人間の実存を生きることが人間の霊を生きることになる。同時に、神の国の実存を生きることになるのです。神の実存がエホバです。これは人間哲学の最高です。
コリント人への手紙の二章十一節は、人間の歴史全体を集約する最高の哲学です。人間存在を集約すると二章十一節になるのです。そういう意味で、これを徹底的に勉強する必要があるのです。これが分かると、創世記からヨハネの黙示録に到るまでの全体が説明できるのです。
人間が実存することの真意というものが信仰になるのです。神が現世を造ったことの真意になるのです。
パウロは言っています。
「一体、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に誰が知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には知るものはない」(コリント人への第一の手紙2・11)。
人間の思いというのは人間の精神構造のことです。人間の心の働きのことをいうのです。
神が実存することの反映が、人間が実存することになっているのです。人間の実存を徹底的に究明すれば、神の実存になってくるのです。「我々のかたちにかたどって人を造った」というのは、これを言っているのです(創世記1・25、26)。これが正当な新約の基本です。
人間が生きている事がらそのものが、人間の内にある霊なのだと言っているのです。これでさえもキリスト教では分かっていないのです。人間が生きている事がらを、綿密に徹底的に見ていけばいくほど、神が分かってくるのです。
私たちは生きている間に、肉の思いの根源を徹底的にさぐっておく必要があるのです。これが皆様にはよく分かっていないのです。
人間は自分の肉の思いに騙されているのです。人間の事がらというのは、人間が肉体的に生きている事がらです。これが人間の思いです。人間が肉体的に生きている事がらの実体を究明する必要があるのです。これを究明すると本当の神が分かってくるのです。
これは今までの人間の頭では分からないことです。自分がいるという事がらが間違っているのです。創世記二章での間違いと、三章での間違いと二重になっているのです。罪と言っても、皆二重になっているのです。
口語訳で、「人間の思いはその内にある人間の霊以外に、誰が知っていようか」となっていますが、文語訳では、「人間の事がらは人間の霊以外に、誰が知っていようか」となっているのです。人間の事がらということが分からないのです。
人間の事がらと霊とは少し違う所があるのです。だから、人間の事がらと人間の霊と両方を並べているのです。人間の事がらを人間の思いと訳したらいけないのです。
永井訳では、「その人の事は、その内にある所の人の霊の他に誰か知らぬや。かくのごとく神のことは神の霊の他に一人もこれを知ることなければなり」となっています。
花が咲いているというのは肉です。神は花が咲いているということを、人間に認識させようと思っていないのです。人間は自分が認識していることが正しいと思ったら大間違いです。
現在、自分が生きていること、並びに生きている状態において、認識していることが、根本から間違っていることを考えなければならないのです。それが、間違っていることに気付いて、現実に生きている状態から抜け出してしまわなければならないのです。これが必要です。
現実に私たちが生きていると思っていることが、とんでもない間違いです。人間の思いは肉の思いです。肉の思いは死です。死んでいくに決まっている人間が認識している状態は、死人の思いです。
死人の思いを持っている自分を認めてはいけないのです。これから抜け出すことを考えて頂きたいのです。自分の立場があるかないかは問題ではない。この世で自分の立場を持とうとしていることが間違っているのです。
人間の罪がどのようにできているのか。これをよほど綿密に、正確に、正当に認識していかなければならないのです。
ところが、正当に正確に認識するということがなかなかできないのです。だから、神の目から見て、正当であり正確であると思えるような信仰は、なかなか持てないのです。
まず陥罪を考えなければならないのですが、その前に離神ということを考えなければならないのです。
神は人が一人でいるのは良くないと言っています(創世記2・18)。離神と陥罪と両方あるのです。私たちが罪人であるということが分かっても、離神が分からない以上、神に帰ることはできないのです。陥罪を乗り越えて、離神を乗り越えて、神に帰らなければならないのです。
創世記の二章で既に人間は間違えたのです。三章の陥罪の前に、二章で既に神から離れているのです。神から離れたということが、陥罪を起こす原因になっているのです。
自分の罪が分かっただけでは天は開かれないのです。イエスは「水と霊とから新に生まれて神の国に入れ」と言っています(ヨハネによる福音書3・5)。陥罪と離神の両方がいるのです。
神から離れた状態で女が造られているのです。だから、離神ということが女には分からないのです。男は離神と陥罪の両方が分かりますが、女は陥罪しか分からないのです。
私たちが生きているという現実から考えると、一番分かりやすいことは、生きているということは、動いているということです。目が見えること、心臓が動いていることです。動いているということは、神の口から言葉が出されているということです。
イエスは人間について、神の口から出るすべての言葉だと言っています(マタイによる福音書4・4)。これが一番分かりやすい言葉です。神の口から出るすべての言葉が、人間のリビングという現象になっているのです。
人間のリビングは、神の口から出ている言葉そのものであって、自分自身が生きているということは、神の言葉が生きていることです。これがイエスの信仰の原点になっているのです。
人間が生きているのは、神の言葉が生きているという実体を、瞬間瞬間、経験しているということです。
人間が生きているという事実はありません。神の言葉が生きているということを、できるだけ実感するようにしたらいいのです。これが原則です。どれだけ実感しなければならないということはないのです。これが宇宙の原則です。
宇宙の原則を人間が捉えているのです。これを人の子というのです。我は人の子という自覚を正しく持ちさえすれば、神の言葉が生きていることが実感できるはずです。
人間とは何かという質問に対して、イエスは神の口から出るすべての言葉だと答えているのです。人間が生きているという事実はないのです。神の口から言葉が出ているという事実があるだけです。だから、人間だけが神の言葉を認識する、または経験することができるのです。これを理性というのです。この状態が死なない状態です。これが永遠の命です。
人間が神に帰ってしまうと神の言葉になってしまうのです。神の口から出る言葉になってしまうのです。
鼻から命の息を吹き込まれた状態が第一態です。離神した状態が第二態です。陥罪して第三態になったのです。
死なない人間というのは第一態の人間です。神と共にあり、生ける神の子である人間が死なない人間です。これは現実に生きている人間とは違うのです。
現実に生きている人間は死ぬ人間です。ですから、現実に生きているということを否認しなければならないのです。現実に生きている状態から離れてしまわなければならないのです。
コリント人の第一の手紙二章の十四節に次のように書いています。
「生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受け入れない。それは、彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」。
この世に生まれた人間は、神の御霊の賜物を受け入れられないのです。この世から出てしまった人間でなければ、神の言葉になれないのです。神の口から出る言葉が、自分だという自覚が持てたらいいのです。そうすると、イエスの信仰と同じになれるのです。
神はわが前におれと言っています。神の前に立てばいいのです。これが信仰です。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)