり、父我にいます」というイエスの言葉は(ヨハネによる福音書14・10)、聖書を勉強している人は誰でも知っている言葉ですが、これはイエス・キリストの信仰の中核です。土台と言ってもいいでしょう。これがインマヌエルです。インマヌエルの実感がイエスの信仰の基本でした。

パウロは次のように言っています。

 「人の義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によることを認めて、私たちもキリスト・イエスを信じたのである。それは律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」(ガラテヤ人への手紙2・16)。

 イエス・キリストの信仰によるのでなかったら救われない。掟の行いによっては救われないと言っています。私たちもイエス・キリストの信仰に立たなければならない。やはり、「我父におり、父我にいます」というイエスの信仰の根幹、中心とも言えるこの言い方を、そのまま私たちの信仰の中心にしなければならないのです。

 ところが、皆様は「我父におり」という感覚を持っていないのです。御霊を受けていない人にこれを注文することは無理かもしれませんが、御霊を受けていても「我父におり」と考えていない人もいるのです。宗教観念はここからくるのです。「我父におり、父我にいます」という実感がないところから宗教観念が発生するのです。そうなるに決まっているのです。

 宗教観念が発生する原因は、自我意識によるのです。自我意識がなければ、宗教観念は発生しません。自我意識によって自分自身の聖書の見方を造ってしまうのです。これが宗教観念になってしまうのです。自分が見ている見方が信仰だと思ってしまうのです。

 聖書を信じるというのは、聖書の中に私たちの意識が入ってしまうことです。これはなかなか難しいかもしれませんが、自分として聖書に中に入っている人もいるのです。そのために、絶えず信仰を自分で検査するような感覚が必要です。

 パウロは「自ら信仰を吟味しなさい」と言っています。聖書があるから吟味できるのです。新約聖書に基づいて、また、私たちの良心を根幹にして、冷静に、公平に、自分自身の状態を点検してみるといいのです。自分の生活感覚、または、生活感情を冷静に点検すれば、自分の信仰を自分で吟味することは、そんなに難しいことではないのです。

 自分が分かっている所ばかりを読まないで、分からない所を読むのです。はてな、こういうことが書いてあるが、これは一体何であろうかと思う。分からない所があれば御霊に尋ねたらいいのです。

 「御霊よ、どうぞ教えてください。真理の御霊よ、あなたが私たちを導いて真理をことごとく悟らしめる」と聖書に書いてありますが、願わくば御霊よ教えてくださいと言って、頼んだらいいのです(ヨハネによる福音書16・13)。そうしたら教えてくださるでしょう。

 自分の欲によって求めたらだめです。けれど、神の御心に従って、御名によって求めるなら、必ず答えてもらえるのです。早いか遅いかはありますが、必ず教えてもらえるのです。

 自分が分かっている聖書の箇所だけ読んで、分からない所は読まないということがいけないのです。そういう得手勝手な聖書の読み方をしているから、宗教観念から逃れることができないのです。

 宗教観念の根本原因は自我意識です。自我意識が聖書を宗教観念にしてしまうのです。十字架を正しく認識しようとしないのが自我意識です。自分が死んでしまっているのです。これを言われると自我意識が怒るのです。人を裁くのです。そういうばかなことをしているのです。

 腹を立てたり、人を裁いて一番損をするのは自分です。腹を立てている時には、真っ暗になっているのです。人を裁いている時も、真っ暗になっているのです。そういう根性を持っていて、どうして嬉しいのかと言いたいのです。

 どうして十字架を真正面から受け取らないのでしょうか。日々十字架を負えとありますから、そうしたらいいのです。こんな有難いことはない。十字架を負うというのは、何事にも勝って有難いことです。

 自分が良かろうが悪かろうが、おまえの欠点は全部見過ごしてあげると言っているのです。後ろのものを忘れ、昨日までの欠点だらけの自分を全部忘れて、前に向かって進んだらいいのです。

 こんな結構なことはありません。ところが、人間は後ろのことばかりを考えている。自分の立場、自分の信仰を考えている。もし自分が救われなかったらどうしようと考えている。どこまでも自分のことを考えているのです。

 一体、自分が救われると考えて何が嬉しいのでしょうか。自分が携挙されると考える。自分が携挙されると考えたら恥ずかしいことです。こんな状態で携挙されたらどうするのでしょうか。

 肉の思いがたっぷりあって、自我意識がいっぱいです。携挙されたら困るのです。山上の垂訓を一つも実行できないからです。

 実行できないことを知っていて、人を憎んでいる。自分の感覚で自分を催眠しているのです。宗教観念は全くの自己催眠です。偽善です。ごまかしです。嘘つきです。その原因はすべて自我意識です。

 「汝ら心を騒がすな、神を信じ我を信じよ」とイエスが言っています(ヨハネによる福音書14・1)。神を信じる時に、なぜ心を騒がすなと断らなければいけないのでしょうか。

 神を信じる前に、なぜ心を騒がすなと警戒しなければならないのでしょうか。何も言わずに黙って神を信じたらいいのですが、人間はそうできないのです。

 人間は神を信じようとしますと、自分の心が騒ぐのです。なぜかと言いますと、自分の心が肉の思いです。自我意識があるのです。だから、心が騒ぐのです。

 神を信じることは、自我が殺されることになるのです。神は命の主であるが、死の根源でもあるからです。肉の思いにとって、神は死です。霊の思いにとっては命です。

 肉の思いは死であるとひどいことをいうのは神です。だから、神を信ぜよと言われると、心が騒ぐのです。

 神を信じるということは、神において信じることです。自我意識があってはならないのです。ところが、信じると言えば、自我意識で信じると思うのです。

 もちろん信じるのは自分が信じるのですが、自我意識で信じるのではないのです。自我意識と自分とどう違うかと言いますと、自我意識で信じると、自分の利益になるような信じ方をするのです。

 自我意識ではない信じ方は、自分の利益になってもならなくても、神が真理でいますから信じるのです。

 これは自分にとって不利益である場合がずいぶんあるのです。例えば、「自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従いなさい」とイエスが言っています。これは自分にとってあまり嬉しいことではないのです。

 神を信じるというのは自主人格で信じるのではないのです。人称人格で信じるのです。自主人格で神が信じられるはずがないのです。ところが、宗教観念がある人は、自主人格で神が信じられると思っているのです。

 自主人格で神は絶対に信じられません。人称人格で信じるのです。

 人称人格というのは、現世において命を経験させられている人格です。全く公平無私の人格です。

 人間の魂には三つの特殊意識があるのです。第一は生命意識です。第二は自分という人格意識です。第三には物がある、現象意識という意識です。ところが、この三つの意識は神の恵みです。

 生命意識とは何か。生きているという意識です。これを肉の思いで受け取ると、現世に生きている肉の命が命だと思い込んでしまうことになるのです。そうすると、命を取り違えてしまうのです。

 命というのは現世に生きていることではありません。現世に生きているのは、本当の命ではなくて仮の命です。だから、生きていながら命を知らないことになるのです。

 生きているというのは命の半面です。死がなければ生きていることはありません。生という面と死という面が裏表になって張り付いている状態を、命というのです。

 生きていることが命ではない。生きているという面と、死ぬという面との両面が張り付いているものをひっくるめて、命というのです。

 私たちは現在生きていますが、生きているということは瞬間瞬間、死につつあるのです。瞬間瞬間、死につつあるという事実がなければ、今ここに生きているという事実もないのです。

 死につつあるという事実が裏打ちしていればこそ、生きているという事実があるのです。そこで、私たちはこうして生きているのです。道元禅師はこのことを生死(しょうじ)という言い方をしているのです。生を明らめ死を明らめることが、命を知ることになるのです。

 命は厳密に言いますと、生まれてくる前の命と、現世の命と、現世を去った後の命とがあるのです。この全体を流れているのが命です。

 今生きている命だけに捉われすぎると、肉の思いになってしまうのです。逆に言いますと、肉の思いで命を考えるから現象意識になってしまうのです。だから、マイホームとか、長生きをしたいと考えるのです。そうして、死んでも命があるという宗教観念を造るのです。

 死んだら天国へ行くというのは宗教観念です。欲に従って神を信じているのです。

 その次に自分という意識です。これが神にかたどりて人間が造られていることの証明になるのです。

 ゴリラは人間とよく似ていますが、私という意識を全く持っていません。私という意識は元々神だけが持っている意識です。これが人間に植えられているのです。これを神ご自身の意識が植えられていると考えることによって、自我は消えるのです。

 自我意識を消そうと思ったらどうしたらいいのか。これは神自身の意識であるから、これを自分の意識のように勝手に振り回すべきではない。神の御心を行う者だけが用いるべきだということに気が付けば、自我意識は消えるのです。そうして、人称人格だけになってしまうのです。

 自分が救われたいと考えること、自分が幸せになりたいと考えること、自分の気持ちを分かってもらいたいと考えることは、すべて自我意識です。主我意識です。自主人格です。こういう考え方は神に逆らう考え方です。

 父なる神は最高のお方ですから、自分が救われたいとか、自分が幸いになりたいということを考えるはずがないのです。

 神は神自らであって、神自らであることを良しとしたもうのですから、人間に神の人格が与えられているとすれば、現在おかれている立場が、そのまま満足そのものでなければならないのです。平和そのものでなければならないのです。

 ところが、自分の心に波風があり、自分を誰かに売り込もうと考えたり、救ってもらおうとしている。こういうことは神ご自身の人格を与えられているのではありません。他の人格を自分が持っているのです。つまり、悪魔の人格を持っているのです。

 悪魔は絶えず不平と不満の中にいるのです。いつもいらいらしているのです。自主人格を持っている人は、皆この意識を持っているのです。この悪魔の人格である自分が救われたいと考えるのです。ばかなことをしているのです。

 二つ目の物があるという現象意識は何かということです。物があるという意識を与えておかないと、神のやり方、神の愛、神の裁き、神の言が聞こえないのです。聞こえないから物があるという意識を人間に与えているのです。

 ところが、本来、物質は存在していない。時間が全然ありませんから物はないのです。

 物質は絶対存在していない。理論物理学の理屈を引っ張り出すまでもなく、物質は存在していないに決まっているのです。

 聖書は、「神が無きものを有るかごとくに呼んでいる」と書いています(ローマ人への手紙4・17)。無きものを有るかごとくに呼んでいるという言(ことば)の働きがあるだけです。

 神が呼んでいるという言の働きがあるだけです。それを、人間は物質があると考えているのです。

 有りもしないものをどうして有ると考えるのか。これは神にかたどりて造られた人間に、神が呼んでいるという気持ちが、そのまま植えられているからです。有りもしないのに有るという感覚が植えられているのです。神にかたどりて神のかたちのように人を造った。そのとおりになっているのです。

 サタン(悪魔)が持たされていたのと同じ栄光を、人間は持たされているのであって、これを自分のものだと思う時に、人間はたちまちサタンになってしまうのです。

 そこでこの三つの意識、即ち、生命意識、自分という意識、現象意識を神に返上するのです。

 これは元々神の御心から人間に植えられたものです。鼻から命の息を吹き込まれたことによって、三つの意識が発生したのです。これがリビングソール、生ける魂です。

 父ご自身の意識をそのまま子に与えたのです。皆様は神の子です。父ご自身が持ちたもう意識を、命の息として子に与えたのです。これが神にかたどりてという事実を指しているのです。

 一体、この三つの意識は何のために与えられたのか。これは海の魚と、空の鳥、家畜、地のすべての獣、地のすべての這うものとを治めるためです。この五種類の命を治めるためには、三つの意識がどうしてもいるのです。

 人間が万物を支配するため、王なる意識を持つためです。そのためには、この三つの意識がどうしてもいるのです。この三つの意識がなければ、王にはなれないのです。

 この三つの意識を人間に与えて、王となる素質を与えたのです。同じものを与えられていた悪魔はそれを逆用した。その結果、神に反逆したのです。私たちはそれを逆用してはいけないのです。神に自分自身を捧げて、御心に従って歩まなければいけないのです。

 イエスは罪人の形をとって世に来た。罪人の形というのは、実感的にも、思想的にも、現在の人間(罪人)と寸分違わない形をとって来たという意味です。

 イエスは罪人の形をとっただけであって、内容的には罪人ではなかったと、キリスト教の人々は考えるのです。ただ罪人の形をとっただけだ。罪人の形にカモフラージュした、擬装しただけだとキリスト教の人々は考えているのです。

 もしそうであれば、キリストの贖いがインチキになるのです。表面上は人間であるが、中身は全然違うということになるのです。こういう感覚をキリスト教の人々は持っているのです。

 イエスは生まれた時から神の子であって、罪に勝つ力を初めから持っておられた。だから、イエスは罪に勝つのは決まっていたと考えるのです。そんな不公平なことを神がなさるはずがないのです。

 イエスと私たちは、長子であるか、次男、三男の違いであるかということだけです。兄弟の序列の違いがあるだけです。人間としての感覚、営みには少しの違いもないのです。

 罪の形をとったという言葉は、神の言であるものが、肉体をとらされたという神の特別の御心によって、そのようにさせられたことを意味するのです。

 地上にいる以上、好むと好まざるとに係わらず、肉体の感覚を持たざるを得ない状態におかれた。肉体の感覚を持たざるを得ない状態におかれたということは、罪の下におかれたことを意味するのです。

 罪の下におかれていても、罪に従って歩むか歩まないかは、本人の信仰次第です。その点がイエスと私たちとの違いだったのです。

 そこで、生命意識、自我意識、現象意識の三つは、現象人間にとっては決定的なウイークポイントになるのです。決定的な弱点になるのです。肉の思いがこの三つの形になって現われているからです。

 ところが、この意識をこのまま裏返すと、神の子であるという自覚に繋がっていくのです。つまり、この三つの意識の下におかれていれば、三つの意識が肉の思いになって魂を振り回すことになるのです。

 信仰によって見ますと、この三つの意識がその人の魂を助けることになるのです。魂がこの三つの意識に下におかれるのと、魂がその上におかれるのとでは全然違ってくるのです。この三つの意識は魂を助けるためにあるのです。

 人間が罪の下に閉じ込められたのは、すべての人を哀れむためです。すべての人を救うためです。そこで、神の御心に従って自分の魂を見ると、神の哀れみになってくるのです。罪の下に閉じ込められていることが、哀れみに変わってしまうのです。

 もし人間に罪がなかったら、命の実体が分からないのです。

 アダムが陥罪する前には、死ななかった。だから、命が分からなかったのです。命が分からなかったから、命の木の実を取って食べようという気がしなかったのです。ただぽかんとしていたのです。もしアダムが命の木の実を取って食べていたら、彼は陥罪しなかったでしょう。

 神はアダムに「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言われた(創世記2・17)。

 ここには命の木がないのです。なぜか。善悪を知る木はあります。しかし、命の木に関しては何も言われていないのです。これはどういう訳か。

 死を経験していない者には、命が分からないのです。仮に命の木があったとしても、それを取って食べようという気がしないでしょう。アダムは死なない状態におかれていたのですから、死なない人間が命の木の実を食べるはずがないのです。

 命の木の実を食べなければならないのは、死ぬ状態になっているからです。死ぬ状態になって、あるいは死ぬ可能性がでてきたら、命の木の実を食べたいと思うのです。

 死なないに決まっている者が、なぜ命の木の実を食べるのか。神の警告には命の木の実が含まれていないのです。

 ところが、罪を犯して死んでしまった途端に、命の木の実がクローズアップされてきたのです。彼は罪を犯したままで命の木の実を取って食べるかもしれない。そこで、回る炎の刀が回り出したのです。

 人間が罪を自覚しているということさえも、神の哀れみです。死が分からなければ命が分からないからです。犬や猫には死が分からない。分からないから命が分からないのです。

 現象意識、自我意識は肉の思いに決まっていますが、肉の思いが分からなければ、霊に従いて神を信じることができないのです。

 肉の思いが死である。肉の思いが死であるから霊の思いが命です。もし肉の思いが死でなければ、霊の思いは命になりません。

 裏があることは表があることを証明しているのです。裏と表の両方を知って、初めて裏表が分かるのです。一枚の紙の裏表がはっきり分かって、一枚の紙を完全に認識したことになるのです。

 万物の霊長はそれができなければいけないのです。今の人間にはそれができていない。生きていながら命が分からないのは、死が分かっていないからです。表が分かっていて裏が分からないというのは、表さえも分かっていないことになるのです。

 人間は生かされていることを生きているのです。生かされている事がらがあるから、生きていることがあるのです。これが神を信じていることです。

 生かされているということは、神的事実です。ところが、人間は自分が勝手に生きていると思っている。自分が生きていると思っている。実は、神に生かされているのです。生かされていることを生きていると思っている。これは無意識に神を信じているのです。

 現象意識も同様です。現象世界があるものだと信じているが、実はないのです。ないものをあると信じているのです。ないものをあると信じていることは、神の信仰を持っているということです。人間が神の信仰を持っているのです。現象意識は肉の思いではなくて神の思いになるのです。そこで、私たちは神にかたどりて造られているという御言葉を、よくよく思い起こすべきです。

 善悪の木とは何か。これは実は命の木でもあったのです。ところが、人間の思いが善悪の木にしてしまったのです。しかし、神は善悪の木の実を取って食べるなと言っている。神はその時のアダムの心理状態をそのまま言っているのです。

 アダムから見れば善悪を知る木に見えるのです。命の木を命の木として見ないからです。罪を犯していない者には命の木とは見えないのです。善悪を知る木ばかりが見えるのです。そこで、神はアダムに分かりやすいように、善悪の木の実を食べるなと言ったのです。

 ところが、実は善悪の木はなかったのです。命の木しかなかった。善悪の木はアダムの中にのみあったのです。園の中央に一本の木があったのですが、それは必ずしも善悪を知る木ではなかった。命の木にもなり、善悪の木にもなったのです。

 新約時代の現在では、肉の命はもはや存在していないのです。

 第一のアダムの時代は終わった。罪人の時代はもう終わってしまったのであって、今見えている所の地上の状態は、聖霊が降臨しておられる神の国です。

 そこで、肉の思いによって生きていることは許されない時代になっているのです。肉の思いで生きていてはいけないのです。

 現象意識も神ご自身の信仰だと思って生きればいいのです。神がなきものをあるがごとくに呼んでいたもうという意識が、自分の中にある。神にかたどりて造られた神の子だから、神の意識がそのまま与えられていると思えばいいのです。

 そうしますと、物があるということ自体が、神の御名を見ていることになるのです。神の働き、神の御名の働きを、現在、物として見ていることになるのです。

 これを人間は物理現象と呼んでいるが、物理現象というのは、実は神の御名の働きです。

 それを人間は単なる物理現象、単なる物体として見て、神の御名を崇めない。神の信仰で見ていない。現実に現象意識を持っていながら、これが神の信仰だということに気が付かない。そこで、死んでしまうのです。

 神の信仰を与えられ、神と同じ感覚で見ていながら、それを神の信仰、神の感覚と思えない。そこで、地獄へ行かなければならないことになるのです。

 人間は生かされている状態を生きていると思っています。生きていると思っているのは、神を信じている証拠になるのです。ところが、神を信じていると思わないで、自分が生きていると考えている。現象意識は自分の意識だと思っている。これは皆間違っています。

 記憶力も、推理力も、判断力も、神ご自身の意識です。神の機能です。神の機能が人間の格好で生きているだけです。

 それを自分が生きていると考えている。自分が暗くなったり、自尊心を持ったりしている。これは真っ向から御霊の恵みを侮っているのです。御霊の恵みに敵している。受けるべき刑罰がどれほど重いかを知っておけと神は言っているのです。生ける神を、毎日、毎日、汚しているからです。

 聖書を知らずに御霊の恵みに敵している人は、良心の悩みを受けませんが、聖書を知って御霊を受けた人が神に敵したら、どれ程の刑罰に会うか。奈落の底の一番恐い刑罰に会うのです。

 天にまで上げられたカペナウムが、黄泉(よみ)に落とされる。御霊を受けた者はイエスの御名の住み処になっている。それがイエスの御名を軽んじることになると、受くべき刑罰がどれほど重いかです。

 現象世界には既に神の御霊が下っています。もしこの事実がなかったら、新約聖書が分かるはずがないのです。新約聖書が分かるということは、十字架によって古き人は既に死んでいる。これが御霊が下っている証拠です。

 御霊が下っておいでになるとすれば、神の国になっているに決まっているのです。今年が二○一九年であることが分かればいいのです。

 何回も言いますが、私たちは現在生きていると思っていますが、その内容は神に生かされているのです。そうすると、私たちは無意識に神を信じているのです。

 生きていることもそうですが、現象意識もそうです。自我意識でさえも神ご自身の意識であって、人間にそんな意識があるはずがないのです。

 ところが、私がいると思っている。無意識に神の意識を持っているのです。これは神を信じていることを意味しているのです。

 それと知らずに自我意識を振り回していることになりますと、悪魔になってしまうのです。だから、自我意識でさえも父の子であるという印になるのです。父の子であるという印に、自我意識が与えられていると思えば、これは有難いのです。

 自我意識を肉に従って用いないで、霊に従って用いたらいいのです。そうすると、人称人格になるのです。自我意識を霊に従って用いればいいのです。そうすると、父の経験になるのです。これは万物を治めるための基礎的な意識になるのです。

 自我意識、現象意識という生命意識がなかったら、もろもろのものを治める王にはならないのです。

 もろもろの王になるためには、どうしてもこの意識が必要です。しかし、この意識の使い方を知らなければいけないのです。肉のままでこれを使っていれば悪魔になるが、霊の思いに従ってこの意識を用いれば、命にありて王となることができるのです。

 自分の主観的な意識を、客観的な意識として受け取るのです。自分自身の意識として受け取らないで、神からのものとして受け取るのです。栄光を神に帰するのです。そうすると、神を信じている自分が分かってくるのです。

 自我意識でさえも神の意識だということが分かってくると、自我意識で生きている自分は神の子であって、尊いものだということが分かってくるのです。そうすると、自分を拝むことになるのです。

 人間の能力は一切人間のものではありません。父(神)のものです。父のものであるに決まっているのです。これを絶えず思い続けるのです。そうすると、自尊心というばかなものは消えてしまいます。これを十字架を負うと言うのです。

 新約時代の現在は、古き人は死んでしまって、新しい人ばかりが生きているのです。

 新しい人とはどんな人か。パウロは、「真の義と聖とを備えた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである」と言っています(エペソ人への手紙4・24)。

 神にかたどりてとは自我意識です。これを神からのものとして受け取るのです。生命意識です。これはすばらしい意識です。肉の思いを捨てたらいいのです。自分の自尊心を捨てたらいいのです。

 十字架を信じて、古き人が死んでいることをはっきり認めて、古き人を脱ぎ捨てさえすれば、私たちはこのままではっきり携挙(けいきょ)されるのです。

 そうすると、イエスが生きておられたことと同じ状態になるのです。私たちは今、そのような経験をさせられているのです。これを魂の経験と言います。

 地上で、主観的意識を客観的意識に切り替えて見ることができるようになったら、魂の経験が完成することになるのです。

 これを顕在意識で確認するのです。毎日生きている事実を通して確認するのです。頭で分かったというだけではだめです。生きているという事実を通して確認するのです。

 そうすると、生命意識、自我意識、現象意識がそのまま魂の働きであって、魂が霊の働きとして自分の内にあるのです。そうすると、生まれる前に父の元にいた魂の状態が復活するのです。

 心を更えて新にすれば、この身このままで神の御子であることが分かるのです。そのような感覚で生きることが、生まれる前に父の元にいた時の感覚です。これが復活です。

 そこでイエスは、「私は甦りであり、命である」と言ったのです。私は復活であると言っていたのです。

 自我意識は神の意識である。現象意識は神の意識であることを確認する時に、私たちは復活するのです。

 同時に、古き人はなくなっています。前の人はなくなって、後の人が立てられたということを実感して生きる時に、その人は生まれる前の状態に帰っているのです。生まれる前の状態に帰っているから、私はこの世を去っていくと言えるのです。

 この世を去ってもかまわない。元に帰るだけです。天にいた時の状態が分かっているから、天に帰るのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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