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  • 管理人miwa

はじめに

聖書に、「汝らまず神の国と神の義を求めよ」とあります(マタイによる福音書6・33)。その後には、「そうすればこれらのものはすべて与えられるであろう」とあります。これらのものとは、衣食住に関するすべてのものということです。人間は現世に生きています。

毎日、何を飲み、何を食べようかと思い煩っているのです。神の恵みによって、大体、人間は衣食住を保証されています。飢え死にする人はめったにいませんけれど、それで、人間は満足しているのかというと、そうではないのです。

求めずにはいられないものが、神の国と神の義です。求めずにはいられないのはなぜかと言いますと、衣食住だけを熱心に求めていても、それで自分の心に喜びがあるわけではないからです。

 衣食住のために一生懸命に働くことを、人間の本心は良しとしないのです。人間の本心はそれに同意しないのです。

 ところが、イエスは命のために思い煩うなと言っているのです。なぜなら、人間は現世に生まれたいと思って生まれたのではない。現世における命や体のことについて、自分が責任を持たなければならないと思うのがおかしいのです。

 自分が生まれたいと思って生まれたのでもないのに、この命と体がここにある。この命と体のために思い煩わなければならないことがおかしいのです。自分がそうして欲しいと願ったことなら、自分が責任を負わなければならないのです。

 ところが、自分が望んでもないのに生まれたとすれば、自分がそれに責任を取らなければならないと考えるのは、どういうことでしょうか。生まれた後の後天的な意識が、自分が何とかしなければならないという妄念を勝手に抱いているのです。

 人間が思い煩わなければ食べられないと考えることは、思い煩えば食べられるということになりますが、人間が思い煩って太陽が輝くのでしょうか。思い煩って地球が回るのでしょうか。

 私自身も若い時には、自分で生活の責任を持たなければならないと思い込んでいたのです。「神の国と神の義を求めなさい。そうすればすべてのものは与えられる」という聖書の言葉を、若い時から知っていましたが、なぜそうなるのかについて合点がいかなかったのです。神の国と神の義を求めたら、必ず生活が保証されるという原理が分からなかったのです。

御霊(みたま)を受けた後も、このことがもうひとつはっきりしていなかったのです。しかし、その後にこの原理をはっきり教えられて、今はこれを詳しく説明できるのです。

 ここでまず言いたいことは、人間は自分で生まれたいと思って生まれたのではないということです。従って、自分の生活について自分が責任を負わなければならないと考えることが、全く無用の雑念である、人間の妄念であるということです。

 そういうことを考えること自体が、罪から救われていないことを証明しているのです。自分で働かなければ生活できないと思っていること自体が、十字架を信じていないことを証明しているのです。

 そんな考えを持っていたら絶対に携挙(けいきょ)されません。それなら神の国と神の義を求めたら、本当に生活できるのかと言うでしょう。聖書の言葉が果たして本当なのかということです。

 イエスが言っている以上、必ず実行されるのです。どのような原理において実行されるのかということです。もし疑いがあるなら徹底的に、とことん神にアスクすべきです。神に問いただすべきです。

 皆様はこういうことをとことん神にアスクしようとしていない。ノックしようとしていない。アスク(ask)していない。シーク(seek)していない。ノック(knock)していないのです。

 「求めよ、尋ねよ、門をたたけ」とイエスが言っていますが(マタイによる福音書7・7)、これをしていないのです。アスク、シーク、ノックをしていないのです。この状態で聖書が分からないとか、働かなければ食べられないと言っている。

 働かなければ生活できない、働かなければ食べられないと言って御霊を求めてもだめです。そういう根性が神に反しているのです。

 何を着て、何を飲み、何を食べようと思い煩わなくてもいいということは、働かなくてもいいということではないのです。聖書には働かなくてもいいとは書いていないのです。

 空の鳥は、まくことも、刈ることも、倉に取り入れることもしないと書いています。人間は仕事をします。鳥は餌を探すために飛び回っています。鳥は鳥なりに働いているのです。そういう形で働いているのです。

 人間は電話をかけたり、人と商談をしたり、商品を仕入れたり、販売をしたりしています。

 鳥はまかず、刈らずですが、働いています。動物は自分で餌を探しに行くのです。

 人間は働くことによって、神の国と神の義を求めることができるのです。対人関係とか対社会関係によって、神の国と神の義を求める縁になるのです。こういうものがなかったら、神の国と神の義を求めることができないのです。しかし、これは思い煩うことではありません。神を信じたら生活は絶対安全です。

 異邦人は自分で働いているつもりです。神に生かされているとは思っていません。自分で生きているつもりですから、頑張らなければならないと思っているのです。

 神を信じてすべてを委ねることをしないのです。神に従って働くことをしないのです。働かなくてもいいというのではありません。神に従って働けば、思い煩うような苦しみ、嘆くような働き方をしなくてもいいのです。

 明るく愉快に神を褒めながら働けるのです。ところが、それをしないのです。神の御名を褒めながら働かないで、自分自身の腕前を信じて一生懸命働いているのです。だから、重荷は全部自分で負わなければならないことになるのです。

 こういう働き方はやめてください。自分の霊魂に関する責任、生活に関する責任は自分が負わなくてもいいのです。霊魂に関する責任は既に神が負っていてくださる。この神の処置に気が付けばいいのです。神の処置に気が付けば勝手に御霊が与えられるのです。勝手に携挙されるのです。神の国と神の義を求めるなら、勝手になくてはならぬものが与えられるのです。

 神の国と神の義を求めよという言い方は、まず第一にユダヤ人に対して言っているのです。ユダヤ人は異邦人のように現世を本番にするなと言っているのです。

 現世を本番にするなということは、この世界の中に目に見えないもう一つの国があることを、イエスが教えているのです。

 目に見えないもう一つの国とは何か。私たちの目に見えている現象世界は可視光線の世界だけです。

 太陽の反射作用によって人間の目に映っているのは、虹の世界だけです。虹において現われている七色の世界だけです。その世界だけは人間の肉眼で見えるのです。

 紫外線の外側は一切見えません。赤外線の外側も一切見えません。紫外線と赤外線の中だけ見ているのです。外側の無限の世界は全然見ていません。

 音も同様です。ちょうど人間の鼓膜に相応する程度の音しか聞いていないのです。大きすぎる音と小さすぎる音は一切聞いていません。

 地球が回転している音はものすごく大きな音のようですが、大きすぎて全然鼓膜に入らないのです。

 人間の周囲には色々な音が飛び交っているのですが、心理作用によって必要な音だけを聞いているのです。

 そうしますと、私たちの目に見えない世界がたくさんあるのです。また、耳に聞こえない音がたくさんあるのです。目で見たり、耳で聞いたりしている以外に、無限の宇宙が展開しているのです。無数の宇宙線が地上で飛び回っているのですが、人間には感覚できないのです。

 実はそういうものによって木の葉が青くなるのです。花が咲いているのです。それが全然目に見えないのです。

 目で見ている世界は現象世界です。しかし、目に見えていない膨大な世界があるのです。これが最も手近な方法で証明ができるのが神の国です。

 死ぬということは現象世界から去るだけです。現象世界から去って何処へ行くのか。何処へも行かない。此処にいるのです。

 そういうわけであって、人間は現実に神の国があることを冷静に判断するとすぐに分かるのです。こういうことについての予備知識として、自然科学を用いたらいいのです。

 ところが、自然科学者は可視光線と不可視光線をよく知っていながら、神の国が存在することを全然信じていないのです。これは実に非科学的な頭です。可視光線と不可視光線があることを知っていながら信じていないのです。非常に不合理な考え方をしているのです。

 不可視光線の世界がそのまま神の国であるというのではありません。パウロはこれについて、「見える所のものは見えないものからできている」と言っているのです。

 へブル人への手紙の十一章三節では、「現われているものは、現われていないものによってできている」と言っています。「もろもろの世界は神の言葉によって組み立てられている」と言っています。「フレームされている」と言っています。

 考えてみたら分かることですが、花が咲いているということでも、一輪の花が咲くためにはあらゆる意味での地球的、万物的、森羅万象的合理性が存在しなければならないのです。

 地球の森羅万象的合理性というものは、大宇宙のあらゆる意味での合理性が地球に集結されたことによって発生しているのです。銀河系宇宙の合理性、大宇宙全体の合理性、目に見えるもの、目に見えないものの一切の合理性が働いて、地球の森羅万象を造っているのです。

 森羅万象はあらゆる意味での合理性をさらに造っているのです。そうして、一輪の花が咲いているのです。一輪の花が咲くということ自体が、宇宙のエッセンスのようなものであると考えられるのです。

 そのような超合理性が現実にあるということは想像できるのです。不可視世界があるというような簡単なことではなくて、このような万物の相互作用、相乗作用、相関関係が間断なく行われているのです。

 このために花が咲き、鳥が歌い、緑が緑であり得るのです。人間が呼吸できるのです。ここに神の国がなければ、人間が鼻の穴から空気が出し入れできるはずがないのです。

 また、人間の食べ物、飲み物が間断なく造られているのです。全世界の人間が食べたり飲んだりしていることが、毎日毎日保証されているのです。この絶大、無限の大合理性を神の国と呼ばずに何と呼んだらいいのでしょうか。

 地球全体を神が養っているのです。この神が人間の一人や二人を養えないのでしょうか。何を着て、何を食べようと思い煩うことは全く笑止千万、猪口才千万と言わざるを得ないのです。

 考えなければならないことは、人間は現世に生活するために生まれてきたのではないということです。

 まず人間の魂が現世に送り出された。これは私たちの意志に係わりなく、神の処置として一方的に送り出されたのです。

 現世において生きるために送り出されたのではないのです。この世へ送り出されたのは、親が子供を学校へ入れたようなものです。そうすると、学校で何かを勉強させて、そこを出ることによって何かの働きを期待しているのです。

 神が人間をこの世へ送り出したのも、この世という学校へ入れたのです。何を期待してか。ここで何かを学ばせようとしているのです。神とは何か。悪魔とは何か。善とは何か。喜怒哀楽とは何であるか。利害得失とは何であるか。人間の罪とは何であるか。救いとは何であるか。真理とは何であるか。嘘とは何かを具体的に私たちに経験させるために、この世へ送り出したのです。

 これを勉強すればいいのです。神の国と神の義を求めるということは、それを勉強することです。

 現世で誤解されたとして失望落胆する必要はないのです。誰かに良く思われたいとか、世間に認められたいとかを考えなくてもいいのです。

 現世ではただ経験すればいいのです。何の経験か。何が善で何が悪かを経験すればいいのです。

 神が善にして全きことを弁え知ればいいのです。神は喜ぶべきものであり、また完全なお方であることを弁えさえすればいいのです。

 逆に言いますと、皆様の心が本当に喜んでいることは何か。皆様の魂が本当に喜ぶこと、皆様の魂が完全であることを願っていること、皆様の気持ちが善なるものを求めていること、これは無意識に神を求めていることです。

 皆様の魂の本性は神を求めてやまないのです。自分の魂が求めているものはそのまま神です。

 そのことを皆様の魂は知っているのです。神の国と神の義を求めよと言わなくても知っているのです。そうして、神の国と神の義を求めるなら、神は改めてその人の衣食住の一切を引き受けたと言っているのです。神の国と神の義を求めない者にさえも、神は義なるお方ですから、衣食住を全部与えているのです。

 異邦人は、現世に生きることが目的だと思い込んでいるのです。だから、現世に生きることに一生懸命です。これは神の国にふさわしくない人です。

 私たちは現世に生きるためにあくせくしているのではない。神の国と神の義を求めるために、今生かされているのです。

 神の国と神の義を求めよという言葉の中に、必然的に現世以外に国があること、現世以外に住み処があることを教えているのです。

 だから、現世における利害得失は本当のものではないのです。現世に対して赤目をつり上げて一生懸命になる必要はないのです。

 真面目に生きなければいけないのですが、心から疲れるほど仕事をする必要はないのです。もっと余裕綽々と生きればいいのです。

 余裕を持って現世に生きていないと、神の国と神の義を求めることができないのです。いつでも心に余裕を持って頂きたいのです。焼きもちをやいたり怒ったりしていたら、神の国を求めることはできないのです。

 そうすれば、生活は絶対に保証されるのです。神が人間をこの地上へ送り出した以上、神が人間を養わないで放っておけるのでしょうか。愛なる神として人間に食べさせないでおけるのでしょうか。

 花を見せたり、鳥を鳴かせたり、緑の木々を見せたり、大自然の美しさを見せているのです。

 人間は可視光線の外に不可視光線の世界があることが分らないのです。私たちは見えないものに対して、目を注がなければならないのです。そうすると、見えるようになるのです。

 見えないものが見えてくるのです。「心の清い者は幸いである。その人は神を見ることができるであろう」と言っています(マタイによる福音書5・8)。

 神が見えてくるのです。神の声が聞こえるのです。神が人と共にいまして、時と場合によって神が声をかけるのです。生ける誠の神は共にいるのです。

 イエスが「汝の栄を現わしたまえ」と祈ったら、「われすでにわが名の栄を現わしたり」と答えられたのです。雷のような声が聞こえたのです。そういう神なのです。

 皆様の魂は神の声を聞くに価する値打ちがあるのです。ちょっと自惚れてもいいのです。

 とにかく、現世は社会制度がどう変わっても、政治経済の形態がどうなろうが、この世から矛盾は絶対になくなりません。

 神がこの世に矛盾があるように仕向けているのです。矛盾がなければ訓練にはならないからです。わざわざ矛盾を置いているのです。

 この世が矛盾しているという点からだけ考えても、現世は本番ではないことが分かるはずです。そこで、現世において利害得失を論じないで、来世に望みを置くのです。これが神の国と神の義を求める基本精神になるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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