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  • 管理人miwa

虚構

聖書は第一原則がはっきりしていれば、聖書のあらゆることがだんだん分かってくるのです。第一原則とは霊に従いて歩むということです。

イエスは言っています。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1・15)。これが第一原則です。

これが世界中の教会に分かっていないのです。悔い改めて福音を信じることが、全然分かっていないのです。悔い改めて福音を信じることは、人間の精神構造をやり直して、生かされている状態に従って生きなさいと言っているだけのことです。

 神の国が近づいたから、悔い改めて福音を信ぜよと言っているのです。ところが、キリスト教は神の国が近づいたという事実を全然信じていないのです。

 現世における人間が死んでから救われると考えているのです。現世は現世として厳然とあるのです。キリスト教は現世を認めているのです。これが間違っているのです。

 神の国が近づいたとイエスが言うのは、この世が違ったものになってしまうということです。イエスが十字架にかかって復活することを預言しているのです。

 現在の時点で言えば、既にイエスは十字架につけられて復活しているのですから、復活の命が働いているのです。これを神の国と言うのです。

 これについてペテロは次のように述べています。

 「神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中から甦らせ、それにより、私たちを新に生まれさせて、生ける望みを抱かせ、あなたがたのために天に蓄えてある、朽ちず、汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである」(ペテロの第一の手紙1・3、4)。

 神は大いなるあわれみによって、イエス・キリストを死人のうちから甦らせた。それによって新しい命を造ったのです。そうして、朽ちず、汚れない天の宝を得させようとしているのです。

 イエス・キリストの甦りによって、神の国を造ったのです。神の国そのものを造ったのです。イエス・キリストが来たことは、神の国が近づいたことです。

 イエスが十字架につけられて復活したということが、神の国が現われたことです。この神の処置をよく承知して頂きたいのです。

 キリスト教ではこれが分からないのです。イエス・キリストが復活したことは、神の国が来たことです。

 エホバというのは、ありてあることです。ありてという面とあるという面とがあるのです。

 私たちが信じると、あらんとするという意味で、神が過去的で実現するのです。

 イエス・キリストが甦ったということは、既に私たちに復活の命が与えられていることを意味するのです。私たちはこれを受け止めるのです。これが大切なことです。

 受け止めるということはどういうことかと言いますと、この世に生きている私たちが死んでしまうことです。この世に生きていてはいけないのです。ここが問題です。肉の思いでこの世に生きているという事実を無視してしまうことです。これが神の国に入ることです。

 神の国というのは、イエス・キリストの復活の命のことを言っているのです。復活の命で生きるのです。自分の命で生きることをやめるのです。これができるかできないかです。

 新に生まれるということは、どのように生きることなのかを具体的に言えるかどうかです。イエス・キリストの復活の命を受け止めているかどうかということが、具体的に説明できるかどうかです。

 イエス・キリストの復活の命を受け止めているとしたら、生活の実感が変わっているはずです。どのように変わっているか。例えば、今現世に生きているという実感を、どのように変えているのか、どのように命の受け止め方が変わっているのかを、証できるかどうかです。

 神の国に生きているということを本当に実行するとどのようになるのか。イエス・キリストが復活してから今日まで、神の国をはっきり実行した人がほとんどいないのです。イエスの弟子やパウロは実行していました。それ以外には実行した人がいないのです。

 神の国に入ってしまって、私は神の国にいるということがはっきり言えた人がいないのです。キリスト教の世界ではいないのです。だから、キリスト教は神の国を証していないのです。

 神の国を述べ伝えているキリスト教は全くありません。私たちがかろうじて神の国を伝えることができ始めているのです。

 私は幸いにしてユダヤ人のために選ばれたのです。ユダヤのために選ばれたので、光を与えられたのです。「わが僕イスラエルのために、我汝の名を呼べり」とイザヤに言われた言葉は、私に言われたものと思えたのです。

 異邦人のために選ばれたのなら、例えば、日本人に福音を与えるために選ばれたのなら、こんなすばらしい光は与えられません。ユダヤ人のために選ばれたから、すばらしい福音の内容を教えられたのです。これは有難いことだと思っています。

 神は本当にイスラエルを愛しているのです。とにかくユダヤ人が回復しなければ、さすがの神もどうしようもないのです。だから、ユダヤ人のために自分の魂を捨てるという、気違いみたいなものを神は求めていたのです。だから、神の国が開かれたのです。

 皆様が生かされているということが神の国です。これは間違いありません。生かされているということの中へ入って頂きたいのです。

 現在の皆様には、生きているということと、生かされているということとの間に誤差があるのです。生かされているという世界は、神に与えられているメッセージの世界です。ところが、皆様の実感としては、まだこの世に生きているのです。これが問題です。神の国にはっきり入ってしまっていないのです。

 神の国にはっきり入ってしまうのです。これはできるのです。皆様は論理的には理解できますから、ぜひ入って頂きたいのです。そうすると、世界観ががらっと変わってしまうのです。

 悔い改めるということは、現世にいることをやめて神の国に生きることですが、神の国に生きるということは、まず神の国がどういうものか、神の国は何処にあるのか、どういうものかということがはっきり分からなければならないのです。

 イエスは「水と霊とによって新しく生まれて神の国に入れ」と言っています(ヨハネによる福音書3・5)。水と霊とによって新に生まれるとはどういうことなのか。神の国に入るとはどういうことなのか。神に入るとどうなるのか。これが問題です。

 神の国に入ると死ななくなるのです。神の国に入っている人は、死ななくなるという証ができなければいけないのです。死ななくなるということが、自分のこととしてその証ができるかどうかが問題です。

 悔い改めてとイエスが言っているのは、それほど標準が高いということです。悔い改めるというのは、心の置き方、心の有り方を全く変えてしまうのです。

 神の国が近づいたから悔い改めよと言っているのです。今はもう神の国が来ているのです。イエス・キリストの復活によって神の国が来てしまっているから、悔い改めが私たちの生活において実現していなければならないのです。

 このことを世界中のキリスト教は理解していないのです。世界中のキリスト教は、現世に生きている人間がキリストを信じているのです。これがいけないのです。間違っているのです。

 キリスト教徒は神の国に入っていませんからだめです。神の国に入っている信仰と、入っていない信仰とは違うのです。物の見方が違うのです。

 物の見方が変わってしまうのです。道徳的にも善悪的にも、生きていることについての見方が変わってしまっているのです。イエスがそうでした。そのように変わってしまうのです。

 神の国に入ってしまうと、この世に生きている人間と常識が変わってしまうのです。変わらなければ信仰にならないのです。聖書の正しい論理を承知しただけではいけない。そう生きなければいけないのです。実行しなければいけないのです。

 現在の文明意識、常識、知識は虚無そのものです。道徳的にも、法律的にも、政治的、経済的にも虚無そのものです。現在の社会構成そのものが虚無です。これは問題にならないのです。

 これを虚無として見ることを踏まえて聖書を読むのでなかったら、神の国に入ることはできないのです。聖書の字句をどれほど理解しても、現在の自分を認めている世界観があったら、本当の信仰とは言えないのです。

 現在の地球に人間がはびこっているということが、虚構です。文明は虚構です。あることはあるが、虚なのです。文明が虚構だということを理解していないと、人間に係わるすべてのことが全部虚構だということが分からないのです。これを踏まえて聖書を読んでいないと、神の国の実体は分からないのです。

 現代文明を認めている意識で聖書を理解していたのではだめです。神の国には入れないのです。イエスは神の国に入れと何回も言っています。神の国へ入ったら、現代文明が虚構だということがよく分かるのです。

 私たちの古き人、肉性は虚構です。あることはあるが偽りのもので、実存していないのです。

 キリスト教信者と私たちが違う点は、キリスト教の人々は現実に生きている人間がキリスト教を信じているのです。これではいけないのです。間違っているのです。

 神の国に入っていることが本当ですから、現在人間が生きている世界は全部嘘です。虚構です。

 人間は肉体的に生きています。肉体的に生きていることが全部嘘です。人間の世界観を根本的に入れ替えなければいけないのです。これを徹底的にして頂きたいのです。悔い改めるというのは、世界観の入れ替えをするのです。

 現世に生きているという感覚を入れ替えるのです。できるだけ入れ替えるのです。これはできるだけとしか言いようがないのです。その人に与えられた恵みの程度しかできませんから、しなければいけないのです。

 聖書六十六巻に書いてあることは本当ですが、私たちが心理的に実感していることは嘘です。言葉が肉となっているだけです。言葉はありますが、肉はないのです。肉は全部嘘です。目に見える現象世界は全部嘘です。

 聖書六十六巻というもの自体が、言葉による虚構であるということができるのです。人間はたった一人いるだけです。イエスが一人いるだけです。自分がいると思ってもいないと思っても、神の側から見れば全部虚構です。

 聖書を信じることは自分がいないという場に持っていくことで、これも虚構ということができるのです。聖書は恐ろしいものです。全くの空です。これが白人には全然分からないのです。

 「肉は益なし」という言葉がそれを現わしているのです。益なしという言葉は不思議な言葉です。色々な角度から色々と判断していきますと、肉というのは実存しないということになってしまうのです。

 言葉はありますが、これは虚構であって、肉も虚構そのものです。肉は実存していないのです。

 肉は持っていても仕方がないのです。人間は一人から出て、現在七十六億に膨れているだけです。七十六億の人間は実存していないのです。

 カルマがこの世になっているのです。この世のカルマがこの世になっているだけです。悪魔がこの世を楽しんでいるのです。

 神は初めからこの世が空であることが分かっているのです。キリスト計画だけがあるのです。これが言葉です。神が命の息を吹き込んだという事実が、キリストになって残っていくのです。煎じ詰めるとそうなるのです。

 文明は悪魔を滅ぼすための虚構であって、文明に騙される人間は全部悪魔の一族になるのです。

 人生のあらゆる事がらは全部虚構です。善も悪もすべて虚構です。肉は益なしというのはそういう意味です。

 肉は益なしという言葉に限って、聖書は全然説明していないのです。私たちが自分を捨てると決心しても、捨てないと決心しても同じことです。

 悪魔が人間を騙した。それで悪魔が偉くなったのです。悪魔がもし人間を騙さなかったら、ただの小悪魔だったのです。ところが、命の息を吹き込まれて神の愛の対象になった人間が、ごそっと神の敵に回ったのです。そこで、色々な計画、経綸が必要になったのです。これが人間歴史六千年になって現われているのです。

 人間が悪魔の味方にならなかったら、色々な神の計画は必要なかったのです。

 人間のカルマがそのままサタンのカルマになっているのです。だから、サタンが膨張したのです。そこで、サタンがとても賢いように見えるのです。命の息を吹き込まれた人間が賢いのです。人間は神の命の息を吹き込まれている。神の命の息を吹き込まれた人間がサタンに味方したのですから、処置なしです。

 そこで、神は自分自身の命の息に位するような者を滅ぼさなければならなくなったのです。これが、今のサタンです。だからうるさいのです。

 神は自分自身の命の息を滅ぼさなければならなくなったのです。そこで、手間がかかるのです。色々しなければならなくなったからです。

 人間が味方しなかったら、サタンはただの小悪魔です。問題にならないのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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