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  • 管理人miwa

この世の人間は皆死んでいる

人間は現世があると思っている。自分が生きていると思っている。

これは嘘です。肉の思いの人間がそう思っているだけです。

旧約聖書の創世記にある記事ですが、人祖アダムは神から、園の中央にある善悪を知る木の実を絶対に食べてはいけないと言われたのに、食べてしまった。その結果、三位一体の神の一人のようになって、善悪を知ることになった。

この状態でとこしえの命を掴まえると、人間は完全に悪魔になってしまう。これをさせないために、人間をこの世という世界へ送ったのです。

この世は神の世界ではなくて悪魔の世界になっているのです。悪魔の世界というのは、本当の世界ではなくて嘘の世界です。

 この世に生きている人間は必ず死んでしまいます。死んでしまうと神を信じることができなくなるのです。神とはどういうものかが分からなくなるのです。

 何のために生まれてきたのか。それが分からないままで、やがて死んでいく。これは全く何にもならないのです。

 実はこの世に生きているということが、死んでいることです。人間は生まれてくる前に、園の中央にある善悪の木の実を絶対に食べてはいけないという神の忠告を破って食べてしまった。だから、人間の霊魂はその時死んでしまったのです。

 霊魂が死んだので、箸にも棒にもかからないものになってしまった。そこで、地球へ追放されたのです。だから、いくら勉強してもだめです。人間の勉強は死んでいくに決まっている人間の勉強であって、神をまともに勉強しているのではないのです。私がいくら熱弁をふるって聖書の説明をしても、それを聞いただけでは救われません。

 私たちが聖書を信じるためには、地球が何のためにあるのか。人間が何のためにいるのかという勉強を先にしなければならないのです。これは難しい勉強です。普通の人が勉強しても分からないことです。分かろうとする燃えるような熱意を持っていないからです。

 何のために地球があるのかということが、聖書の根本原理になっているのです。

 「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあった」とあります(創世記1・2)。闇が淵のおもてにあったので、神の霊が水のおもてに働き出した。これが現象世界ですが、これは電子が原子核の回りを回っているということによって成立している現象です。もし闇が淵のおもてになかったら、神の霊は水のおもてに働かないのです。従って、地球もできなかったのです。

 地球がある、この世があると思っていることが嘘です。悪魔がこの世にはびこっているので、あるように思える世界を神が与えているだけです。電子の運動が物質現象のように見えるだけです。

 この世に生きている人間は肉の思いで生きているのですから、神から見れば死んでいるのです。

 この世に生きている自分を捨てようという心理状態にならない人は、地獄へ行くしかないのです。人間がこの世に生まれてきても、何のために生まれてきたのかということが分らないままで死んでしまいますと、命は分からないのです。

 この世に生きている人は、命が分からないままで生きているのです。お金儲けをしようが、子供を育てようが、どれだけ社会に貢献して尊敬されようが、命には関係がないのです。

 命とは何か。本当の命を知ることによってだけ、命が分かるのです。ところが、本当の神が分からない。なぜ分からないのかと言いますと、人間が生きているからです。人間が生きていると神は死んでいるのです。

 命とは神のことですが、それを人間は自分が生きていることが命だと思っているのです。ところが、自分が生きていることが命ではなくて、自分が死んでしまうことが命です。自分が死んでしまうことを勉強するために聖書があるのであって、自分が救われるとか、自分が幸せになるために勉強するのではないのです。

 自分が救われても仕方がない。命を知らない者が天国へ行っても仕方がないのです。

 聖書の勉強をいくらしても、命の勉強にはなりません。聖書の理屈の勉強をしてもだめです。それは命を掴まえるための下拵えにすぎないのです。

 神がこの世を造ったのは、悪魔が強く願ったからです。悪魔が淵のおもてに座り込んで、目に見える現象世界がなければならないと強く願ったので、神がこの世を造ったのです。ところが、現象世界が本当に実在するのかというと、実在していない。ただ原子の運動があるだけです。悪魔を騙すために、現象世界が造られているのです。これが天地創造の大秘密です。

 この世に生きている人間は命は自分のためにある、自分が生きていると思っていますが、それが死んでいる証拠です。自分が生きていると思っている人は死んでいるのです。

 イエスのように父なる神の子と思っている人は生きているのです。父なる神はどういう意味かと言いますと、命が父です。それが肉体的に生きている状態が人の子です。

 イエスが生きているのではない。命という父なる神が人間の形で現われていたのです。これが生ける神の子です。

 人間が生きていることはないのです。それは、自分は大正に生まれた、昭和に生まれた、平成に生まれたと言っていますが、これが間違っているのです。

 この世に出てきたということは死んで出てきたのです。命は神ですから、肉体を持って生きていることを客体的に見れば、神の子になるのです。

 私たちが肉体的に生きていることはどういうことかと言いますと、自分が十字架によって死んでしまっていることが分からなければ、生きていることが分からないのです。

 十字架によって現在の人間が生きているのではないことが分かると、初めて神の子になるのです。

 この世に生まれてきてこの世で生きていると思っている人は、実は自分の誕生日もないし、葬式もないのです。それがあると思うのは、この世の習慣であって、この世の習慣に従っている人間は死んでいるのです。

 淵のおもてに悪魔が座り込んだので、神がこの世を造った。この世に生きている人間は、悪魔と一緒に生きているのです。悪魔がはびこっているのでこの世を造ったのですから、この世に生きていると考えている人は、その人の霊魂は死んでいるのです。人間は生きていると思っているけれど、霊魂は死んでいるのです。

 現世でどんなに楽しく生きていても、現世に生きていることがこの世に生きていることですから、死んでいるのです。これを捨ててしまうのです。これが十字架を受けるということです。

 十字架によって生きている人は、現世に生きていないのです。神の国に生きているのです。十字架を受け取った人は神の国に生きているのであって、人間が生きているのではない。神の子が生きているのです。現世で何があっても自分にとっては損も得もないのです。

 神が命であることを勉強するかしないかが、その人の永遠の運命を決めるのです。

 現象世界があることは大切なことです。闇が淵のおもてに座り込んだからこの世が造られた。地球が造られたのです。

 従って、客観的に見れば、この世に生きているのはどこまでも自分ではない命がこのような形で現われているだけであって、それを肉体的に経験していることは有難いことです。肉体的に命を経験している状態において、これは自分の命ではない、神の命だと考えて生活することが、イエスという人の人格です。

 聖書の勉強をしていても、自分が聖書の勉強をしていたらだめです。生ける神の子としての勉強にならないとだめです。

 生ける神の子として聖書を勉強するということは、自分を離れてしまうことです。自分を離れて、命とは何かということを勉強するのです。

 例えば、辛いものを食べると辛いと感じる。甘いものを食べると甘いと感じる。花を見ると美しいと思う。なぜ美しいと思うのか。五官は生ける神の子だから美しいと思うのです。

 ところが、美しいとはどういうことかが分からないのです。美しいというのが、人間の霊魂にどういう効果があるのかが分からないのです。命にどういう効果があるかです。

 美しいものを見ると嬉しいような楽しいような感じがします。なぜ美しいものを見ると嬉しいのでしょうか。これが分かるように勉強することが霊魂の勉強です。そうすると、霊魂の眼が開くのです。

 人間が生きている感覚は生まれながらの感覚です。生まれながらというのは、生まれる前からということです。

 花を見れば美しいということは、生まれる前には分かっていたのです。この世に生まれた後には美しいということは分かります。しかし、思想的には受け取れないのです。感覚と思想は違います。思想的に理解できなければ、人間の霊魂の救いにはならないのです。

 生きていることは、論理的に言えば感覚であって、これを思想的に理解することによって救われるのです。

 そのためには、現世に生きている自分の家族とか自分の社会的な立場から抜け出してしまわなければいけないのです。

 いつでも現世から抜け出しているような人間になろうということを、いつでも考えていなければいけないのです。これを信仰というのです。

 甘いものを甘いと感じることは感覚であって、こういう感覚は生まれる前、前世からの続きです。男と女の感覚でも前世からの続きです。

 ところが、男と女の感覚は前世で失敗した。前世で失敗した感覚でこの世に生まれたのです。だから、男女の考えは初めから間違っているのです。

 男女があるのではない。霊魂があるのです。女は骨の骨であって、骨の骨である女を知ることが、肉の肉である男の重大な責任です。

 男は肉の肉です。女は骨の骨です。こういうものはありますけれど、現世に生きている人間の男女関係は根本から嘘です。

 感覚は前からあるのです。しかし、人間は現世で思想的に生きています。現世に生きている思想という精神状態が、前世からの感覚という精神状態に塗り換えられなければ、信仰にはならないのです。

 現世で持っている思想が、前世からの感覚に置き換えられることを信仰というのです。

 結局、現世に生きていても、現世に生きていないのです。依然として前世に生きているのです。従って、現世の自分の肉の生活、肉体生活はないのです。イエスはこれを証明したのです。

 現世に自分の命があるのではない。イエスは、「私は上から来たのだ。おまえたちは下から来たのだ」と言いました。上から来た人間には現世の思想はないのです。前世の感覚が現世の思想になっているのです。これをイエス・キリストの信仰というのです。

 現世に生きている人間が、聖書の勉強をしてもだめです。前世の感覚で勉強しないといけないのです。

 前世の感覚が現世の思想になるのです。思想になるというのは、意識になるということです。そうすると、その人の生活意識は、現世に生きていても現世に生きていないのです。

 現世には利害得失はありません。なぜなら、現世に生きている人間は皆死んでいる人間ばかりだからです。

 だから、死んでいる状態から抜け出して、自分が生きていることがそのまま神ご自身であるということが分かるまで、勉強して頂きたいのです。

 肉体を持っているということは、神の子として生きていることです。命が神ですから、肉体的に生きていて命が与えられていることは、生ける神の子になるのです。イエスはこれを知っていた。これをイエス・キリストの信仰というのです。

 ですから、現世に固有名詞として生きているのではない。できるだけ現世に生きているという気持ちを捨て去って、毎日、毎日、現世ではない、悪魔が支配している現世ではない、神の国に生きているのだという意識を持つのです。この意識を持とう持とうと考えて生きていれば、御霊が必ず助けてくださるのです。御霊の助けによって、現世に生きている命の状態が神の国に入れるのです。

 この世に大空があり、陸地があり、様々な動植物があること、太陽があること、山の幸、海の幸、陸の幸を毎日、毎日与えられている。これが実は神の国です。地球を霊的に見ると神の国が現われているのです。

 こういう感覚を現世で持とう持とうとすることが、十字架の勉強です。

 十字架の勉強というのは、自分が救われることを勉強するのではない。自分が生きていないことを勉強するのです。

 人間は救われるも救われないもない。自分という人間はいないのです。生ける神の子がいるのです。生ける神の子として命を勉強することが、聖書の本当の勉強になるのです。

 聖書の勉強は自分がするのではない。死んでいる自分が勉強してもだめです。聖書を勉強すればするほど、この世にいることが煩わしくなるのです。だから、神の国に入るのです。

 イエスはユダヤ人に向かって、「神の国と神の義を求めよ」と言ったのです(マタイによる福音書6・33)。この世があると思っているが、実は神の国があるのです。この世という人間の世の中があるのではない。神から見たらこの世は存在していなくて、神の国が存在しているのです。

 自分が生きているか生きていないかではない。生きている自分はいないのです。命は神ですから、生ける神の子が自分という格好で現われているのです。従って、自分が生きているという事実はないのです。

 このことを勉強することによって、生きているのは自分ではない。生ける神の子である、イエスの本体が自分の本当の姿なのだということを悟ることができたらいいのです。

 これが分かってしまうと死ななくなるのです。自分はいないからです。死ぬも死なないもない。自分は初めからいないのですから、生ける神の子という人格があるだけです。

 自分という人間はいない。これが分かってくると、この世を去ることは何でもないのです。この世を去るも去らないもない。自分はいないのです。

 自分が生きていることは嘘です。従って、損も得もないのです。

 前世の感覚が現世の思想になる。生活意識は思想です。生活感覚は前世の感覚であって、食物を食べて味が分かる、花を見て美しさが分かるということは、前世に生きているのです。現世に生きているのではないのです。

 現世で心臓が止まるのは当たり前のことです。止まるために心臓はできているのです。こういうことが分かってくると、神を信じることが分かってくるのです。

 人間は肉体的に生きているという形はあるけれど、精神的にはこの世に生きていない。これがイエス・キリストの信仰です。こういう気持ちを持とう持とうとして勉強するのです。

 生活感覚がその人の生活意識になることです。これが望ましいのです。毎日の生活は自分という人間が生きているのではない。霊魂が生きているのです。霊魂は前世からの継続です。前世からの継続が霊魂になって現われている。従って、死ぬということは、即ち現世を去るということは霊魂に帰ることです。

 人間の命は初めからない。生きているということがあるのです。現世の肉体人間として生きていることはないのです。神に生かされていることが、生きている状態として現われているのです。

 イエスが神の国と神の義を求めよと言ったのは、それが現世の中に隠れているからです。だから、求めよと言ったのです。現世は幻ですから、損をしたとか得をしたということがないのです。現世を認めることが間違っているのです。

 どんなに立派な人でも、どんなに偉い人でも、友人も知人も現世の人です。現世の人と付き合わなければいけないということが業(ごう)ですが、本当はそういう人はいないのです。そういう人と付き合うことによって、前世の感覚を訓練するのです。これが信仰の基本です。

 毎日毎日、現世に生きていないということを確認するのです。自分が肉体的に生きていても、霊的には現世に生きていないという経験を毎日することが、人生の目的です。

 現世に生きているのは自分が生きているのではない。霊魂が生きているのです。自分という人間がいるのは嘘です。霊魂が自分という格好になっているから、それが生きているのです。現世に固有名詞の人間が生きていると思っている人は、死んでいるのです。こういう人は信仰ができない人です。

 固有名詞の自分を離れてしまうのです。自分の事情境遇を離れて本当の命を経験するのです。前世の命を現世で経験していることを勉強するのです。

 前世の命は神に吹き込まれた神の命です。この命を前世で持っていた。神から吹き込まれた命はなくならないのです。消えてしまわないのです。

 神の御心に従って生きている者は、神から吹き込まれた前世の命に帰ることができるのです。

 前世で人間は善悪を知る木の実を食べてしまった。善悪を知る木の実というのは、自分が生きているという思いのことです。

 自分が生きていると思っている人は、善悪の木の実を食べたのです。そこで死んだのです。死んでしまったから現世に送られたのです。現世にいる人間は生まれた時から死んでいるのです。

 この世に生きているということが死んでいることです。生まれたのではない。現世は死んだ人間ばかりが送られてきたのです。自分の霊魂が死んでいるということに気が付くために、死んだ状態で送られてきたのです。

 聖書を本当に勉強すると、自分が生きていることが嘘だということが分かるのです。生きていたところで死ななければならないのです。こんな人間は初めからいないのです。この人間が持っている命は神から吹き込まれた命ではない。自分が持っている命です。

 自分が持っている命は死んでしまっている命です。これに気が付くことです。自分がこの世を去っていくことに、少しも恐れを抱く必要はないのです。神の国に帰るからです。

 イエスはこういうことを証するために生まれてきたのです。彼は生ける神の子であることを知っていた。生ける神の子とは何かと言いますと、命の本質が神です。命が肉体を持っていることを人の子というのです。人の子は即ち生ける神の子です。

 人の子は現世に生きようと思いません。現世に生きている自分があるとは思っていません。だから、この世を去っていくことが楽しみなのです。

 イエスが肉体を持っていたのは、この世の人間が肉体を持っているのと同じ状態で持っていたのです。肉体を持っている人間は死ななければならないということを、自ら示したのです。

 この世に生きている人間は、神の子であってもそうでなくても、肉体を持っているという事実があるのですから、そういう人間は死ななければならないのです。

 この世に生まれてきたのは死ぬために生まれてきたのです。イエスでも他の人でも同じです。肉体を脱ぎ捨てて神の国に入るのです。

 イエスは肉体を持っていたけれど、神の国と神の義を求めよと言って生きていたのです。彼は肉体で生きていたけれど、彼の霊魂は肉体で生きている状態ではなかったのです。これを勉強することが、イエス・キリストを勉強することです。

 肉体を持って生きているということは、死んだ人間の肉体を持っているのであって、生きているというのは肉体を持っていることとは違います。肉体を持っているのはこの世の人間のことであって、霊魂が生きているというのは、肉体を持っていることとは違います。生きているというのは事がらです。生きているという事がらと人間とは違うのです。

 人間として生きている人は、神も分からず命も分からない状態で死んでいかなければならない。神も分からず、命もイエスも分からないというのは、既に死んでいるということになるのです。

 霊魂が肉体的に生きている。なぜこうなったのかというと、霊魂は肉体的に生きていなければ、死ぬということを理解できないからです。死んでいる、死んでしまうということを理解するためには、霊魂が肉体を持っていなければならないのです。

 肉の世界、即ち現象世界は、人間が善悪を知る木の実を食べたからできたのです。現象世界に生きているということは、善悪を知る木の実を食べたからです。

 善悪を知る木の実を食べたままで生きていると、その人は地獄に行くことになるのです。善悪を知る木の実を食べたことを認めて、この自分から脱出することができるかどうかを、神が見ているのです。

 いずれにして、自分が救われるということは全くありません。この世に生まれてきたのは、死んでいく人間として生まれてきたのですから、死ぬのは当たり前です。

 ところが、現世に生まれてきた時の感覚、甘いものを甘いと感じる感覚は、前世で罪を犯す前の感覚です。花を見て美しいと感じる気持ちは、罪を犯す前の神の命を受け取ったばかりの思いであって、肉の人間の思いとは違います。

 感覚だけについて言いますと、人間は前世の感覚を持っているのです。ところが、思想は全部現世の思想になっている。そこで、現世に生まれてきた人は、現世の思想で生きていますから、死んでいくのは当たり前です。

 五官の感覚、甘いものを食べて甘いと感じる感覚が、霊魂の状態です。甘く感じるのはどういうことか、これが分かると死なない命が分かるのです。

 神を信じて生きるということは、人間の道徳とか常識を信じないで生きることです。人間の精神状態を信じるということは、現世を信じることです。現世を信じている人間は、現世と一緒に死んでしまうのです。やがて、現世そのものが滅びてしまうのです。

 イエスが神の国と神の義を求めよと言ったのは、この世に生きていたら必ず死んでしまうからです。

 太陽があり、月がある。森羅万象があり、食物がある。これは何かというと、神の命があるということです。それを霊的に見ることができる。自分が見ているのではなくて、五官の直感によって見ることができる。これは自分が見ているのではなくて、前世で罪を犯す前に見ていた。その五官が見ているのです。

 現世の常識は根本から間違っている。霊魂が肉体になっているけれど、これが死んでいることになるのです。

 自分の命があると思っている人は、神の国は分かりません。神の国が分からずに生きている人は、この世を去るとどうなるか、全く分かりません。これが闇です。それが果てしなく暗いのです。その暗さはどんなであろうとイエスが言っているのです。

 人間は何のために生きているのか分からずに生きている。これが死んでいる状態です。本当の命が分からない状態で生きている。だから、必ず死んでしまうのです。

 肉体的に生きている人間は、死ぬに決まっています。死ぬに決まっている状態で生きていることは、死んでいることになるのです。これに気が付いて、自分がいるのではない、霊なる人がいるということに気が付けばいいのです。そうしたら死なないのです。

 甘いものを食べて甘いと感じるのは自分ではありません。霊魂です。固有名詞の自分ではありません。

 男と女の関係を今の人間が考えると、死んでいく人間の思想になるのです。女は男の骨の骨です。男の骨の骨は男にはありません。女にあるのです。だから、男の骨の骨を知るためには、女を知るしかないのです。

 女は男の骨の骨です。これは罪人ではありません。男は罪人です。

 この世の人間は現世があると考えています。これがすべて地獄の原因になるのです。この世に自分が生きているという思いが、全部地獄の原因を造っているのです。

 自分の命があると思っている人は、自分で地獄を造ってそこに入るのです。心臓が止まると自分が造った地獄の中へ入るのです。

 神の国とは何か。この世に生きている人間は神の国へ入れません。生きていることの実体が神の国です。それをこの世だと思っていると、自分の霊魂が滅んでしまいます。霊魂は自分の業(ごう)のために滅んでしまうのです。自分が生きていると思っているからです。自分の業で自分の地獄を造っているのです。毎日生きていることが、毎日地獄を造っていることになるのです。

 神は天地万物を造ったのであって、自分という人間を造ったのではありません。ところが、人間は万物を造るだけの力がないのに、自分という人格を自分で造っているのです。これが地獄を造っていることになるのです。

 神は天地を造っている。人間は神の真似をして自分で自分の人生を造っているのです。自分の家庭をつくるとか、自分の商売をつくるとか、自分の健康をつくろうと考えている。

 自分の健康をつくることは悪いことではありませんが、それがその人の信仰に役立てばいいのです。その人の霊魂に役立てばいいのですが、霊魂に役立たなければ地獄を造っていることになるのです。これが恐ろしいのです。

 一生懸命に働いて真面目に商売をしている人は、自分で立派な人生を造っているつもりですが、立派な地獄を造っているのです。愚かなことをしているのです。

 自分が生きていないという気持ちを持っている人は、地獄を造っていないのです。それなら自分が生きていないとどうして思うのか。この説明ができなければだめです。

 現実にご飯を食べている。仕事をしている。これは何をしているのか。この説明ができないのです。世間の人が働いているから自分も働いているのです。自分のため、世間のために働いているが、やがて世間全体が地獄になるのです。結局、地獄のために働いていることになるのです。個人的にも、社会的にも、民族的にも地獄のために働いていることになるのです。

 やがて、世界の政治、経済はめちゃくちゃになるでしょう。現世の政治、経済、社会は艱難時代になって潰れてしまうのです。そうなると、現世に生きていることが何のためか、その人自身が分からなくなるのです。

 人間が造っている世界は、政治、経済、教育、宗教という人間自身の思想によって潰してしまうことになるのです。

 人間は神と反対の方へ歩いているのです。これが文明の間違いです。現代文明を信じている人は、文明全体の滅亡という地獄を造っているのです。

 教育はこの世に役に立つ人間を造ります。この世に役に立つ人間ができればできるほど、神の国には役に立たないのです。この世に役に立つ人間になればなるほど、その人は滅んでいくのです。

 この世の文明は、この世に生きている人間のご都合しか考えていません。人間の霊魂のことを全然考えていません。人間の生活のこと、教育のこと、政治経済のことしか考えないのです。だから、この世の政治経済が行き詰ってしまうと、人間はどうしたらいいのか分からなくなるのです。これが文明の終末の様相です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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